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 ここだ、とレオンと名乗った男が立ち止まったのは、色味、濃淡が異なるレンガをセンス良く積み上げ、かわいらしくも美しい外観が目を惹く、洋菓子を扱う店の前だった。

 濃い緑の植物と、控えめに咲き誇る花の植えられたテラコッタの鉢が、全体の印象をやわらくしている。散歩の途中で見つけたなら、嬉しくなりそうだった。

 間違えようのない、わかりやすい店の入り口を無視して、レオンは建物の脇の方へ向かう。それに着いて行っていいものかと蓮が迷っていると、足を止めたレオンが振り向き待っているので、えいっと後に続いた。

 建物の影は、ほんの少し空気がひやりと冷たい。奥の方まで来て、どう見ても関係者以外立ち入り禁止だろうドアを、レオンは躊躇なく開ける。鼻先をくすぐった甘い香りに蓮が気を取られていると、入ってすぐのところに背の高い男が居た。

 ぱちんと、目が合う。紫のような、ピンクのような瞳は、蓮を一瞬だけ映すと、すぐにレオンの方へ向けられた。

「レオ、誰だ?」
「レンだってさ、そこで拾ってきた」

 は、とこぼされた息が、困惑を蓮に伝える。そうか、拾われたのか――と、今更気づいた。
 考えてみれば、ディルクに拾われた時とシチュエーションが似てなくもない。うっかり着いて来てしまったが、よくなかったかもしれないと、今更反省した。

 どうにも、レオンは強面にも見えるのに、からりとした笑顔が印象的で、帰り道がわからないと申告した蓮を心配してくれ、裏表のない性格に見えたのだから仕方がない。要は、信じたのは勘だ。

「おいー、なんで人を拾ってきてんだよ」
「迷子」

 端的に言われ、蓮は軽くショックを受ける。そんなつもりはなかったのに迷子認定され、そのまま保護されていたのかと、二人のやりとりで自覚した。

「迷子って、フツーに大人の男に見えるけど?」

 子どもに見えなくて、ほっとするべきかわからない。迷子認定の、成人済み男性だ。あまり人には知られたくない、悲しい響きがあった。

「霧の中で、立ち往生してたんだよ」
「は? そんなことあんの」
「ほんとです」

 タイミングのいいところで会話に入り、蓮は自己申告する。きっと、客観的にみたら迷子なのだろうと、不名誉な称号を受け入れることにした。

「霧なんて、この辺はよくあることだろ」
「あ、この辺は初めてきたんで」

 街が霧に包まれる景色は、よくあるのだと初めて知る。住んでいるところから少し離れると、まだ知らないことばかりだ。洋菓子店なのか、カフェなのかわからないが、こんな店があるのも知らなかった。

「ああ、そういうことね」
「だから、道教えながら連れてきた」
 レオンが話を引き取り、完結させる。けれど、納得できるものではなかったらしい。
「だからなんでだよ」
 脱力したような声で、突っ込みが入った。

 二人のやりとりを見ていると、蓮の方がなんだか申し訳なくなってくる。道を教えてもらい、帰れるようになった時点で、礼を言って別れるべきだった。

 ――茶、出してやるから飲んでいけよ。すぐそこだから。

 朗らかな笑顔での申し出に、つい甘えてしまったのは蓮だ。誰かと、話したかったのかもしれない。

「あー、捨てられた子犬みてぇな顔してたから?」

 はい?! と、蓮は心の中で声を上げる。そんな風にレオンには見えていたのかと、驚いた。

「それで、茶でも出してやろうってか」
「まあ、そうだな」
「相変わらず優しいねぇ、レオは」
 ふん、とレオンが軽く鼻を慣らす。

「アイツは?」
「実家に寄ってくるから、今日はギリだってさ」
「なら、ちょうどいいな。うるさいのがいなくて」

 椅子をすすめられ、おずおずと、蓮は遠慮がちに座る。連れてこられたのが従業員専用らしき場所なので、いまだにいいのか? と迷いがあった。

「あの、店の方はいいんですか?」
「準備はだいたい終わってるから、ヘーキだ」
「そーなんですね」

 先ほどから、オーブンから焼き上がった菓子を取り出したばかりのような香りが、辺りにふわふわと漂っている。それがひどく、蓮を懐かしい気持ちにさせる。香りが呼び起こす記憶は、幼い頃から出入りしている実家の店だ。

 父が細部にまでこだわり、丁寧に仕上げたケーキが並ぶショーケースに、棚に並べられた幾種類もの焼き菓子、幼い頃は、オーブンの中で生地がゆっくりと姿を変え、こんがりと美味しそうに焼き上がるのを飽きずにじいっと見ていた。

