溶け合った先に

永江寧々

文字の大きさ
上 下
6 / 29

喪失

しおりを挟む

十歳の誕生日を迎えて三日後のこと。

あの日は丁度、大型のハリケーンが直撃すると予想された日だった。

「おかあさま、だいじょうぶ?」
「大丈夫よ。横になっていればすぐ良くなるから心配しないで」
「でもたくさん汗をかいてるわ」
「大丈夫よ」

母は心臓が弱かった。急に発作を起こして倒れることも少なくはなく、雨の日は特に悪くなり、病は母を苦しめた。
大型ハリケーンによって古い家は軒並み飛んでいくのではないかと父が言っていた。家を飛ばす暴風雨とはどんなものか。私はそれまでハリケーンというものを経験したことがなかったため知らなかった。

雨戸を閉めて戸には木を打ちつけ、電機ではなく蝋燭を使いなさいと父は言った。電気が急に消えてしまっては危険だからと。

父の言いつけを守ろうと母が蝋燭に火をつけようとした時、母が発作を起こした。

大きな音を立てて倒れた後、呻き声を上げながら背中を丸め、荒い呼吸を繰り返す。発作が起きたのだとわかったが、どうすればいいのかがわからなかった。

母が発作を起こした時はいつも父が傍にいた。今思えばそれはきっと奇跡にも近い神の加護だったのだろう。

大丈夫だと何度も囁きながら抱きしめていたのを思い出しても、私には倒れた母を抱き起す力もなければ冷静に大丈夫と声をかけ続ける落ち着いた精神も育っていなかった。

できたことといえば大丈夫かと聞いて母を煩わせただけ。

額や首筋に大量の汗を滲ませながらもいつもの優しい笑みを浮かべようとする苦しげな母の傍でジッと座っていた私は子供といえど愚かでしかなかった。

「おかあさま、雷が鳴ってるわ」

暫くすると風の音が大きくなっていく。まるで何かが叫んでいるような少し甲高く長細い、だが大声のように大きくて不安になる音がしていた。

風が吹けば雨が降る。最初は弱く、そして段々と強く。オーケストラのティンパニーのようだと、普段の音とは違う感じ方をしたが、実際はそんなに優雅なものではなかった。強盗でも入ってくるのではないか、大勢の人間が暴動を起こして扉をこじ開けようとしているのではないかと恐怖を感じさせるほどの音を雨が窓を強く打ちつけることで鳴らしていた。

庭の方から聞こえた金属がぶつかり合うような大きな音にやはり暴動でも起きているのではないかと不安が過る。だ
がそんな不安を恐怖に上書きするように鳴る雷の音に私は母に大丈夫と囁くどころか怯えて縋りついていた。

絵本で読んだ巨人のいびきよりきっと大きい。

「大丈夫、よ。出来ることはしたもの。あとは……蝋燭に火を、ッ…つけましょう、ね」
「私がするわ。おかあさまはそこでジッとしてて」
「あなたに、火を……はッ、扱わせたなんてお父様に知られたら、怒られて……しまうわ」
「だまっていればわからないわ。私、ぜったいにいわない。ないしょにする。おかあさまと私のないしょよ」
「ダメよ。さ、火をつけましょうね」

短い間隔で呼吸を繰り返す母が立ち上がろうとするのを止めたようとしたが、のんびり屋の母にも意地はあって、私の言葉を蹴飛ばして父が買ってきた銀器の蝋燭立てに火を灯す。

蝋燭を使ったのは初めてじゃないのに、その周りだけが別世界のように輝きを放っているように見えたのは初めてだった。

「おとうさまはいつかえってくるの?」
「この天気じゃ、ムリね」
「おとうさまはどうしておしごとにいってしまったの?」
「どうしても行かなきゃいけないお客様だったの」
「おかあさまがくるしんでるのに……」

父がいないというだけでとても不安だった。父がいれば雨も風も、雷だって怖くないのに、父がいないだけで風の音でさえ不安になる。父はハリケーンが直撃するとわかっていながら仕事に出掛けてしまったのだ。

