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セシルの訪問
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週末、セシルは予定通り、十一時に到着した。
ヴィンセルが送迎のとき、セシルはいつも後乗り先降りだったため、ベンフィールド邸に行ったことがなかったため知らなかった。
ほとんど城のようであるということを。
「ここ……本当に個人宅……?」
自分の家も狭くはない。広いほうだと思っていたが、桁違いだと呆けてしまう。
馬車を降りてから既に十分が経過しているのにセシルはまだ動けないでいた。
「セシル!」
アリスの声にハッと我に戻ったセシルが階段の上を見上げるとドレスアップしたアリスがいた。
「ごめんなさい。到着前にここで待っていようと思ったんだけど、色々あって」
ドレスではなくワンピースを着ているアリスが階段を駆け降りてくる。
普段からそういう格好をしているのか、それとも自分が来るからその格好をしたのかどっちだろうと考えるだけでセシルは表情が緩んだ。
「迎えなんていいよ。それより、色々ってもしかしてワンピースが決まらなかったとか?」
「……そういうのは聞かないのがマナーだよ」
少し恥ずかしそうにしているのが証拠だとニヤついてしまう。
「今日のアリスもすごく可愛いよ」
「あ、ありが──」
「アリスが今日も可愛いのは当たり前だ」
聞こえた声にため息をつきたくなるのはそれがカイルの声だから。
「ベンフィールド邸へようこそ、セシル・アッシュバートン君」
「お招きいただき光栄です、カイル・ベンフィールドさん」
仰々しい挨拶を交わす二人に笑いながらアリスが玄関へと促す。
「すごい広いね。お城かと思った」
「大袈裟ですよ」
「いや、ホントに。使用人ってどのくらいいるの?」
「三百人ちょっとだな」
「さんびゃ!?」
貴族は爵位で全てが決まるわけではない。伯爵だろうと貧乏はいるし、男爵だろうと金持ちはいる。
その家の凄さを表すのは使用人の数。
三百人も使用人を抱えられる貴族は少ない。
けして安くはない使用人の給料。それを三百人分払えるだけの資産がベンフィールド家にはあるのだ。
アリスだけ見ているとその凄さはわからなかったが、こうして生まれ育った家を見るととんでもない御令嬢なのだと思い知る。
「そりゃ令嬢は自分より下の男と結婚しないわけだ。嫌だよね、生まれ育った家より小さい家に嫁ぐのは」
「当然だ。貧乏になるために嫁ぐんじゃないからな」
家のために嫁に行くのが貴族の娘。
アリスもそうだ。行くなら公爵家か王族。伯爵など冗談ではないと一蹴されるだろうと考えるとセシルの表情に苦笑が滲む。
「僕の格好、おかしくない? 家に入って大丈夫?」
「大丈夫、素敵よ」
「ああ、パブリックスクールに入学する感じで初々しいな」
「ホンット感じ悪いよね」
「帰りたけりゃ帰っていいぞ。大歓迎だ」
「絶対にやだね。時間いっぱいまでいるよ」
火花を散らす二人に先が思いやられると首を振るアリスはセシルに耳打ちする。
「今日は両親が一緒なの。大丈夫?」
「覚悟はしてきてるから大丈夫」
「うちの両親のチェックは厳しいぞ」
「カイルより面倒な──……カイルより厳しい人なんかいないでしょ」
楽しげに笑うカイルの後をアリスと一緒に歩くセシルの心臓は一歩前へと進む度にどんどん速く鼓動を打つ。
これが緊張だと久しぶりに感じる感覚に拳を握っては深呼吸する。
「ビビってんのか?」
「ベンフィールド公爵夫妻に会うのに緊張しない人間なんていない」
「それもそうか」
サロンでも父親が姿を見せるだけで場の空気が変わることをカイルは知っている。自分はまだ小僧だとナメられているが、父親は違う。
ネイサン・ベンフィールドの発言力は貴族界の中でも大きく、それは時に王の耳にまで入るほどだ。
貴族たちはネイサンに媚びを売り、嫌われないために必死。
普段から口を開けば自慢か人を見下すことしか言わない貴族ですらネイサンには笑顔で手を擦り合わせる。
嫌われれば終わり。セシルは今日、アッシュバートンの家名を背負ってきている。自分の失礼な言動でベンフィールド夫妻を怒らせでもしたらアッシュバートン家は終わる。
