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セシルの過去

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「そんなとこで子猫みてぇに震えてないでこっち来いよ。昔みてぇに可愛がってやるからよぉ!」

 ガハハと下品な笑い声を響かせる男たちの声にセシルの瞳から涙がこぼれ落ちる。

「耳を塞いでて」

 抱きしめたまま囁くアリスの言葉に従ってセシルはグッと両耳を押さえた。

「セシル、嬢ちゃんに守られて恥ずかしくねぇのか?」

 恥ずかしくないわけがない。セシルはアッシュバートン家の長男であり射撃の腕も貴族界で一目置かれている。
 銃はあるのに震えた手では握っていることすら難しい。
 本来であれば自分が守らなければならない相手に守られていることもセシルにとっては一生の恥になること。
 しかし今はそこに見栄を張れるほどセシルの精神状態は落ち着いていない。

「今頃アッシュバートン家は大騒ぎだぞ。また愛しの坊ちゃんが帰ってこねんだからな!」

 酒を飲んで上機嫌な男が発した“また”という言葉にアリスは引っかかった。

「セシル、こっち来いよ」

 自発的に来いと手招きをする男にセシルは何度も首を振る。

「おいおい、いつまで女にしがみついてるつもりだよ。まだママのおっぱい吸ってんじゃねぇだろうな?」

 ボスの言葉に部下たちの大笑いが小屋に響く。不快な笑い声だとアリスの眉間に皺が寄る。

「こっち来いって言ってんだろ。酌しろや。お前のことはそれから可愛がってやる、昔みてぇにな。今のお前なら昔よりずっと楽しめ──」
「やめろ!!」

 男の言葉を遮って怒鳴りつけたセシルの顔は涙に濡れていない部分を探すほうが難しく、身体の震えも止まってはいない。それでもセシルはその震える手をアリスに伸ばして耳を塞いだ。

「アリス、アリス、耳を塞いで。こいつらの言葉なんて聞かないで」

 縋り付くような声色と言葉にアリスは困惑する。

「なんだよ嬢ちゃん、こいつの幼少期の話を知らねぇのか?」
「やめろ! アリスには絶対言うな!」
「アッシュバートン家長男の誘拐事件を知らねぇとはな。十二年前、あれだけ世間を賑わせた大事件だぜ」
「誘拐?」

 十二年前、アリスはまだ五歳。世間の不穏なニュースはカイルがアリスの耳に入れないようにしていたし、昔からパーティーには出席していなかったため誘拐事件があったことさえ知らない。

「やめろやめろやめろやめろ!!」

 アッシュバートン家長男の誘拐事件と言われてそれがセシルなのかと驚くほどアリスもバカではない。
 セシルの異様な取り乱し方から見てもそれは嘘ではなく、皆がセシルの過去を知っていたことにも合点がいった。
 彼が抱えている問題はそれだったのだと納得した。

「コイツがまだ五歳だったころ、俺らが誘拐して飼ってたのよ。一年半だったか……懐かしいよなぁ、セシル。あれは最高の一年半だったぜ」

 人間に向ける言葉ではないだろう最低の表現に表情を険しくするアリスを見てセシルはそのまま背を丸めて額をアリスの膝に置いて身体を震わせる。

「お願いだアリス………聞かないで………」

 今にも消えてしまいそうな声で懇願するセシルを見下ろしながら舌舐めずりをするボスが立ち上がってこちらへ向かってくる。

「止まってください」

 ボスの動きが止まり、面白そうにアリスを見る。

「コイツは俺のもんだ。ペットは飼い主のとこにいるのが一番幸せなんだよ」
「セシルはペットではありませんし、そこを動くと後悔することになりますよ」
「ほーう、随分と強気に出るじゃねぇかよ。この五十年間で後悔したのは一度だけだ。サツにパクられコイツを手放さなきゃ行けなくなった時のたった一度だけ。だがこうして取り返せたんだ、もう二度と奪われはしねぇ。だから後悔もしねぇのよ」
 
