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忌々しい記憶
しおりを挟む雲一つ見えない真っ青な空の下、庭で本を読んでいた私に埃で汚れた彼が寄ってきた。
「お嬢様、これは何でしょうか?」
「どこ行ってたの?」
「物置小屋に行っていました」
「あそこはもう使ってないから入らなくていいって言ったじゃない」
お茶を淹れてから姿が見えないと思っていたら物置小屋に行っていたらしい彼の手には埃が積もった木箱が一つ。
母が亡くなってから一度も入ることがなかった物置小屋に何が眠っているのか思い出すこともできない。木箱など見覚えがなく、地面に置いた瞬間に舞い上がる埃に嫌な顔をする私に「失礼しました」と言って一歩下がった彼が自分の方に木箱を引き寄せることでまた埃が舞い上がった。
「立派な小屋を埃まみれにしておくの執事としてのプライドが許しません。これ、中身はなんでしょう?」
今まで放置しておいてどんなプライドが許さないというのかと笑いながら中身を知りたがる相手のために木箱を開けると中から出てきた箱に心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「……これは、いらない物だわ。捨てておいて」
「何でしょうか?」
「ゴミよ」
「拝見しても?」
「ええ。見たら捨てておいて」
膝に乗せていた本を閉じて立ち上がり、足早に自分の部屋へと戻った。
「どうしてあんな物がまだ……」
嫌な汗が流れる。手が震える。
捨てたと思っていたのに、どうしてあんな物がまだこの家にあるのかわからなかった。
「お嬢様~!」
廊下を賭ける足音が聞こえる。
彼の性格上、何をそんなに急いでいるのか想像はついていた。軽快なノックが三回響くと返事を待たずに中へ入ってくる。彼をよその家に執事として派遣すれば間違いなく笑い者になるのだろう。
しかしこれは本に熱中すると周りの音を遮断してしまうため、ノックをしても返事がなかったら入ってもいいと私が
決めたのだ。
入ってはいけない時は事前にそう伝えるか、ドアに入室禁止の張り紙をする約束になっている。
今日は何も言ってなかったからか無遠慮に入ってくる彼にやれやれと顔を向けた瞬間、彼が手にしているものにまた一瞬呼吸が止まる。
「お嬢様、ドレスでしたよ? シルク仕立ての美しいドレス。お嬢様によくお似合いになるかと」
「見たら捨てろと言ったでしょ!」
「ッ⁉ も、申し訳ございま、せん……」
彼に怒鳴ったのはこれがはじめて。彼は私を怒らせるようなことはしなかったし、今も怒らせるようなことはしていない。私が勝手に怒っているだけだ。
でも私は捨てろと言った。見たら捨てろと。それを彼は余計な気遣いで持ってきてしまった。
「どうして言ったことが守れないの……」
「申し訳ございません!」
慌てて頭を下げる彼をどうしてやろうかと苛立ちからそんなことを考えてしまう。罰を与えるべき? でもそれがどういう物か言わなかった私も悪いのかもしれない。
真っ白なシルク生地のドレス。純白のドレスとといえば聞こえはいいが、どんな物にでも思い出はあって、ドレスだから良い思い出とは限らない。だが彼はその美しいドレスを素敵な思い出の品だと思ったのだろう。父と母と私の家族の素晴らしい思い出だと。両親を亡くしたことで思い出を封印したと勘違いしてお節介で持ってきたのだと思う。
彼にとってドレスがどういう価値の物かはわからないが、私にとってそれはゴミ以下の物で、なぜもっと早く燃やしてしまわなかったのかと物置にしまいこんでいた過去の自分を恨んだ。
「捨てて。今すぐに。燃やしてきて」
頭を下げ続ける相手に一言ずつ強調して焼却炉に持っていくよう命令すれば頭を上げた彼の表情は眉を下げ、どこか残念に思っているような表情に変わった。だが何も言わず、もう一度頭を下げて去っていく。
