私のうなじは香らない

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 膨れ上がっていく殿下への愛しさと、このまま進んだ場合に起こりうる破滅的な未来への不安。両極端な感情に挟まれて、私は身動きが取れなくなってしまった。
けれど殿下の方は、恋人となった私を見る目は蕩けるように甘くなり、触れてくる手つきは前にも増して優しくなった。更に、恋人としての接触を持つようになって改めて気づいた事だったのだが、子供の時分はほぼ同じようだった殿下と私の体格は、第二次性徴期を越えて明らかな差が現れていた。
 今上陛下に似て、背が高くなられたとは思っていた。けれど、私の貧相な手首を引き寄せる腕は、私の腕などよりもがっしりと太く逞しく。閉じ込められた胸板の厚みに、男のくせに胸が高鳴った。
 成長期真っ只中の殿下は、日を追う毎にアルファの特質を惜しげも無く顕し始めておられていて、ただひょろっとそれなりに背を伸ばしただけの私などよりも、とっくに"男性"になられていたのだと知った。更には、その人並み外れて端正なお顔立ちで優しく微笑みかけられるとなれば…こんなの、性別など関係無く魅了されるに決まっているではないか。
 もうすっかり大人の、よく響く低く甘い声で『ミツクニ』 と呼ばれたなら、何を命じられても従ってしまいたくなる。

 けれど、それでは駄目なのだ。

 今はまだ良い。
 選ばれた生徒達(アルファ及びベータ)しか在籍しない学園と、あらゆる危険から遠ざけられた安全な皇宮を護衛付きで行き来しているだけなのだから。勿論、周辺を未婚のオメガが彷徨いていたとしても近づける事は無い。今上陛下の後宮に出入りを許される年齢も過ぎているから、在籍するご側室達と顔を合わせる事も無いだろう。
 しかし、高等部を卒業し、大学へ進み、成人したなら。オメガと出会う機会は格段に増え、即位した暁には後宮も設営される。殿下はそこに集められた側室候補達の中から、数人をお召しになり、その寝所を訪われるだろう。それは良い、それが皇帝の義務なのだから。何人の女性を抱こうが子を儲けようが、耐えられる。だがそれは、その相手がベータであればの話だ。ベータなら、たとえどれだけ美しい女性であっても、殿下の心は私から離れはしないという自負がある。

 けれど…それがオメガとなれば、話は別だ。

 アルファはオメガと、オメガはアルファと惹き合うように出来ている。遺伝子にそう組み込まれている。相性の良さに幅はあれど、一度ヒート(発情)を起こせば、眼前の相手と激しく求め合う事しか考えられなくなるという。そして、体を交わすと心までも掴まれて…番になる。
 なってしまえば、アルファは番のオメガ以外は目に入らなくなり、大切に囲い込むようになる。オメガはそんなアルファの愛を独占し、その庇護に包まれて生きるようになる。本能に結びつけられた番の間には、通常の恋人同士や夫婦などは比較にならないほど堅固な絆が生まれるのだと言われている。
 将来殿下が持たれるであろう後宮には、まず優先的にオメガの男女、次いでベータの女性が入内するだろう。オメガは人口が少ない故に、ご側室の割合いはどうしてもベータ女性が多くなると思われるが…アルファである陛下の為に、後宮設営担当は必死で一定数のオメガを確保するだろう。どんな手を使っても。
 何故なら、皇族の血を引くアルファを生み出す能力は、ベータ女性よりもオメガの方が圧倒的に高いからだ。
 皇室側は殿下がオメガと交渉を持つ事も、番を持つ事も歓迎するだろう。そして、只のベータ男性でしかない私は、見向きもされなくなり、捨てられる。そうなった時、私は…私の精神は、崩壊する……。
 まだ起きてもいない事を妄想して怯えるなど、愚かしいと思うだろうか。だが、殿下が皇位継承者であり、アルファである以上、それは確定された未来であると、私でなくとも考える筈だ。
 アルファを前にして、ヒートフェロモンを持たぬ性であるベータは、オメガには絶対に敵わない。
 それがわかっていて尚、私は自分から殿下に別れを告げる事が出来ずにいた。我ながらどうしようもない優柔不断だったと、今でも思う。

