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第8章 「対峙する闇」
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昨日の朝、秋浜はここで……。
僕は、登下校の際に何度も行き来してきた忍足地蔵のそばで、自転車を停めて草むらに入ってきていた。規制線はすでに解かれていたので、警察も発見現場を粗方調べ終えたのだろう。僕は、秋浜と最後に交わした言葉を思い出していた。
(……ん?うん、平気だよ)
(有沢くんは、付き合ってる人いるの?)
(私は……どうなんだろう。自分でも、よくわからないや)
(有沢くん……私ね)
(……ううん、やっぱりなんでもない。ごめんね)
(そうだね。また学校で)
(有沢くん!)
(また、明日ね)
秋浜が言いかけた言葉を、無理にでも聞いてあげていれば……そうすればもしかしたら彼女は、死なずに済んだかもしれないんだ。
「ごめんよ、秋浜」
僕はそう呟くと、さっき圭介にやったように、目を閉じて手を合わせ、深々と頭を下げて秋浜の死を悼んだ。忍足地蔵が、その様子を黙って見つめている。
「俺には無しか、って顔だな」
僕は半ばヤケクソになったような気持ちで立ち上がり、忍足地蔵にも同じようにお祈りをした。困った時の神頼みとは、この事を言うのだろうか。
「あはは。有沢らしい」
見ると、先っぽにぼんぼりをつけた灰色のニット帽を被った来栖川が、折りたたみ式のオシャレな自転車に跨っていた。
「来栖川、なんで?迎えに行くって言ったのに」
僕は、呆れたように言った。来栖川は白のオーバーサイズのパーカーに、黒のパンツスエット姿で、首には薄手の黄色いマフラーを巻いている。私服の彼女を見るのは、もちろん初めてのことだった。
「ちょうど家を抜け出しやすいタイミングだったから」秋浜は自転車のスタンドを下ろしてから、人懐っこい笑顔を見せた。「もちろん、十分気をつけたわよ。有沢、ここを通るだろうから、ちょうど忍足地蔵まで来るつもりだったの」
確かに、ここのところの状況の最中に夜分家を出るなんて、家族が絶対に許すはずがない。うまく外へ行けそうな時に、出ておくのが無難だ。
「私も、拝んどくね」
来栖川は赤くなった鼻をすすりながらそう言うと、ポケットからキャンディーを出して、忍足地蔵の足元に供えた。
「お地蔵さんが、キャンディーなんて食べるかよ」
僕は思わず笑ってしまった。
「あら。気が効くね~って、思ってるかもしれないわよ」
口の中のキャンディーを転がしながらそう言うと、来栖川も忍足地蔵にお祈りを始めた。その様子を見ながら、僕がどうなったとしても、彼女だけは助けてあげてくださいよ、お地蔵さん。と、心の中で言った。
「……さ、行こうか。ねぇ、有沢もほしい?イチゴと、ブドウと、レモンがあるよ」
祈り終えると、手のひらにカラフルなフルーツキャンディを広げて、来栖川が言う。
「じゃあ、ぶどうにしようかな。ぶどう農家だから」
「ぷっ!……何それ、そうだったんだ」
来栖川は吹き出しながら、ぶどうのキャンディーを渡してくれた。僕は、その時第一の被害者である芦間さんが、自分の家が管理するぶどう畑のそばで見つかったことを思い出したが、あえて口にすることはしなかった。
「ブドウ、おいしいよね」
再び自転車にまたがりながらそう言った来栖川を見て、僕は、緊張感で張り詰めていた胸の奥が、少しだけ柔らかくなるのを感じていた。
街灯もない忍足中学校への坂道は思いの外真っ暗で、昼間に通る様子とはまるで違っていた。ガードレール脇から、いつ殺人犯が飛び出してくるかわからない。僕は、そんな風に想像をしながら、辺りを警戒しつつ歩を進めた。
「ねぇ。ここにさ」
しばらく黙っていた来栖川が口を開く。
「名取がいて、秋浜さんがいて。新木も、里見さんもいてさ。夜の忍足中学校を探検しよう、って話になって、みんなで話しながら向かってたとしたらさ。……楽しかったろうね」
僕はそう言われて、彼女が言う光景を眼前に思い描いた。
(祐樹、早く来いよ)
(有沢くんには、有沢くんのペースがあるから)
圭介の言葉に、秋浜が返す。
(早くしないと、帰るのも遅くなるぜ)
(せっかくだから、のんびりでいいじゃない)
憲ちゃんの言葉に、凛が返す。
本当にそうだったら。本当にそうだったら、どんなによかっただろう。