彼はきっとこのまま焼却炉に持っていってドレスを燃やすだろう。二度目の失敗は許されないのだから。彼もそれはわかっている。永久就職を望むなら主の命令は絶対だ。
「なんなの……」
ドアが閉まると同時に大きな溜息が出る。
あのドレスには思い出があるのは間違いない。良い思い出も悪い思い出の両方が。でも私はそれを捨てる選択をした。捨てて、燃やして、もう二度と見ることなどないようにと。
良い思い出は両親の愛だけでじゅうぶんだ。他には何もいらない。もう二度と手に入れることができなくなった美しい思い出だけあれば私は生きていける。
私にとって両親と笑い合っていることだけが美しい思い出なのだ。他の思い出なんてどうだっていい。
「お嬢様……」
暫くして響いたノックの音。直後に覗かせた不安げな顔。まだ私が怒っているのか気になっているのだろう。
私は怒った顔で彼を見た。
「ちゃんと燃やしてきた?」
「はい……」
「嘘ついてない?」
「はい」
「二度目はないからね」
「心得ております」
深く頭を下げる彼にいつまでも怒っているつもりはない。
あのドレスは誰が見ても捨てるなどもったいないと思うだろう。それほど美しい物なのだ。私もあれが良い思い出なら部屋にだって飾っていただろう。だが、あれは燃やさなければならない物。記憶と共に消してしまわなければならない物だった。
「ご苦労様。怒鳴ってごめんなさい」
近付いて謝ると彼は安堵した表情で何度も首を振る。
「本当によろしかったのですか? お嬢様のために仕立てられたドレスのように思えましたが……」
「私のために仕立てたドレスだもの」
「一度も着られることはなかったのですか?」
「仕立てた物を着ないなんてよくあることよ」
「お嬢様はそういう方ではありません」
仕立てた物をやっぱり気に入らないと着ないことは貴族の娘にはよくある話。それでも彼は私がそういう人間ではないと否定する。
必要ないならただ捨てればいいだけ。それをあんな怒り方をしてまで燃やせと言うのだから事情があると気付いて当然だ。
彼が私という人間を最低だと批難しないのは喜ばしいことなのに、私は今この瞬間、とても苛立っていた。
「知ったような言い方しないでよ」
「私はお嬢様がどういうお方か、存じ上げております」
「あなたが私の何を知ってると言うの? 好きな食べ物と好きな本ぐらいじゃない」
「私の知る限りでは、お嬢様はそこらの令嬢達とは全く違う人間性を持っておられます」
「ほんの一部しか知らないくせに私の全てを知ってるような言い方しないでよ!」
「お嬢様のことをこの世で最も理解しているのは私でございます!」
きっと彼は私の執事だから機嫌を取ろうとして言ったわけじゃない。わかってる。
困った顔は消え、射貫くように私を見つめる時の瞳が苦手で私は窓の外へと視線を逸らしながら突き放すような言い方をしても彼は引かなかった。弾くどころか詰め寄ってきそうな勢いで言葉を返してくるものだから私の方が怖くなった。
ハッキリ言いきった「知っている」の大声に私は思わず黙り込んだ。わけもわからず涙がこぼれそうだったから。
「も、申し訳ございません。声を張り上げるつもりは……お許しください」
今日は何度頭を下げる彼を見るのだろう。
「……今日はもう下がって。ドアの前にも立ってなくていいから。出かけるなり自由に過ごして」
「お嬢様……」
「感情を乱されたくないの……。怒るなんてしたことないから……疲れた……」
頭を下げて出ていく姿はもう見慣れた。それぐらい長い時間を相手と一緒に過ごしているというのに心がムキになると「何も知らないくせに」と酷いことを言ってしまう。
自分を可哀相だと思ってるだろうか。悲劇のヒロインにでも成り下がるつもりか。自分の感情が自分でもわからない。
両親が亡くなって、感情まで無くなった気がしていたのを取り戻してくれたのは彼だった。笑うことが最初で、それから今のように怒ること。
人間には喜怒哀楽があって、私は喜と怒と楽を取り戻した。でも哀は彼が取り戻すものではない。彼から哀を与えられることなどあるのだろうか?
