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まだ見ぬ運命の相手
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目を覚ますとこれが現実だと思い知らされる光景が広がっていた。
両親、兄、ウィルが心配そうに顔を覗き込んでいる。
抱きしめてくれていたレオはいない。手を握ってくれたアーウィンはいない。微笑んでくれたヨナスはいない。
ここが自分の居場所なのだ。フローリア・ベルとして生きる場所なのだと思い知らされる。
「フローリア! どこか痛いとかはない?」
「大丈夫です。ちゃんと……」
流れる涙を拭って起き上がろうと腕に力を込めた瞬間、違和感に気付いた。
「あれ……?」
「どうかなさいましたか?」
心配そうに声をかけるウィルに戸惑いの表情を向ける。
「足が……身体が……動かない……」
「寝たきりでしたからね」
足が動かないと言うのは演技だった。気絶する前までは足はちゃんと動いたし、一人ベッドの上で横になったり座ったりしていた。歩くことができなかっただけだ。
全ては身体にハンデがあれば面倒なことは起きないだろうと考えてのことだったのに足を動かそうとしたら本当に動かなくなっている。
別れを済ませるまではまだ完全に人間にはなっていなかったが、今回ちゃんと別れができたことで本当に人間になったということなのか。まるで本当に十五年間寝たきりだったかのように身体に力が入らなくなっていた。
「でも大丈夫ですよ。これからお医者様のご指示に従ってリハビリをすれば必ず歩けるようになりますから」
明るい笑顔で励ましてくれるウィルに目を閉じる。
もう困惑する必要はない。ヨナスはハッキリ言ったのだ。人間として生きるのだと。
彼らは“家族”であり、受け入れるべき存在。
だからフローリアは頷いた。もう演技で楽をするのはやめようと決め、この身体をちゃんと人間として生かすべきだと覚悟を決めた。
「でも、どれだけ頑張ってもフロース王国の王子とお会いする日までには間に合わないでしょう?」
「それもお伝えすればよいだけですよ。必ず歩けるようになるからと」
「延期してもらうわけにはいかない?」
「ヴィンセント王子にお会いすればそんな心配は杞憂だったとわかります」
誰に聞いてもヴィンセント王子とやらを否定することはなく、彼は一体どんな優良人物なのか興味が湧いてきた。しかしそれと同等に不安も多く、リハビリというものがどれほど続くのか、歩けない人間がどの程度で歩けるようになるのかわからないためノリ気にはなれない。
「早くお会いしたいですね」
「ウィルがあいたいだけなんじゃない?」
「え? いえいえまさか! フローリア様がヴィンセント様にお会いするのを楽しみにしているだけです。きっとお似合いの夫婦になられることでしょう」
夫婦と言われてもまだピンとはこない。人間を愛し、キスをして、子供を産んで、年老いるまで互いを愛し続け、一瞬のようで長い長い時間を共に過ごす運命の相手。
人間の愛は数えきれないほど見てきたし、飽きることなく見ていられた。でも、自分がその愛を誰かと紡ぐのはまだ考えられない。ましてや名前しか知らない顔も知らない相手とのことなんて想像さえできない。
「お似合いの夫婦って言われてもどんなものかわからないわ」
「旦那様と奥様のような関係ですよ」
あの夫婦が仲が良いのは知っているが、それを羨ましいとか微笑ましいと思うことは少なかった。
子供の教育方針に関して意見の対立で起こる言い合いを幾度となく聞いてきたのもあって、あれがお似合いの夫婦代表であるなら結婚などしたくないと思ってしまう。
顔も知らない相手との結婚につきまとう不安を、彼に会うまでにどこまで拭い切れるだろう。
