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番外編

兄と妹

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 フロガに到着したフランはまるで屍のようだった。
 何も見ない、動かない、喋らない。
 まだ幽霊のほうが悪戯をするんじゃないかと思うほど憔悴しきっていた。
 エルドレッドはそれを無理にどうこうしようとは思っていない。
 イカれた親元で育つと子は歪む。それを経験しているエルドレッドにとってフランは哀れな被害者であり加害者でもあった。
 フロガに連れて行くことはエルドレッドにとって賭けだった。
 殺されかけたミュゲットがフランを憎み、アルフローレンスに処刑を願えば賭けは失敗。
 もし話を聞いて罪悪感を抱けば賭けは成功。
 ミュゲットの優しさを利用することにはなったが、エルドレッドはどうしても見過ごせなかった。

「フラン、ご飯だよ」

 フロガに来て一ヶ月が経った頃、ようやくフランは口を利くようになった。
 エルドレッドが運ぶ物だけを口にしてエルドレッドにだけ喋るようになった。
 利用できるものはなんでも利用するフランらしからぬ行動だが、エルドレッドはそれでいいと思っている。
 どんな変化でもあるほうが嬉しいのだと。

「肌艶少し戻ってきたかな」

 病的に痩せていたフランの栄養管理をして一ヶ月、体型は少し戻りつつある。
 まだ完食とまではいかないため戻ったとは言えないが、病的な感じはなくなった。

「どうした?」

 ジッと見上げてくる瞳も少し前までは何も映さないガラス玉だったが、今はハッキリとエルドレッドを映している。

「……どうして助けてくれたの?」
「あのままにしてたら死んでただろうからな」
「フランが死んでもあなたには関係ないじゃない。血が繋がってるだけの他人なんだから」

 間違いではない。母親が同じなだけで一緒に暮らしてきたわけではないのだから家族ではない。
 身体の関係は持ってしまったが、今更それを変えられるわけではないし、今からそれを続行するつもりもない。
 助ける正当な理由は存在しないのだ。

「……死にたかったかい?」
「死にたくなんかなかったよ。でも死ぬんだと思ってた。ミュゲットのこと殺そうとしたし、皇帝はすっごく怒ってたし……ミュゲットだって……フランなんか殺してほしいと思ってるって……」

 言いかけてやめた。
 ミュゲットは甘い人間だから殺されかけても妹を殺せとは言えない人間だとフランは知っている。
 何を言っても何をしても許してくれるような人間だからと唇を噛み締めるフランの涙が頬を伝って床に落ちていく。

「ミュゲットちゃんはお前のことを愛してるよ。お前が嫉妬でおかしくなって殺そうとしても彼女はお前への愛を捨てきれないんだ」
「だってミュゲットはバカだもん。鈍感で、ノロマで、嘘が下手で、騙されやすくて……優しくて……」

 ボロボロとこぼれていく涙と共にこぼれていく言葉。
 何も喋らなかった一ヶ月の間、フランはずっとミュゲットのことを考えていた。
 思い出す幼少期からの思い出と殺すまでのこと、そして別れの瞬間。 
  
「ミュゲットは何も知らないフリをしてるんだって思ってた。鈍感なフリして楽なほうに、守られる道を選んでるんだって。ミュゲットはそれが許されたから。でもそれはフランも同じだった。パパとママと三人でいるとき、ミュゲットはいつも寂しそうにフランたちを見てた。自分だけがどこか違うことに気付いてたんだと思う。でもフランはそんなミュゲットに気付かないフリをした。おいでって言わずに、ミュゲットは家族じゃないんだからって……一人ぼっちになればいいって……」
「うん、それで?」
「ミュゲットもいっぱい我慢してた。フランのワガママにいつも付き合ってたし、フランが辛く当たっても受け入れてくれた。いつだってお姉ちゃんだからって言ってくれたのに……フランはそれを当たり前だって思ってた。傷ついた顔するミュゲットが許せなかったし、もっと傷つけばいいと思ってた……」

