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最終話.指輪物語
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しおりを挟む予言の時が来る。
彼には元々、その素養があったのだ。
信じられないと思う反面、いつ言われるのかと、常にびくびく怯えていた気もする。
「え……」
だがやはり、現実味がない。
――だって今朝だって、普通にご飯を食べさせて、キスをして、笑って、会社に行くのを見送って。それからまだ、十時間ほどしか経っていないのに。
これはきっと冗談だ。
イズーは自分でも嫌になる卑屈な作り笑いを浮かべ、風吹に聞き返した。
「風吹、どうしたんだ? なにを怒ってる?」
居間のソファに腰を下ろした風吹からは、本来だったら話しかけるのも憚られるような疲労感が漂っていた。いったいどうしたというのか。
「……………………」
風吹は顎を上げ、イズーに向き直った。しかしその目は、忌むものが前にいるかのように、イズーに焦点を合わせていない。そして、繰り返す。
「出て行って。あなたの顔を、もう見たくないの」
「あの、なんか誤解してないか? ちゃんと話し合おう……?」
イズーに下手に出られれば出られるほど、風吹の苛立ちは募る。――学生時代に自分を裏切った不誠実な元彼を、どうしても思い出してしまう。
冷静な状態に戻るための、時間が欲しかった。
風吹は無言で、廊下に通じるガラス戸を指した。出て行けという意味だろう。
「……!」
胸に釘を打ち込まれたかのようだ。
痛い、苦しい。
破裂する前に足掻くかのように、イズーの心臓は激しく鳴った。
――拒絶された。きょぜつ、された……。
鼓動に、体を支配されたかのようだ。どくどくと脈打つ音に引きずられて、イズーの足は動く。問い質すだとか、抵抗するだとか、そんな考えは浮かばなかった。
奴隷のように、ただ従うだけ。愛する人の命令に、沿うだけ。
着の身、着のまま、サンダルを履き、外に出る。閉まったドアの前で、イズーは立ち尽くした。
――なに。なんだ。これは、なんだ……?
いや、分かっているはずだろう。終わったのだ。
風吹に嫌われた。拒絶された。それがイズーにとっての、「終わり」だ。
今までだって、ぶつかり合わなかったわけじゃない。たくさんケンカもしたし、しばらく口を利かなかったことだってある。
だが、今回は違う。
どんなに激しくやり合っても、風吹は決してイズーに「出て行け」とは言わなかった。しかし先ほどの彼女は、イズーを自身の視界に入れることすら拒否したのだ。
――終わり。これで終わり。
「あ……あ……」
叫びたいのに胸になにかがつかえて、イズーの口から漏れるのは、情けないうめき声だけだった。
マンションの廊下には、何人の姿もない。夕焼けが作った影が、足元で長く伸びる。
――こんなに悲しくて、苦しいのに。だが納得しているのは、なぜだ……。
そう、いつかこんな日が来るような気がしていたのだ。
平和で安穏とした、なんの風も吹かない生活。愛する人がいて、愛してくれる人がいる日常。
それは、泡沫のごとく。
いつか破れ、崩れ、消え去る、まぼろし。
イズーの唇は、いつの間にか笑みを刻んでいた。
――そうだ、笑え。
生まれると同時に罪を背負った、醜い「魔の民」の自分と関わり、優しく微笑みながら、他愛ない会話を交わす。「おはよう」と共に目覚めて、「おやすみ」と共に眠りに就いてくれる。地位や名声や金や、そして魔力などよりも、ずっとずっと欲しかった――そんな女性が、現実にいるわけはなかったのだ。
「そうだ、夢。夢だったんだ……」
風吹の部屋は地上五階にあった。玄関ドアの前には、廊下を挟み、落下防止の囲いがある。百五十センチほどの高さのそれを、長身のイズーが乗り越えるのは容易い。手をつき、軽々と跨ぐ。
――眠れば。
あの優しい夢の中へ、戻れるだろうか。
囲いの向こう側へ身を投げ出し、重力に任せて落下する。地面と激突する直前、ぴたりとイズーの体は止まった。そのあとはゆるゆると緩やかに、落ちるというよりは運ばれるように着地する。
うつ伏せに寝かされ、埃っぽい地べたの匂いを嗅ぎながら、のそのそとイズーは起き上がった。着けたままのエプロンが土で汚れている。
なにがどうなっているのか。気づけば体の周りを、複数の光る玉がぐるぐると回っている。最初は拳ほどの大きさだったそれは、イズーの見ている前で、徐々に大きさと輝きを増していった。