緊張しないわけがないともう一度深呼吸をした。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。僕、こう見えて意外と緊張するタイプなんだ」
「ふふっ、大丈夫よ。お兄様は脅してるだけだから」
「だといいけどな」
「お兄様、意地悪はそこまでです」
口を閉じるように言うとカイルはドアを開けて中へ入るよう促す。
食堂だろう場所は自分の家よりも遥かに豪華な造りになっていて、様式や飾り、調度品の全てがセシルの両親では手に入れられないだろう物で揃えられている。
高すぎる天井から吊るされているシャンデリア。一体いくらするんだろうと下衆なことを考えて口を開けっぱなしにするセシルの手をアリスが横で軽く突いた。
ハッとして慌てて前を向くとアリスの両親が既に椅子から立ち上がってセシルの挨拶を待っていた。
「セシル・アッシュバートンです。本日はお招きいただきありがとうございます。楽しみにしていました」
姿勢を正して落ち着いた声で挨拶をするセシルに二人は優しく微笑む。
近付いてきたセシルに手を差し出すネイサンの手をしっかり握って目を見つめる。
「アッシュバートン伯爵の御子息だね。噂はかねがね。射撃の腕は見事なものだと聞いているよ」
「とんでもない。僕は父の後ろをついて回っているだけですから」
「見せてもらいたいものだ」
「狩猟大会でご一緒できましたら、そのときにでも」
「楽しみだな」
嬉しそうに笑うネイサンがセシルの肩を軽く叩いて座るよう促す。
だがセシルはそれに軽く会釈だけして先にネイサンの妻でありアリスの母親でもあるシンディーに挨拶に向かった。
「お会いできて光栄です、ベンフィールド公爵夫人」
「ようこそお越しくださいました」
差し出された右手をそっと握って身体を軽く曲げ、唇を近付けた。挨拶であるため実際に唇を触れさせることはしない。
優雅に交わされた挨拶に今度はシンディーが座るよう促し、カイルの向かい側、アリスの席の隣に腰掛けた。
「アリス、配膳はパーラーに任せなさい。説明はしてあるんでしょ?」
「そうだけど……」
「あなたのお客様よ。あなたが留守にしてどうするの。彼に居心地の悪さを感じさせるつもり?」
「で、でもおもてなしを──」
「おもてなしはここであなたが座ってするの。あなたの手料理を食べてもらうんだから、作ったら終わり。さっさと座りなさい」
メイドが持ってきたエプロンを付けようとするアリスに座りなさいと指示するシンディーの口調は柔らかだがハッキリとしたもので、カイルに似ている印象があった。
「嫌いな物や食べられない物はあるかい?」
「いえ、好き嫌いはありません。僕、外で食事をするのが恥ずかしいぐらい食べるので、お二人の気分を害さないといいのですが……」
「育ち盛りの食べ盛りだ。私たちが呆れるぐらい食べてほしいものだよ」
「たくさん作ったからたくさん食べてね」
「あはは……」
学校ではマカロンさえ頬張って食べるときもあるが、それをここでするわけにはいかない。あくまでも上品に、アリスが連れてきたゲストとして恥ずかしくない姿を見せなけれならないとセシルは襲いくる緊張に深呼吸する。
言葉はなく、ネイサンが片手を上げたのを合図に使用人たちが静かに動き始めた。
「すごい数の使用人ですね」
「全て任せきりで私はあまり把握できていないんだ」
「彼がバトラーですか?」
「そうだね。そして向こうの彼がランド・スチュワードだ」
セシルの家にも執事はいる。執事が全使用人の長を務めており、中流貴族のほとんどがそうだろう。
だがここはその上がいて、屋敷以外のことも請け負っている使用人がいる。
ランド・スチュワードを雇うのは当主だけでは把握しきれない領地や農地を持っている者。領地の管理、農地の賃貸、その借地料の徴収、境界線調査、領収や支出の記録などを行う。
城のような大邸宅を構えるベンフィールド家はそこからして別格だと喉が鳴る。
「使用人三百人を抱える貴族がいるとは驚きました」
「多いとは思うんだが、賓客が多くてね。必要らしい」
らしいということは自分で決めて雇っているわけではない。
ベンフィールド公爵の仕事は自分が抱える仕事だけで、それ以外のことは全て使用人がする。
「こんなに使用人がいても自分のことは自分でって言うんだから矛盾してるよな」
「ある程度のことは、と言ってるだろ。掃除道具を持ってきて自分で部屋の掃除をしろと言ってるわけじゃない、散らかすなと言ってるだけだ」
