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花瀬 2 (花瀬side)

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 男とのこの取り引き...いや契約が、僕にとって二度目の身売りになった。この時は売られたというより、自ら売ったのだが。
 そしてその翌日から、男は僕との契約を履行し始め、最悪だった事態は急転した。

 

「悪巫山戯が過ぎてしまった。本気で言った訳ではないが、気分を害された事だろう。同じ親として、非常に申し訳無く思っている。そのお詫びも兼ねて、是非お力にならせていただきたい」

 社ではなく家に訪ねて来た男に神妙な面持ちで頭を下げられ、両親は驚いたように顔を見合わせた。
 普通なら、ほんの数日で人が変わったように殊勝な態度を取られても訝しむもの。だが、良くも悪くも元々が善良な人達だ。謝罪を受けて許さないという選択肢が無い。会社が傾いた途端、信じていた人々に見捨てられ、何度も失望感を味わった筈なのに、甘さが抜けない。そんな両親に、男の本心など見抜ける筈もなく。
 結果的に謝罪を受け入れた父の会社は男のお陰で持ち直し、僕達一家の生活も徐々に平穏を取り戻していった。半ば中退を覚悟していた高校にも変わりなく通え、表面上、僕は以前と変わらぬ高校生活を送った。男に監視を付けられる事も、連絡が来る事も無かった。
 両親と会社が男の手の中にある以上、僕が逃げたり出来る訳が無いと思われていたんだろう。実際、そんな気も無かった。何より未成年だったし、親元に居て大人しくさえしていれば、20歳までは自由にしていて良いと言われてもいたから、余計なリアクションを起こす気は更々無かった。だが、男と契約をした日から灰色になってしまった世界では何をしていても砂を噛むように味気無く、僕は次第に表情を失くしていった。
 
 なのに、ある日。灰色だった世界に、極彩色が戻ってきた。
 僕は、恋に落ちてしまったのだ。恋に落ちる、という言葉の通り、本当に、突然に。

 男と契約した日から約三年。頃は、春真っ只中。無事受験に成功した僕は、志望大学の学生になっていた。高校の何倍もの広さの構内に、いくつもの棟。まだヒヨコのように覚束無い足取りの学生達に次々と声を掛ける大人びた学生達。
大学の春の風物詩、サークル勧誘だ。ああいうのは目立つタイプの新入生にしか声が掛からないものかと思っていたけど、そんな事も無く。存在感希薄な僕にも、歩く度に勧誘のビラは渡された。僕は、毎回律儀にそれを貰いながら、大学のサークルなんて陽キャの集まりで無理だなとか、いや期限付きの学生生活を出来るだけ楽しむには良いのかな、なんて考えたりした。

(でも、陰キャの僕が入れるサークルなんてあるかな...)

 入学してから数日。その日もビラは手渡され、1・2歳しか違わないのにどうやって新入生だと見分けているんだろうかと感心しながらそれを眺めていると、不意に視界が陰った。そして耳に沁み入るような、柔らかな声。

「君、新入生だよね?」
「え?」

 目を上げると、そこには僕よりも背の高い男子学生が立っていた。それだけなら、普通の事だ。けれど、その顔面が普通じゃなかった。

(わ...)

 声の印象通りソフトで優しそうで、それでいて整った顔立ち。濃過ぎず形の良い眉。色素が薄いのかカラコンなのか、目の色が髪色に合わせたように薄い茶色なのがまた良い。形良い輪郭も、スッと通って形の良い鼻も、程良く薄い唇も...とにかくその全てが見た事も無いくらい、僕にとって完璧だった。

(...綺麗な、顔...)

 要するに、一目惚れ。
 僕は大学入学当日に、人生初の一目惚れをしてしまったのだ。

「もうサークル決めた?」

 そう質問されたが、彼の顔に見蕩れていた僕は、ただただ

「いえ...」

 と答えるのが精一杯。彼はそんな挙動不審な僕の手にビラを握らせると、

「気が向いたらおいで」

 と言い、ニッコリ笑った。僕が小さくそれに頷くと、じゃあねと手を振って離れ、新たに見つけたらしい勧誘対象にまた声を掛けに駆けていく。
僕は暫く、そんな彼の動向を目で追った後、渡されたビラにゆっくりと視線を落とした。

「旅行サークル...」

 旅行サークルなんて、それこそ遊び好きな陽キャ学生の溜まり場じゃないのだろうか。でも、勧誘して来たという事は、あの先輩はそこに所属している。入ってしまえば、彼に会えるのだろうか。
 けれど、文化系サークルでもないそんなところに入っても、浮く自信しか無い…。
 数日間悩んだ末、結局僕は、旅行サークルの部室を訪れた。
 しかしそこに集まっていた面子は、やはり僕とは明らかに真逆のタイプの学生ばかり。半端無い場違い感に苛まれていたところに、彼が来た。
数日振りに見る彼はやっぱり綺麗で素敵でカッコ良く、周りの学生達の中で明らかに彼だけが輝いていた。そして、その後の新歓での自己紹介で、僕は彼の名を知った。

(水村、蒼樹...名前も綺麗。水村、先輩...)
 
 知れたその名を胸深く刻み、何度も小さく呟く。それだけで胸がいっぱいになり、幸せな気分になれた。それから数週間もせずに、水村先輩の乱れまくりの女性関係を知ってからも、それは変わらなかった。
 女性が絶えないのは、それだけ水村先輩が魅力的だからだ。だから、こんな事で傷ついたりも幻滅もしない。僕は確かに水村先輩が好きだが、この恋が成就するとは露ほども思っていなかった。それは水村先輩の性的対象が異性だと確認する以前の問題で、例え同性がイけるにしても、僕みたいな冴えない男では範疇に入らないだろうと思っていたからだ。
水村先輩は、若くて従順なら見た目はそこそこで構わない、なんて言う中年男とは違う。
 だから、告げる気は毛頭無かった。ただのサークルの先輩後輩で良かった。水村先輩は僕を勧誘した事をすっかり忘れていたようで、あまり話しかけてはくれなかったけど、気にならなかった。親しい後輩になれなくても、サークル活動に参加していれば、先輩を近くで目にする事が出来る。持ち直してからの父の会社の業績は順調だったし、大学生になってからはそれなりの小遣いも貰えたから、バイトなんてしなくても活動費には困らなかった。

 僕は、期限付きの自由の終わるその日まで、水村先輩を見つめ続けようと心に決めた。




 
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