溶け合った先に

永江寧々

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喪失

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十歳の誕生日を迎えて三日後のこと。

あの日は丁度、大型のハリケーンが直撃すると予想された日だった。

「おかあさま、だいじょうぶ?」
「大丈夫よ。横になっていればすぐ良くなるから心配しないで」
「でもたくさん汗をかいてるわ」
「大丈夫よ」

母は心臓が弱かった。急に発作を起こして倒れることも少なくはなく、雨の日は特に悪くなり、病は母を苦しめた。
大型ハリケーンによって古い家は軒並み飛んでいくのではないかと父が言っていた。家を飛ばす暴風雨とはどんなものか。私はそれまでハリケーンというものを経験したことがなかったため知らなかった。

雨戸を閉めて戸には木を打ちつけ、電機ではなく蝋燭を使いなさいと父は言った。電気が急に消えてしまっては危険だからと。

父の言いつけを守ろうと母が蝋燭に火をつけようとした時、母が発作を起こした。

大きな音を立てて倒れた後、呻き声を上げながら背中を丸め、荒い呼吸を繰り返す。発作が起きたのだとわかったが、どうすればいいのかがわからなかった。

母が発作を起こした時はいつも父が傍にいた。今思えばそれはきっと奇跡にも近い神の加護だったのだろう。

大丈夫だと何度も囁きながら抱きしめていたのを思い出しても、私には倒れた母を抱き起す力もなければ冷静に大丈夫と声をかけ続ける落ち着いた精神も育っていなかった。

できたことといえば大丈夫かと聞いて母を煩わせただけ。

額や首筋に大量の汗を滲ませながらもいつもの優しい笑みを浮かべようとする苦しげな母の傍でジッと座っていた私は子供といえど愚かでしかなかった。

「おかあさま、雷が鳴ってるわ」

暫くすると風の音が大きくなっていく。まるで何かが叫んでいるような少し甲高く長細い、だが大声のように大きくて不安になる音がしていた。

風が吹けば雨が降る。最初は弱く、そして段々と強く。オーケストラのティンパニーのようだと、普段の音とは違う感じ方をしたが、実際はそんなに優雅なものではなかった。強盗でも入ってくるのではないか、大勢の人間が暴動を起こして扉をこじ開けようとしているのではないかと恐怖を感じさせるほどの音を雨が窓を強く打ちつけることで鳴らしていた。

庭の方から聞こえた金属がぶつかり合うような大きな音にやはり暴動でも起きているのではないかと不安が過る。だ
がそんな不安を恐怖に上書きするように鳴る雷の音に私は母に大丈夫と囁くどころか怯えて縋りついていた。

絵本で読んだ巨人のいびきよりきっと大きい。

「大丈夫、よ。出来ることはしたもの。あとは……蝋燭に火を、ッ…つけましょう、ね」
「私がするわ。おかあさまはそこでジッとしてて」
「あなたに、火を……はッ、扱わせたなんてお父様に知られたら、怒られて……しまうわ」
「だまっていればわからないわ。私、ぜったいにいわない。ないしょにする。おかあさまと私のないしょよ」
「ダメよ。さ、火をつけましょうね」

短い間隔で呼吸を繰り返す母が立ち上がろうとするのを止めたようとしたが、のんびり屋の母にも意地はあって、私の言葉を蹴飛ばして父が買ってきた銀器の蝋燭立てに火を灯す。

蝋燭を使ったのは初めてじゃないのに、その周りだけが別世界のように輝きを放っているように見えたのは初めてだった。

「おとうさまはいつかえってくるの?」
「この天気じゃ、ムリね」
「おとうさまはどうしておしごとにいってしまったの?」
「どうしても行かなきゃいけないお客様だったの」
「おかあさまがくるしんでるのに……」

父がいないというだけでとても不安だった。父がいれば雨も風も、雷だって怖くないのに、父がいないだけで風の音でさえ不安になる。父はハリケーンが直撃するとわかっていながら仕事に出掛けてしまったのだ。

