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レイ (玲)
しおりを挟む週末金曜日でも、俺は何時もどおりの時間に帰宅する。長年同じ生活パターンだ。
でも、最近見合いを執拗く勧められるから最悪家を出て自活しなきゃならないかもしれない。
マオの姿も、気軽に見られなくなるかな。
…でも…マオにはその方が良いのか。
俺の事、嫌いだもんな。鬱陶しがってる。
赤ん坊の頃から、俺に懐いてくれた事、無いし…。
愛する相手に15年も冷たくされ続けて、流石の俺も心が折れかけている。
覚えててくれなくたって良かった。記憶の有る無しなんか重要じゃない。
俺に、笑いかけてくれさえ、すれば。無理に愛してなんて言わない。
多くは望んだりしないのに。
会社の最寄り駅から電車に乗る時間は約20分。通勤が徒歩込みで40分なら、まずまず近い方だから実家は立地としては悪くない。でもどうせなら、もう少し会社に近いマンションでも探そうか。
そんな事を考えながら、俯いてとぼとぼと歩いているリーマン姿の俺は、周りにどう見えてるんだろう。
情けない、うだつの上がらない男に見えてるんだろうな。
「マオ…」
その二文字を口にするだけでこんなにも愛しいのに、君の人生に俺はもう関わってはいけないんだろうか。胸の中が重苦しくなり、自然と溜息が零れた。
その時だ、思いがけない事が起きたのは。
「玲くん。」
澄んだ声に名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
声の主はマオだった。
こんな事初めてだ、とびっくりして目を見開く。驚愕と困惑。でもそれよりも嬉しさが勝って、早足で近づく。
だけど間近で見たマオの目は、赤く充血していた。カッ、と血が沸く。
何故泣いてるんだ。
物心ついてからのこの子が泣いてるのなんか無い。
何があったんだ。誰かに、何かされたのか。
「どうした?泣いたのか、何があった?」
思わず鞄を下に落として肩を掴んでしまい、すぐに我に返って手を離した。こんな力で揺さぶるとマオの肩に痕がついてしまうじゃないか。
だけどそうして離した俺の手を、今度はマオに掴まれた。
マオが俺に、触ってる…。
でも、それに感激するには、マオの表情はあまりにも思い詰めた風で、その唇は震えているようだった。
「…違う、違うんだ。
謝りたかった、ごめん。
ごめんね、
レイ」
「…え、」
「裏切られたって、ずっと思ってて、ごめん…ごめんなさい」
何時も、呼んでくれる時でさえ玲くんとしか呼ばなかったマオ。
マオと一緒にいた過去世、俺はレイと呼ばれていた。という事は、もしかして。
「…違ってたらごめん。
マオ、覚えてる、の?俺の事、わかってるんだよね?」
そう質問してみると、マオの表情がくしゃりと歪んだ。
「…ずっと、記憶はあった」
「…え、ずっと?」
「最初から、わかってたんだ。レイの事」
そうか。そうだったのか。やっぱりそうだったのか。
マオがほんの小さな頃に俺が感じた違和感は間違いじゃなかったらしい。
「…マオ、此処は冷える。詳しい事は俺の部屋で話そ。
今日は母さん、食事会でいないから」
と言ってから、ハッとする。
誰もいないからって何だ。警戒されないか、マオに。
慌てて表情を伺ったが、マオはあっさりと頷いた。
「うん、レイの部屋で良い」
杞憂だったみたいだ。
マオは俺の手を取り、歩き出した。俺は夢でも見ているんだろうか。
15年間、俺に塩対応だったマオが…俺の手を…。
手を繋いだまま、無言で家までの数分の道を歩いた。
マオの手の体温が幸せで、目が潤んだ。
愛おしい。
「俺、戦争から戻ったんだ」
寒かったからココアをいれて部屋に行った。コートを脱いで、暖房を入れた。
マオはソファに座ってクッションを抱いている。
そして俺は、今しがたのマオの言葉に動揺していた。
「…え?え、え?だって、戦死の…」
「そうらしいね。
でもそれ、手違いなんだ。
俺、それから1年しない頃に帰れたんだ」
戸惑う。
じゃあ、あの訃報は間違いだったのか。
マオは、生きていた。それで、帰って来てくれてた…?
なら、なんで。
訃報から1年後も2年後も、マオは戻っては来なかった。俺はマオの死を信じる事が出来ずに帰りを待ち続けた。けれど、タチの悪い病が流行り始めて…前の病気は治癒したものの、体力が戻り切っていなかった俺も、その餌食になった。
戦から帰れたと言うのなら、何故マオは俺の元に戻ってきてくれなかった?それとも、戻れない理由があったのか。
俺はマオの横に腰を下ろして、次の言葉を待つ。ココアのカップから上がる湯気を見つめながら、マオは話し始めた。
「実は、家の近く迄行ったら、レイと妹が…一緒にいてさ。
その時通った近所の人が、仲の良い夫婦だねって言いながら通り過ぎて行ったんだ。
子供迄いて…。俺、出征した早々から裏切られてたのかなって思っちゃって…」
「マオ、それは、」
「あ、うん、聞いた。
俺が死んだのなら、せめて妹と子供を守ってくれようとしたんだよな。
そんな事も知らないで、俺…ごめん」
マオはしょんぼりしながら俯いた。
マオは全然悪くないのに。
「わかってくれたなら、良いんだ。
マオの甥っ子がさ、マオの小さい頃にそっくりで。
せめて、マオの代わりに力になってあげたかったんだ。
だから結婚も、何て言うか、名義貸し的な気持ちだった」
「うん。そうだよね。レイなら、そうだよ。
なのに俺、信じられなくて。ちゃんと戻って、話を聞けば良かった…」
「そうだよ!!それ!!
せっかく戻って来てたのに、その後どうしたんだ?!
結局帰ってこないままで…。
何処で暮らしてた?」
今の話で、一番気になってたそこを聞くと、マオは言い辛そうに呟いた。
「…沼、に…」
「え?沼?」
「村外れの森の中に、底なし沼あったじゃん?
そこに行って、」
「…え?」
「…沈んだ」
「…はあっ?」
「ごめん」
え、沈んだ?沈んだって、つまり…。
「自殺…?したの?」
「…うん」
気不味そうに目を逸らして頷くマオ。
「つまり、俺のせいで…マオは失望して、1人で死にに行っちゃったのか…」
「レイのせいじゃないよ。
俺がちゃんと聞いてれば良かったんだ」
足を失い、俺に絶望し、寂しい森の中でひとりぼっちで冷たい沼に沈んでいったマオを思い、俺は堪らなくなった。
胸を掻き毟りたくなり、マオを抱き締めた。
「ごめん。生きてるって信じてあげられなかった、ごめん。
ひとりぼっちで死なせて、ごめん」
それは、どれだけ孤独な死だったことだろうか。
愛する人にそんな死に方をさせてしまった自分が許せなくて、俺は泣いた。
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