つい最近までなら、それはもしもの話で終わるものでもなかっただろう。卒業を前にして、クラスの雰囲気、学年全体の雰囲気はとても良かった。男子と女子の隔たりのようなものも、確実に薄れつつあったんだ。高校へ行くようになれば、みんなバラバラになる。単に入学してから年月が経っていたから、学年に2クラスしかなかったから、というよりは、みんなが離れ離れになることがわかっていたから、同級生に一体感が生まれかけていたように思う。みんなで卒業しよう。誰もが、そう考えていたはずだった。しかし、その願いにも似た想いは、残虐な犯人によって、あまりにも乱暴に打ち砕かれてしまったのだ。
「着いたよ」
校門の前に自転車を停めて、来栖川が言った。
その時、僕らの体とともに断固たる意思までも吹き飛ばさんと、強い風がいきなり吹き抜けた。
「なんて……風!」
来栖川が、慌ててニット帽を手で押さえる。バサバサと道の両脇の木々が揺れ、舞い散る枯れ葉が乱舞していた。静まり返った夜の校舎に、唸るような風の音だけが響いている。
「……行こう」
風が止むのを待たずして、僕は意を決してそびえる校門をよじ登った。
耳を澄ませていつでも異変に気づけるよう準備しながら、耳鳴りがするほどに静寂を保った校庭と校舎の間を、慎重に歩く。敷地内は真の闇に支配されており、月明かりでかろうじて数メートル先がわかる、といった程度の視界の狭さが、僕の恐怖心をさらに煽っていた。たった数十メートルほどしかないはずのその距離が、何百メートルも続く長い道のりのように感じられる。
来栖川と距離が離れないように気をつけながら、一歩、また一歩と、歩みを深めていった。
ガタガタッ!
その時、突然下駄箱の方から物音がした。
「きゃあ!」
瞬間的に反応して、来栖川が叫ぶ。
「しっ!」
彼女に見えているかどうかわからないが、僕は慌てて唇の前に人差し指を持ってきて言った。物音よりも、来栖川の声で心臓が止まりそうになってしまった。
黙ったまま様子を伺うが……再び物音は、立ちそうにない。
「猫か、イタチか。そのたぐいだろう」
僕は気休めにもならない当てずっぽうを言ったが、意外にも来栖川は納得して答えた。
「そうね。きっとそう」
せっかく覚悟を決めてここまで来たのに、物音ひとつで水を差されてしまっているようでは、たまったもんじゃない。気を取り直すのにしばらく時間がかかってしまったが、僕らはまた二人して歩き出した。
そして、ようやく校庭の隣の大きな体育館が目に入ってきた。体育館を右手に見ながら左へ進めば、旧校舎の端に着く。その向こう側が、美術室のある新校舎だ。新校舎が外から直接各教室に入れる造りになっていなければ、真夜中のこの行軍も実現しなかっただろう。漆黒に包まれた校内だったが、少しだけ目が慣れてきているのがわかった。
いよいよ、旧校舎の端に着く。美術室はもう目の前だ。
「やっと着いたね」
来栖川の言葉に、僕は頷いた。忍足中学校がこんなに広かったのかと感じるほどに、校門を乗り越えてからここまで、予想以上に時間がかかった。僕は、技術室と家庭科室の間にある美術室に近づきながら、ウインドブレーカーのポケットからオレンジ色のタグが付いた鍵を取り出した。
……ガチャリ。
驚くほど、あっさりと鍵が開く。窓ガラスが風でガタガタと揺れていた。ほのかな、絵の具の匂い。僕らはついに、美術室への侵入に成功した。
誰もいない夜の美術室内は、校庭のそばを通っていた時よりもはるかに不気味だった。普段は気にならなかったけど、歩くたびに木製の床がひどく軋む。今の旧校舎が新校舎だった当時の旧校舎から建て替えられ、もう20年以上は経っているらしいから、無理も無かった。
そして、ついに僕らは美術準備室の前にやってきた。
「……本当だ、3桁だね。これならなんとかなるかも」
簡易鍵に掛けられた南京錠を見て、来栖川が言った。
「ああ。時間はかかるかもしれないけど……4桁じゃなくて本当に良かったよ」
僕はそう答えると、早速南京錠に手をかけた。
278……ダメだ。
279……これもダメ。
どれくらい時間が経っただろう。まだ数字は半分も行ってなかったが、さすがに僕も疲れてきた。数字を変えるたび、ガチャガチャと南京錠が開くか試す。開け損じがあっては意味が無いので、この作業は念入りに行わなければいけない。当然、その分時間がかかるのだ。
「有沢、代わろうか?」
来栖川が気を使ってそう言ってくれる。
「大丈夫さ、このくらい。ありがとう」
僕はそう答えながら、自分の手で鍵を開けるべく、気の遠くなりそうな作業を続けた。
303……開かない。
304……また、ダメだ。
305……うん?