「決まった夫婦の形などありませんから、お二人はお二人の夫婦の形を紡いでいくのが一番だと思います」
「でも決まりがないとわからないわ。夫婦の道が右と左に道が分かれてたらどっちに行けばいいの?」
「行きたい方に」
「彼と私の意見が衝突したら?」
両親のように。
「話し合うんです」
「話し合い……」
天使は言われたことをするだけ。フローリアは言われたことの半分もできてはいなかったが、それでもそこには必ずヨナスやアーウィンからの指示があった。困ったら二人に聞けばよかったし、天使は話し合いをすること自体ないため従うだけだった。
自分で決めろと言われても何から考えてすればいいのかわからないのだ。
「王子は私みたいな性格は嫌いだと思うわ」
「どうしてそう思われます?」
「だって、上手く身体が動かないし、自分じゃ何も決められないし、この世界のことなんて何も知らないのよ? そんな子を好きになる人なんている?」
長い眠りから目を覚ましたばかりの少女にいきなり国のために結婚しろと押し付けるのはあまりにも残酷で、自国のことさえ知らない状態で他国の王子と結婚したとてなんの役にも立たないことは想像に難くない。ましてやこの気弱さとネガティブさをヴィンセントがどう受け止めるのか。
クローディアもなかなかにネガティブだったが、妹もよく似ている。
どうフォローしても否定しそうで何を言うべきか迷っていた。
困っているウィルの腕を軽く押して母親がベッドに腰掛ける。
「フローリア、ヴィンセント王子にお手紙を出してきたのよ。あなたの今の状況をちゃんと書き記しておいたから理解してくれているはず。きっと良いお返事がもらえるわ」
(もう出したの!?)
あらかじめ言っておけば詐欺にはならない。会ったあとで何か言われたとしても手紙にそう書いたはずだと反論できる。それはありがたい話なのだが、オーランドが勝手に決めたと涙していたのになぜ乗り気なのかがいまだにわからない。嫁に出すのは早すぎると思っているのではないのかと。
嬉しそうに笑う母親を見ると反論はできない。だからといって不安のまま結婚したくもない。覚悟を決めなければという思いはあれど、心はそう簡単に決まってはくれないのだ。
だからフローリアは一つお願いしてみることにした。
「……ママ」
「ッ!」
呼んでもらえると思ってなかった母親の目に涙が溢れる。
「なあに? ママの愛しい天使」
柔らかな手が頬に添えられ、涙する母親の手を握りながら苦笑混じりに問いかける。
「ウィルと結婚しちゃダメ?」
「お嬢様!?」
一番驚いたのはウィルだ。両親が鬼の形相でウィルに振り返るため慌てて首がちぎれそうなほど左右に振って誤解だと弁明する。
「だって、ウィルは私のことをよく知ってくれてるし、結婚しても今の状況は変わらないでしょ? 誰かに迷惑をかけることもないし、ウィルは知らない人じゃないもの」
ヴィンセントという知らない王子と結婚するよりずっと安心であると思いきって問いかけてみたのだが、両親はフローリアを見てはいなかった。
「ウィル……」
「は、はい!」
「うちの娘に手を出したの……?」
声を震わせながらの問いかけにウィルは首を振り続ける。
「とんでもありません! 私は奥様や旦那様を裏切るようなことは決して致しません! 拾っていただいたご恩を仇で返すような真似は絶対に致しません! 神に誓います!」
胸に手を当てながら必死に言葉を返すウィルに両親がフッと表情を和らげる。
「……そうよね。恩義を忘れるわけないものね」
「はい!」
「もう、あなたが変なこと言うからママたちびっくりしちゃったじゃない」
さっきまで向けられていた感情とは正反対の表情と柔らかい声でフローリアに向き直った姿に恐ろしさを感じながら額に滲んだ汗を白いハンカチで拭くウィルはフローリアが何も納得できていないままであることに頭が痛くなるのを感じた。