「セシルのとこは散らかしても文句言われないだろ?」
「散らかさないし」
「クッキーだマカロンだとカスこぼしまくってるのにか?」
「カイル、そういう話は私たちがいない場所でするものだ」
人の恥を年長者のいる前でするなと注意を受けるとカイルは両手を上げて理解を示す。
「未熟な子供ですまないね」
「いえ、カイルは立派ですよ。学園で誰よりも忙しいのに弱音も愚痴も吐かずに生徒会長の責務を全うしています。来年、生徒会長を務める者は大変だと思います」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
嬉しそうに笑うネイサンにとってカイルという息子は誇りなのだろうとセシルは感じた。
そう教育してきたのか、それともカイルが父親の背を追いかけているのかはわからないが、父親が誇りに思うような人間になっている。
口を開けば嫌味や妹自慢しかしないが、仕事だけは完璧にこなしている。誰にも文句を言わせないほどに。
「アリスとはどうして仲良くなったの? 去年はあなたの名前聞かなかったから、今年仲良くしてくれたのよね?」
運ばれてきたアミューズを口に入れたばかりのセシルに問いかけると慌てて飲み込んで口を拭く様子にアリスが笑う。
「僕とカイルはいつも一緒に食事をしているんです。ヴィンセル王子とアルフレッド・アンベール侯爵子息も一緒に」
「豪華なメンバーだな」
感心するネイサンにセシルが頷く。
「はい。そこにアリスがパンを持ってきてくれたのがキッカケです。とても良い匂いで食欲がそそられ、一つもらうとそれはもう心が豊かになるような美味しさでした。アリスはとても良い子です。優しくて愛嬌があって控えめで、料理もお菓子も上手で美味しい。公爵令嬢でありながら鼻にかけることも人を見下すこともない素晴らしい女性です」
「あらあら、たくさん褒めてもらったわねアリス」
「もう、からかわないで」
ふふふっと笑う母親に照れるアリスを横目で見てセシルも微笑む。
「公爵という爵位がどういうものか、自分たちの地位がどういうものであるかは教えてきたつもりだが、二人は兄妹でありながら全く別の認識を持つようになってしまってね。カイルは全て理解して上手く利用しているんだが、アリスはどうにもその爵位が大きすぎると思っている」
「だって、どこに行っても公爵令嬢って言われるし、何をしても公爵令嬢は素晴らしいってそればかりなんだもの。もし失敗したら公爵令嬢なのに、あの公爵令嬢がまさかって言われるんじゃないかと思うと怖いの」
セシルも気持ちはわからないではなかった。貴族は生まれながらにして貴族で、幼少期から戦いは始まっている。
上流貴族に生まれれば周りからのプレッシャーは巨大なものとなり、成績、品性、言動、特技など様々な分野で評価を受けることになる。
公爵はそのプレッシャーが大きすぎる。だからこそアリスはいつも大人しくしている。常に失敗への恐怖に取り憑かれているのだ。
「でもそういうところを可愛いと思ってくれてるのよね?」
「ええ、すごく」
セシルの即答にシンディーは隠しきれない喜びを笑顔にしてネイサンを見た。
父親と母親の反応は別物で、ネイサンは妻に落ち着きなさいと手で促す。
「セシル君……おっと、君付けは失礼かな」
「いえ、かまいません。公式の場ではありませんので」
「ではセシル君、君はアリスに好意があるように見えるんだが、間違いないかな?」
「お父様やめてくださいっ」
わかりやすいほど単刀直入に聞かれたため、セシルは次に運ばれてきた前菜に手がつけられなかった。
「そうです。もしお許しいただけるのであれば、彼女に、娘さんに婚約の申込みをしたいと考えています」
口に手を当てて驚くシンディーの表情は喜びだが、ネイサンの表情は変わらない。
「アッシュバートン伯爵から聞いてはいるんだが、君は婚約者を必要ないと言い続けているそうだね?」
「はい」
「理由を聞いてもいいかい?」
ファンクラブができるほどモテるのにセシルは婚約者がいない。
セシルはいつも自分を伯爵だと言うが、伯爵家に嫁ぎたい令嬢はごまんといるはず。
探せば料理好きな令嬢はいるだろうに、セシルはそれを探そうともしなかった。
なのにアリスには『料理が上手だから』と言う。
なぜ婚約者を持たなかったセシルが自分に婚約の申込みをしたいとまで言い出したのか、アリスも聞きたかった。