僕は、明らかに今までと違う手応えを感じた。ゴクリと、生唾を飲み込む。慎重に、確実に、南京錠を引く。……開いた!飛び上がりそうになるのを我慢し、来栖川に声をかける。
「くるすが……」
「有沢!!」
お互い小声ではあったが、こちらが言い終わるより早く、来栖川がただならぬ様子で僕の名前を呼んだ。
「……?」
来栖川は、暗闇の中でもはっきりとわかりほど動揺に体を震わせ、美術室の出入り口を見ていた。
「どうしたの?」
恐る恐る聞く。
「い、いま……。扉の隙間から、だ、誰かが、見てた……」
来栖川の言葉に、背筋が凍りつく。
「なんだって?」
僕も、思わず出入り口に目をやる。暗くてよくわからないが……誰もいないように見える。
「見間違いじゃないか?」
先ほどよりもさらに息をひそめながら、僕は聞いた。
「違うわ!……確かに、さっき目が合ったもの。すぐに、見えなくなったけど」
なぜ、こんな時間に?一体、誰が?
僕は恐怖で固まり、全く身動きが取れなくなった。
「……私、見てくる」
来栖川が、とんでもない事を言い出す。
「何言ってるんだ、来栖川。危険すぎる!」
「でも、間違いなくそこに誰かいたわ。調べないと……」
「わかった、わかったよ。僕が行くから」
来栖川の勘違いだと思いたい気持ちが勝っていたが、どちらにしろ確かめないわけにはいかない。
「有沢、大丈夫なの?」
彼女が心配そうに聞く。
「ああ。来栖川はここで待っててくれ」
「わかった……。気をつけて」
僕はコクリとうなずくと、出入り口に向かって歩き出した。
ミシ……ミシ……。
床の軋む音が、こちらを覗いていた何者かに聞かれるのではないかと、恐ろしくなる。徐々に、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。
出入り口まで来る。扉の隙間から顔を出し、辺りを見渡したが、人の気配は無かった。いや、相手は闇に溶け込んで、こちらの様子を窺っているのかもしれない。高まる心拍数を抑え込もうと深く呼吸しながら、僕はゆっくりと美術室を出た。
もし、本当に誰かがこちらを見ていたのだとしたら……なぜ、姿を現さないのか。僕は自分が思っている以上に、核心に近づいているのでは、と思った。きっと、僕が何かを掴みかけている事を察知して、犯人がやってきたに違いない。3人もの人を殺した犯人が、すぐ近くにいるかもしれない……。それは、今まで感じた事がないほど凄まじい恐怖感だった。激しく脈打つ心臓が、痛い。
ゆっくりと、旧校舎に差し掛かる。いつ、犯人が飛びかかってくるかわからない。全神経を集中させ、壁を背にしながら進む。はぁ、はぁ、という僕の息切れの声が、犯人に聞こえてしまうのではないかと心配しながら、常に周囲に気を配る。
ブルルルルル。
ブルルルルル。
ズボンのポケットの中でスマホが震えたが、今は見る余裕が無かった。
間も無くして、体育館前までたどり着く。相変わらず、人の気配は無い。やっぱり、来栖川の勘違いだったんだ。そう、ほっとしかけた瞬間だった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
静寂を破る恐怖に満ちた絶叫が、美術室から聞こえてくる。
「来栖川……!?」
僕は、自分の顔が一気に青ざめていくのがわかった。犯人が、僕と入れ違いで美術室に入って行ったに違いない!きっと気配を消しながら、僕をやりすごしたんだ。
僕は、考えるよりも先に走り出した。彼女に何か合ったら……。不安と恐ろしさで体が動かなくなってしまう前に、矢のように駆け抜ける。
来栖川、無事でいてくれ!