両親もウィルを信用しているから目覚めたばかりの大事な娘の世話役を任せたのだ。そこに手を出そうものなら自分たちが持てる全ての力を使って彼の未来を潰す考えが頭をよぎった。
「ダメ? ヴィンセント王子じゃないとダメなの?」
ウィルがいいとお願いを試みるフローリアにウィルも母親も困った顔で十秒ほど黙っていた。
口を開くと言葉より先に溜息が漏れる。その様子はアーウィンによく似ていて、ダメなのだと察した。
「ウィルは使用人なの」
「使用人でもいい」
「……あなたはヴィンセント王子と結婚するの」
ダメとは言わなかったが、許可を出さない時点で答えはわかりきっている。車椅子であろうと世間知らずであろうと相手から断られデモしかない限りはヴィンセントと結婚しなければならないのだ。
「ヴィンセント王子はとてもイケメンなのよ。絶世の美男子と言われてるんだから」
絶世の美男子だろうとフローリアにはどうでもよかった。人間になって過ごすこれからの人生をウィルとなら楽しく、今まで祝福してきた者たちのような幸せを見つけられそうだと思ったからお願いしたのだが、運命は決まっているらしく変えられなかった。
せめてフローリア・ベルが既に恋をしている状態ならよかった。人間を愛せと言うならそういう状態にしてくれていてもよかったのにと心の中でヨナスに訴えかけるも天使ではなくなってしまった今、この恨み節も届きはしないのだろう。
「ヴィンセント王子にお会いしたらきっと気持ちも変わるわ」
「……ええ」
「彼はとっても優しい人だから、きっとあなたの全てを受け入れてくれるわ」
「……ええ」
フローリアは自分が結婚する相手であるヴィンセント王子がどういう人間なのかよりも、ウルマリアが惹かれた人間がどういう相手なのかが気になっていた。
ウルマリアは人間に恋をして地上に落ちてしまった。恋をしたから嫉妬をして、天使の力を別に使おうとした。それほどまでに人間に恋焦がれるとはどういう感じなのか。あのウルマリアにそこまでさせるほど魅力的な人間のほうがずっと興味があった。
考え込んでいるように見える娘の顔を両手で持ち上げた母親が微笑む。
「あなたの幸せを願ってるわ」
「……国の幸せじゃなくて?」
オーランドの決定に涙していた母親と今の母親は言ってることが違うと拗ねたくなる気持ちから嫌味なことを言ってしまうも母親は笑顔のまま。
「ええ、もちろんよ。ヴィンセント王子と結婚したらあなたは必ず幸せになれるの」
「国も?」
「フローリア」
少し怒ったような声を出す母親に「ごめんなさい」と呟くように小声で謝ると小さな溜息と共に抱きしめられた。腕を回し返すことはしなかったが、突き放すこともしない。
こういうときはレオにしたように抱きしめ返すのが正解なのだろう。レオはいつも溜息を吐きながらも抱きしめて頭を撫でてくれた。まさに今、母親がしてくれていることをレオはずっとしてくれていた。その度にフローリアは甘えて抱きついた。
だから今もそうすることが正解なのだとわかっていながらも腕は回さなかった。
人間のルールを知らないフローリアは娘が嫌だと言っているのにそれでも嫁に出そうとする親をまだ好きにはなれていないから。
「あなたは何も心配しなくていいのよ。ママに全部任せて。ママの行動は全てあなたのためよ」
「ありがとう」
フローリア・ベルという娘はベル家には存在しなかった。クローディアが〝代わりの王女〟をと望んだことで作られた存在。それを知るのはフローリアだけで、ヨナスの力によってベル家の人間には最初からフローリア・ベルという娘は存在していたことになっている。
オーランドを除く家族はフローリアを愛して優しくしてくれる。それにどこまで応えられるのか、自信はない。
いつか、心の底から笑い合える日が来るのだろうか? オーランド・ベルを兄だと慕い、家族で良かったと安堵する日が来るのだろうか?
