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26 木本 総 2
しおりを挟む外装とは打って変わって利一の病室は病室らしくない設えだ。
壁も床もウッド調、家具は北欧風。
一般的なイメージの特別室などではなく、ホテルのスウィートかと言われた方が近い。
木々と水辺の見える眺めの良いリビングに寝室、浴室。
それだけ見れば、自宅に居た時と遜色無い生活環境と言える。
但し、窓には無粋な格子がかかり、部屋からは一歩たりとも出られない。
たまに沼に飛んでくる鳥や日々の空模様だけが利一にとっての外界なのだ。
総が部屋の扉を開けると、窓辺に置かれたリクライニングチェアに、利一は寝ていた。
腹の上には薄い毛布。左腕はだらんと脇に落ちて、その下には暗緑色のハードカバーの本が落ちている。
総はゆっくりと近付き、その本を拾い上げて利一を見下ろした。
利一はこの10年ですっかり影が薄くなった。
あえかなさま、とでも言うのか。
美しくも健やかなしっかりした体躯であったのが、ほっそりと儚げになった。
顔も首も腕も体も。
そして髪は色が抜け落ち、瞳から生気は消えて、幽かな笑顔で総を不安にさせる。
あの日から家族はすっかり変わってしまった。
病弱だった母はあれから数年でこの世を去り、父はそれからめっきり家の中では口数が少なくなった。
奏はすっかり箍が外れたように、自分を甘やかしてくれる男達と遊んでいる。
しかし父も総も、奏を強く止められないのは、奏を不憫に思う気持ちと、一番懐いていた利一と引き離した罪悪感があるからだ。
兄弟のあんな場面を見れば、普通の家族なら引き離すのが当たり前だと思いながらも、 今の2人を見ていると何かとんでもない間違いを犯してしまったような、そんな気になるのだ。
総は学生時代からの年下の恋人と番を結び2年前に結婚した。
妻はΩで、昔から利一や奏の事もよく知っている。
その妻が、奏の様子を見ていて、思い出したように話してくれた事があった。
「私の中学からの友達がね、大学生の時に死んじゃったんだ。
番の彼を交通事故で亡くしてね。」
残された友人はやはり情緒不安定になり、しかし数ヶ月すると落ち着いたかのように見えた。
久しぶりに会った時には穏やかに微笑んでいたという。
だがそれから数週間後、その友人の訃報が届いた。
「何の病気とかじゃ無かったらしいの。遺体からは何も検出されなかったらしいし。
只、全ての臓器と細胞がゆっくりと生きるのをやめたのね。
多分、最後に会った時、彼女はわかっていたんだと思う。
急がなくても、もう直ぐちゃんと番の彼の元へ逝けるって。」
ーー緩やかな自死よ。ーー
「利一くんとカナちゃんは、番こそ結んでないけれど、既にそれに近い状態だったんじゃないかしら。
利一くん、運命の番だ、ってカナちゃんによく言ってたらしいの。それが本当なら…、」
そこ迄言って口ごもった妻が、何を言いたいのかは痛い程にわかった。
未だ幼かった奏が、利一の言葉をどう感じて受け止めていたのかはわからない。
でも利一は本気でそう思っていた。
αである利一が本当に奏に特別な何かを感じたというのならば、きっとそうなのだろう…。
全てを凌駕して結ばれるべき運命の相手と出会った瞬間というのは、どんなものなのだろうか。
此処に足を運ぶ度、利一に会う度、妻のその話が思い出されて、総は背筋が寒くなる。
一度合間見えた運命の番が、死別では無くとも長期間引き離されたら、一体2人はどうなるのだろうか。
総は弟達を愛している。勿論、兄として。
2人共、かけがえのない可愛い弟だ。
今のように自暴自棄な姿や不幸になっていくのを望んではいない。
出来れば幸せに生きて欲しい、只普通に、幸せに。
(…何故…何故、兄弟だなんて、こんな巡り合わせに…。)
神がいるとするのならば、総は神を呪いたい。
暫く見つめていると、利一は気配でも感じたのか、薄らと目を開けた。
「…来てたのなら、声かけてよ…。」
「今来た所だ。」
「天気、悪いのに…。」
「どうせ車だ。」
リビングルームからコーヒーを頼むと、5分程度で2人分が運ばれてきた。
ケトルでさえ、この部屋には置かれていない。
今の利一には自分の命さえ、自由にはならない。
「元気そうだ。」
「そう?兄さんも…相変わらずみたいで何より。」
あまりに穏やかな微笑みに涙が出そうになる。
番とも思う相手に逢えない辛さは、総にもわかるつもりだ。
長い睫毛を伏せながらカップを傾ける利一。
こんなにも聡明で美しい弟が、気が触れているなんて事、ある訳が無いのだ。
あんなにもはっきりと、利一は奏だけを望んだのだから。
滞在時間は毎回、きっかり2時間。
ずっと話す訳でもない。
静かに2人で景色を眺めている時間の方が長いだろう。
立ち上がると利一が数歩先の扉迄見送ってくれるのも毎度の事だ。
そして、帰り際、総は何時も同じ事を言って帰る。
「奏は元気だ。」
そして利一が頷くのを見て、扉を閉めるのだ。
本当は、今日言わなければならない事があった。
でも言えない。あんな利一には。
奏の婚約が決まった、なんて…。
苦い表情で総は白い廊下を歩いた。
利一が消えて、父は奏に言った。
「利一は留学に出した。
お前は未だ子供だ。忘れなさい。」
数年してまた言った。
「利一は向こうで知り合いの会社に就職させた。
日本には当分戻らないだろう。」
どうせ父に言っても埒があかないことを、いい加減学習していた奏は総に泣きながら抗議しに来た。
「ちぃ兄さんはお医者さんになるって言ってたじゃん。
ちぃ兄さんが諦める筈ない。
父さんの言ってる事はおかしいよ。
おお兄は何か知ってるんでしょう?」
可愛い顔を涙でぐしゃぐしゃにして、奏は泣いた。
「どうして?なんで?
俺、父さんとおお兄の言う事聞いてるでしょう。なんで何時までもちぃ兄を俺から取り上げるの…?」
「奏…。」
頭を殴られたような衝撃だった。
2人は今でも想いあっていたのだ。
奏が奔放に振る舞いながらも、父の言う事にも命じられた事にも逆らわないのは、そうしていれば何時かは利一が帰ってくるかもと、そう思っていたからなのだろうか。
「父さんもおお兄も、ひどいよ…。」
初めて見る、怨嗟の篭った瞳。
この子にこんな眼が出来るのかと思う程の…。
あの時から総は、奏の目が真っ直ぐには見られない。
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