大きく息を息を切らし、僕はあっという間に美術室に舞い戻った。見渡す教室内には、誰もいない。ふと、美術準備室の扉に目をやる。
……開いている!
南京錠を開きはしたが、僕は扉をまだ開けていなかったのだ。そこに、犯人と来栖川が?僕はもう床の軋みを気にせず、もはや開き直って準備室に向かった。呼吸が、苦しい。再び準備室前にたどり着く。中を覗いてみるが、暗くて、ほとんど何も見えない。僕が意を決して準備室の中に入った、その時。
僕の体よりもはるかに大きくて黒い塊が、ドーン!と僕の右半身に、かつてない勢いでぶつかってくる。
「ううっ!」
僕はあっけなく吹き飛ばされ、彫刻や額縁が入った山積みの段ボール箱にぶつかった。
ガラガラ、ドドン!
大きな音を立てて、それらが僕の体に容赦なく崩れ落ち、全身が激しい痛みに襲われる。
「ぐあっ!」
僕は、思わず声を上げた。
「有沢!」
……来栖川、無事だったのか。
「ごめんなさい、私、美術準備室に連れ込まれて……。声を出したら、こ、殺すって……」
謝る来栖川の隣で、低く、太い、聞き慣れぬ声がした。
「……スマホを出せ。こいつの腕を折られたくなかったらな」
……犯人の声だった。犯人が、そこに立っている!だけど、何もできない。……くそ!何てことだ!
僕は、重たい段ボールの下敷きになりながらなんとか体を動かすと、スマホをズボンのポケットから取り出し、床に滑らせた。暗闇の中で来栖川を片手で羽交締めながら、犯人が僕のスマホを拾い上げたかと思った矢先、今度は乱暴に来栖川を突き飛ばした。
「キャッ!」
彼女が地面に転ぶ。犯人はそのまま外に出て準備室のドアを閉め、ガチャガチャと音を立て始めた。……南京錠で鍵を掛けているようだ。
「お前たちをどうするか、じっくり考えてからまた来てやる。……生きて帰れると思うなよ」
すでに芦間さん、秋浜、圭介達を殺している犯人。その言葉には、脅しなんかではない凄みがあった。……殺される。このままじゃ、二人とも殺されてしまう!
「私も、スマホ取られちゃったの……。有沢、どうしよう」
恐怖に震えた声で、来栖川が言う。
その時、倒れたまま顔を上げた僕の視界に、あるものが飛び込んできた。準備室の出入り口の対角にある、片付いた低い棚。そこに、黒い物体がポツンと置かれていたのだ。
……圭介のスマホだ!やはり、ここにあったんだ。圭介はやっぱり、美術準備室へ来る前に、秋浜に会ったんだ。学校の中で、二人は会った?なぜ、秋浜は学校にいたんだ?犯行現場は、学校?
ミシ……ミシ……。
美術室の床が軋む音が聞こえる。犯人が、教室から立ち去ろうとしているのだ。
ちょうどその時、僕の体中に激しい電流が走った。痛みなんかではない。バラバラだったパズルのピースが、一気にピタリとはまったような。感覚としては、それに近いものだった。
(千雪ちゃんは、同級生に興味ないもんねー)
(先生、右手どうしたの?)
(ある漁村にやってきた若者がいてさ。村人からも好かれるようになったんだよ。だけどそいつ、夜な夜な村人を殺してたって話)
(有沢くんは、付き合ってる人いるの?私は……どうなんだろう。自分でもよくわからなくて)
(10年ちょい前か。その日、月島先輩は仲の良かった同級生に告白されたらしんだ。だけどな、その後の昼休みのことなんだ。先輩が、屋上から飛び降り自殺したのは)
遠ざかる犯人に向かって、僕は大声で叫んだ。
「林先生!」
来栖川が、キョトンとした顔で僕の方を見た。
「……え?林、先生ですって?」
第8章 「対峙する闇」
ー了ー
僕は、登下校の際に何度も行き来してきた忍足地蔵のそばで、自転車を停めて草むらに入ってきていた。規制線はすでに解かれていたので、警察も発見現場を粗方調べ終えたのだろう。僕は、秋浜と最後に交わした言葉を思い出していた。
(……ん?うん、平気だよ)
(有沢くんは、付き合ってる人いるの?)