天界には日付がない。朝も昼も夜もない。だから昨日もなければ今日も明日もない。これほどまでに目まぐるしく状況が変わる中で生きていないため、込み上げるのは希望ではなく不安のみ。
「ヴィンセント王子と会って嫌だったら断ってもいい?」
「……パパに相談しましょうね」
本当に相談しなければならない相手は父親ではなくオーランドだ。
この場にオーランドの姿はなく、彼がいかに冷たい人間であるかがよくわかる。
目覚めたばかりの妹が食事を受け付けずに吐いたことに嫌悪感を示し、吐かなくなるまで食堂には来るなと吐き捨て、妹が倒れようと顔を見せることもない。
彼は妹を愛してはいない。そして家族も彼を愛してはいないのだ。
「ヴィンセント王子は優しいからあなたが歩けないことなんて気にしないわ。自分の身体のことで不安になることなんてないの」
「……そうね」
「リハビリはゆっくり頑張ればいいの」
「そうするわ」
どれほど反論したところで断る許可が出ないのなら反論する意味はない。
足は動かなくてもいいが、せめて自分で起き上がってベッドの上で座れるようになるぐらいまでは回復したいとリハビリは頑張ることにした。
「ふふっ、そうね。ママの天使は頑張り屋さんだわ。ウィル、ムリは絶対にさせないでちょうだい」
「承知しました」
深く頭を下げるウィルを横目にフローリアの頬にキスをすると手を振って部屋を出て行く母親の背中に向かってフローリアは大きな溜息を吐き出した。
「変な人だったらどうしよう……」
誰が素敵な人だと言おうと本人と接触するまでは安心できない。結婚してしまったらもうウィルとは一緒にいられなくなる。誰が他にこれほど優しく接してくれるのか。ヴィンセント王子が本当は優しくない最低な人だったら、と拭えない不安に目を閉じる。
「ヴィンセント王子は本当に素敵な方ですが、お会いするまで不安なのは仕方ありませんね」
「お兄様も協力してくれないかな……」
ウィルの微笑みが苦笑に変わる。
「オズワルド様はともかくオーランド様に言えばとんでもないことになりますよ」
「オーランドお兄様とはほとんどお話しないもの。お顔も見せてくれないんだから」
「怖くないのですか?」
「怖くは……」
怖くないと言えば嘘になる。あの目、あの声、あの言い方は人を威圧する。両親さえも歯向かえないのだから目覚めたばかりの妹が歯向えるはずがないと思っていたのだが、今はその考えが少し変わった。逆に、目覚めたばかりだからこそ兄がどういう人間かを知らないから言えることがあるのではないかと。
「言ってみようかな……」
「あまりオススメはしませんね」
ひどい顔で首を振るウィルに眉を下げる。
「オズワルドお兄様は協力してくれると思う?」
「協力をお望みですか?」
「んー……困るかなぁ?」
「でしょうね。この結婚はオーランド様がお決めになったことですから」
「んー……」
オズワルドは兄のオーランドにコンプレックスを持っていると言っていた。完璧主義者である完璧人間と比べられては誰もがコンプレックスを抱いて生きることになる。欠点のない人間に責められても「兄さんだって……!」とは言い返せないのだから。
クローディアもそうだった。全てに耐えきれなくなって逃げ出した。だがフローリアはそうではない。オーランドを完璧だと思うほどの情報は持っていないし、この状態で誰かと比べられるとも思っていないのだ。
「オーランドお兄様は勝手だわ」
「大声で言ってはいけませんよ」
人差し指を口元で立てて声を抑えるように言うウィルにフローリアは頬を膨らませる。
血の繋がった家族でありながらオーランドがその場にいるだけで家族全員が緊張し、皆がオーランドの顔色を窺うのだ。たった一度、その場面に遭遇しただけだが、思い出すだけで嫌な気持ちになる。
「ヴィンセント王子の家もヴィンセント王子が一番偉いの?」
「いえ、クロフォード家は皆様とても仲が良いと聞いています」
「じゃあうちが変なのね」
