拾う神なんていない

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糸川  清春(いとかわ きよはる)、18歳。


パッと見、何処にでもいるような平凡な男。
実は物心ついた頃には体を売らされていた。


幾つから、なんて覚えていない。覚えてるのは、何時も腹が減ってたって事。風呂にもロクに入れないから、着てる服も汚れてた。でも、家に知らない大人が来て、体を弄り回される日だけは、風呂に入れてもらえて食べ物がもらえた。
何日も食べられない飢餓状態って、どんなのか知ってる?想像できるだろうか?普通に生きてりゃわかる訳ないか。一食抜くや1日、2日抜くなんて生易しいもんじゃないんだ。何でも良い。何でも良いから口に入れたい、胃に入れたいんだよ。例えば、そうだな…通常なら食べ物だなんて認識されないような紙屑や虫なんかでも。そんなんだから、ガキの頃から俺はガリガリだった。
でもさ、そんなガイコツみたいな子供でも買うしヤるんだから、性癖って難儀なもんなんだな。いや、性癖は難儀でも、そんな下衆な大人達の中にも少しは良心のある奴もいてさ。来る時には必ず、ケーキとか、菓子とかたこ焼きとか、食い物を持って来てくれるようになった客もいたよ。俺があんまり酷い状態だったから罪悪感を持ち始めたのか、抱かずに金と食い物だけを持ってくるようになった客も居た。でも、自分の性癖と買春したって事実が明るみに出るのが嫌だったのか、誰一人として児相や警察にたれ込んでくれた人はいなかった。

結局、人間自分の身が一番大事だもんな。仕方ない。
恨んじゃいないよ。あの頃食べ物くれた人には感謝してるくらい。もしもどっかで会えたら礼を言うよ。


俺の親はクズだった。
父親は大概赤い顔して何かしらで酔ってたし、母親は何時も体の何処かに痣を作っては部屋の隅でブツブツ言っていた。顔が倍に腫れ上がってる日もあったし、座ってる横にはよくわからない薬のシートが幾つも散らかってた。今思うと、母親は父親に心を壊されて病んでたんじゃないかと思う。とにかく俺が覚えてる限りの母親は何時もそんな感じで正気だった事は無かった。そりゃ、まだ幼い息子と同じ部屋の中で並んで体売らされてりゃ、おかしくもなるよな、なんて思えるようになったのは自分が成長してからだ。多分なんだけど、母親は父親にあんな風にされたんじゃねえかなって思ってる。俺が産まれる前からなのかと考えた事もあったけど…どうなんだろ、わからないな。

俺が11くらいの時に、住んでたオンボロアパートの1階の部屋から火が出たらしい。らしいって言うのは、気がついた時には俺は病院のベッドの上だったから。消防に助け出されたんだって。
覚えてないんだけど、俺は開いた窓辺に居たらしい。煙に気づいて苦しくて起きて窓を開けたんだろうって言われた。古い木造だったから火の回りが早かったみたいで、廊下もすごい状態だったらしい。玄関から出ても逃げられなかっただろうって。それを裏付けるように、父親と母親は1階に降りる階段の手前で見つかった。2人とも、足でまといの俺を捨ててさっさと逃げ出してたんだよ。なのに、捨てて行かれた俺は助かって、2人は死んだ。

ま、別に何も感じなかった。ざまぁ見ろとも、悲しいとも、何も。
俺も母親と同じで、とっくに壊されてたらしい。

母親には身寄りらしい身寄りが無くて、俺は父親の唯一の身内だった叔母さんに引き取られる事になった。
叔母さんは、若い頃から屑だった父親の、5歳下の妹だった。父親の家出で絶縁状態だったらしくて、警察から俺の存在を知らされた時には凄く驚いたって言ってた。
父方の祖父は、父と叔母さんがまだ学生の内に亡くなって、父と叔母の兄妹を女手ひとつで育て上げた祖母さんは、叔母さんが大学を卒業して就職した会社で働き始めた頃に病気が見つかって逝ってしまったのだという。まだ若いのに俺を引き取る事を決めてくれた叔母さんは、多分寂しかったんだと思う。血の繋がった家族が欲しかったのかな。

そんな経緯で叔母さんに引き取られた俺は、それからの数年をとても穏やかに過ごした。殆ど行かせて貰えなかった小学校の勉強を履修するのは大変だったけど、まあ頑張ったよ。始めて向けられた、血の繋がった家族からの期待はむず痒くて、褒められるのは嬉しかった。向けられた笑顔は優しくて、あたたかかった。そんな時は、壊れてる筈の俺の心も、何となくポカポカしたんだ。

でも、何ってのかな。

家庭運っての?そういうのが薄い家系ってのがあるのかな。
俺が高2の時に、その叔母さんも交通事故で亡くなった。
唯一の血縁者で甥の俺は叔母さんの養子になってたから、喪主をしたよ。
叔母さんの友達や会社関係の人達が助けてくれて、街中の葬祭場を借りて葬儀をした。明るくてシャキシャキして優しい人だった叔母さんの葬儀には、思ってたよりたくさんの人が来てくれた。俺はお焼香をしてくれる人達に、そういう人形みたいに頭を下げて、多分ずっと無表情だった。悲しいのか、辛いのか、どんな顔をしていいのかわからなくて。
あれだけ良くしてくれた叔母さんの葬式ですら、俺って泣けないんだ…なんて思いながら坊さんの読経を聴いてた。

それから火葬場で叔母さんが煙になっても、白い骨を小さな骨壷に納まっても、俺はぼんやりとしていた。誰かに話しかけられると、『本日はありがとうございました』って条件反射みたいに言う事しかできなくて。

叔母さんのマンションに帰ってひとりでリビングのソファに座って、開けた窓から入って来た風が薄いレースのカーテンを揺らした時、不意に叔母さんの付けてた仄かな香水の匂いがした気がした。それは多分、カーテンや部屋のあちこちに残ってた残り香でしかなかったんだろうけど、俺はその時思ったんだ。
叔母さんは今、この部屋から去ってしまったんだなって。

その時、俺は初めて泣いた。親が揃って死んだ時にも出なかった涙が頬を伝い落ちて、制服のズボンの色を変えた。

ありがとう、ごめんなさい、ありがとうって言いながら、叔母さんの骨壷を抱きしめた。
親にすら抱きしめられた記憶の無かった俺にとって、叔母さんは初めて触れた母性だった。年齢的には少し歳の離れた姉弟みたいなもんだったけれど、俺は叔母さんに母親を感じてた。死なれて初めてわかったんだ。俺、叔母が好きだったよ。お母さんと呼ぶなら、実の母親よりも叔母だ。
母親は運の悪い気の毒な女だったと思うけれど、それだけだ。正気を失った母親からは愛も何も感じた事は無い。それはもうどうでも良い。

ただ、俺には母親と呼べる人は叔母だけだった。
それだけだ。

そして、とうとう本当に天涯孤独になった俺。そんな心の隙間に付け入るように近づいてきたのが、日比谷 桜史(ひびや おうし)という同級生だった。
物静かと言われ、あまり目立たない平凡な生徒だった俺の隣に、何時の間にか滑り込んで寄り添うように立っていた男。
俺の、初めての恋人。

そして日比谷は、俺の中に封印していた黒い記憶を呼び起こし、奈落の底に引き摺り落とす事になる、死んだ父親を彷彿とさせるような最悪の男でもあった。






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