メイクオフ後も愛してくれよ

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 依人と連絡がつかなくなってから、当然久賀だって何も行動しなかった訳ではなかった。
 日々の予定の合間を縫っては、必死で依人の姿を探し回った。取り返しのつかない事をしてしまったかもしれない。でも、謝りたい。

 パッタリと店に来なくなった依人と、上の空と焦りを交互に見せる久賀にマスターが勘づかない訳はなく、けれど何も言わなかった。久賀と依人の間に何かがあったのだとは察しても、一先ずは静観する事にしたようだった。


 捜索範囲を決める時、久賀は悩んだ。
 久賀のバイトするバーがある駅が、職場と家との間の経路上にあるらしい事は聞いた事があったけれど、肝心の職場と家の位置は知らなかったからだ。
 一度だけ、その内家に行ってみたいと言った事があったけれど、依人はあまり気がすすまない様子だった。

『ウチの近所辺鄙だし、駅からちょっと歩くから、あんまり…』

と言っていたけれど、付き合って間も無いから心の準備が出来ていないんだろうと思っていた。付き合ってみてわかった事だったが、依人は艶やかな見た目から想像していたイメージとは違い、恋愛遍歴が全く無かった。高校時代に一度失恋した事があって、それ以来恋愛に興味が無かったのだと依人は言った。けれどその失恋の経緯迄は聞かなかった。恋人の過去の想い人の話なんて、聞いて愉快な話ではないと思ったからだ。
 それにどういう事情であれ、依人が恋愛から遠ざかっていたからこそ、無駄に過去に嫉妬せずに済む。まっさらな依人の過去も未来も自分一色で染め上げてしまう楽しみがある。
 恋に夢中になっている人間ならではのお花畑思考で、久賀は楽観的に考えた。
 そしてその為の時間は、これから幾らでもあるのだと。だから油断していた。あまり自分の事を語らない依人に。
 付き合い始めても薄い壁を感じる依人に、執拗く聞いて嫌われるのが嫌だった。せっかく捕まえた綺麗な蝶に逃げられたくなかった。仲が深まれば自然と自分の事を話してくれて、テリトリーにも招き入れてくれる。そう思っていた。その為の時間を、今2人で紡いでいるのだと信じていたのに。
 こんな事になるなら、少しくらい鬱陶しがられても、会社や住所くらい聞いておくべきだった。せめて、何方もの最寄り駅くらいは。

 けれど、今更後悔しても遅い。

 手をこまねいていても仕方がないので、先ずはめぼしいオフィス街のある駅で順に降りてみた。しかし運は味方してくれず、多くの人々が行き交う中に依人を見つける事は出来なかった。ならばと、住んでいる場所の最寄り駅が少し辺鄙だと言っていた事にヒントを見い出して、バイトが休みの日の夕方に郊外のそれらしき駅で帰宅客を張ってみたものの、やはり依人は見つけられなかった。
 それは単に、実は依人が住んでいる駅が久賀が推定した駅よりもほんの3駅向こうだったという惜しさだったのだが、久賀は『まさか路線が違うのか?』と捜索範囲の見直しを行ってしまった。
 店は駅前繁華街の一角にあり、近隣には複数の鉄道会社の駅がある。その中から幸運にも最初に正解を引き当てていたのに、ここぞという所で残念な男、久賀。
 それでも諦め切れず、尚も孤独な捜索は続いた。

 あの夜、白磁のように滑らかな肌を朱に染めて、帰りたくないと言ってくれた依人に、久賀は天にも昇れそうな心地だった。 
 この先どんな事があってもこの愛しさが消える事なんか無いと、自分の愛を打ち付けて刻み込むように抱いた。
 翌朝、依人の顔を見て笑ってしまったのは、決して悪気があっての事ではなかった。最初こそ動揺はしたが、あまりの左右の目の落差が面白くて愛嬌すら感じて、始めに込み上げかけた怒りの感情が消し飛んだ。クールビューティーだと思っていた歳上の恋人は実は別の素顔を持っていて、それが丸っきり印象の違う素朴さで。
 重たげな一重瞼の、細い目。それを化粧一つで彼処まで変えてたなんて逆に凄い、と思ってしまった。
 だが、徐々に落ち着いて周りが見えるようになったら、依人は居なかった。
 その時初めて気がついたのだ。こうなる事がわかっていたから、依人はずっと自分に言えなかったのではないかと。
 久賀が依人を綺麗だ綺麗だとばかり褒めるから、言い出しにくくなったのだろうか。男性である依人が化粧迄して補っていたという事は、本人的にはコンプレックスだったに違いない。きっと悩んでいたんだろうに…。