 それが間違ったことだと気付いたのはミュゲットが愛を伝えてくれてから。
 遅すぎる後悔に涙が止まらないフランの背中を撫でると泣き声が大きくなる。

「フランが嫌いにならなきゃいけなかったのママとパパなのに、ミュゲットだけがフランをちゃんと見てくれてたのに……フランは……ミュゲットを恨み続けた。グラキエスに連れて行かれたとき、ミュゲットばっかり優遇されて余計に嫌いになって、怒って、憎んで、恨んで……殺そうとした」

 一度思い始めるとそれに絡め取られて自分では解けなくなってしまう。
 エルドレッドにはよくわかる。

「でも本当は……ちゃんと……ミュゲットに言わなきゃいけなかったの。ありがとうって……ごめんなさいって……」

 もう全部わかっているのだ。
 自分がしなければならないこと、自分が変わらなければならないこと。
 それがわかっているならフランはまだ戻れるとエルドレッドは確信する。

「そういう言葉はいつ言っても遅くないんだよ」

 エルドレッドはミュゲットと深く関わりがあったわけではない。
 フロガで少し過ごしたぐらいだが、ミュゲットが人を切り捨てられる人間ではないことはわかった。
 酷い目に遭わされながらもアルフローレンスを愛した女。
 人の心をちゃんと見て愛せるのだと思った。
 それはフランにも同じだと確信したのは決断を迫られた日のこと。
 できないと涙するミュゲットならフランを許すはずだと。
 まだ複雑な思いを抱えているフランが素直に謝罪をすることはできないだろうし、それを受け入れて何事もなかったかのように接することはミュゲットにだって難しいだろう。
 十六年間共に育った中で育まれてた愛情に嘘はない。だからこそ難しくはある。
 切ってしまえば簡単なものが切れなくて苦しんでしまう。
 アルフローレンスもそうだ。
 自分を見捨てた兄など切り捨ててしまえばいいのにグラキエスに戻ることも会いに来ることも許している。
 口では冷たくしても全てを拒絶することはしない。
 巡り合うべくして巡り合ったのだと二人の優しさを思い出してエルドレッドは小さく微笑んだ。

「お前の心の波が穏やかなものになったら手紙を書けばいい」
「……受け取ってくれると思う?」
「わからない。もしかしたら何年も何十年も読まずにしまわれることになるかもしれないし、すぐに読んで返事が来るかもしれない」
「そう、だよね……」

 それだけのことをしてしまったのだ。
 罵り、嘲笑い、奪い、騙し、殺そうとした。
 そんな人間の手紙を素直に受け取るほうがどうかしている。
 破り捨てられてもおかしくはない。
 それでもミュゲットはきっと捨てはしない。
 返事が来なければ読まれたかもわからない。
 ずっと気にしてしまいそうだと苦笑する。

「許してくれるかな……」
「許しを願うのか? 殺そうとしたのに?」
「…………そうだね……」

 エルドレッドの指摘にフランはハッとする。
 自分が愚かなことをしたと気付いても許してもらおうと考える浅はかさが残っているのだと。
 勝手に嫉妬して勝手に暴走して殺そうとした人間をなぜ許せるのか。
 自分だったら絶対に許さない。殺してやるとさえ思うだろう。
 ミュゲットの優しさにまた勝手に期待しようとした自分がいることにフランは唇を噛み締めた。

「した側っていうのは簡単に軽く思っちゃうんだよ。時間が経つに連れて罪の意識は薄まっていく。でもされた側はそうじゃない。何年何十年経っても色褪せることなく当時の思いのまま色濃く残り続けるんだ。許す許さないなんてのは俺たちが言っちゃいけない言葉なんだよ」