(私は……どうなんだろう。自分でも、よくわからないや)
(有沢くん……私ね)
(……ううん、やっぱりなんでもない。ごめんね)
(そうだね。また学校で)
(有沢くん!)
(また、明日ね)
秋浜が言いかけた言葉を、無理にでも聞いてあげていれば……そうすればもしかしたら彼女は、死なずに済んだかもしれないんだ。
「ごめんよ、秋浜」
僕はそう呟くと、さっき圭介にやったように、目を閉じて手を合わせ、深々と頭を下げて秋浜の死を悼んだ。忍足地蔵が、その様子を黙って見つめている。
「俺には無しか、って顔だな」
僕は半ばヤケクソになったような気持ちで立ち上がり、忍足地蔵にも同じようにお祈りをした。困った時の神頼みとは、この事を言うのだろうか。
「あはは。有沢らしい」
見ると、先っぽにぼんぼりをつけた灰色のニット帽を被った来栖川が、折りたたみ式のオシャレな自転車に跨っていた。
「来栖川、なんで?迎えに行くって言ったのに」
僕は、呆れたように言った。来栖川は白のオーバーサイズのパーカーに、黒のパンツスエット姿で、首には薄手の黄色いマフラーを巻いている。私服の彼女を見るのは、もちろん初めてのことだった。
「ちょうど家を抜け出しやすいタイミングだったから」秋浜は自転車のスタンドを下ろしてから、人懐っこい笑顔を見せた。「もちろん、十分気をつけたわよ。有沢、ここを通るだろうから、ちょうど忍足地蔵まで来るつもりだったの」
確かに、ここのところの状況の最中に夜分家を出るなんて、家族が絶対に許すはずがない。うまく外へ行けそうな時に、出ておくのが無難だ。
「私も、拝んどくね」
来栖川は赤くなった鼻をすすりながらそう言うと、ポケットからキャンディーを出して、忍足地蔵の足元に供えた。
「お地蔵さんが、キャンディーなんて食べるかよ」
僕は思わず笑ってしまった。
「あら。気が効くね~って、思ってるかもしれないわよ」
口の中のキャンディーを転がしながらそう言うと、来栖川も忍足地蔵にお祈りを始めた。その様子を見ながら、僕がどうなったとしても、彼女だけは助けてあげてくださいよ、お地蔵さん。と、心の中で言った。
「……さ、行こうか。ねぇ、有沢もほしい?イチゴと、ブドウと、レモンがあるよ」
祈り終えると、手のひらにカラフルなフルーツキャンディを広げて、来栖川が言う。
「じゃあ、ぶどうにしようかな。ぶどう農家だから」
「ぷっ!……何それ、そうだったんだ」
来栖川は吹き出しながら、ぶどうのキャンディーを渡してくれた。僕は、その時第一の被害者である芦間さんが、自分の家が管理するぶどう畑のそばで見つかったことを思い出したが、あえて口にすることはしなかった。
「ブドウ、おいしいよね」
再び自転車にまたがりながらそう言った来栖川を見て、僕は、緊張感で張り詰めていた胸の奥が、少しだけ柔らかくなるのを感じていた。
街灯もない忍足中学校への坂道は思いの外真っ暗で、昼間に通る様子とはまるで違っていた。ガードレール脇から、いつ殺人犯が飛び出してくるかわからない。僕は、そんな風に想像をしながら、辺りを警戒しつつ歩を進めた。
「ねぇ。ここにさ」
しばらく黙っていた来栖川が口を開く。
「名取がいて、秋浜さんがいて。新木も、里見さんもいてさ。夜の忍足中学校を探検しよう、って話になって、みんなで話しながら向かってたとしたらさ。……楽しかったろうね」
僕はそう言われて、彼女が言う光景を眼前に思い描いた。
(祐樹、早く来いよ)
(有沢くんには、有沢くんのペースがあるから)
圭介の言葉に、秋浜が返す。
(早くしないと、帰るのも遅くなるぜ)
(せっかくだから、のんびりでいいじゃない)
憲ちゃんの言葉に、凛が返す。
本当にそうだったら。本当にそうだったら、どんなによかっただろう。
つい最近までなら、それはもしもの話で終わるものでもなかっただろう。卒業を前にして、クラスの雰囲気、学年全体の雰囲気はとても良かった。男子と女子の隔たりのようなものも、確実に薄れつつあったんだ。高校へ行くようになれば、みんなバラバラになる。単に入学してから年月が経っていたから、学年に2クラスしかなかったから、というよりは、みんなが離れ離れになることがわかっていたから、同級生に一体感が生まれかけていたように思う。みんなで卒業しよう。誰もが、そう考えていたはずだった。しかし、その願いにも似た想いは、残虐な犯人によって、あまりにも乱暴に打ち砕かれてしまったのだ。