ええ、と言えるはずもないウィルは苦笑するだけ。
「ヴィンセント様にお会いしたくはないのですか?」
「ううん、会うと決めたのは私だから会うのは会うけど……不安なの。結婚って想像がつかないし、何をすればいいのかもわからないから」
「そのために使用人がいるのです」
「ウィルみたいに優しいかわからないじゃない」
「大丈夫ですよ。ヴィンセント王子の使用人が意地悪なはずがありません」
ヴィンセントに異常な信頼を寄せるのはなぜか……まだ会っていないフローリアにはその理由がわからず、近々だろう顔合わせを考えると溜息をつかずにはいられなかった。
両親、兄、ウィルが心配そうに顔を覗き込んでいる。
抱きしめてくれていたレオはいない。手を握ってくれたアーウィンはいない。微笑んでくれたヨナスはいない。
ここが自分の居場所なのだ。フローリア・ベルとして生きる場所なのだと思い知らされる。
「フローリア! どこか痛いとかはない?」
「大丈夫です。ちゃんと……」
流れる涙を拭って起き上がろうと腕に力を込めた瞬間、違和感に気付いた。
「あれ……?」
「どうかなさいましたか?」
心配そうに声をかけるウィルに戸惑いの表情を向ける。
「足が……身体が……動かない……」
「寝たきりでしたからね」
足が動かないと言うのは演技だった。気絶する前までは足はちゃんと動いたし、一人ベッドの上で横になったり座ったりしていた。歩くことができなかっただけだ。
全ては身体にハンデがあれば面倒なことは起きないだろうと考えてのことだったのに足を動かそうとしたら本当に動かなくなっている。
別れを済ませるまではまだ完全に人間にはなっていなかったが、今回ちゃんと別れができたことで本当に人間になったということなのか。まるで本当に十五年間寝たきりだったかのように身体に力が入らなくなっていた。
「でも大丈夫ですよ。これからお医者様のご指示に従ってリハビリをすれば必ず歩けるようになりますから」
明るい笑顔で励ましてくれるウィルに目を閉じる。
もう困惑する必要はない。ヨナスはハッキリ言ったのだ。人間として生きるのだと。
彼らは“家族”であり、受け入れるべき存在。
だからフローリアは頷いた。もう演技で楽をするのはやめようと決め、この身体をちゃんと人間として生かすべきだと覚悟を決めた。
「でも、どれだけ頑張ってもフロース王国の王子とお会いする日までには間に合わないでしょう?」
「それもお伝えすればよいだけですよ。必ず歩けるようになるからと」
「延期してもらうわけにはいかない?」
「ヴィンセント王子にお会いすればそんな心配は杞憂だったとわかります」
誰に聞いてもヴィンセント王子とやらを否定することはなく、彼は一体どんな優良人物なのか興味が湧いてきた。しかしそれと同等に不安も多く、リハビリというものがどれほど続くのか、歩けない人間がどの程度で歩けるようになるのかわからないためノリ気にはなれない。
「早くお会いしたいですね」
「ウィルがあいたいだけなんじゃない?」
「え? いえいえまさか! フローリア様がヴィンセント様にお会いするのを楽しみにしているだけです。きっとお似合いの夫婦になられることでしょう」
夫婦と言われてもまだピンとはこない。人間を愛し、キスをして、子供を産んで、年老いるまで互いを愛し続け、一瞬のようで長い長い時間を共に過ごす運命の相手。
人間の愛は数えきれないほど見てきたし、飽きることなく見ていられた。でも、自分がその愛を誰かと紡ぐのはまだ考えられない。ましてや名前しか知らない顔も知らない相手とのことなんて想像さえできない。
「お似合いの夫婦って言われてもどんなものかわからないわ」
「旦那様と奥様のような関係ですよ」
あの夫婦が仲が良いのは知っているが、それを羨ましいとか微笑ましいと思うことは少なかった。
子供の教育方針に関して意見の対立で起こる言い合いを幾度となく聞いてきたのもあって、あれがお似合いの夫婦代表であるなら結婚などしたくないと思ってしまう。
