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彼がキスが好きな理由

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「あっという間だったね」
「そうですね」
「楽しんでもらえたかな?」
「とても」

 一ヶ月だけ門を解放する国があることさえ知らなかったマリーにとってクルンストの首都のような賑わいがたった一ヶ月で終わってしまうというのは不思議なもので、門を閉めるのはあと三日。
 本当に楽しかった。見下されたり嫌味を言われたことも過ぎてしまえばただの記憶になる。
 それはリタのことも同じ。

「それならよかった。変わったイベントだとは思うけど、マリーが楽しんでくれたなら来年も大丈夫そうだね」
「はい」
「頑張ってくれてありがとう」

 ベッドに入って飾り枕に背を預けながら握られる手は暖かくて大きい。頭に落とされるキスも優しくて胸がじんわりと温かくなる。
 いつもなら――

「マリー?」

 おかしいと思ったのだろう。
 いつもなら手を握るとマリーも握り返してくる。それを待ってアーサーが指を絡め、まるでそれが合図のように見つめ合ってキスをするのに、今日は見つめ合うどころかマリーは手を握り返すこともしない。

「どうしました?」
「え、あ、いや……」

 まさか『どうして手を握り返してくれないんだい?』なんて聞けるはずがない。手を握ったら握り返すこと、なんて約束をしたわけではない。握り返す返さないは自由だ。だが、いつも当たり前のように握り返してくれたから少し不安になった。
 手を握り返してもらえないだけで不安になるなど情けないと思いながらも同時に込み上げる心配から顔を覗きこむと

「もうっ、どうしたんですか?」

 笑ってはくれたが、あからさまに顔が引かれた。いつもならマリーは顔を引かない。近い距離で今みたいに『どうしたんですか?』と聞いてアーサーが『可愛い顔を見たかっただけ』と答え、キスをする。
 今日、アーサーがマリーとキスをしたのは二回だけ。朝起きた時と家を出る前。忙しかったというのもあるが、二人きりになればいつもキスをするのにまだ三回目ができていない。

「もしかして疲れてるのかい?」
「そうですね。こんなに動いたり喋ったりすることがなかったので疲れているのかもしれません」
「ミドラドは穏やかな所だからね」

 派手なことが得意ではないマリーは多くの時間を家の中で過ごした。穏やかな祖父母と静かな時間を過ごしてきたマリーにとってこの一ヶ月は目が回りそうなほど忙しく感じたに違いないと納得するアーサーは疲れているのならと気にしないことにした。

「それじゃあ、今日はもう休もうか」
「はい」

 どこか安心したような表情に見えたのは気のせいだろうかと引っ掛かりを飲みこんで飾り枕を外し、マリーが横になるのを見ながらアーサーは少しの間、黙っていた。
 このまま手を繋いで眠りたい。何度飲み込んでも不安は消えない。疲れているせいだと思いながらもマリーの性格からすれば疲れていても顔を引いたり手を握り返さないことはしない。疲れていても無理をしてしまうタイプだから。

「アーサー様」
「ん?」
「アーサー様はキスがお好きですよね」
「そうだね」
「どうしてですか?」

 唐突な問いかけに何度か目を瞬かせながらも一度天井に顔を向けて“なぜ“かを考える。
 考えたことなどなかった。今まで誰とも交際したことがないアーサーにとってキスが好きな理由はなく、そもそもマリーと婚約するまでキスについて考えたこともなかったのだ。

「僕、しつこい?」
「いいえ、そういうわけではないのですが……どうしてキスがお好きなのかなと思って……」

 隙あらばすぐにキスをする男をしつこいと思わないわけがないかと思いながらもマリーを見るとどうしてもキスがしたくなるため自分でもなかなか制御できないでいる。しようと思ったこともまずないのだが……

「唇同士が触れ合うって気持ちよくて好きなんだ。それが愛する人の唇だと思うと幸せになるしね。触れるだけのキスでも、じっくり重ねるキスでもなんでも好きかな。キスって特別なものだしね」