「着いたよ」
校門の前に自転車を停めて、来栖川が言った。
その時、僕らの体とともに断固たる意思までも吹き飛ばさんと、強い風がいきなり吹き抜けた。
「なんて……風!」
来栖川が、慌ててニット帽を手で押さえる。バサバサと道の両脇の木々が揺れ、舞い散る枯れ葉が乱舞していた。静まり返った夜の校舎に、唸るような風の音だけが響いている。
「……行こう」
風が止むのを待たずして、僕は意を決してそびえる校門をよじ登った。
耳を澄ませていつでも異変に気づけるよう準備しながら、耳鳴りがするほどに静寂を保った校庭と校舎の間を、慎重に歩く。敷地内は真の闇に支配されており、月明かりでかろうじて数メートル先がわかる、といった程度の視界の狭さが、僕の恐怖心をさらに煽っていた。たった数十メートルほどしかないはずのその距離が、何百メートルも続く長い道のりのように感じられる。
来栖川と距離が離れないように気をつけながら、一歩、また一歩と、歩みを深めていった。
ガタガタッ!
その時、突然下駄箱の方から物音がした。
「きゃあ!」
瞬間的に反応して、来栖川が叫ぶ。
「しっ!」
彼女に見えているかどうかわからないが、僕は慌てて唇の前に人差し指を持ってきて言った。物音よりも、来栖川の声で心臓が止まりそうになってしまった。
黙ったまま様子を伺うが……再び物音は、立ちそうにない。
「猫か、イタチか。そのたぐいだろう」
僕は気休めにもならない当てずっぽうを言ったが、意外にも来栖川は納得して答えた。
「そうね。きっとそう」
せっかく覚悟を決めてここまで来たのに、物音ひとつで水を差されてしまっているようでは、たまったもんじゃない。気を取り直すのにしばらく時間がかかってしまったが、僕らはまた二人して歩き出した。
そして、ようやく校庭の隣の大きな体育館が目に入ってきた。体育館を右手に見ながら左へ進めば、旧校舎の端に着く。その向こう側が、美術室のある新校舎だ。新校舎が外から直接各教室に入れる造りになっていなければ、真夜中のこの行軍も実現しなかっただろう。漆黒に包まれた校内だったが、少しだけ目が慣れてきているのがわかった。
いよいよ、旧校舎の端に着く。美術室はもう目の前だ。
「やっと着いたね」
来栖川の言葉に、僕は頷いた。忍足中学校がこんなに広かったのかと感じるほどに、校門を乗り越えてからここまで、予想以上に時間がかかった。僕は、技術室と家庭科室の間にある美術室に近づきながら、ウインドブレーカーのポケットからオレンジ色のタグが付いた鍵を取り出した。
……ガチャリ。
驚くほど、あっさりと鍵が開く。窓ガラスが風でガタガタと揺れていた。ほのかな、絵の具の匂い。僕らはついに、美術室への侵入に成功した。
誰もいない夜の美術室内は、校庭のそばを通っていた時よりもはるかに不気味だった。普段は気にならなかったけど、歩くたびに木製の床がひどく軋む。今の旧校舎が新校舎だった当時の旧校舎から建て替えられ、もう20年以上は経っているらしいから、無理も無かった。
そして、ついに僕らは美術準備室の前にやってきた。
「……本当だ、3桁だね。これならなんとかなるかも」
簡易鍵に掛けられた南京錠を見て、来栖川が言った。
「ああ。時間はかかるかもしれないけど……4桁じゃなくて本当に良かったよ」
僕はそう答えると、早速南京錠に手をかけた。
278……ダメだ。
279……これもダメ。
どれくらい時間が経っただろう。まだ数字は半分も行ってなかったが、さすがに僕も疲れてきた。数字を変えるたび、ガチャガチャと南京錠が開くか試す。開け損じがあっては意味が無いので、この作業は念入りに行わなければいけない。当然、その分時間がかかるのだ。
「有沢、代わろうか?」
来栖川が気を使ってそう言ってくれる。
「大丈夫さ、このくらい。ありがとう」
僕はそう答えながら、自分の手で鍵を開けるべく、気の遠くなりそうな作業を続けた。
303……開かない。
304……また、ダメだ。
305……うん?