ヴィンセルが送迎のとき、セシルはいつも後乗り先降りだったため、ベンフィールド邸に行ったことがなかったため知らなかった。
ほとんど城のようであるということを。
「ここ……本当に個人宅……?」
自分の家も狭くはない。広いほうだと思っていたが、桁違いだと呆けてしまう。
馬車を降りてから既に十分が経過しているのにセシルはまだ動けないでいた。
「セシル!」
アリスの声にハッと我に戻ったセシルが階段の上を見上げるとドレスアップしたアリスがいた。
「ごめんなさい。到着前にここで待っていようと思ったんだけど、色々あって」
ドレスではなくワンピースを着ているアリスが階段を駆け降りてくる。
普段からそういう格好をしているのか、それとも自分が来るからその格好をしたのかどっちだろうと考えるだけでセシルは表情が緩んだ。
「迎えなんていいよ。それより、色々ってもしかしてワンピースが決まらなかったとか?」
「……そういうのは聞かないのがマナーだよ」
少し恥ずかしそうにしているのが証拠だとニヤついてしまう。
「今日のアリスもすごく可愛いよ」
「あ、ありが──」
「アリスが今日も可愛いのは当たり前だ」
聞こえた声にため息をつきたくなるのはそれがカイルの声だから。
「ベンフィールド邸へようこそ、セシル・アッシュバートン君」
「お招きいただき光栄です、カイル・ベンフィールドさん」
仰々しい挨拶を交わす二人に笑いながらアリスが玄関へと促す。
「すごい広いね。お城かと思った」
「大袈裟ですよ」
「いや、ホントに。使用人ってどのくらいいるの?」
「三百人ちょっとだな」
「さんびゃ!?」
貴族は爵位で全てが決まるわけではない。伯爵だろうと貧乏はいるし、男爵だろうと金持ちはいる。
その家の凄さを表すのは使用人の数。
三百人も使用人を抱えられる貴族は少ない。
けして安くはない使用人の給料。それを三百人分払えるだけの資産がベンフィールド家にはあるのだ。
アリスだけ見ているとその凄さはわからなかったが、こうして生まれ育った家を見るととんでもない御令嬢なのだと思い知る。
「そりゃ令嬢は自分より下の男と結婚しないわけだ。嫌だよね、生まれ育った家より小さい家に嫁ぐのは」
「当然だ。貧乏になるために嫁ぐんじゃないからな」
家のために嫁に行くのが貴族の娘。
アリスもそうだ。行くなら公爵家か王族。伯爵など冗談ではないと一蹴されるだろうと考えるとセシルの表情に苦笑が滲む。
「僕の格好、おかしくない? 家に入って大丈夫?」
「大丈夫、素敵よ」
「ああ、パブリックスクールに入学する感じで初々しいな」
「ホンット感じ悪いよね」
「帰りたけりゃ帰っていいぞ。大歓迎だ」
「絶対にやだね。時間いっぱいまでいるよ」
火花を散らす二人に先が思いやられると首を振るアリスはセシルに耳打ちする。
「今日は両親が一緒なの。大丈夫?」
「覚悟はしてきてるから大丈夫」
「うちの両親のチェックは厳しいぞ」
「カイルより面倒な──……カイルより厳しい人なんかいないでしょ」
楽しげに笑うカイルの後をアリスと一緒に歩くセシルの心臓は一歩前へと進む度にどんどん速く鼓動を打つ。
これが緊張だと久しぶりに感じる感覚に拳を握っては深呼吸する。
「ビビってんのか?」
「ベンフィールド公爵夫妻に会うのに緊張しない人間なんていない」
「それもそうか」
サロンでも父親が姿を見せるだけで場の空気が変わることをカイルは知っている。自分はまだ小僧だとナメられているが、父親は違う。
ネイサン・ベンフィールドの発言力は貴族界の中でも大きく、それは時に王の耳にまで入るほどだ。
貴族たちはネイサンに媚びを売り、嫌われないために必死。
普段から口を開けば自慢か人を見下すことしか言わない貴族ですらネイサンには笑顔で手を擦り合わせる。
嫌われれば終わり。セシルは今日、アッシュバートンの家名を背負ってきている。自分の失礼な言動でベンフィールド夫妻を怒らせでもしたらアッシュバートン家は終わる。
緊張しないわけがないともう一度深呼吸をした。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。僕、こう見えて意外と緊張するタイプなんだ」
「ふふっ、大丈夫よ。お兄様は脅してるだけだから」
「だといいけどな」
「お兄様、意地悪はそこまでです」
口を閉じるように言うとカイルはドアを開けて中へ入るよう促す。