顧客がどうのと言っていたが、難しい言葉はわからなかったから母が見送るのならと一緒に見送った。それが間違いだった。

母が発作を起こしているというのに父は傍にいない。「どうしていないの? 早く帰ってきて」と何度願ったかわからない。

「お父様を責めてはいけないわ。……もし、このままお母様が……死んで、しまったとしても、お父様を……責めないでね」

責めたつもりはなかったけれど、きっと酷い顔をしていたのだと思う。私の頬に触れた母の冷たい手の感覚が私を黙らせた。

汗ばんでいるのに庭で洗濯物を干した後のように冷たくなっている母の美しい手を握る勇気が私にはなかった。小麦粉でもついているかのように滑らかな手ではない。

今この場に父がいれば母の手を強く握り、母の身体を強く抱きしめながら母を心から安心させることができたのに、父はいない。

幼い私に出来たのは苦しむ母に安らぎを与えるどころか気を遣わせることでしかなかった。

「キャアアアアアッ!」
「大丈夫よ。心配ないわ」

急にドンッと身体が痺れるほどの衝撃が走った。近くの森に雷が落ちたのかもしれない。それでも母は笑って大丈夫だと私を抱きしめてくれた。

灯りがないわけではない。母がつけてくれた蝋燭がある。父が買った銀器が蝋燭の灯りを広げてくれていた。真っ暗闇の中にいる不安がないことだけが唯一の救い。しかし、そんな救いを打ち砕くように母の状態は見てわかるほど悪くなっていた。

しがみつく私の髪を撫でる手は上手く滑らず、励まそうとする声はかすれていた。

「おとうさまはすぐかえってくるでしょ? だっておとうさまは〝きし〟だもの。〝きし〟はあいする人を何があってもまもるっておとうさまがいってたわ。おかあさまをまもれるのはおとうさまだけ。だからきっとすぐかえってきてくれる」
「そう、ね……」

何とか励まそうとした。子供ながらに思いつくことを口にして、父に早く帰ってきてほしいという願いを込めながら必死に伝えれば母はまた小さいながらも優しい笑顔を見せてくれた。

「だからおかあさま、だいじょうぶよ」

昨日まではよく晴れていた。いつも通り庭で焼きたてのタルト・タタンを食べて、いつも通り淹れたての紅茶を飲んで、いつも通り『またタルト・タタンか』と唸る父を二人で笑って、三人で庭に寝転んで幸せな日を過ごしていたはずなのに。今日はまだ一つも〝いつも〟がない。

悲鳴を上げて、しがみついて、涙を流し、怯え続けるのは子供なら当たり前のことかもしれない。窓を壊しそうな雨も、屋根を吹き飛ばしそうな風も、身体が痺れるほどの雷も初めてだったのだから。

だが、その当たり前なことがこの日は許されないような不安があった。明確ではない。子供の頃にそこまでの思考など働くはずもない。だが不安はあった。

母の様子が違う。いつもはここまで長くない発作が長引いている。

優しい声が消えかけている。滑らかな手が震えている。だいじょうぶだと伝えたあの時の涙の理由が何なのか、今でもわかっていない。

暴動のような雨風のせいなのか、巨人のいびきのような雷のせいなのか、父が帰らないのせいなのか、目が虚ろな母を見ているせいなのか。

とても長い長い夜だったように思う。

「開けてくれ!」

父が帰ってきたのはハリケーンが去ってからだった。

通り過ぎたはずの暴風雨のように大きな音を立てながらドアを叩く叫ぶ父の声に慌ててドアノブにかけていた木の板を抜いた。するとドアを壊す勢いで開けた父は私を見た後、私を抱きあげることも頬にキスすることもなく「ママはどこだ?」と聞いた。

大丈夫だったか?の一言もないことにショックを受けるよりも私は安堵の方が大きかった。

一番に母の心配をする父はやはり〝騎士〟なのだと。

「おかあさまはまだねてるの」
「ッ! そんなまさか……!」

いつの間にか眠っていた私が目を覚ました時、母は眠ったままだった。荒い呼吸が落ち着き、静かに眠っている母に安堵したのは私だけで、父は真っ青な顔をして私が指した方へ走っていった。

父が母を抱き起して何度も何度も叫ぶように名前を呼んでいるのに母は目を覚まさなかった。

「嫌だ。嘘だ」と繰り返し呟きながら涙を流す父を見ても私はまだ母がどうしてしまったのかわからず、首を傾げているだけだった。

その後のことはよく覚えていない。

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