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3話

4.

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 繁華街から歩くこと二十分ほどの場所に、キャシディーの住まいはあった。
 静かな住宅街の中にある築十年、五階建てのマンションの最上階で、彼女は暮らしている。
 立地がいいから家賃はまあまあ取られるが、女一人であるし、あまりケチって物騒なところに住むわけにもいかなかった。
 命あっての物種だし、それくらいの金は稼いでいるし。

「どうぞ、入ってください」

 キャシディーはアロイスにリビングのソファを勧めると、台所のガスコンロにケトルを置いた。
 誰か来ても困らない程度には毎日掃除しているが、実際に人を呼ぶなんていつ以来だろう。
 同僚の女の子と遊ぶことはあったが、男性を招き入れるのは、実は今日が初めてだ。
 アロイスは無礼に当たらない程度に、部屋をぐるりと見回した。キャシディーの暮らしぶりに、興味があるらしい。
 リビングと、そこと繋がる台所。そして扉を隔てて、もう一部屋あるらしい。
 華美に過ぎず、シンプルで使いやすそうな家具に囲まれ、なんとなく甘い香りがする。
 キャシディーの自宅は、なんとも落ち着く空間だった。

「そうだ。アロイスさん、お腹減っていませんか? 何か作りましょうか?」
「あ、ええと……」
「簡単なものしかできないけど、すぐご用意しますね」

 遠慮して口ごもるアロイスに構わず、キャシディーはコンロに置きっぱなしだった寸胴鍋に火を入れた。
 十分も経たず机に並んだのは、レタスとお手製のハムを挟んだサンドイッチに、野菜がたっぷり入ったコンソメスープだ。
 アロイスは「いただきます」と礼儀正しく口にしてから、まずはサンドイッチを手に取った。

「――美味い」

 一口食べて、アロイスは少し驚いたように言った。

「そうですか? 良かった」

 自分の作った料理を、黙々と平らげていく男を、キャシディーは目を細めて眺めた。

「ごちそうさまでした」

 あっという間に皿の上を空にして、アロイスはぺこりと頭を下げた。

「おかわりはいかがですか?」
「いえ、もう十分です。ありがとうございます」

 皿を洗い場に片づけ、代わりにティーポットやその他の茶器を持って戻ってくると、キャシディーは机の上の砂時計をひっくり返した。

「料理も上手で……。あなたはとても家庭的な女性なのですね」
「え?」

 キャシディーがふと顔を上げると、アロイスの視線は、彼のすぐ隣に投げ出してあった編みかけのカーディガンに注がれていた。

「ああ……。はは、下手くそなんですけど」

 キャシディーはそそくさと編み物を取ると、隠すように自分の膝の上に置いた。

「あなたのご出身は、『ロスリル』ではありませんか?」
「え、どうして……?」

「ロスリル」とは、ここトーシャイト共和国にある州の一つだ。
 そして、確かにその場所は、キャシディーの生まれ故郷だったが、なぜ分かったのだろう。

「この間お借りした本を読ませていただきました。その中に一冊、『ロスリル』の生活様式をまとめたエッセイがありましたね。そこに蜂蜜入りの紅茶についての記述がありました。それで、もしかしたらと思ったのです」
「そうでしたか……」
「あなたには、教養と気品を感じる。故郷では、良家のご令嬢だったのではありませんか?」

 ロスリルは、現在はこの国の州のひとつとなっているが、十年前までは小さいながらも独立した王政国家だった。
 徹底した身分制度が敷かれ、王に近い立場の貴族たちが政治を執り仕切る。だがそもそもこれといった産業もなかったかの国は、周囲を列強に囲まれ、経済的に困窮していった。特に下々の、いわゆる一般庶民の生活は一層厳しくなり、不満を募らせた民衆は、ロスリルの各地で暴動を起こすようになっていた。その頃にはすっかり軍隊も疲弊し、暴徒を取り締まる体力すらなかったという。
 ――多くの国民が、やがて革命が起こるだろうことを、予感していた。
 そのような折、トーシャイト共和国が、ロスリルを自国の一州として併合することを提案したのである。
 己の生命と財産を守りたかった当時の王はそれを承諾し、こうして王家及び国家としてのロスリルは消滅したのだった。

「お察しのとおり、あたしはロスリル出身です。でも、良家どころか、ただの市民ですよ。ただ、父は国務議員の秘書をしていましたので、生活は貧しくありませんでした」

 キャシディーは砂時計に目をやった。落ちる砂を見詰めるその黒い瞳、そして同じ色の髪は、確かにロスリル人に多く見られる特徴だ。
 砂時計の砂は、まだ半分ほど残っている。――彼女の人生と同じ。
 ごく普通の家で生まれ育ち、次に浅ましい娼婦として生きてきた。
 それでは、この先は――?
 アロイスは沈黙したままだ。続きを話せということだろうか。それほど面白い話だとは思えないが。
 だが望むのなら、別に聞かせてもいい。昔のことを語るのに、もう痛みは感じなくなっているから。

「十年前の併合は平和に、誰の血も流されることなく、なされたといいます。――が、それは表向きの話です。犠牲となった人間がいなかったわけじゃない。父が仕えていた議員は、併合に反対する立場を取っていた。そのせいで彼自身と、そしてその巻き添えを食って、あたしの両親は暗殺されてしまいました」
「……………!」
「あたしだけが命からがら、着の身着のままで逃げ出し、トーシャイト共和国に辿り着いた。ここは言葉が通じたし、唯一身分証がなくても、ロスリルからの移民を受け入れてくれた国だから……」