顔も知らない相手との結婚につきまとう不安を、彼に会うまでにどこまで拭い切れるだろう。
「決まった夫婦の形などありませんから、お二人はお二人の夫婦の形を紡いでいくのが一番だと思います」
「でも決まりがないとわからないわ。夫婦の道が右と左に道が分かれてたらどっちに行けばいいの?」
「行きたい方に」
「彼と私の意見が衝突したら?」
両親のように。
「話し合うんです」
「話し合い……」
天使は言われたことをするだけ。フローリアは言われたことの半分もできてはいなかったが、それでもそこには必ずヨナスやアーウィンからの指示があった。困ったら二人に聞けばよかったし、天使は話し合いをすること自体ないため従うだけだった。
自分で決めろと言われても何から考えてすればいいのかわからないのだ。
「王子は私みたいな性格は嫌いだと思うわ」
「どうしてそう思われます?」
「だって、上手く身体が動かないし、自分じゃ何も決められないし、この世界のことなんて何も知らないのよ? そんな子を好きになる人なんている?」
長い眠りから目を覚ましたばかりの少女にいきなり国のために結婚しろと押し付けるのはあまりにも残酷で、自国のことさえ知らない状態で他国の王子と結婚したとてなんの役にも立たないことは想像に難くない。ましてやこの気弱さとネガティブさをヴィンセントがどう受け止めるのか。
クローディアもなかなかにネガティブだったが、妹もよく似ている。
どうフォローしても否定しそうで何を言うべきか迷っていた。
困っているウィルの腕を軽く押して母親がベッドに腰掛ける。
「フローリア、ヴィンセント王子にお手紙を出してきたのよ。あなたの今の状況をちゃんと書き記しておいたから理解してくれているはず。きっと良いお返事がもらえるわ」
(もう出したの!?)
あらかじめ言っておけば詐欺にはならない。会ったあとで何か言われたとしても手紙にそう書いたはずだと反論できる。それはありがたい話なのだが、オーランドが勝手に決めたと涙していたのになぜ乗り気なのかがいまだにわからない。嫁に出すのは早すぎると思っているのではないのかと。
嬉しそうに笑う母親を見ると反論はできない。だからといって不安のまま結婚したくもない。覚悟を決めなければという思いはあれど、心はそう簡単に決まってはくれないのだ。
だからフローリアは一つお願いしてみることにした。
「……ママ」
「ッ!」
呼んでもらえると思ってなかった母親の目に涙が溢れる。
「なあに? ママの愛しい天使」
柔らかな手が頬に添えられ、涙する母親の手を握りながら苦笑混じりに問いかける。
「ウィルと結婚しちゃダメ?」
「お嬢様!?」
一番驚いたのはウィルだ。両親が鬼の形相でウィルに振り返るため慌てて首がちぎれそうなほど左右に振って誤解だと弁明する。
「だって、ウィルは私のことをよく知ってくれてるし、結婚しても今の状況は変わらないでしょ? 誰かに迷惑をかけることもないし、ウィルは知らない人じゃないもの」
ヴィンセントという知らない王子と結婚するよりずっと安心であると思いきって問いかけてみたのだが、両親はフローリアを見てはいなかった。
「ウィル……」
「は、はい!」
「うちの娘に手を出したの……?」
声を震わせながらの問いかけにウィルは首を振り続ける。
「とんでもありません! 私は奥様や旦那様を裏切るようなことは決して致しません! 拾っていただいたご恩を仇で返すような真似は絶対に致しません! 神に誓います!」
胸に手を当てながら必死に言葉を返すウィルに両親がフッと表情を和らげる。
「……そうよね。恩義を忘れるわけないものね」
「はい!」
「もう、あなたが変なこと言うからママたちびっくりしちゃったじゃない」
さっきまで向けられていた感情とは正反対の表情と柔らかい声でフローリアに向き直った姿に恐ろしさを感じながら額に滲んだ汗を白いハンカチで拭くウィルはフローリアが何も納得できていないままであることに頭が痛くなるのを感じた。