 特別――それはマリーにとってもそう。キスも何もかもマリーはアーサーに捧げた。だが、アーサーは違う。四十二年も生きていれば色々と経験しただろう。自分が望まずとも女性が寄ってきたのだから一夜を過ごしたりキスをする相手がいたっておかしくない。むしろ自然。
 過去にキスをした相手が何人いようとそれは当たり前のことなのだと考えるべきなのに、マリーは余計なことばかり考えてしまう。
 この笑顔は自分に向けられているのだと思うべきなのに、アーサーの頭には今、過去の思い出が蘇っていて、その懐かしさによるものなのではないかと思ってしまう。

「僕にとってキスは素敵な思い出があるものだから、というのが一番の理由かもしれない」
「素敵な思い出……」
「うん。僕がキスを好きになった思い出だ」

 きっと今、アーサーに恋している者がこの顔を見れば失神するのではないかと思うほど甘い表情をしている。
 優しいキスをする時の顔。相手を慈しみ、愛おしいと感じている時の顔。マリーもこの顔が大好きだった。これから降ってくるキスも好きだった。
 なのに――

「やっ!」

 気がつけばマリーはアーサーからのキスを拒んでいた。
 顔を逸らし、胸を押すという明確な拒否。
 
「あ……」

 思わず背けた顔を慌てて戻すと驚いた顔で固まるアーサーが目に入った。

「……疲れてると言っていたのにすまない。僕は君を前にすると自分の欲を優先してしまうらしくて……」

 苦笑するアーサーが身体を引いてマリーの頭を撫でる。
 傷つけた――それがわかるほど、アーサーの笑顔は無理をしているように見えた。

「アーサー様――」
「休もうって言ったのは僕なのに矛盾してたよ、ごめんね。あと三日、頑張ろう」
「……はい」

 マリーの言葉を遮ったアーサーが横になる。背を向けずに仰向けで眠るのは彼の優しさなのだとマリーは実感する。マリーは今すぐにでも背を向けて寝てしまたかった。
 キスを拒んだのは自分。それなのにどうして自分が傷ついているのかがわからない。
 布団の中で手も握らない。互いの温もりを逃さないように抱き合うこともしない。おやすみのキスもない夜は初めてだった。
 少し、ほんの少し手を動かせば触れられるのに二人は互いの存在だけを感じながらまるで別々のベッドで眠っているような感覚を味わっている。
 眠ろうにも眠れない。ただ目を閉じているだけ。

「ごめんね」

 どれぐらい時間が経ったのかわからない。もう何時間も経っているようで、まだ数分しか経っていないような気がする。
 ゆっくりと起き上がったアーサーが囁くように呟いてベッドから出ていった。できるだけ音を立てないようにドアを閉めたアーサーが部屋からいなくなるとマリーは目を開ける。
 外はまだ暗い。時計を見るとまだ一時間しか経っていない。
 アーサーが一人いなくなっただけなのに部屋は広く、寒く感じる。アーサーという愛する人が傍にいてくれるだけで身も心も暖かくなっていたのだとマリーは膝を抱えた。
 謝らなければならないのは自分のほうなのに、アーサーはきっと自分が悪いと思っている。誤解を解かなければと思うのに、謝った後、キスをしようとすればきっとまた拒んでしまうのが容易に想像できてしまう。

「ごめんなさい……」

 謝ったところで今ここにアーサーはいない。本人が戻って来たときにちゃんと言うべきだ。
 だが、アーサーが戻ってきたのは明け方。ベッドに入ってすぐに目を閉じたアーサーにマリーは何も言えなかった。
 静かに寝息を立てるアーサーを起こすわけにもいかず、マリーはその静かな寝息を聞きながら三十分後、ベッドを出ていつも通りの日常へ戻る。
 服を着替えて、朝食の準備。そして今日も忙しくなると気合を入れる。
 謝ることもできないまま――
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