 腕で目を擦りながら何度も頷くフランの唇がへの字に歪んで震える。
 殺そうとした人間が被害者のように泣くなと自分に言い聞かせても涙が出てくる。
 自分のことをどうしようもない人間だと思うのは初めてで、弱いのはミュゲットではなく自分だと今更になって後悔していた。

「俺もね、後悔してるんだよ。あのとき、アルの手を取らなかったことをさ」

 顔を上げたフランの涙を手のひらで拭ってやりながら苦笑を見せるエルドレッド。

「そんな風に見えなかった……」
「アルがそれを望んでるからだよ。俺が頭を下げることも謝罪を口にすることも許さない。後悔してるって言うこともね。できたことはたくさんあるはずなのに、俺は自分だけが楽になることを考えた。自分のためだけに生きることを選んだんだ」
「……どうすることが最善だったと思う?」
「……わからないなぁ……」

 何百回では足りないほど考えた。
 考えない日はなかった。寝ても覚めても考える。後悔してはこれでよかったんだと言い聞かせる。そしてまた考えるの繰り返し。
 それは今も変わっていない。

「俺が手を取って一緒に逃げてたらアルはミュゲットちゃんには出会えなかった。でもあれだけ歪んでしまうことはなかった。いや……でも結局はイカれた両親から逃げても飢えや暴力の中で生きることになったから歪んでたかもしれない」
「あなたも歪んでるの?」
「歪んでるよ。そう見えないように努めてるだけでね」

 自分が歪んでいないと思ったことはない。正常だと思おうとしたことも。父親から受けた歪んだ愛情はアルフローレンスと同じで消えないものとなって身体中に残っている。
 痛みと苦しみ、絶望に喘いだ日々は髪を切ったことで薄れはしない。
 明るく振る舞うのは自分のため。闇へと落ちてしまわないようにするために自分を偽って生きてきた。

「本当のあなたはどこにいるの?」
「……どこだろう。本当の自分がどれなのか自分でもわからないんだよ。俺は自分を偽ることでしか生きられない。自分のためにしか生きられない男だから上手く生きていくためにどんな顔だって見せてきたから」
「でもフランを助けてくれた」

 助けたという言葉にエルドレッドは首を振る。

「それも俺のためだよ。言っただろ、罪滅ぼしだって。アルを助けられなかったから、せめてお前だけはって思ったんだよ。お前のためじゃなく、俺の心を救うための行動だ」
「でもフランは助けられた」

 自分のために生きている中で誰かが救われたのならそれは【ラッキー】なこと。
 フランを救っても弟を救えなかった過去は変えられない。一生許されることもないだろう。
 痩せ細って死を待つばかりだった妹を救っただけ。
 まだ救ったつもりになっているだけでもある。
 フランが変わらなければ本当の意味で救ったことにはならない。

「いつ言っても遅くないなら、言えばいいんじゃない?」

 自分が言った言葉だが、エルドレッドは首を振る。

「アルがそれを望んでないんだよ。お前に言っといてなんだけど、謝罪するのは自分の心を軽くするためだ。謝ったという免罪符欲しさにね。許す許さないは相手の自由。でも自分は謝った。そう思うことをしたくないんだよ」
「じゃあフランは謝らないほうがいいの?」
「ごめん。無責任なことを言った。……説き伏せるようなこと言っただけで俺自身何も実践してないし、しようともしないんだからバカだよね。フランがどうしたいのかが大事なんだよ。それに、アルとミュゲットちゃんは違う」

 ミュゲットはきっと許すだろう。ああいう人間は恨み続けることができない。
 殺されかけたのに、その瞬間の記憶が残っているのに殺す判断ができないのが証拠のようなもの。
 フランが心から反省して謝れば許しを与えるはず。
 だが、それはフランが心から反省する必要がある。
 今こうして涙を流したことが心から反省できたことにはならない。
 何を思い出しても正しい判断ができるようにならなければ反省したとは言えない。
 そうなるには時間が必要だ。
 自分は十年以上経った今もその判断に至れていないのだから。