想像したくもない。
哀を思い出させるのは両親の死だけ。それでもそれに流す涙はもうない。両親の命日に流すだけの涙さえも私には残っていないのだ。
怒りも哀しみも人生には必要のないものだと思うのに、避けては通れないもので。
「……」
ドアが静かな音を立て、彼が出ていったことを知らせる。一人になって落ち着きたいと思っていたのに、一人になった途端に彼を傷つけたかもしれないという罪悪感と不安、愛想を尽かされたのではないかという恐怖に襲われた。
彼が愛想を尽かせるはずがないと冷静になるために本を広げたのに話に没入しようとするのに文字が滲んで読めない。なぜと思う前に本に雫が落ちた。
天井からの雨漏りかとありもしないことを考える余裕もなく気付いた。
本の上に次々と落ちていく雫は私の涙。
泣けたのだと自分の感情を分析する頭は冷静だが、心はそうではない。吐き気なのか嗚咽なのかわからない物がこみ上げる感覚に口を押さえた。
「お嬢様、下がれと言われた身分で大変申し訳ありませんが……少し、よろしいでしょうか?」
ノックの音がしたが、いつものようにすぐに入ってくることはなかった。彼なりの反省か、気遣いか、私の許可を待っている。だが今は彼にイエスともノーとも答えることができない。次から次へと溢れだす涙がまるで壊れた水道のように溢れ出して止まらないのだ。
口から漏れるのは嗚咽で、彼にそれを聞かれないように両手で口を塞いだ。
(入ってこないで)
今の唯一の願いだった。
「お嬢様? 失礼いたします」
ノックをしても返事がなければ入ってもいい。入らないでほしい時は事前に言うか、ドアに張り紙をしておく。そういう約束だ。
彼がドアを開けたのはルール違反ではない。
「お嬢様……ああ……泣かれて……」
声を殺すことはできても涙を消すことはできない。どんなに顔を隠しても泣いた時に出るしゃくり上げのせいで鳴いているとバレてしまう。
焦ったような声に首を振ってもそれを彼が信じるはずがない。
「申し訳ございません。私が余計なことを言ったばかりにお嬢様を傷つけてしまいました。執事でありながら主に逆らうなどあってはならないことなのに……どうか、どうかお許しください」
謝罪する彼に何度も首を振った。彼は何も悪くない。謝らなければならないのは私のほうだ。一緒に暮らして、誰よりも傍にいてくれる彼に「何も知らないくせに」と言ってしまった。ドレスの事情など知るはずもない彼に過去の感情をぶつけても仕方ないのに、私はワガママな子供のように彼に八つ当たりをした。
「申し訳ございません」
彼が何度も何度も謝りながら近付いてくる。私の反応を窺うように、いつでも止まれるようにゆっくりとした足取りで近付いてくる。
泣くのをやめようと感情を抑えるために何度も深呼吸を繰り返しながら袖で涙を拭いてから顔を向けた。
彼の目を見て謝ろう。ワガママだったこと。傷つけたこと。あのドレスが持つ忌々しい思い出も何もかもちゃんと話そうと思ったが、顔を上げた瞬間に温もりが私を包んだことで思考は一度停止する。
上から降ってくる「申し訳ございません」が何に対してなのかわからないけど、私は聞き返さなかった。私を泣かせたと思っていることでも、私を抱きしめたことでも今はどっちでもいい。どうだっていいのだ。
「もういいの」
彼からの謝罪など必要ないし、欲しくもない。私はいつだって彼に救われているのだ。
全て自分の罪として引き受ける彼の辛さなどは考えたこともなく、私はまたこの優しさに甘えて言葉を失う。
謝罪も感謝も、人としてあるべきはずの宝物をこうしてまた手放す。
誰にも使われず、眺められることすらない、飾られているだけの無価値に成り果てた父のコレクションのように輝きを失い、人としての価値を失っているような気がしていた。
それでも彼が私が私の震えが止まるまで動かなかった。
母のように優しく背中を撫でてくれることはなかったが、父のように強く強く抱きしめてくれていた。
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