僕は、明らかに今までと違う手応えを感じた。ゴクリと、生唾を飲み込む。慎重に、確実に、南京錠を引く。……開いた!飛び上がりそうになるのを我慢し、来栖川に声をかける。
「くるすが……」
「有沢!!」
お互い小声ではあったが、こちらが言い終わるより早く、来栖川がただならぬ様子で僕の名前を呼んだ。
「……?」
来栖川は、暗闇の中でもはっきりとわかりほど動揺に体を震わせ、美術室の出入り口を見ていた。
「どうしたの?」
恐る恐る聞く。
「い、いま……。扉の隙間から、だ、誰かが、見てた……」
来栖川の言葉に、背筋が凍りつく。
「なんだって?」
僕も、思わず出入り口に目をやる。暗くてよくわからないが……誰もいないように見える。
「見間違いじゃないか?」
先ほどよりもさらに息をひそめながら、僕は聞いた。
「違うわ!……確かに、さっき目が合ったもの。すぐに、見えなくなったけど」
なぜ、こんな時間に?一体、誰が?
僕は恐怖で固まり、全く身動きが取れなくなった。
「……私、見てくる」
来栖川が、とんでもない事を言い出す。
「何言ってるんだ、来栖川。危険すぎる!」
「でも、間違いなくそこに誰かいたわ。調べないと……」
「わかった、わかったよ。僕が行くから」
来栖川の勘違いだと思いたい気持ちが勝っていたが、どちらにしろ確かめないわけにはいかない。
「有沢、大丈夫なの?」
彼女が心配そうに聞く。
「ああ。来栖川はここで待っててくれ」
「わかった……。気をつけて」
僕はコクリとうなずくと、出入り口に向かって歩き出した。
ミシ……ミシ……。
床の軋む音が、こちらを覗いていた何者かに聞かれるのではないかと、恐ろしくなる。徐々に、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。
出入り口まで来る。扉の隙間から顔を出し、辺りを見渡したが、人の気配は無かった。いや、相手は闇に溶け込んで、こちらの様子を窺っているのかもしれない。高まる心拍数を抑え込もうと深く呼吸しながら、僕はゆっくりと美術室を出た。
もし、本当に誰かがこちらを見ていたのだとしたら……なぜ、姿を現さないのか。僕は自分が思っている以上に、核心に近づいているのでは、と思った。きっと、僕が何かを掴みかけている事を察知して、犯人がやってきたに違いない。3人もの人を殺した犯人が、すぐ近くにいるかもしれない……。それは、今まで感じた事がないほど凄まじい恐怖感だった。激しく脈打つ心臓が、痛い。
ゆっくりと、旧校舎に差し掛かる。いつ、犯人が飛びかかってくるかわからない。全神経を集中させ、壁を背にしながら進む。はぁ、はぁ、という僕の息切れの声が、犯人に聞こえてしまうのではないかと心配しながら、常に周囲に気を配る。
ブルルルルル。
ブルルルルル。
ズボンのポケットの中でスマホが震えたが、今は見る余裕が無かった。
間も無くして、体育館前までたどり着く。相変わらず、人の気配は無い。やっぱり、来栖川の勘違いだったんだ。そう、ほっとしかけた瞬間だった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
静寂を破る恐怖に満ちた絶叫が、美術室から聞こえてくる。
「来栖川……!?」
僕は、自分の顔が一気に青ざめていくのがわかった。犯人が、僕と入れ違いで美術室に入って行ったに違いない!きっと気配を消しながら、僕をやりすごしたんだ。
僕は、考えるよりも先に走り出した。彼女に何か合ったら……。不安と恐ろしさで体が動かなくなってしまう前に、矢のように駆け抜ける。
来栖川、無事でいてくれ!