 こういうとき、どういう顔をしたらいいのだろうか。
 自分にとってはもう遠い過去のことだが、聞かされるほうとしては滅入る話だろう。
 案の定、机の上で組まれていたアロイスの、両の拳は強く握り締められ、短い爪の先が甲に食い込んでいる。

「恐らくその暗殺には、我が国の上層部か、もしくは軍が噛んでいるのでしょう。そして私は軍人です。私はあなたのご両親の死に、間接的に関わっていますね……」

 それを聞いたキャシディーは、慌てて首を振った。

「いえ、その……! 今のロスリルは併合前よりずっと落ち着いていて、いい状態になっていると聞きます。だから。――だから」

 自分の身に起こった災難は、全て運命だったのだと受け入れることにして、それ以上のことは考えないようにしてきた。
 誰かを恨みに思ったら、憎しみで目が眩んで、立っていられなくなるから。
 だが、真正面から同情のこもった瞳で見詰められると、堰を切るように、我慢してきたあらゆる感情がこみ上げてくる。

「ただ……。もうちょっと何とか……話し合いなんかで、済まなかったのかな、と。何も父と母の……命まで取らなくても良かったのにと、そんなことを思います……」

 ――おかげで、ひとりぼっちになってしまった。

「もちろん、それだけ事態が切迫していたということかもしれませんが。……あたしには、難しい話は分かりませんから」

 無理に笑おうと表情を動かしたはずみに、涙が零れ落ちた。

「――あ」

 一度張っていた糸が切れてしまうと、あとはもうだめだ。芯が溶けて、ぐにゃぐにゃになる。
 キャシディーは久しぶりに両親のことを思い出して、泣いた。
 教育熱心で、だがとても優しい人たちだった。一人娘であったキャシディーのことを、心から愛し、可愛がってくれた。
 父と母に守られて過ごした平凡で穏やかな日々が、ある日突然終わるなんて、十年前の彼女は思ってもいなかったのだ。
 俯き、声を殺して泣き続けるキャシディーに、アロイスはそっと腕を伸ばす。
 寂しく泣く女性の頬に触れるか触れないかのところで、アロイスの手は止まった。
 涙でけぶる視界の先に、自分を慰めようとしている男の姿がある。彼の唇は震えるように動き、すぐに噛み締められた。
 キャシディーは、アロイスが何を言いたいのか、分かる気がした。

「申し訳ない」、「ごめんなさい」。
 謝りたいのだ。
 だが、軍人という立場がそれを許さない。
 彼らは全て、国の命令によって動く。そこに間違いはない。――あってはならない。
 謝罪をすれば、国の過ちを認めることになってしまう。
 そして、それをしてはならないと、アロイスら軍人は、骨の髄まで叩きこまれているのだ。
 キャシディーは瞼を拭った。

「でも、もう昔のことですし、今の生活だって悪くはありません! まあ、あまり立派とは言えない仕事だけど、お金は稼げるし、お客さんだって良い人が多いですし。それに、アロイスさんとも出会えましたしね!」

 最後は軽口のように伝えたが、本心だ。
 ――アロイスに会えて、良かった。

「私は……『普通』の家庭に育ったあなたが、理不尽な人生を強いられたことに、罪の意識を覚える……」
「…………」

 気づけば、砂時計の砂はすっかり落ちている。キャシディーは慌ててティーポットを掴むと、カップにお茶を注いだ。
 アロイスはソファに座り直し、言った。

「あなたは強い女性だ。自分の境遇を誰のせいにすることもなく、受け入れている。――それに引き換え、私は……」

 低い声が震えている。今、アロイスの顔を見てはいけないと思った。だからただキャシディーは、カップの中身を見詰める。

「私はどうしても、恨み、憎んでしまう。私をこんな化け物にした、あの男に対する怒りが、消えないんだ……!」

 アロイスは黒いマスクを握り締めた。

「それは……! あたしの場合は、ほら! ロスリルが良くなるためには、仕方がなかったのかなって思えるから! あたしがあなたの立場だったら、やっぱりずっと相手を恨みますよ! 憎みますよ!」

 こんな台詞が慰めになっているのか、どうか。
 だがアロイスの心が少しでも軽くなればいいと、キャシディーは必死だった。

「…………」

 アロイスは顔を上げると、キャシディーの手を取り、指先に口づけた。

「……ありがとう。私はあなたと話しているときだけ、自分を責め、厭うことを止められる……」

 その言葉に、アロイスの唇に囚われていたキャシディーの指が硬直した。

 ――この人は、あたしに癒しを求めているんだろう。きっと、心が綺麗な女だと信じて。

 キャシディーはあの日見た彼のマスクの下の、哀れに焼けただれた顔を思い出した。
 あのとき、一番に何を思ったか。

 ――あたしは、あなたが思うような人間じゃない。

 キャシディーはこわばった体を動かし、なんとか自分の手を取り戻すと、ぎこちなく笑った。

「お茶、冷めちゃいますよ」
「ああ……。いただきます」

 アロイスはカップを手に取った。キャシディーもそれに習う。
 いつもは甘いはずの紅茶が、この日は苦く感じた。

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