両親もウィルを信用しているから目覚めたばかりの大事な娘の世話役を任せたのだ。そこに手を出そうものなら自分たちが持てる全ての力を使って彼の未来を潰す考えが頭をよぎった。
「ダメ? ヴィンセント王子じゃないとダメなの?」
ウィルがいいとお願いを試みるフローリアにウィルも母親も困った顔で十秒ほど黙っていた。
口を開くと言葉より先に溜息が漏れる。その様子はアーウィンによく似ていて、ダメなのだと察した。
「ウィルは使用人なの」
「使用人でもいい」
「……あなたはヴィンセント王子と結婚するの」
ダメとは言わなかったが、許可を出さない時点で答えはわかりきっている。車椅子であろうと世間知らずであろうと相手から断られデモしかない限りはヴィンセントと結婚しなければならないのだ。
「ヴィンセント王子はとてもイケメンなのよ。絶世の美男子と言われてるんだから」
絶世の美男子だろうとフローリアにはどうでもよかった。人間になって過ごすこれからの人生をウィルとなら楽しく、今まで祝福してきた者たちのような幸せを見つけられそうだと思ったからお願いしたのだが、運命は決まっているらしく変えられなかった。
せめてフローリア・ベルが既に恋をしている状態ならよかった。人間を愛せと言うならそういう状態にしてくれていてもよかったのにと心の中でヨナスに訴えかけるも天使ではなくなってしまった今、この恨み節も届きはしないのだろう。
「ヴィンセント王子にお会いしたらきっと気持ちも変わるわ」
「……ええ」
「彼はとっても優しい人だから、きっとあなたの全てを受け入れてくれるわ」
「……ええ」
フローリアは自分が結婚する相手であるヴィンセント王子がどういう人間なのかよりも、ウルマリアが惹かれた人間がどういう相手なのかが気になっていた。
ウルマリアは人間に恋をして地上に落ちてしまった。恋をしたから嫉妬をして、天使の力を別に使おうとした。それほどまでに人間に恋焦がれるとはどういう感じなのか。あのウルマリアにそこまでさせるほど魅力的な人間のほうがずっと興味があった。
考え込んでいるように見える娘の顔を両手で持ち上げた母親が微笑む。
「あなたの幸せを願ってるわ」
「……国の幸せじゃなくて?」
オーランドの決定に涙していた母親と今の母親は言ってることが違うと拗ねたくなる気持ちから嫌味なことを言ってしまうも母親は笑顔のまま。
「ええ、もちろんよ。ヴィンセント王子と結婚したらあなたは必ず幸せになれるの」
「国も?」
「フローリア」
少し怒ったような声を出す母親に「ごめんなさい」と呟くように小声で謝ると小さな溜息と共に抱きしめられた。腕を回し返すことはしなかったが、突き放すこともしない。
こういうときはレオにしたように抱きしめ返すのが正解なのだろう。レオはいつも溜息を吐きながらも抱きしめて頭を撫でてくれた。まさに今、母親がしてくれていることをレオはずっとしてくれていた。その度にフローリアは甘えて抱きついた。
だから今もそうすることが正解なのだとわかっていながらも腕は回さなかった。
人間のルールを知らないフローリアは娘が嫌だと言っているのにそれでも嫁に出そうとする親をまだ好きにはなれていないから。
「あなたは何も心配しなくていいのよ。ママに全部任せて。ママの行動は全てあなたのためよ」
「ありがとう」
フローリア・ベルという娘はベル家には存在しなかった。クローディアが〝代わりの王女〟をと望んだことで作られた存在。それを知るのはフローリアだけで、ヨナスの力によってベル家の人間には最初からフローリア・ベルという娘は存在していたことになっている。
オーランドを除く家族はフローリアを愛して優しくしてくれる。それにどこまで応えられるのか、自信はない。
いつか、心の底から笑い合える日が来るのだろうか? オーランド・ベルを兄だと慕い、家族で良かったと安堵する日が来るのだろうか?
