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 なんとなく、喉に違和感があるかな、とか、いつもより身体が重いな、とか、不調の信号は数日前から出ていたのかもしれない。けれど気のせいだろ、で蓮はすべて見ない振りをした。

 本格的に具合の悪さを感じ始めた昨夜も、大丈夫、一晩ゆっくり寝れば朝にはすっきり元気になるはずだ。なんて楽観視していたが、そんなのは希望的観測でしかなかったと、蓮は翌朝身体を起こせないベッドの上で知った。

(うそだろ)

 起き上がれない。
 そろそろ起きて朝食の用意をしなければと思うのに、腕を動かすのさえ億劫だった。
 節々も痛む気がする。なんだこれ、と焦る思考も緩慢になっていく。自然と呼吸も荒くなって、けほりと小さく咳き込んだ。

(風邪かな、何年ぶりだろ)

 喉にかなりの痛みを感じる。身体は、血が沸騰したように熱い。こんな風に動けなくなるほどの熱など、子どもの頃以来だ。
 頭の片隅には朝のルーティンがおぼろげにあるけれど、動く気力はなく、蓮はぼんやりと見慣れてきた天井を見上げた。

 瞼がどうしようもなく、重い。自然と、瞼はゆっくり閉じる。次に目を開けたら、マンションのベッドの上だったらいいなと、蓮は夢想した。

 具合が悪くて見る夢は、荒唐無稽なことが多い。違う世界で怒濤のように過ぎゆく日々も、熱に浮かされ見ていた、長い長い夢だったとしたら、目が覚めてしまえば非現実のものになる。そうなればもう、ディルクには会えなかった。

(それは、少しさみしい、な)

 仏頂面を、甘いもので緩めるチャレンジができない。眉間のシワで、好き嫌いを図る楽しみもなくなる。一緒に過ごす、穏やかな時間を心地好く感じる気持ちも、夢だった? と、蓮は次第に何を考えているのかもわからなっていく。

 後はもう、思考が流れていくままにした。

「ん」

 唐突に感じた、ひやり、とした温度に蓮は重い瞼を上げる。ぼやける視界に飛び込んで来たのは、眉を下げたディルクの顔だ。ゆるゆると数度瞬きすると、少しだけ視界がクリアになった。

「目が覚めたのか」
 はあ、と深い安堵の息が耳に届く。状況が、すぐには理解できない。

「いつもの時間に下りてこないから、様子を見に来たら熱を出していたから驚いた」
「おれ……」

 いつの間にか、寝てしまったようだ。あの時に比べれば、少し回復している感覚がある。熱はまだ上がりきっていないのか、下がりきっていないのか、節々の痛みはまだあった。

「ごめん、迷惑かけて」
「いい。具合が悪かったなら、言ってくれたらよかった」

 うん、と蓮は素直に頷く。
 体調不良を甘く見て、結果ディルクに迷惑をかけてしまった。反省しかない。

「あ、ディルク仕事は!」
「休暇をもらった」
「ごめん」

 仕事まで休ませてしまったことに、蓮は申し訳なさが募る。本当に、恩を受けてばかりだ。

「俺が心配で、レンから離れられなかったんだ」

 面倒見が良く優しいディルクの性格を考えたら、寝込んでいる病人を放っていけるわけがない。本当に迷惑をかけたと、蓮は妙な自信で乗り切ろうとしたことを反省した。

「あまりに熱が高そうだったから、医者に診てもらって、薬をもらったんだが……」

 そこでなぜか、ディルクは言い淀む。
 唇を開きかけて、閉じて、蓮がじいっと窺い見るように待っていると、やっと開いた。

「その、レンの意識が熱のせいかはっきりしなくて、呼びかけて薬を飲ませようとしてもだめで」

 何度やっても吐き出すから、でも、だから、それで、をしどろもどろの説明から抜くとそうなる。ここまで言いにくそうにする理由が、蓮にはわからない。とんでもない材料で作られた薬でも飲まされたのかと、想像で勝手にぞっとした。

「その、蓮の意識がなかったから、医者に念のためにと勧められ、受け取った薬があって」
「うん」

 その薬のおかげで、身体が少し楽になったのかと蓮は理解する。材料の説明はいらない。説明を断固拒否する心づもりでいると、一大決心をしたような顔でディルクが口を開いた。

「その、ざ、やく、なんだ」
「……ん?」

 ざやく、と頭の中で繰り返して、不意にぱっとその字面が浮かぶ。ディルクが言い淀む理由も一緒に理解して、蓮は頭の中が沸騰した。

 また、熱が上がった気がする。ぐらぐらと、血液が沸騰していてもおかしくはない。そんな感覚だった。
 実際は効き目のいい薬によって、平熱より少し高いくらいになっていたけれど。

「すげぇ、熱が高くて、どうしていいかわからなくて、その、わるい」
「い、いや、うん。熱出した俺が悪い」
「み、てはいない」
「あ、うん、あり、がと」

 他に、何をどう言っていいのかわからない。ディルクも困っているようで、微妙な空気になる。

(くそう、なんで熱なんか出したんだ!)

 それも意識が混濁するくらい。てか、この世界にも座薬なんてあるのかと、子どもの頃以外に縁のなかった薬の存在を思い出し、蓮は心の中で身もだえる。つか、こんないい男にそんなことさせていいのか、いやだめだろ、と思考が怒濤のように流れていく。居たたまれない気持ちを、うまく昇華できなかった。

「レン」

 ぎこちない手つきで、ディルクは蓮の頭を撫でる。優しく、慰撫するようだった。

「今までの疲れが出たんだ。無理しなくていい」
「……けど、やることあるし、仕事も」
「いい。家のことはカルラに頼んだ。兄も、しばらくはゆっくりしろと言っていた。元気になったら、またこき使ってやるからって」

 軽いダーフィットの声が聞こえた気がして、蓮は笑う。

「今まで、よくやりすぎていたんだ。俺も、甘えていた。知らない世界、何もかもがわからない場所だ、心細くないはずがない」

 やわらかな声音が、心地好く耳に響く。少し遅れて、蓮を思うディルクの気持ちが、じんわりと胸の中に染み渡っていった。

「そんな風に笑っていなくても、大丈夫だから」

 ほろり、と蓮の瞳から涙がこぼれる。心がどうしようもなく震えて、堪えきれなかった。

(ディルクのくせに)

 くそうと、悔しくなる。笑顔で、朗らかな人当たりのよさで、寂しさも、不安も、綺麗に隠せているはずだった。それなのに、蓮が心の奥底に隠した痛みに気づくなんてずるい。

「食欲があるなら、カルラの作ったパン粥がある」
 ふるり、と蓮は頭を振る。今は胸が一杯で、何も食べられそうになかった。

「なら、もう少し寝るといい」

 頷いて、蓮はゆっくり息を吐き出す。
 そろり、と手だけ出して、ぬくもりを求める。鈍感なくせに今だけはすぐに察して、ディルクは握り返してくれる。優しい手は、蓮が眠りに落ちるまで離れていかなかった。


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