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終わったつもりだったのは、

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江東 愛緒(まなお)、25歳。
高校を卒業してから3年ばかりフリーター暮らしをしていて、22になった時、縁あって今の会社に拾ってもらった。現在は営業職について3年目になる。それが今の俺の状況だ。
少しだけ後ろめたい過去を持つ、でもごく普通にその辺にゴロゴロしてる若い男。仕事と家の行き来だけで精一杯。
そんな俺の平和な日常に巨石が投じられたのは、突然の事だった。




その日、初めて先輩に同行した先で、俺は彼と思いがけない再会を果たした。

先輩と共に応接室に通され、ソファに座って待機していた俺。出された茶に手を付ける前にドアを開けて入って来たのが彼だと認識した俺の心臓は気の所為ではなく、一瞬止まったように思う。彼を初めて目にしたあの時と同じように。
何故此処に彼が、と困惑した。それは彼の方も同じだったのだろうか、俺を見たその瞳は、少しの間驚きに見開かれたように見えた。


「久しぶりだね」

変わらぬ穏やかな声色。優しく俺の名を呼ぶこの声に、幾度胸をときめかせただろうか。
7年ぶりに見る彼は、今でもやっぱり素敵だった。
元々一回り以上も歳が離れていた。あの頃31だった彼は、今では38歳で、18だった俺は25。
そう、38歳だ。もう青年と呼べる時期はとうに過ぎてしまい、中年に差し掛かっている筈だというのに、彼は相変わらず美しい。別れを決意した時にはあんなにも色褪せて見えた筈なのに、そんな事が嘘だったみたいに鮮明に輝いていた。伏し目がちな睫毛も変わらず濃く長く、何ならあの頃よりも退廃的な色香が増しているようにさえ思えた。この男は、こんな虫も殺さないような綺麗な顔をしておいて、その美しさで男も女も組み敷いてしまう。
思えば、俺の性癖は彼のこういう部分によって狂わされたのだと思い出した。それまで俺は、年下か同年代の女性が性的対象だった。それが、彼と出会った瞬間にそれら全てがねじ伏せられて、俺の志向は歳上の男…いや、篠原さんになってしまった。
彼と離れてからも、何処か彼の面影を感じるような歳上の男女に心惹かれた。落ち着いていて、目を伏せた時の睫毛の綺麗な。
忘れよう、忘れなければ、忘れた。彼との事はそう思い込めても、一度強烈に染み込まされた志向に本能は忠実で、やはり目は似たような人間ばかりを追ってしまう。
が、えてしてそんな魅力的な人達には既に相手が居るもので、どんなに良いと思っても深い付き合いには至らなかった。
今、アプローチを受けている同僚は、厄介に染み付いてしまった性癖をやっと払拭出来そうな同年代の男だ。元から同性が好きで、ここ2年ばかりはフリーだと聞いて、気になり始めた。
もう、相手の背後に見知らぬ誰かの存在を感じるのは御免だ。自分の恋愛が誰かを傷つけるかもしれないと思うと、臆病になる。

今でもきっと彼は誘蛾灯か食虫植物のように、誘き寄せられてくる男や女を食らっているのだろう。

かつての俺も、彼の周りを飛び回る虫の一匹だった。彼だけが世界の全てで、彼に会う為だけに生まれてきたと信じていた。
彼に出会うまでに積み重ねたと思っていたいくつかの恋が、実はタダのごっこ遊びだったと思い知らされるほどに身を焦がして、終いには焼け落ちて…。


俺のそんなつまらない追憶を破るように、彼…篠原さんは俺に向かって口を開いた。

「元気だった?こんなところで再会するなんてね。あれから何年振りかな」

「オーナー、ウチの江東と面識がおありでしたか」

俺に向かってにこやかに言う彼と、不思議そうに彼と俺を見比べる先輩に、どういう状況か把握しきれないまま曖昧な笑顔を浮かべて頷く俺。
正直、全速力で逃げたかった。多分これが仕事中じゃなく、道端でバッタリという事ならそうしていた。けれど、ここは取り引き先で、俺はこの場に仕事で来ている。しかも、一人ではなく先輩とだ。そして仕事で来ている以上は何らかの成果を持ち帰らなければならない。
そんな状況で、逃げるという選択肢がある訳がなかった。