食堂だろう場所は自分の家よりも遥かに豪華な造りになっていて、様式や飾り、調度品の全てがセシルの両親では手に入れられないだろう物で揃えられている。
高すぎる天井から吊るされているシャンデリア。一体いくらするんだろうと下衆なことを考えて口を開けっぱなしにするセシルの手をアリスが横で軽く突いた。
ハッとして慌てて前を向くとアリスの両親が既に椅子から立ち上がってセシルの挨拶を待っていた。
「セシル・アッシュバートンです。本日はお招きいただきありがとうございます。楽しみにしていました」
姿勢を正して落ち着いた声で挨拶をするセシルに二人は優しく微笑む。
近付いてきたセシルに手を差し出すネイサンの手をしっかり握って目を見つめる。
「アッシュバートン伯爵の御子息だね。噂はかねがね。射撃の腕は見事なものだと聞いているよ」
「とんでもない。僕は父の後ろをついて回っているだけですから」
「見せてもらいたいものだ」
「狩猟大会でご一緒できましたら、そのときにでも」
「楽しみだな」
嬉しそうに笑うネイサンがセシルの肩を軽く叩いて座るよう促す。
だがセシルはそれに軽く会釈だけして先にネイサンの妻でありアリスの母親でもあるシンディーに挨拶に向かった。
「お会いできて光栄です、ベンフィールド公爵夫人」
「ようこそお越しくださいました」
差し出された右手をそっと握って身体を軽く曲げ、唇を近付けた。挨拶であるため実際に唇を触れさせることはしない。
優雅に交わされた挨拶に今度はシンディーが座るよう促し、カイルの向かい側、アリスの席の隣に腰掛けた。
「アリス、配膳はパーラーに任せなさい。説明はしてあるんでしょ?」
「そうだけど……」
「あなたのお客様よ。あなたが留守にしてどうするの。彼に居心地の悪さを感じさせるつもり?」
「で、でもおもてなしを──」
「おもてなしはここであなたが座ってするの。あなたの手料理を食べてもらうんだから、作ったら終わり。さっさと座りなさい」
メイドが持ってきたエプロンを付けようとするアリスに座りなさいと指示するシンディーの口調は柔らかだがハッキリとしたもので、カイルに似ている印象があった。
「嫌いな物や食べられない物はあるかい?」
「いえ、好き嫌いはありません。僕、外で食事をするのが恥ずかしいぐらい食べるので、お二人の気分を害さないといいのですが……」
「育ち盛りの食べ盛りだ。私たちが呆れるぐらい食べてほしいものだよ」
「たくさん作ったからたくさん食べてね」
「あはは……」
学校ではマカロンさえ頬張って食べるときもあるが、それをここでするわけにはいかない。あくまでも上品に、アリスが連れてきたゲストとして恥ずかしくない姿を見せなけれならないとセシルは襲いくる緊張に深呼吸する。
言葉はなく、ネイサンが片手を上げたのを合図に使用人たちが静かに動き始めた。
「すごい数の使用人ですね」
「全て任せきりで私はあまり把握できていないんだ」
「彼がバトラーですか?」
「そうだね。そして向こうの彼がランド・スチュワードだ」
セシルの家にも執事はいる。執事が全使用人の長を務めており、中流貴族のほとんどがそうだろう。
だがここはその上がいて、屋敷以外のことも請け負っている使用人がいる。
ランド・スチュワードを雇うのは当主だけでは把握しきれない領地や農地を持っている者。領地の管理、農地の賃貸、その借地料の徴収、境界線調査、領収や支出の記録などを行う。
城のような大邸宅を構えるベンフィールド家はそこからして別格だと喉が鳴る。
「使用人三百人を抱える貴族がいるとは驚きました」
「多いとは思うんだが、賓客が多くてね。必要らしい」
らしいということは自分で決めて雇っているわけではない。
ベンフィールド公爵の仕事は自分が抱える仕事だけで、それ以外のことは全て使用人がする。
「こんなに使用人がいても自分のことは自分でって言うんだから矛盾してるよな」
「ある程度のことは、と言ってるだろ。掃除道具を持ってきて自分で部屋の掃除をしろと言ってるわけじゃない、散らかすなと言ってるだけだ」
「セシルのとこは散らかしても文句言われないだろ?」
「散らかさないし」
「クッキーだマカロンだとカスこぼしまくってるのにか?」
「カイル、そういう話は私たちがいない場所でするものだ」
人の恥を年長者のいる前でするなと注意を受けるとカイルは両手を上げて理解を示す。
「未熟な子供ですまないね」