「あ、こいつリュークな。茶、いれてくるまで、話し相手にでもなってやってくれ」
「はい?」

 逆ではないかと思ったのが伝わったのか、リュークが笑っている。ぽんぽんと遠慮なしにレオンと言い合っていたところから、二人の親しさが伝わってきた。
 どちらが店主なのかはわからないが、従業員というよりも、友人のように見える。そんな関係が築ける店に、蓮は好感を持った。

「レンくん?」
「はい」
「甘い物、好き?」
「好きです」
「なら、ちょっと待っててね」

 え、と戸惑う蓮を一人残して、リュークも姿を消すから唖然とする。見ず知らずの成人済み迷子を、大切な店の中に放置していいのかと言いたくなった。

(なんだこれ)

 どうにも、既視感がある。やっぱり警戒心がないのは、この世界の人だ。
 知らない場所に一人でいるのは、居心地が悪い。それも店の裏方だ。他の従業員と顔を合わせたら、どう言っていいかわからない。泥棒と間違われても困る。そわそわしながら、二人が戻ってくるのを蓮は待った。

「ん? リュークのやつどこいった?」
 戻ってきたレオンに、蓮はほっとする。
「なんか、どっか行きました」

 軽く舌打ちすると、役に立たねぇなとレオンが文句こぼす。お目付役を果たさずいなくなるリュークの無防備さが、ディルクに通じるものがあると感じた。

「悪かったな。ほら」

 甘い香りの飲み物が、目の前に置かれる。ミルクティーだ。
 日本茶が出てくるような言い方だったので、なんとなく意外だった。異世界に、日本茶が存在しているのかは知らないけれど。

「あの、俺あんま金持ってなくて」
 この店での飲食ならきっと、蓮の持っている金額では足りない。
「金なんてとらねぇよ」

 遠慮すんなと、安心させるようにレオンが笑う。それに促され、カップを持ちひと口飲むと、あたたかさと甘さに、蓮はほっとする。自然と、肩の力が抜けた。

「少しは、緊張がほぐれたか?」
「え」
「ひでぇ顔してたの、自分じゃわかんねぇもんな」
「そんな顔、してました?」
「してた、してた。俺が放っておけないくらいにはな」
 それで連れてきてくれたのかと、レオンの心遣いを蓮は知る。
「えっと、拾ってくれて、ありがとうございます」
「おう」

 どこにいるのかもわからないような霧の中で、ひどく、心細かった。このまま、帰れないのではと焦った。元々蓮には、正確には帰る場所などないのにと、連想ゲームのように浮かんで消えて、寂しさだけが残った。

「あれ、レオ。戻ってたんだな」
「おい、リューク、レンひとり残していったら心細いだろ」
「そうだよな。わるかった。甘いの好きっていうからさ。はい、これ」

 差し出されたのは、ほんの少し形がいびつなマドレーヌだった。店に出せない分かもしれない。

「えっと、ありがとうございます」

 二人のやわらかな眼差しを見て、蓮は素直に受け取り礼を伝える。さっそくかじりつくと、焼きたてなのか表面がカリッとしていて、中はふわりとやわらかい。鼻に抜けるレモンの香りが、爽やかだった。

「すげぇ、おいしいです」
「だろー、俺が作ってんの」

 自信たっぷりの笑顔に、蓮もつられて笑顔になる。ゆっくりしていていいと言い残し、二人が本格に忙しくするのを見て、蓮は残りのマドレーヌを食べカップも空にした。

 懐かしい空気に名残惜しさは感じるが、仕事がある人たちの邪魔になってはいけない。人気がある洋菓子店の裏方は、結構忙しいものだ。

「あの、ありがとうございました。お菓子もお茶も、おいしかったです」

 声をかけると、わざわざ作業を中断してくれる。二人揃って蓮に向き合ってくれるのだから、本当に優しい人たちだ。

「今度は、客としてこれたらなって思います」

 希望でしか言えないのが、もどかしい。当然のように、ディルクに頼るのは憚られた。
 それをどう取ったのか、レオンがわずかに表情を曇らせた。

「レンは、帰るとこはあるのか?」
「はい、一応。お世話になってるとこがあるんで」
「……そっか。まぁ、なんかあったら俺のこと訪ねてこいよ」
「そうそう、レオはバカみたいに面倒見いいからな」

 ほんの少し疑問符が浮かんだけれど、ありがたい申し出に礼を伝える。

「もう、迷子になるなよ」
 そんな声に送られ、蓮は居心地のいい店を後にした。

 帰路につく足取りは軽い。
 初めての冒険はほんの少し苦い思いをしたけれど、出かけてよかったと思える。うつむかず、前を真っ直ぐ見て歩けることが、蓮は心地よかった。
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