大きく息を息を切らし、僕はあっという間に美術室に舞い戻った。見渡す教室内には、誰もいない。ふと、美術準備室の扉に目をやる。
……開いている!
南京錠を開きはしたが、僕は扉をまだ開けていなかったのだ。そこに、犯人と来栖川が?僕はもう床の軋みを気にせず、もはや開き直って準備室に向かった。呼吸が、苦しい。再び準備室前にたどり着く。中を覗いてみるが、暗くて、ほとんど何も見えない。僕が意を決して準備室の中に入った、その時。
僕の体よりもはるかに大きくて黒い塊が、ドーン!と僕の右半身に、かつてない勢いでぶつかってくる。
「ううっ!」
僕はあっけなく吹き飛ばされ、彫刻や額縁が入った山積みの段ボール箱にぶつかった。
ガラガラ、ドドン!
大きな音を立てて、それらが僕の体に容赦なく崩れ落ち、全身が激しい痛みに襲われる。
「ぐあっ!」
僕は、思わず声を上げた。
「有沢!」
……来栖川、無事だったのか。
「ごめんなさい、私、美術準備室に連れ込まれて……。声を出したら、こ、殺すって……」
謝る来栖川の隣で、低く、太い、聞き慣れぬ声がした。
「……スマホを出せ。こいつの腕を折られたくなかったらな」
……犯人の声だった。犯人が、そこに立っている!だけど、何もできない。……くそ!何てことだ!
僕は、重たい段ボールの下敷きになりながらなんとか体を動かすと、スマホをズボンのポケットから取り出し、床に滑らせた。暗闇の中で来栖川を片手で羽交締めながら、犯人が僕のスマホを拾い上げたかと思った矢先、今度は乱暴に来栖川を突き飛ばした。
「キャッ!」
彼女が地面に転ぶ。犯人はそのまま外に出て準備室のドアを閉め、ガチャガチャと音を立て始めた。……南京錠で鍵を掛けているようだ。
「お前たちをどうするか、じっくり考えてからまた来てやる。……生きて帰れると思うなよ」
すでに芦間さん、秋浜、圭介達を殺している犯人。その言葉には、脅しなんかではない凄みがあった。……殺される。このままじゃ、二人とも殺されてしまう!
「私も、スマホ取られちゃったの……。有沢、どうしよう」
恐怖に震えた声で、来栖川が言う。
その時、倒れたまま顔を上げた僕の視界に、あるものが飛び込んできた。準備室の出入り口の対角にある、片付いた低い棚。そこに、黒い物体がポツンと置かれていたのだ。
……圭介のスマホだ!やはり、ここにあったんだ。圭介はやっぱり、美術準備室へ来る前に、秋浜に会ったんだ。学校の中で、二人は会った?なぜ、秋浜は学校にいたんだ?犯行現場は、学校?
ミシ……ミシ……。
美術室の床が軋む音が聞こえる。犯人が、教室から立ち去ろうとしているのだ。
ちょうどその時、僕の体中に激しい電流が走った。痛みなんかではない。バラバラだったパズルのピースが、一気にピタリとはまったような。感覚としては、それに近いものだった。
(千雪ちゃんは、同級生に興味ないもんねー)
(先生、右手どうしたの?)
(ある漁村にやってきた若者がいてさ。村人からも好かれるようになったんだよ。だけどそいつ、夜な夜な村人を殺してたって話)
(有沢くんは、付き合ってる人いるの?私は……どうなんだろう。自分でもよくわからなくて)
(10年ちょい前か。その日、月島先輩は仲の良かった同級生に告白されたらしんだ。だけどな、その後の昼休みのことなんだ。先輩が、屋上から飛び降り自殺したのは)
遠ざかる犯人に向かって、僕は大声で叫んだ。
「林先生!」
来栖川が、キョトンとした顔で僕の方を見た。
「……え?林、先生ですって?」
第8章 「対峙する闇」
ー了ー
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