 どこまでも腐った男だとアリスは生まれて初めて舌打ちをしたくなった。
 子供を自分の歪んだ性癖で誘拐し、一年半というけして短くはない時間を奪った。そして十年以上が経とうと消えないトラウマを植え付けた挙句、またこうして目の前に姿を現した。
 許せるはずがない。
 セシルはいつも明るい男の子。一匹狼と言われているのが嘘のように人懐っこく感じた。食べるのが大好きでロマンチストで優しい人。
 それが今は見る影もないほど怯えて震えて泣いている。

「その命がなくなれば後悔もできませんからね」

 吐き捨てるように言ったアリスの声は若干震えていた。

「おいおいおいおい! マジか! 聞いたかよテメーら! 俺はこの嬢ちゃんによって命奪われちまうらしいぜ! こえーよなぁ!」

 腹を抱えてゲラゲラと不愉快極まりない笑い方をしては思ってもいない言葉を口にするボスに部下たちが呼応する。

「アリス、アリスダメだ。アリスまでコイツらに──」
「大丈夫。絶対に私が守るから」

 言い聞かせるように囁いたアリスにセシルは死んでしまいたいと思うほど自分が情けなくて仕方なかった。
 身体に力が入らず、アリスを抱きしめることもできない。そんなセシルの背を撫でるアリスを嘲笑う男が再び歩みを進める。

「そんな細い腕でどうやって守るってんだ? 教えてくれよ。後悔させてくれんだろ? 俺の命、奪うん──」

 目の前でやってきた男がセシルの腕を掴もうと身体を屈めると同時に額に押し当てられた硬い感触に動きが止まる。
 ゴツッと音からでもわかる軽くはない物。

「下がってください」

 それがなんなのかわからないはずがない。
 男はゆっくりと下がりながらも下衆な笑みは崩さない。

「嬢ちゃん、それは玩具じゃねねんだぞ。わかってんだろうな?」
「もっと下がってください。背中が壁に当たるまで」
「イキがってんじゃねぇぞクソガーッ!?」

 壁まで下がったボスを見て部下の男が一人椅子から立ち上がって怒声を響かせながら歩いてくる。一歩踏み出すと同時に響き渡る銃声と舞う赤い飛沫。
 歩いていた男は衝撃で床に倒れ、脛を押さえながら悲鳴を上げて床でのたうち回る。
 それを見たボスがハッと鼻で笑って片方の口端だけ上げてアリスを見た。

「この国じゃ銃は御近世の代物だ。それを所持してるだけでも大罪、使用すりゃ死刑もありうる。わかってんのか?」
「貴族を誘拐した犯罪者への行為は正当防衛です。あなた方も銃を所持していますから」
「発砲はそうだとしても所持は罰せられるだろうな」
「かまいません。セシルがあなた方のような外道な人間にまた傷つけられるぐらいなら罰せられるほうがマシです」

 絶対にセシルには触れさせない。今のアリスを奮い立たせているのはそれだけだった。

「次捕まればあなた方は間違いなく死刑です」
「だろうなぁ。だが誰もここには辿りつけねぇんだよ。この山はもう何百年と放置された山で所有者もいねぇ。政府管轄下って名前だけの無法地帯よ」
「そうでしょうか。悪事を働く者は必ず報いを受けます」
「その強気さはどっから溢れ出てくるもんなんだ?え? こんだけの人数じゃどう足掻いても勝てっこねぇってわかんだろ?」

 男の言う通り、多勢に無勢。この場にいる男たち全員に銃を向けられてしまえば勝ち目はない。
 しかし、だからといってアリスがここで引けばセシルはまた男たちの犠牲者となってしまう。
 まだアリスの身体は震えていない。なら今はまだ引くことはできないとアリスは顔を下げない。

「一発マグレで当たったぐらいでイイ気になんなよ──ぐうっ!」

 腰に隠し持っていたナイフを取り出した男の手が何かに弾かれたように後ろへと動き、脛を打たれた男と同じで赤い飛沫が宙に舞った。
 痛みに呻きながらアリスを睨みつける男が悔しげに顔を歪める。

