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廃妃になったら
しおりを挟む部屋に戻ったユーフェミアは一気に襲い来る疲れにテーブルに突っ伏していた。
「サインされた書類をお届けするのはいかがでしょうか?」
「目の前で破られて終わりよ。それに、話し合いで解決しないと意味がないの」
「解決できるでしょうか?」
「……するしかないのよ」
本気だからこそ辛さを窺わせる笑顔に従者であるエリオットは目を閉じる。
「王が愛人を作るのは甲斐性だと思われますか?」
「彼がそれだけ魅力的ということだから妻としては喜ぶべきなのでしょうね。愛人に不満を言わせないのも彼の甲斐性あってのことだと思うし。でも……」
王に気に入られれば贅沢三昧は間違いない。王は背はそれほど高くないが、地位も名誉もある男。この国の王なのだ。誰も逆らうことができない権力者。寵愛を受ければ勝ちも同然。文句を言うはずがない。
「彼女達は彼を愛してはいないのよね」
四人いる愛人は誰もがその肩書きに惚れているというだけで王自身を愛しているわけではないというのがユーフェミアに嫌悪感を抱かせている。
「なぜそう思われるのですか?」
「だって、誰も王妃になろうとしないんだもの。彼に惚れていれば彼の正妻になりたいと思うでしょう? でも彼女達は違う。何の責任もない際限なく甘えられる愛人という立場に身を置いている感じがするの」
トリスタンもきっと気付いているだろう。いや、そういう女だからこそ愛人として置いているのかもしれない。寵愛を与えるわけでもなく、あくまでも娼婦扱い。それなら娼婦を呼べと思うも城に娼婦を呼ぶなどできるはずがない。
トリスタンは使用人の誰に聞いても「イイ男とは言えない」と言われている。王妃を愛しているのはわかっていても内面ではなく外見で愛人を選びがちであるが故に王を軽蔑している使用人もいた。
パレード中も美人を見つけては妻の前であろうと投げキッスをして『さっきの娘は美人だったな』と平気で言ってしまうのだ。言うだけならユーフェミアも怒らない。美人を美人と認めるのは罪ではなく浮気にもならない。城に呼んで話をするのも食事会に呼ぶのもいい。しかし、そう思っている間にいつの間にか美人な娘は〝愛人〟になっていた。これからもそういうことがないとは言いきれない。いや、きっとある。ユーフェミアには確信があった。
結婚して二十年。色々認めておいて今更「わたくしだけを見てください」と言うのは恥ずかしいかと考えている間に自分が我慢しきれなくなり、離婚を選択してしまうという愚かな結果に陥っている自分が情けない。本当に今更だと嘆きたくなる。
「はあ……若さが羨ましい」
愛人は全員二十代前半で、若さというブランドを武器にできる女達。自分はもう三十代半ば。二十代の娘と張り合うだけみっともないとくだらないプライドが甘える邪魔をする。でも本当は若さを羨んでいるし、鏡を見るたびに溜息を吐くことも増えた。
「ユーフェミア様には誰にも真似できない王妃としての気品と美しさがございます」
「ありがとう、エリオット」
「王が何を考えておられるのか、俺にはわかりません。離婚を突きつけられ、愛人を切り捨てれば話は終結に向かうことがわかっていながら選択しない。そして離婚もしない。愛人も切らないというのはユーフェミア様への真摯さに欠けるかと……」
「愛は伝わってくるだけに厄介な話よね」
いっそ愛人を囲うことで愛情が冷めてくれればよかったのにと何度思ったことか。トリスタンの愛情は今も変わらずユーフェミアが一番だと誰もがそう思うほどのもので、ユーフェミアのために考えた食事は何があろうと愛人達には食べさせないのだと使用人達が言っていた。
自分の性欲のためだけに愛人を囲う男に甲斐性があるかと聞かれれば微妙な話だが、愛人もその立場に満足しているらしい。だからこそ余計に厄介なのだ。自分が騒がなければ全て今までどおり平穏な日常を過ごせる。そんなことはユーフェミアだってわかっている。でも心がもう限界だった。
「彼女達もバカじゃないのよね」
正妻でなくとも第二に選ばれれば絶大な権力を得ることができる。それこそ自分を見下す使用人達は誰も逆らえなくなるほどの絶対的な力。しかし、それと同時に得ることになる責任の重さを彼女達もわかっているのだ。だから今の地位に満足している。バカな王の夜の相手をするだけで働かずとも贅沢な生活が送れるのだから。責任を負わず、何不自由なく暮らせる愛人を選んでいるのは寧ろ賢明とも言えるだろう。
「シュライア様がおっしゃっていたわ。離婚は体力も気力も奪っていくって」
「当時のシュライア様は相当お疲れのご様子でした」
「離婚が成立したら五歳は老けたって言っておられたのよ。五歳も老けたら私、三十九……やだやだやだ! 考えたくもない!」
灯りの少ない夜道を一人で歩くより恐ろしいと思った。
「でも、五年後には確実に迎えるのよね」
自分が今、三十四歳であることは受け入れているが、四十手前になってそれを素直に受け入れられる自信がない。
今はまだないシミやシワができたことに絶望し、二十代の娘を羨むだけでなく妬むようになる。そんなネガティブな想像しか浮かばなかった。
それでもトリスタンは「君は何歳になろうと美しい」と言ってくれるような気がする。それだけが今この瞬間の心の救いとなったが、離婚を考えている自分が想像していいことではないとかぶりを振る。
