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雫
しおりを挟む「お嬢様? 手が止まっておられますよ? お口に合いませんでしたか?」
「いいえ、とても美味しいわ。私の好物ばかりだもの」
いつの間にか懐かしい思い出に浸っていたせいで手が止まっていたらしい。心配そうに覗き込んでくる顔に焦点を合わせるとその表情に目を細め、視線が交わるそのさきにある紫と黄色のオッドアイを見つめるのは焼きつけようと思ってのことではなく、視線を外すことが許されないことであるかのように私はあの日からこの瞳に囚われ続けている。
もちろん自ら望んで囚われている私には悲劇のヒロインというポジションは縁遠い。昔であればそれも演じられたのかもしれない。
夜な夜な泣いては両親を恋しがる幼い少女。両親に先立たれて執事と二人、可哀相……なんて子役もびっくりな棒読みに包まれていた。
それも今では遠い昔のお話でしかない。今でも鮮明に思い出すことはできても、夜な夜な泣き続けるなんてことはしない。
この美しい瞳に囚われているのは悲劇ではなく幸福でしかないのだから。
あの頃から変わっていない彼の美しさは今日も私を虜にする。
「美味しいとお言葉をいただけますか?」
「美味しいわ、とっても」
朝から心地の良い声を目覚ましにし、朝食は大好物のフレンチトーストにオムレツ、クルトン入りサラダとヨーグルト、それに焼きたてのクロワッサンと搾りたてのオレンジジュースまで。一日の始まるとしては最高だと言える。心配そうな顔でさえ整っていると頭の端に感想を置きながら美味しいと告げると形の良い唇から安堵の息がこぼれた。
誰かに「うちの執事の溜息は神の息吹にも等しいと思う」と言えばきっと嘲笑を受けるだろう。だが私にとっては彼が私のために溢す吐息はそれにも等しく、愛しいとさえ思ってしまうのだ。
神の愛を受けて出来上がったのが彼だと私は信じている。
彼は神が私に与えてくださった贈り物なのだと。
「今日はそのままで構いませんよ。どうか今日一日をお嬢様が心穏やかに過ごせますことをお祈りしております」
「ふふっ、あなたに信仰心があったとは驚きだわ。長い付き合いなのに知らなかった。新しい一面を見た気分よ」
彼とは長い付き合いだけど、信仰心どころか神という言葉すら彼の口から聞いたことはなく、お祈りの時間でさえ彼は目を伏せることもしないのだから私は彼は神を信じていないどころか嘲笑っているいるような気さえしていた。それが祈るなどと口にしたのだから驚いた。
驚きを表に出すより先に笑いがこみ上げて吹きだした。
私はきっと面白い顔をしていただろう。驚きに目を見開きながらも口元を笑みで緩めた顔を彼に晒しているとわかっても整えずにいる。
長い付き合いになれば容姿も性格も存在も何もかもが当たり前になってしまう中で、私は今日という日に彼の新しい一面を見ることが出来た。それは何よりも嬉しかった。
今日だからこそ彼は神という言葉を使ったのかもしれない。私のために、思ってもいないことでも、口先だけでも祈ると言った彼の優しさに私は感謝した。
「足元にお気をつけください」
家から車で四十分ほど走った場所で車は停車した。
真っ黒なワンピースに身を包むのは一年ぶりだ。
毎年この季節のこの日、、私は黒に身を包む。黒という色は好きじゃない。いつもなら執事に「こんな色やだ。着たくない」と言うけど、今日だけはそんなワガママを口にしないと決めている。
今日は黒がもっともよく似合う日だから。
「今年も晴れませんでしたね」
今日という日に相応しい曇天の空を見上げ、今にも雫が落ちてきそうな空気が頬を撫でる感覚に一度、目を伏せる。ズレそうな帽子を押さえてから歩きだす私の後ろを一定の速度でついてくる執事の足音にどこか安堵を感じながら胸に抱く花束の匂いを吸い込んだ。
一年に一度、この日のために用意する花束。毎年同じ花を同じ日の同じ時間に抱えて私はこの道を歩いている。
道から逸れて中に入ると一つの墓石の前で足を止める。墓石に刻まれている二つのフルネームの姓は私と同じ姓で、名前は私が愛する男女の名前。
風邪に運ばれてきた枯葉を手で払うと砂埃も一緒に流れていった。
一年に一度しか訪れないのだから当然といえば当然。私がここを離れてもう一度訪れるまで他に誰一人としてこの墓を訪れる者はいないという現実が突きつけられる物悲しいお墓。
私は両親をとても愛していた。でももういない。愛してると私に伝えてくれる人はもうどこにもいないのだ。
「残念ね……」