「護衛か、テメェ……」
「私は彼の友人です」
「友人ねぇ……ならソイツが過去にどんな法を犯したか、お友達様は知ってんのか?」

 いちいち嫌味な言い方をしてくる男に声を発したのはセシルだった。

「やめろ!! 言うな!!」

 起き上がったセシルが叫ぶと男がニヤつく。

「バラされたくねぇなら女から銃奪ってこっちに来い」

 嫌だと首を振って拒否するセシルに「バラされてぇのか!」と男が怒鳴るだけでセシルの身体は大袈裟なほど跳ね、止まらない涙で濡らした顔をアリスに向ける。

「アリス……銃を……」
「嫌です。渡しませんし、行かせません」
「お、お願いだよアリス……アリスにだけは聞かれたくないんだ……!」

 怯えた表情を浮かべるセシルに何度も首を振って真正面から強く抱き締めるとアリスが囁いた。

「何があっても味方だと言ってくれたこと、覚えてる? あのとき、私も何があってもセシルの味方でいるって決めたの。いつだって私を助けてくれたじゃない。今度は私があなたを助ける番なの。守らせて。絶対にあなたの味方でいるから」

 唇を震わせてくしゃりと顔を歪めたセシルがアリスにしがみつき泣き声を上げる。その幼子のような姿にアリスは何度も背中を撫でながら男を見ると目が合った。

「ハッ、根性なしが。俺の部下を殺したときの勢いはどうしたよ!」

 大声で暴露された内容にセシルの腕に更に力が入るがアリスは全て納得だと頷いた。

「嬢ちゃん、そいつはな、人殺しなんだよ。それでも庇うってのか?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 震えながら謝り続けるセシルに大丈夫だと言って髪にキスをするとアリスにそのままボスに銃を向けた。

「セシルは自分を守るためにそうした。そこに非難する理由はありません。セシルが人を殺したのなら友である私もあなたを殺して人殺しになるだけです」

 言いきったアリスに男の表情が引き攣る。
 部下の足に一発、ナイフを持った手に一発。まぐれではないだろうと確信した男はこの時ばかりはアリスの言葉を軽んじるのをやめた。もしアリスの言葉を軽んじて動こうものなら次の銃声で撃ち抜かれるのは頭か心臓か──どちらも容易に想像できてしまう。
 自分たちも銃を所持していると言えど精度は不確かなもので、所謂脅し程度にしか使えない。自分たちが無駄打ちしている間にアリスは的確に一人ずつ殺していくかもしれないと思ったのだ。

「ハッ、美しい友情だな」
「ありがとうございます」

 アリスは銃を下ろさない。ならば男が選ぶのは二択しかない。二人を解放するか、死ぬか。

「わかったよ! お前らのことは解放する! それでいいんだろ!!」
「いいえ、違います。逮捕されるまで一緒にいてください」
「ああっ!?」

 男にとって十二年ぶりに捕まえた獲物を逃すことだけでも譲歩しているというのにアリスはそれでは満足しない。
 聞こえてきた忌々しい単語に男は思わず声を上げた。

「逮捕だと!? ふざけんじゃねぇ!」
「これからの人生をセシルが怯えて生きることがないようにしなければならないんです。セシルの人生はセシルのもの。あなた方が弄んでいいものではないんです」
「どうしようってんだ? ここは絶対に見つからねぇぞ。一年半経とうがサツはここを見つけることさえできねぇんだよ!」
「いいえ、じきに馬車が来るでしょうからそれを待っていてください」

 アリスの言葉に男が大笑いする。

「バカがっ! 言っただろうが! 絶対にバレねぇってよぉ!!」

 男の怒声のあとに聞こえた馬車の走行音に男たちがザワつく。
 左右を見回してなぜ走行音がするのかと慌てふためき声を上げる。

「な、なんだ!? なんでなんだ!? ここは絶対にバレねぇはずだぞ!」

 セシルも驚きに顔を上げる。
 馬車が小屋の前で止まると同時にドアが蹴破られ、カイルが飛び込んできた。

「アリス、無事か?」
「大丈夫です。怪我はありません」

 入ってきたカイルはやけに冷静だった。もっと取り乱してアリスを抱えると思っていたセシルにとってこれは予想外の反応。

「な、なんだテメーらは!! どうやってここがわかったんだ!?」
「それを貴様に説明してやる義理はない。俺の妹を誘拐した罪は重いぞ」
「警察……じゃねぇな……。ハハッ、なんだ! 警察じゃねぇならビビる必要はねぇ! 殺せ!」