「シュライア様はお元気なのでしょうか?」
「みたいね。またお会いしたいわ。離婚してどんな暮らしをしておられるのか知りたいし、離婚のことも相談したいし」
「手紙を出しますか?」
「ええ」
「ご用意いたします」
手紙に書くのは簡単な挨拶と離婚したいと思っているということ。それに離婚に関するアドバイスをもらいたいと。
離婚の大変さを知っている王妃は少ない。世界会議に出席した際、各国の王妃だけで集まった時にほとんどの王妃が夫自慢を繰り広げていた。
その中の何人が本当のことを言っているのかと疑いたくなったが、頬を染めたりしているのを見るとその想いは本物なのだと惚気られないユーフェミアは聞いているだけでしんどくなった。
「エリオットにばかり負担をかけてごめんなさい」
「とんでもありません。ユーフェミア様にお仕えすることこそ人生の喜びでございます」
「ありがとう」
エリオットはまだ二十五歳と若い。それでも立派に騎士の称号を得て王妃直属に成り上がった。貴族ではない一般募集から騎士団に入団した者が王妃直属になるのは異例中の異例。その異例もただ選ばれただけではなく、王妃が直接指名したものだから大騒ぎになった。
王妃直属の騎士は代々、王が選んで王妃の護衛を任せることになっている。何があろうと王妃の命に従い、その命を懸けて王妃を守る。それが王妃直属の騎士の使命。宣誓は命を捧げたも同然となる。
ユーフェミアも騎士を選ぶ権利は王にあるとわかっているが、王が選ぶ騎士は王妃直属と言いながらも何でも王に筒抜けになってしまいそうで王宮に染まりきった騎士は避けたかった。だからまだ染まりきっていない若者を、貴族の腐敗を受けていない野良をと選任式でのトリスタンの演説中ずっと理想の者を探し続けた。
そこで見つけたのがこのエリオットだった。
「王に小言を言われることもあるでしょう?」
「王は何時もユーフェミア様のことをお考えですから」
「愛人を囲いながらね」
「そうですね」
苦笑を滲ませるエリオットはよくできた男。ユーフェミアが何を愚痴ろうと王に告げ口することはない。騎士として歴が浅いため王妃直属は大任だったが、故に自分を奮い立たせ、一生を騎士としてユーフェミアに捧げる覚悟があると言っていた。
それ故に離婚を申し出るのはエリオットに申し訳ない思いもある。自分が選んでおきながら身勝手に解雇となってしまうのだから。
きっと、離婚が成立した後、エリオットはまた一般の騎士に戻されるのだろう。王妃直属という名誉を受けた騎士でありながらも貴族の腐敗渦巻く騎士団の中で彼は上手く媚びを売って生きてはいけない。真面目すぎるのだ。
「ユーフェミア様も陛下を愛しておられるのですね」
「二十年も経てば愛情なんて愛が抜けて情だけが残ると言うけれど、わたくしの中にはまだ愛があって、彼の愛を求めてる」
「陛下もユーフェミア様を深く愛しておられます」
「そうね……。でも、その愛が分散するのが嫌なの。彼は愛人に向ける情とわたくしに向ける情は違うと言うけれど、種類の問題ではないのよ。彼が愛人を娼婦代わりだと言ってもそれは所詮、男の言い分。女の言い分は──……」
自分の感情を口にすればするほど器の小さい女だと自覚する。
夫が誰よりも愛していると言うのだからそれを受け入れて穏やかな日々を過ごせばいい。離婚したくないと子供のように駄々をこねて拒否する夫に優越感を抱きながら離婚の二文字を武器に愛人対策を練ればいいだけなのに、それでは足りないとねだる欲深い自分がいるのだ。
良き妻であろうとする我慢が美徳だと訴える自分と欲にまみれた醜悪な自分が対立し続けている。今もそう。気を抜くと口から溢れ零れてしまう。
「王も王妃も人の子です。嫉妬も独占欲もあるでしょう。それは決しておかしなことではなく、誰もが抱く感情なのです。王が愛人を作るのは当然ではなく、王妃が我慢するのが当然でもありません」
エリオットの慰めに顔を上げるユーフェミアは小さくではあるが嬉しそうに笑って頷いた。
夫に愛人はいないと言う王妃もいた。愛人を作ることを当然としている王ばかりではない。中には一人いる、二人いると憤慨している王妃はいてもさすがに四人いるという王妃はおらず、ユーフェミアは正直に告白できなかった。
そもそも、トリスタン・オーデルセンは愛妻家として有名。誰もトリスタンに愛人が四人もいるなどと想像したこともないだろう。
「一人でうじうじ悩んでても仕方ないわね。とりあえずシュライア様に手紙を送るわ」
書き上げた手紙に封蝋をしてエリオットに渡した。手紙を出すため使用人を呼んで廊下へと出ていったエリオットを横目で見た後、窓の外へと視線を移して頬杖をつくと同時に溜息を吐く。
「離婚した後の暮らし、か……」
想像もつかない。離婚するという目的だけで事は終わらない。その後の生活のことも考えると気が重くなる。トリスタンほどひどい想像はしていないが、それでも下町で生きてきた時間よりも王宮で生きてきた時間のほうが長くなってしまった人生。生活の質を落とすと言葉では簡単だが、その言葉を心情にどこまでやっていけるのかも想像がつかない。
どうしたものかと迷うユーフェミアは溜息を吐きながら机に突っ伏した。
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