顧客がどうのと言っていたが、難しい言葉はわからなかったから母が見送るのならと一緒に見送った。それが間違いだった。

母が発作を起こしているというのに父は傍にいない。「どうしていないの? 早く帰ってきて」と何度願ったかわからない。

「お父様を責めてはいけないわ。……もし、このままお母様が……死んで、しまったとしても、お父様を……責めないでね」

責めたつもりはなかったけれど、きっと酷い顔をしていたのだと思う。私の頬に触れた母の冷たい手の感覚が私を黙らせた。

汗ばんでいるのに庭で洗濯物を干した後のように冷たくなっている母の美しい手を握る勇気が私にはなかった。小麦粉でもついているかのように滑らかな手ではない。

今この場に父がいれば母の手を強く握り、母の身体を強く抱きしめながら母を心から安心させることができたのに、父はいない。

幼い私に出来たのは苦しむ母に安らぎを与えるどころか気を遣わせることでしかなかった。

「キャアアアアアッ!」
「大丈夫よ。心配ないわ」

急にドンッと身体が痺れるほどの衝撃が走った。近くの森に雷が落ちたのかもしれない。それでも母は笑って大丈夫だと私を抱きしめてくれた。

灯りがないわけではない。母がつけてくれた蝋燭がある。父が買った銀器が蝋燭の灯りを広げてくれていた。真っ暗闇の中にいる不安がないことだけが唯一の救い。しかし、そんな救いを打ち砕くように母の状態は見てわかるほど悪くなっていた。

しがみつく私の髪を撫でる手は上手く滑らず、励まそうとする声はかすれていた。

「おとうさまはすぐかえってくるでしょ? だっておとうさまは〝きし〟だもの。〝きし〟はあいする人を何があってもまもるっておとうさまがいってたわ。おかあさまをまもれるのはおとうさまだけ。だからきっとすぐかえってきてくれる」
「そう、ね……」

何とか励まそうとした。子供ながらに思いつくことを口にして、父に早く帰ってきてほしいという願いを込めながら必死に伝えれば母はまた小さいながらも優しい笑顔を見せてくれた。

「だからおかあさま、だいじょうぶよ」

昨日まではよく晴れていた。いつも通り庭で焼きたてのタルト・タタンを食べて、いつも通り淹れたての紅茶を飲んで、いつも通り『またタルト・タタンか』と唸る父を二人で笑って、三人で庭に寝転んで幸せな日を過ごしていたはずなのに。今日はまだ一つも〝いつも〟がない。

悲鳴を上げて、しがみついて、涙を流し、怯え続けるのは子供なら当たり前のことかもしれない。窓を壊しそうな雨も、屋根を吹き飛ばしそうな風も、身体が痺れるほどの雷も初めてだったのだから。

だが、その当たり前なことがこの日は許されないような不安があった。明確ではない。子供の頃にそこまでの思考など働くはずもない。だが不安はあった。

母の様子が違う。いつもはここまで長くない発作が長引いている。

優しい声が消えかけている。滑らかな手が震えている。だいじょうぶだと伝えたあの時の涙の理由が何なのか、今でもわかっていない。

暴動のような雨風のせいなのか、巨人のいびきのような雷のせいなのか、父が帰らないのせいなのか、目が虚ろな母を見ているせいなのか。

とても長い長い夜だったように思う。

「開けてくれ!」

父が帰ってきたのはハリケーンが去ってからだった。

通り過ぎたはずの暴風雨のように大きな音を立てながらドアを叩く叫ぶ父の声に慌ててドアノブにかけていた木の板を抜いた。するとドアを壊す勢いで開けた父は私を見た後、私を抱きあげることも頬にキスすることもなく「ママはどこだ?」と聞いた。

大丈夫だったか?の一言もないことにショックを受けるよりも私は安堵の方が大きかった。

一番に母の心配をする父はやはり〝騎士〟なのだと。

「おかあさまはまだねてるの」
「ッ! そんなまさか……!」

いつの間にか眠っていた私が目を覚ました時、母は眠ったままだった。荒い呼吸が落ち着き、静かに眠っている母に安堵したのは私だけで、父は真っ青な顔をして私が指した方へ走っていった。