 ボスの合図でカイルに銃を向けた男たちが響く銃声のあとに次々と倒れていく。
 床に倒れた部下たちに振り返ると全員が的確に手を撃たれていた。
 床に広がる血が足下へと流れてくると「クソッ」と唸って銃を引き抜いた直後、二発銃声が響き、男が床に倒れた。

「アガッ……ガッ、クソッ……!」

 首元と脛を撃たれた男が床に倒れて荒い呼吸を繰り返す。
 想像していたはずなのに男は動いてしまった。カイルが放つ殺気にさえ怯まなければと後悔したところで血は止まらない。

「人殺しめ……ハハッ、お似合いだテメーらは」

 首に穴は空いていない。だが、掠めたというより抉れたと言ったほうが正しい状態に男は自分が助からないと悟った。
 押さえても溢れ出る血の感触に笑いながら人殺しとアリスに吐き捨てるもアリスは表情を動かさない。

「この銃は兄様が預かるから手を離せ」

 アリスの前に膝をついたカイルがそっとアリスの手から銃を取り上げる。

「セシルと一緒に馬車に乗れ」

 降りてきた御者はアッシュバートン家の御者だった。顔も服もボロボロではあるが、生きていたのだと安堵する。
 セシルを抱き抱えて馬車へと向かうのをカイルの命令通りアリスも追いかけていく。

「さて、良い場所を見つけたな」
「妹が人殺しになった気分はどうだ?」
「俺の妹は世界で最も心優しい子なんだ。人殺しにはならない」
「ハッ、俺はもうすぐ死ぬんだよ。お前の妹が撃った銃弾によってな。人殺し以外の何者でもねぇだろうが」
「まあそう急ぐなよ。せっかくこんな良い場所にいるんだ。政府の手が入らない無法地帯に陣を構えるとは」

 辺りを見回し、今にも崩れそうなボロ小屋の中でカイルが笑う。その笑顔の不気味さに男は鳥肌がたった。

「なんでここがわかった……」
「俺があの子の兄だからだ」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ。あの御者がお前らを呼びに行ったところでどこへ行ったかまではわかるわけがねぇ。ましてやこんな山の中に連れて行かれたなんてマグレでもわかるはずがねぇってのに」

 男の呼吸が少し荒くなっていく。止まらない血が男の表情から覇気を奪っていくのを感じてカイルが側にしゃがんだ。

「あの子がどこにいようと俺には居場所がわかるんだ。それはあの子もわかっている。お前らのような守るべき者もいない……いや、その手で自ら手放したような男にはわからんだろうが、世の中には妹を可愛がるのに加減しない兄もいるということだ」
「気持ち悪い男だな、テメーは」
「お褒めに預かり光栄だ」

 不気味な笑顔を崩さないカイルの顔をこれ以上見ていると頭がおかしくなりそうだと見上げるのをやめた男は目の前が霞むのを感じて大きく息を吐き出す。

「お前の妹に伝えろ。お友達のために人殺しになるなんて最高だってな」
「お前が死ぬことに変わりはないが、死ぬのは妹の銃弾によってじゃない」
 
 ハッとした男が勢いよくカイルを見上げるも響き渡った銃声によって人生の幕を閉じた。
 その後、何発かの銃声が響き渡り、騒がしかった小屋が静かになってからカイルが出てきた。 

「アリス、怖かっただろう」

 馬車に乗り込んできたカイルが向かいに腰掛けアリスの頭を撫でる。

「お兄様が駆けつけてくださるとわかっていましたから」
「お前は兄様の誇りだ」
「ありがとうございます」

 嬉しそうに微笑むアリスの額に口付けるとカイルは馬車を出させ、山から街へと降りていく。
 身体を丸めて横になり、アリスの膝枕で眠るセシルの髪をアリスはアッシュバートン家に着くまでずっと撫でていた。
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