溶け合った先に

永江寧々

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タルト・タタン

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私の両親はとても優しく、愛に溢れた人だった。母は料理が上手で、中でもお菓子は絶品だった。マカロン、カヌレ、タルト・タタン。どれも本当に美味しかったが、特に好きだったのは庭で採れたリンゴを使ったタルト・タタン。砂糖の甘み、リンゴのほのかな酸味、キャラメリゼの香ばしさ。

世界で一番美味しいお菓子だと思っていた。私の大切な思い出のお菓子。

「今日のおやつは何でしょーか!」

おやつの時間になると母は必ず問題を出してきた。隠す気もないように置かれた本日のおやつが見えるキッチンで私はいつも『タルト・タタン!』と答えた。それに母はいつも笑ってくれた。

子供の私から見ても母はとても美しい人だった。「ふふっ」と笑う優しい声も「正解!」と言って私の頬を包む柔らかな手も「手を洗いに行きましょうね」と抱きあげられた時に鼻をくすぐる甘い香りも全てが母の女性としての美しさを表しているように思えた。

特に指先に繊細さが宿るしなやかな手が大好きだった。美味しいお菓子を作りだす魔法の手。

「今日はタルト・タタンかい?」

新聞を広げながら待つ父の言葉に母の笑顔が一層輝くのを見るのも好きだった。母が父を愛しているという証明に見えたから。

焼きたてのお菓子と淹れたての紅茶をよく晴れた空の下、緑輝く庭で大好きな両親と一緒に楽しむ時間は一日の中で最も幸せな瞬間だった。

「タルト・タタンばかりで飽きないかい?」
「とてもおいしいもの! おとうさまはタルト・タタンはきらい?」
「美味しいとは思うが、お前ほど好きにはなれないよ」
「どうして?」
「リンゴは剥いた姿が一番美しい。みずみずしく美しいリンゴが一番好きだ」
「でもとてもおいしいの」
「美しくはないだろう? 白く美しい素肌がまるで日焼けでもしたように茶色く醜い姿になっている。シャキッとした食感は失われ、歯が滑り込むような柔らかさに魅力はないよ。美しくない」

父は見目を何よりも気にする人だった。一週間あれば四日はタルト・タタンという日もあり、父は苦笑いで皿を持ち上げては口いっぱいに頬張る私を見て問いかけるのはいつものこと。私にとって世界一美味しいお菓子であって飽きるなどありえないことだったのに父はそうじゃなかった。

生のリンゴも美味しいとは思う。でもタルト・タタンほどではない。しかし、父の語るタルト・タタンが好きではない理由は甘味のせいでも酸味のせいでもなく見目のせいで、茶色に染まったリンゴを醜いと例える父の言葉に私はフォークを置いた。隣で母が私の顔を覗き込んで『お父様は美味しいと思っているのよ』と言ったが、醜いという衝撃の方が大きくて私は返事をしなかった。

父は私がこの世で最も愛しているお菓子を、母の愛情が詰まったタルト・タタンを『醜い』と言いきったのだから。

「この世に存在するからにはモノというのは美しくなければならない」

父の口癖だった。そう言う父の顔は客観的に見ても美しかったと思う。

仕事から帰ってきた父を玄関まで迎えに行けば「ただいま。私のトレゾア」と言って抱きあげてもらえるのが嬉しかった。母の頬にキスをした後の父の笑顔はとても優しいもので、美しい二人が笑い合う光景は私の宝物になっていた。

父親が街を歩けば女性が振り向き、母が街を歩けば男性が振り向く。美しく優しい両親の娘であることが私の誇りでもあった。

「私ね、おかあさまのようになりたい! おかあさまは私のあかごれなの!」

子供の頃、私は大人になったら母のような美しい女性になりたいと思っていた。料理が上手で、世界一美味しいお菓子を作って、それを子供が『世界で一番大好きなお菓子よ』と言ってくれる、そんな女性になりたいと。

父が誰よりも何よりも愛している母のようになりたいと伝えると急に身体が重力に逆らって上へと上がる驚きに私は目を丸くした。抱きあげられたのだと理解した時には父の嬉しそうに笑う顔が目に入り、私は神に捧げられるかのように父に高く持ち上げられていた。

「お前ならなれるさ! お前はこんなにも美しいんだ! お前は母をも超える! お前の美しさは神からの贈り物だ! 宝物なんだよ!」

まるでミュージカルでも観ているかのように声高らかに言葉を放つ父に私は驚きよりも嬉しさが勝り、満面の笑みで何度も頷いた。

「私の娘は宝石よりも美しい。お前は神が創りたもうたものだと私は信じているよ」

美しさは宝だと座右の銘のように口にする父の趣味は宝石収集だったが、宝石だけでなく、美しい物なら何だって集めていた。調度品や装飾品を買い漁っていた気がする。

子供の頃は何でも持っている父を純粋にすごいと思っていたけど、今思えば父の美しさに対する欲望は異常だったように思える。

「美しいモノは永遠に美しくあるべきだ。お前もそう思うだろう?」

宝石を眺めながら言う父の常套句。宝石が美しさを失うことなどあるのだろうかと首を傾げる私に「まだわからないか」と言って頭を撫でるのもいつものこと。

美しさにこだわりを見せる父のことは当時の私には理解できなかった。

宝石のことを語り始めると止まらないことはよくあったが、それでも私は父が好きだった。

「私の美しい娘」

美しい二人の間に生まれた私にも美しさはあるらしい。見慣れた自分の顔に評価などできるはずもなく、何度鏡を見つめても父が言った「母を越える」という言葉にしっくりとこず、何度も首を傾げ続けていた。それでも私を見て恍惚としている父の顔は嫌いではなかったし、喜んでいる姿を見るのは嬉しかった。

愛する両親と過ごす毎日は笑顔に溢れ、何不自由ない暮らしこそ私の宝物で、両親の愛によって作られた私の世界では失われるものなど何もないと思っていた。

十歳の誕生日を迎えるあの日までは、そう、信じていたのだ。

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