「うん、江東君、僕の行きつけの店でアルバイトをしていたんだよ。確か18になったばかりだったよね」

「あはは、あの節はお世話になりました…」

彼も大人の気遣いで、先輩を前に当たり障りのない言い方をしてくれる。俺もそれに合わせて、適当に挨拶を返す。茶番だなと思うが、これが正解だろうと思いながら。

笑顔でソファに腰を下ろした彼の前にも、画廊の若い女性スタッフが茶を運んで来る。その視線に熱っぽさを感じる辺り、やはり彼のお盛ん振りは健在というところだろうか。
ただ、付き合っていた頃、彼は仕事関係の人間やごく近い関係者とは絶対に体の関係を持たないと言っていた。その主義を今でも守っているのなら、あの女性スタッフの片想いだろうな、なんて考えてハッとする。

(いや、もう俺には関係の無い事だろ…)

僅かに乱れてしまった気持ちを落ち着かせる為に少し温度の下がった茶を啜った俺に、斜め向かいから彼の視線が刺さる。

それは穏やかな瞳なのに、何故か気持ちは一向に落ち着かない。
年齢だけなら俺も大人になった筈だ。けれど彼の瞳に映されると、俺はあの頃のままのタダのガキに引き戻されてしまうようで…。

そんな俺に比べて、彼はあの頃と同じように余裕の笑みを浮かべていて、そして…、俺の居る会社の取り引き先である、有名画廊のオーナーという立場になっていた。
4年前、彼の父親が彼の兄と共に急逝し、次男だった彼が事業を継ぐ事になったのだという。
人気講師だった彼が、よくその道を断ち切って畑違いの事業を継ぐ事を決めたものだ、とぼんやり思った。

その後は、昔の話を皮切りに商談は和やかに進んだ。
だが俺の胸の中は、当然ながら表面上ほど穏やかなものではなく、帰社したら上司にどう理由をつけて今後の担当を変えてもらうよう掛け合うか、そればかりを考えていた。
そんな気持ちを、まさか彼に見抜かれているなどとは夢にも思わず。




結局、さしたる理由も無くそんな我儘が通る訳も無い。それどころか俺は逆に、"篠原社長と昔馴染みのお気に入り"として、彼のギャラリー運営会社を一人で担当させられるようになった。外された先輩には、篠原さんから別口の取り引き先を幾つか紹介され俄に忙しくなり、『お前もそろそろ独り立ちの時期だろ』なんて言われてしまった。

荷が重い。
いや、他の取り引き先は一人だろうと別に苦にならない。けれど、彼のところだけは気が重かった。
俺はあの頃、勝手に彼から逃げ出したから。

だが、それから何度仕事で訪れても、彼がその事を持ち出して来る事は無い。ゆえに、俺は考えた。
過去にこだわって意識しているのは俺だけではないのか?だって現に彼は、今もってあの事に触れようとはしない。俺との事なんか、引く手数多の彼の中ではたくさんの過去の遊びの一つに過ぎない。そのたった一人が勝手に居なくなったくらい、特に気にもしていなかったに違いない。
でなきゃ、こんなに普通の態度で接してこないだろう。
そう思った途端、俺は恥ずかしくなった。完全な独り相撲、自意識過剰だ。。

(恥ずかしい…)

もう変に意識するのはやめよう。大体、俺だって忘れて過去にした筈の事だったじゃないかと思い出した。


そうして何度か営業に出向き、俺は一人で彼に会う事に徐々に慣れていった。彼は紳士的で穏やかで、仕事相手としてはやり易く、申し分の無い相手だった。
そもそも仕事とプライベートは別なのだから、やはり昔の事を気にしていた俺がおかしかったのだろう。

そうして暫く経った頃、全く想定外の事件が起こる。

残業をこなして帰路についた俺は、待ち伏せていた彼の尾行に気づかず、まんまと部屋に押し入られてしまったのだ。







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