「自分のしたことを仕方ないと思う瞬間があるならダメなんだよ。お前は殺さないって選択肢を選ぶこともできた。俺は手を取るって選択肢を選ぶこともできた。でもそうしなかった。最悪なほうを選んだんだ。そこに『でも』って言葉は絶対に必要ない。当時の感情がどうだったとか相手には関係ないんだよ」
「……うん……」
「俺たちも被害者だ。イカれた親のイカれた愛情に歪まされた被害者。でもそんなのは誰かを傷つけていい理由にはならない」
「……フランのせいでたくさんの人が傷ついた。エルムントもフランのせいで死んじゃった……」

 フランにとって大きなショックでもあったエルムントの死。
 心から寄り添ってくれようとしたエルムントを騙して計画に利用した。
 許されることではない。
 死ぬ必要はなかった男だったのにと床に伏せて身体を震わせるフランは泣き声を上げるのを必死に堪えている。

「フランは生きてていいのかな……」
「ミュゲットちゃんがそう願ってる以上、お前が死にたいと思っても死んじゃダメなんだよ」

 生きていいとは言わない。人を殺そうとした人間の生死に関する優しい言葉は必要ないと思っている。
 アルフローレンスが死んでいたらきっと今以上の後悔に苛まれて死んでいたかもしれないが、アルフローレンスはきっとそれも許さなかっただろう。
 生きてくれているなら許してもらえなくてもいい。救いを、最後の希望をあの瞬間にかけていた弟を見捨てたのは自分なのだから。
 自分にだって生きる資格があるのかさえわからないエルドレッドにフランが望む言葉をかけてやることはできない。

「フランはどうしたらいい? これから何をすればいいの?」
「お前はこれからここで生きていくんだよ。フローラリアでもグラキエスでもなくフロガの民として」
「何すればいいの?」
「フロガのためにできることをやろう」
「舞うことしかできない……」

 王女だからとチヤホヤされてきたフランにとって自分で選ばなければならない人生は真っ白な霧の中を歩けと言われているようなもの。
 右を見ても左を見ても何もない状態に何をすればいいのかわからず困惑する。
 
「なら舞えばいい。お前が舞って、それを綺麗だって思ってくれる人ができるような舞をしよう」
「衣装、グラキエスに置いてきちゃった」
「いいさ。どうせ今の体型じゃ合わないだろ」
「そだね……」

 自慢の身体も今じゃミュゲットのように細くなってしまった。
 ハリのある身体が自慢だったのに今はどこを見ても自慢できる場所などない。
 
「お前にできることがあるならそれから始めればいい。俺はそれをサポートするから」
「……フラン、そんなことしていいのかな。ミュゲットは不満に思わないかな……」
「お前が隅っこでカビ生やしてるって聞くよりずっと安心すると思うよ」
「だと、いいんだけど……」

 楽しむことさえ悪と捉えるほど心が落ちてしまっているフランをこのまま一人にしておけばあっという間に闇の中へと落ちてしまうだろう。
 一度落ちてしまえば拾い上げるのは簡単ではない。
 アルフローレンスの暴走を止めるのに十年はかかった。それも兄の自分ではなく十六歳の少女が止めた。
 真実の愛を与えてやれない自分がフランを止めることはできない。かといってまだ動き始めたばかりのフランに男をあてがうこともできない。
 エルドレッドができることは兄として支えることだけ。
 それが正しいものかどうかはやってみなければわからない。
 エルドレッドにとってもこれは右も左も分からない霧の中を歩いていくようなもの。

「今更だけど、お前の兄としてお前を見守らせてほしい」

 本当に今更な話だと自覚はある。それでもエルドレッドはもう逃げたくなかった。
 知らないフリをして逃げ出して自分だけ楽になるのはやめようと。

「よろしく、お願いします」

 頭を下げたまま背中を震わせるフランにエルドレッドは笑顔を見せた。
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