 そして、また数ヶ月をお傍で過ごした。
 

 殿下が私に対する独占欲を露わにしていくのに反して、私の精神は日々摩耗していった。 

(ベータである私などが、殿下と恋仲であるなどと知られては…)
 
 自ら殿下のお気持ちを受け入れて始めた事だった筈なのに、小心で臆病な私は、いつしかそんな風に思う事で自分の心を守ろうとしていた。
 もし、今の内に殿下が私に飽きてくださるか、欲すら満たせない私に愛想を尽かして別れを切り出してくだされば、傷の浅い内に離れられるのになどと、胸の中で理不尽に殿下を詰ったりもした。
 だが皮肉にも、そんな事ばかりを思い言葉少なになっていった私に、殿下はますます執着されていき、――そして、あの日が来た。



 学園からの帰り、いつものように殿下の送迎車に一緒に乗せられて皇宮の殿下の居室に招かれた。最初の内は茶と茶菓子を出され、途中まで出来上がっていたレポートを終わらせて、それから…。

「ミツクニ」

 ノートと筆記用具を横に置いていた鞄に仕舞っていると、背中から影がさした。背中から殿下に軽く抱きしめられて、ああ、キスをされるのだとわかる。その頃にはもう、2人きりになれば唇を重ねる事は常態化していて、なんなら学園内でも、不意打ちにそれは敢行されていた。たとえば、移動教室の時の渡り廊下で周りに人影が途切れた隙を狙って。あるいは、休み時間が終了する間際のトイレの個室に押し込まれて。体育の授業の後片付けを手伝ってくださっている最中、汗と土と埃の匂いがする体育倉庫の中で。殿下はどんどん大胆になり、私の唇を奪う事を愉しまれているように見えた。私の苦悩や葛藤などに気付かれる事も無く。
 私はそんな殿下が、小憎らしくもあり…それでも、苦しいくらいに慕わしかった。どうせこうしてお傍に居られる日々はそう長くはない。ならば口づけでじゃれ合うくらいは…そう思っていた。

 だが、その日はいつもとは様子が違った。

 
 殿下の口づけは、いつもよりも深かった。
 熱い舌が私の上下の唇を舐め、食み、歯列を割り、舌に絡み、扱かれ、吸われ。溜まった唾液ごと殿下の口内に引き摺り込まれ、呼吸すら奪われて酸欠で目眩がした。何故人間は、たかが唇と舌だけの交わりでこんなにも快感を得られるのだろう、とぼんやりした頭の隅で考えた。
 殿下は、最初に交わした小鳥のような可愛らしい口づけとはまったく別物の、艶めかしい舌技を伴った口づけを会得されていた。回数をこなしたからなのか、それともアルファは性技にも長けているという事なのか。その辺はよくわからないが、私が毎度殿下の口づけに翻弄されていたのは事実だ。
 だから、蕩けきった私の顔を見て、その先に進めると思われてしまったのは、殿下の罪では無い。けれど…。

 シャツのボタンに指をかけられた時、私は反射的に殿下の手を跳ね除けてしまった。息苦しいからと、学園を出たらネクタイを解いて丸め、鞄に入れてしまっていたのもいけなかった。私と反対に、どうにかこの関係を進展させたいと思われている殿下から見て、その時の私は隙だらけに見えたに違いない。
 濃厚な口づけも拒まないのだから、私も先を望んでいるものと勇気を出されたのかもしれなかった。
 だからきっと私の拒絶は思わぬものだったのだろうと思う。

「申し訳ありません。私にはこれ以上、殿下のご希望に添う事は無理かと存じ上げます…」
 
 殿下の手を叩いてしまったという動揺で、声が震える。期待させ裏切ってしまった罪悪感が胸いっぱいに広がって、顔を上げられない。
 
 だから…だから、殿下がどれだけ傷ついたお顔をなさっていたのかも、見る事が出来なかった。





 


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