何がなのか、自分で言いながらわかっていなかった。咄嗟に口をついて出た言葉を私はどんな表情で呟いたのだろう。ちゃんと苦笑を浮かべることは出来ていたのかしら……。
「お父様、お母様……」
家を出るまではちゃんと何を伝えるか考えていたのに、目の前に立つと言葉は何も出てこなかった。唇が震えるわけでも、喉が絞まるわけでもない。それなのに「愛してる」の言葉すら伝えられない。
「お花です」
朝積みのみずみずしい花を墓石の前に置いて両手を胸の前で組みながら草地の上に膝をついて目を閉じた。この瞬間、私はいつも思う。何も理解しないまま親の行動を真似しているだけの子供と同じだと。
祈る姿を見せているだけで頭の中は真っ黒で何も浮かばない。このどんよりとした空のせいにしたくなるぐらい何も浮かんでこないのに、まるで何か祈ることがあるかのように振る舞っている。そしてそんな無駄な時間を十五分も過ごすのだからどうしようもない人間だと呆れてしまう。くだらない茶番だと笑いたくなる。
埃と枯葉を纏った両親の墓に見合わない美しい花と祈る言葉もないのにポーズだけこなす娘。
それも今日という日自体が嘘で塗り固められているような日なのだから仕方のないことだった。
「お嬢様、風が強くなってまいりました」
「そうね。雨も……」
「神の雫が、降り注ぎそうですよ」
「ふふっ、今日のあなたは神の使いかしら? もしそうなら神の雫より神の息吹の方がよかったのだけれど」
曇天の色が濃くなり、風も強くなり始めた。これからの天気が変わることを知らせる風に帽子が少し浮いた。
胸の前で組んでいた手を解いて帽子を押さえながらゆっくり立ち上がれば風が湿り気を帯び、生暖かいものへと変わっていく。
毎年この日はいつも曇りから雨へと変わる。まるでこの日だけ天気が決まっているかのように何年も狂うことなく雨が降る。毎年それが憂鬱で仕方なかったけど、今年は違った。傍に立っている彼が今日一日で二回も〝神〟という言葉を使ったのだから。それは私に驚きと笑いを与えてくれた。こんな年は今までなかったのに、彼の心境に何か変化があったのかもしれない。
これから雨が降るだろうことを理解しながらも彼は車へ急がせるのではなく、その場に膝をついて紫と黄色の瞳で私を見上げた。
「God bless you」
囁くように言ったその言葉は私に今世紀最大の驚きをもたらした。
今日の彼は本当にどうかしてしまったのだろうか。今日は両親の命日だけど、それは今年が初めてじゃないし、特別悲観的になっているわけでもない。両親が亡くなって数年というわけでもなく、もう昔と呼べるだけの年月が経った。
いつもはお祈りの後に『もうすぐ雨が降る』を合図に車に戻って家に帰る。それが毎年の行動。それなのに今日は違った。
朝から彼が神という言葉を使い続けているだけでも異常だと思うのに、彼は私に「幸運を祈る」と言ったのだ。ロマンチックな彼らしいと言えば彼らしいのかもしれないけれど、私の胸には一抹の不安が過った。
日常に変化は求めていない。昨日と同じ平穏な日が続けばいい。変わり映えのない退屈な日常という言葉を人々は使うが、彼らは知らないのだ。変わってしまうということがどれほど恐ろしいことなのかを……。
「お嬢様?」
「……帰りましょう」
「かしこまりました」
驚きこそ見せたが、彼の祈りの言葉に対し、私はどんな表情を見せていただろう。好印象を与えなかったのは彼の反応でわかる。本日二度目の心配そうな顔。
今日は何かが違う。だがそれは両親の命日に墓参りをしなければならない私ではなく、私の執事として同行している彼だ。
彼の言動一つで私の気分は決まる。彼の言動一つを私はとても気にしてしまう。変わってしまうことが怖い。だから私は歩きだした。彼がくれた言葉をなかったことにしようと。
先を歩きだした私の後をついてくる彼がどんな顔をしているのか振り返れば見れたはずなのに私はそうしなかった。怖くて見れなかったのだ。
「雨は降らないのかしら」
「そろそろだと思いますよ」
「降ってくれなきゃ困るわ」
「雨はお嫌いでしょう?」
「ええ、雨は嫌い。でも今日は……今日だけは降ってもらわなきゃ困るのよ。降らなきゃダメなの……」
いつもなら車に入るまでに雨が降るのに今日は違った。車に乗り込んでも雨は降らない。
雨は嫌い。雷が鳴るかもしれないし、お気に入りの服も靴もダメにする。傘を持って長靴を履くのは子供っぽくて嫌いだし、そんな恰好じゃふたりとカフェにも入れない。雨が降っていいことなんてなにもない。
雨で窓が濡れるのを待ちながら彼に返す自分の声が小さくなるのを感じていた。
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