「精霊……?」
いや、この世界では「八百万の神」と呼ぶんだったか。
イズーは採取した八百万の神々を、様々な方法を用いて増強していた。しかしこの世界の大気には、精霊や神たちの養分となる物質があまり含まれておらず、強化のほどには限りがあった。
しかし今、光る玉となって、イズーの周囲を巡る八百万の神々には、力が漲っている。よくよく観察してみれば、八百万の神々たちは、イズーの体から魔力を吸い出しているようだ。
神々に魔力を奪われても、イズーにはなんの影響もなかった。それを補って有り余るほど、体の奥底からなにか強いエネルギーが湧き出ている。
「帰ろうか……」
イズーは立ち上がると、風吹の部屋とは別の方角へ歩き出した。マンションの敷地を横切り、道路に出る。
背後から自分を呼ぶ、男の声がした。だが振り返るのも億劫で、無視して進む。
体は熱く、血が沸騰するかのようなのに、心と頭は空っぽだった。糸で操られているように、ふらふらと歩き続ける。
「帰ろう、帰ろう……」
――だがその前に、やるべきことがある。
『お前……。波乱万丈っていうか、壮絶な人生を送ってるんだなあ』
そう涙を浮かべて、同情してくれたのは、誰だったか。
だからいいんだ、いいんだ、いいんだ。
黒く染まり、地の底まで堕ちていいんだ。
――俺は可哀想な人間なんだから。
美しい顔を歪めて、イズーはくすくす笑っている。
ジャズというのは、静かで退屈な音楽だと思っていた。しかしきちんと聴いてみれば、確かに騒がしいわけではないが、だからといっておとなしいものでもないと分かる。
抑えて抑えて、そして爆発する。
奏者たちは各自好き勝手に楽器を弾き鳴らしているようで、だが彼らの生み出す旋律は実に緻密だ。
「心の琴線に触れる」。ジャズとは、まさにそういった類の音楽である。
レコードの溝をなぞっていた針が上がり、元の位置に戻った。メロウなメロディが途切れた途端、部屋にはブブブブ……という間抜けな音が響く。
D太こと、早水 大祐は瞼を上げた。
「うぃ~……。ちっと寝ちまったな」
口の端を伝ったよだれを手の甲で拭いながら、大祐は身を預けていたマッサージチェアに、きちんと座り直した。
先ほどからブブブブ……とやかましい振動音を発しているのは、大祐が腰掛けている、このマッサージチェアである。旧式のそれはやたらと図体も大きく、デザインも野暮ったい。しかしまだ充分動く。
マッサージチェアの持ち主だった大祐の父は、寡黙な人だった。唯一の趣味が、お金を貯めてようやく買ったこの大仰な椅子の上で、大好きなジャズのレコードを聴くこと。そんな地味な庶民だった。
――まだ俺が小さい頃、「こんな暗いのより、アニメの主題歌のほうがいい」と言ったら、親父は苦笑いしてたな……。
LPジャケットを手に取って眺めながら、大祐は昔を懐かしんだ。
「コーヒーでも飲むか……」
大祐は父の書斎から出て、台所へ向かった。途中、階段の狭い踊り場にあった窓をなんとなく覗き、そして声を上げそうになった。咄嗟にしゃがみ込み、外から姿を隠す。
――家の前に、一人の少女が立っている。
なんとなく見覚えのある半袖のジップパーカーの下に、青い巻きスカートを履いている彼女は、もう何百年も前に保護した、しかしこちらの世界ではまだ数日しか経っていないはずの――なんともややこしい話だが、ともかくあの少女は、獣人の娘、モモだ。
大祐は階段を駆け下りると、玄関とは逆側に面した裏庭を突っ切った。塀を乗り越え、家の周りをぐるっと走り、気づかれないようモモのすぐ側に忍び寄る。
腕を掴むと、モモは驚き、大祐を見上げた。
「お前は……魔王!」
顔を青くしたモモは、慌てふためきながら、大祐を振りほどこうと必死に暴れた。しかし大祐は、決して手を離さなかった。
「落ち着け! 俺は確かに魔王だけど――早水 大祐だ! ここを訪ねて来てくれたってことは、俺のこと覚えてるんだろ!?」
「……!?」
モモは不可解そうな顔をしたまま、しかしとりあえず抵抗をやめた。
「魔王……? 大祐……?」
「久しぶり。あ、いや、えーと、お前にとってはそんなでもなかったっけ? さっきは魔法を跳ね返して、悪かったな」
「お前が本当に大祐なら、一瞬で痩せ過ぎだと思う……。それも魔法か?」
「まあ、そういうことになる……のか」
大祐はズレたメガネを空いているほうの手で押し上げながら、ぎこちなく笑った。
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