天界には日付がない。朝も昼も夜もない。だから昨日もなければ今日も明日もない。これほどまでに目まぐるしく状況が変わる中で生きていないため、込み上げるのは希望ではなく不安のみ。
「ヴィンセント王子と会って嫌だったら断ってもいい?」
「……パパに相談しましょうね」
本当に相談しなければならない相手は父親ではなくオーランドだ。
この場にオーランドの姿はなく、彼がいかに冷たい人間であるかがよくわかる。
目覚めたばかりの妹が食事を受け付けずに吐いたことに嫌悪感を示し、吐かなくなるまで食堂には来るなと吐き捨て、妹が倒れようと顔を見せることもない。
彼は妹を愛してはいない。そして家族も彼を愛してはいないのだ。
「ヴィンセント王子は優しいからあなたが歩けないことなんて気にしないわ。自分の身体のことで不安になることなんてないの」
「……そうね」
「リハビリはゆっくり頑張ればいいの」
「そうするわ」
どれほど反論したところで断る許可が出ないのなら反論する意味はない。
足は動かなくてもいいが、せめて自分で起き上がってベッドの上で座れるようになるぐらいまでは回復したいとリハビリは頑張ることにした。
「ふふっ、そうね。ママの天使は頑張り屋さんだわ。ウィル、ムリは絶対にさせないでちょうだい」
「承知しました」
深く頭を下げるウィルを横目にフローリアの頬にキスをすると手を振って部屋を出て行く母親の背中に向かってフローリアは大きな溜息を吐き出した。
「変な人だったらどうしよう……」
誰が素敵な人だと言おうと本人と接触するまでは安心できない。結婚してしまったらもうウィルとは一緒にいられなくなる。誰が他にこれほど優しく接してくれるのか。ヴィンセント王子が本当は優しくない最低な人だったら、と拭えない不安に目を閉じる。
「ヴィンセント王子は本当に素敵な方ですが、お会いするまで不安なのは仕方ありませんね」
「お兄様も協力してくれないかな……」
ウィルの微笑みが苦笑に変わる。
「オズワルド様はともかくオーランド様に言えばとんでもないことになりますよ」
「オーランドお兄様とはほとんどお話しないもの。お顔も見せてくれないんだから」
「怖くないのですか?」
「怖くは……」
怖くないと言えば嘘になる。あの目、あの声、あの言い方は人を威圧する。両親さえも歯向かえないのだから目覚めたばかりの妹が歯向えるはずがないと思っていたのだが、今はその考えが少し変わった。逆に、目覚めたばかりだからこそ兄がどういう人間かを知らないから言えることがあるのではないかと。
「言ってみようかな……」
「あまりオススメはしませんね」
ひどい顔で首を振るウィルに眉を下げる。
「オズワルドお兄様は協力してくれると思う?」
「協力をお望みですか?」
「んー……困るかなぁ?」
「でしょうね。この結婚はオーランド様がお決めになったことですから」
「んー……」
オズワルドは兄のオーランドにコンプレックスを持っていると言っていた。完璧主義者である完璧人間と比べられては誰もがコンプレックスを抱いて生きることになる。欠点のない人間に責められても「兄さんだって……!」とは言い返せないのだから。
クローディアもそうだった。全てに耐えきれなくなって逃げ出した。だがフローリアはそうではない。オーランドを完璧だと思うほどの情報は持っていないし、この状態で誰かと比べられるとも思っていないのだ。
「オーランドお兄様は勝手だわ」
「大声で言ってはいけませんよ」
人差し指を口元で立てて声を抑えるように言うウィルにフローリアは頬を膨らませる。
血の繋がった家族でありながらオーランドがその場にいるだけで家族全員が緊張し、皆がオーランドの顔色を窺うのだ。たった一度、その場面に遭遇しただけだが、思い出すだけで嫌な気持ちになる。
「ヴィンセント王子の家もヴィンセント王子が一番偉いの?」
「いえ、クロフォード家は皆様とても仲が良いと聞いています」
「じゃあうちが変なのね」
ええ、と言えるはずもないウィルは苦笑するだけ。
「ヴィンセント様にお会いしたくはないのですか?」
「ううん、会うと決めたのは私だから会うのは会うけど……不安なの。結婚って想像がつかないし、何をすればいいのかもわからないから」
「そのために使用人がいるのです」
「ウィルみたいに優しいかわからないじゃない」
「大丈夫ですよ。ヴィンセント王子の使用人が意地悪なはずがありません」
ヴィンセントに異常な信頼を寄せるのはなぜか……まだ会っていないフローリアにはその理由がわからず、近々だろう顔合わせを考えると溜息をつかずにはいられなかった。
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