父が母を抱き起して何度も何度も叫ぶように名前を呼んでいるのに母は目を覚まさなかった。

「嫌だ。嘘だ」と繰り返し呟きながら涙を流す父を見ても私はまだ母がどうしてしまったのかわからず、首を傾げているだけだった。

その後のことはよく覚えていない。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

公爵子息に気に入られて貴族令嬢になったけど姑の嫌がらせで婚約破棄されました。傷心の私を癒してくれるのは幼馴染だけです

エルトリア
恋愛
「アルフレッド・リヒテンブルグと、リーリエ・バンクシーとの婚約は、只今をもって破棄致します」 塗装看板屋バンクシー・ペイントサービスを営むリーリエは、人命救助をきっかけに出会った公爵子息アルフレッドから求婚される。 平民と貴族という身分差に戸惑いながらも、アルフレッドに惹かれていくリーリエ。 だが、それを快く思わない公爵夫人は、リーリエに対して冷酷な態度を取る。さらには、許嫁を名乗る娘が現れて――。 お披露目を兼ねた舞踏会で、婚約破棄を言い渡されたリーリエが、失意から再び立ち上がる物語。 著者:藤本透 原案:エルトリア

できれば穏便に修道院生活へ移行したいのです

新条 カイ
恋愛
 ここは魔法…魔術がある世界。魔力持ちが優位な世界。そんな世界に日本から転生した私だったけれど…魔力持ちではなかった。  それでも、貴族の次女として生まれたから、なんとかなると思っていたのに…逆に、悲惨な将来になる可能性があるですって!?貴族の妾!?嫌よそんなもの。それなら、女の幸せより、悠々自適…かはわからないけれど、修道院での生活がいいに決まってる、はず?  将来の夢は修道院での生活!と、息巻いていたのに、あれ。なんで婚約を申し込まれてるの!?え、第二王子様の護衛騎士様!?接点どこ!? 婚約から逃れたい元日本人、現貴族のお嬢様の、逃れられない恋模様をお送りします。  ■■両翼の守り人のヒロイン側の話です。乳母兄弟のあいつが暴走してとんでもない方向にいくので、ストッパーとしてヒロイン側をちょいちょい設定やら会話文書いてたら、なんかこれもUPできそう。と…いう事で、UPしました。よろしくお願いします。(ストッパーになれればいいなぁ…) ■■

不倫していた男に婚約破棄された悪役令嬢は投獄された地下牢から人生をやり直す!

masa
恋愛
子爵令嬢レイラ・ナサニエル・ナターシャは婚約相手に不倫されたあげく、パーティ場で直接に婚約破棄を言い渡されてしまう。家の恥として地下牢に投獄され、餓死を待つしかなかった彼女は、通気口から入った月光に照らされた牢屋の床に奇妙な紋様を見つける。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

うちの執事は最恐です。

酒田愛子(元・坂田藍子)
恋愛
辺境伯の一人娘シャーロットは、母親を早くに亡くし、父親に甘やかされて育ったお転婆娘。 学園に入学するのに併せて、婚約話が出て来た。せっかくなので候補者を見に行こうとしていることが執事にバレた!

全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―

入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。 遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。 本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。 優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。

果たされなかった約束

家紋武範
恋愛
 子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。  しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。  このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。  怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。 ※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。

少し先の未来が見える侯爵令嬢〜婚約破棄されたはずなのに、いつの間にか王太子様に溺愛されてしまいました。

ウマノホネ
恋愛
侯爵令嬢ユリア・ローレンツは、まさに婚約破棄されようとしていた。しかし、彼女はすでにわかっていた。自分がこれから婚約破棄を宣告されることを。 なぜなら、彼女は少し先の未来をみることができるから。 妹が仕掛けた冤罪により皆から嫌われ、婚約破棄されてしまったユリア。 しかし、全てを諦めて無気力になっていた彼女は、王国一の美青年レオンハルト王太子の命を助けることによって、運命が激変してしまう。 この話は、災難続きでちょっと人生を諦めていた彼女が、一つの出来事をきっかけで、クールだったはずの王太子にいつの間にか溺愛されてしまうというお話です。 *小説家になろう様からの転載です。

処理中です...