 大切だと思ったのに、傷つけてしまった。誰が笑っても、自分だけは笑ってはいけなかったんだと、久賀は悔やんだ。

 そう悔やみ続けて2年が経ち、久賀も社会人になった。そして今度は、客としてバーに顔を出すようになった。




 退社後、近くの百貨店の中の手洗いに寄った依人は、個室の中で手鏡を覗き込んでいた。朝出来ていた小さな腫れ物に薬を塗って出社したが、様子は如何なものだろうか。

「…あ、大丈夫そう」

 赤みは殆ど引いていて目立たない。

「良かった」

 ホッとしたついでに化粧を直しておこうと考えて、鞄から出したポーチの中からクレンジングシートを取り出した。あまり使いたくはないが仕方ない。せっかく腫れの引いた額は避けて、シートを肌に押し当て、ファンデを浮かせるようにして落とす。決して擦って摩擦を起こすなかれ。
 それから一旦個室を出て、手洗い場で顔を濯ぐ。その為に比較的利用者が少ないであろう階の手洗いを選んだのだ。少しの間なら見られても見知らぬ人数人ならさほど問題無い。

 濯いだ後、背後の出入口を気にしながら化粧水をはたいたが、幸い誰も入ってはこなかった事に、やっぱり安心してしまう。
 肌は整えた。後は個室に戻ってBBクリームを薄く伸ばして眉を描いてアイラインを引く、と作業の流れを頭に描きながら個室に向かって歩いた。荒れもアラも無く、肌を厚くカバーする必要の無い依人には、パウダーを使う習慣は無い。粉っぽさと香料の匂いが服に残るのが嫌いだからだ。
 それが短時間でのメイクを可能にしているとも言える。
 ほんの数分の事だし、一瞬このまま手洗い場でやってしまおうかとも思ったが、やめておく。
 幾ら利用者が少ないとはいえ、入った手洗いでいきなり化粧をしている男を見たら、目撃者の方が驚いてしまいそうだ。まさかと思っている事が、まさかのタイミングで起こるのが人生なんだと、依人は身を以て知っている。

 10分後。完璧なラインが引けた、と満足しながら個室を出て手を洗っていると、鏡越しに背後を横切る、スーツの人影が見えた。若い男性客のようだ。真っ直ぐに左側の、ストール型便器の並んでいる場所へ向かっていく。

(利用客か…)

 セーフだったな、と思う。こういう時には何時もあの日の事を思い出してしまうな、と思いながら依人はハンカチで手を拭いた。
 化粧の過程は個室内でしているのだから、別に見られてしまう危険は無いけれど、自分の部屋ではない場所だとやはり身構えてしまうのだ。
 鞄にハンカチを仕舞いながら腕時計を確認すると、彼氏の麻宮との待ち合わせ迄あと20分程になっていた。
 場所はここから5分も歩かない場所だ。十分間に合う。依人は首筋に小さなミストタイプのスプレーを振った。涼やかな柑橘系の香りが辺りに広がる。香水のように重くならないので、依人は大学生の頃から専らこの香りを愛用していた。



「……より?」

 記憶を呼び起こす、懐かしいような声が響いた。
 自分をそんな風に呼ぶ人間を、依人はたった一人しか知らない。
 革靴が床を踏む硬質な足音が近づいてくる前に、鞄を抱えて反射的に駆け出した。

「より!!待って、より!!」

 振り向いて確認する余裕なんかなかった。エスカレーターのある売り場方面には向かわず、手洗いを出て直ぐの大きな階段を全速力で降りる。
 あれは久賀だ。絶対にそうだ。顔を合わせたらまた…。

 忙しなく階段を駆け降りる、2人分の足音。すれ違った通りすがりの百貨店の客が驚いて振り向いている気配がした。けれど、そんな事には構っていられなかった。

 依人は久賀が怖い。

 それなのに。

「より、頼む!待ってくれ!!依人!!!」


足音は徐々に近づいてくる。








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