「いえ、カイルは立派ですよ。学園で誰よりも忙しいのに弱音も愚痴も吐かずに生徒会長の責務を全うしています。来年、生徒会長を務める者は大変だと思います」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
嬉しそうに笑うネイサンにとってカイルという息子は誇りなのだろうとセシルは感じた。
そう教育してきたのか、それともカイルが父親の背を追いかけているのかはわからないが、父親が誇りに思うような人間になっている。
口を開けば嫌味や妹自慢しかしないが、仕事だけは完璧にこなしている。誰にも文句を言わせないほどに。
「アリスとはどうして仲良くなったの? 去年はあなたの名前聞かなかったから、今年仲良くしてくれたのよね?」
運ばれてきたアミューズを口に入れたばかりのセシルに問いかけると慌てて飲み込んで口を拭く様子にアリスが笑う。
「僕とカイルはいつも一緒に食事をしているんです。ヴィンセル王子とアルフレッド・アンベール侯爵子息も一緒に」
「豪華なメンバーだな」
感心するネイサンにセシルが頷く。
「はい。そこにアリスがパンを持ってきてくれたのがキッカケです。とても良い匂いで食欲がそそられ、一つもらうとそれはもう心が豊かになるような美味しさでした。アリスはとても良い子です。優しくて愛嬌があって控えめで、料理もお菓子も上手で美味しい。公爵令嬢でありながら鼻にかけることも人を見下すこともない素晴らしい女性です」
「あらあら、たくさん褒めてもらったわねアリス」
「もう、からかわないで」
ふふふっと笑う母親に照れるアリスを横目で見てセシルも微笑む。
「公爵という爵位がどういうものか、自分たちの地位がどういうものであるかは教えてきたつもりだが、二人は兄妹でありながら全く別の認識を持つようになってしまってね。カイルは全て理解して上手く利用しているんだが、アリスはどうにもその爵位が大きすぎると思っている」
「だって、どこに行っても公爵令嬢って言われるし、何をしても公爵令嬢は素晴らしいってそればかりなんだもの。もし失敗したら公爵令嬢なのに、あの公爵令嬢がまさかって言われるんじゃないかと思うと怖いの」
セシルも気持ちはわからないではなかった。貴族は生まれながらにして貴族で、幼少期から戦いは始まっている。
上流貴族に生まれれば周りからのプレッシャーは巨大なものとなり、成績、品性、言動、特技など様々な分野で評価を受けることになる。
公爵はそのプレッシャーが大きすぎる。だからこそアリスはいつも大人しくしている。常に失敗への恐怖に取り憑かれているのだ。
「でもそういうところを可愛いと思ってくれてるのよね?」
「ええ、すごく」
セシルの即答にシンディーは隠しきれない喜びを笑顔にしてネイサンを見た。
父親と母親の反応は別物で、ネイサンは妻に落ち着きなさいと手で促す。
「セシル君……おっと、君付けは失礼かな」
「いえ、かまいません。公式の場ではありませんので」
「ではセシル君、君はアリスに好意があるように見えるんだが、間違いないかな?」
「お父様やめてくださいっ」
わかりやすいほど単刀直入に聞かれたため、セシルは次に運ばれてきた前菜に手がつけられなかった。
「そうです。もしお許しいただけるのであれば、彼女に、娘さんに婚約の申込みをしたいと考えています」
口に手を当てて驚くシンディーの表情は喜びだが、ネイサンの表情は変わらない。
「アッシュバートン伯爵から聞いてはいるんだが、君は婚約者を必要ないと言い続けているそうだね?」
「はい」
「理由を聞いてもいいかい?」
ファンクラブができるほどモテるのにセシルは婚約者がいない。
セシルはいつも自分を伯爵だと言うが、伯爵家に嫁ぎたい令嬢はごまんといるはず。
探せば料理好きな令嬢はいるだろうに、セシルはそれを探そうともしなかった。
なのにアリスには『料理が上手だから』と言う。
なぜ婚約者を持たなかったセシルが自分に婚約の申込みをしたいとまで言い出したのか、アリスも聞きたかった。
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僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。
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