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父と娘の攻防戦
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その日もいつもと変わらない日になるはずだった。
使用人に起こされ、飽きるほどブラッシングを受け、ヘアセットにメイク、着替えさせてもらったらいつも通りのクラリッサの完成。
クラリッサは完成された自分よりも寝起きでボサついた頭でぼんやりしている自分の顔のほうが好きだった。人間らしい顔をしていると思うから。
だが、それはクラリッサが好むクラリッサであってクラリッサ王女ではない。王女は完璧でなければならないのだから。
「ねえ、あなたは恋人に手紙を書いたりするの?」
クラリッサの唐突な問いかけに使用人は戸惑いを見せない。そして迷うことなくノーと答える。
これは使用人全員に言い渡されている絶対に守らなければならない国王の命令。
『クラリッサが何かに興味を持っても何も知らないフリをしろ。全てにおいてノーと答えろ』と。
手紙は書く。書き方だって知っている。なかなか会えない恋人に毎月手紙を送っているが、使用人は表情を変えないまま即答した。
「いいえ、書きません」
「手紙を書くと返事がもらえるんでしょう?」
「必ずとは限りません。返事が来ないことのほうが多いですよ。郵便事故はとても多いんです。出した手紙のほとんどが相手に届かない時代ですから」
「そうなの? それじゃあ手紙を書く意味はないのね? 皆そうなの?」
「はい。手紙のやりとりという時代は終わりました」
淡々と答えられるとそれが真実なのだと信じてしまう。彼女たちは父親とは違う。尽くしてくれているからこそ信用に値すると信じていた。
手紙の時代が終わったのなら紙とペンを強請るのは怪しまれる。字を知らない人間が紙とペンを用意してくれなどと言えば父親への報告は待ったなし。
残念だという言葉は心にしまっておこうとため息を堪えて立ちあがろうとしたクラリッサの耳に届いたノックの音。
「私だ」
「どうぞ」
クラリッサが立ち上がると同時に椅子が引かれ、横に避けられる。使用人がドアを開けに行き、そこから入ってきた父親を不思議そうな顔で見つめると笑顔が向けられた。
「今日も完璧だな、クラリッサ。お前は本当に美しい。女神カロンの生まれ変わりだな」
「ありがとうございます」
聞き飽きた言葉に言い飽きた言葉。これも“うんざり”だった。
「支度はできてるみたいだな」
なんの話かわからないと無言で首を傾げるクラリッサに父親は立てた人差し指を軽く揺らす。
「ほら、レイニアの王子と会う約束だ」
まるで前々から楽しみにしていた約束であるかのような言い方だが、内容に思わず思いきり眉を寄せた。
「断ってくださいと言ったはずですが?」
「こ、断ろうと思ったんだが時間がなくて断れなかったんだ! いやはや、もう少し時間があれば断れたんだがな!」
白々しい。十歳のロニーでさえそれが嘘だと見破れるほどの下手くそな演技には嫌悪さえ感じる。
断れと言ったのは一週間前。充分に時間はあったはず。それなのに父親は断らなかった。あえて。
「……今からでもお断りしてください」
「無茶を言うな! 向こうは遠路遥々やってきてくれるんだぞ! それも船で!」
「私には関係ありません」
「おもてなしぐらいするべきだ!」
「ではお父様だけでどうぞご自由に、精一杯のおもてなしをしてください」
頑として受け入れようとしない娘に父親の表情が固くなる。
クラリッサはきょうだいの中で誰よりも理解ある子だと思っていた。渋々だとわかっているが、パーティーに出れば嫌な顔も疲れた顔も見せることなく役目を果たしてくれる優しい子だと。
その娘がこれほどハッキリとした拒否を見せるのには理由があるとわかっていても、今回ばかりは引くわけはいかないと父親は最終手段に出た。
「クラリッサ、頼む。ここは私の顔を立ててくれ。断ってもいい。いや、断ってくれ。お前の口からズバッと断ってくれていい。結婚する気はないと言うだけでいいんだ! 頼む! 頼むクラリッサ!」
親が子供に頭を下げるなどあってはならない。貴族は頭を下げない生き物だ。伸びた背中は見せても曲がった背中は見せない。だが、今の父親の背中は怯えた猫のように床の上で丸まっている。頭を下げるどころか、土下座だ。
「……お父様、そのようなことは親がすべきことではありません。お父様のお気持ちは分かりましたから」
「おお、では……ッ!?」
顔を上げてクラリッサの顔を見て蒼白になった父親にクラリッサは言い放つ。
「土下座をすれば娘は聞かざるを得ないとわかっていて、そういう行動に出たということが」
「ちがっ、これは誠意だよ、クラリッサ! 私なりの誠意なんだ! 断れと言われて断らなかったことを悪いと思っているからするんだ! けして父親がここまでしたのだから娘が聞かないはずがないと思ってしたわけじゃないぞ!」
ボロボロと本音がこぼれ落ちるのを白い目で見ながらクラリッサは鬼の形相をやめて完璧な笑顔を見せた。
「わかりました」
「おおっ、わかってくれるか! さすがはクラリッサだ! お前は本当に女神だな!」
「いえ、わかったのはお父様が反省しているということです。私はその謝罪を受け入れますと言っているだけですよ、お父様」
「……で、では、出てもらえるな?」
「いいえ、まさか。私には関係ないと言ったはずです」
「クラリッサ、これは大事な食事会なんだ──ヒッ!」
目の前に落ちたヒールは絨毯のせいで音は鳴りこそしなかったが、勢いだけでもクラリッサの怒りは伝わった。
ドレスであるためしゃがむことはできない。だからクラリッサは立ったまま父親を見下ろす。機嫌を伺うように視線だけで上目遣いで見てくる父親に言い放った。
「約束はパーティーへの出席だけのはずです。それを違えるとおっしゃるのですね?」
「……わかっているよ、クラリッサ。全ては私の不徳の致すところだ」
「そうですね。では、おもてなしお願いします」
聞く耳を持たない娘の頑固さに妻の血を強く引いたと父親の顔が歪む。
ここで諦めるわけにはいかない。相手は王子だけではなく父親である国王もついてくると手紙に書いてあった。他国の王が顔を合わせれば条約について話をすることは避けられないだろう。それにはまずクラリッサの同席がなければ話にならない。二人はモレノスの王に会いに来るのではなく、娘のクラリッサに会いに来るのが目的なのだから。
そのためには手段を選んではいられない。覚悟を決めた目でクラリッサを見上げた父親も最後の手段に打って出る。
「お前がどうしてもと拒むのなら私はここで床に頭を打ち付けて頭から血を流すぞ」
「……お父様、そういうことはお母様の前でお願いします」
母親は以前、クラリッサの部屋にやってきて気持ちを話したことがあった。
『子供もたくさん産んだし、エヴァンは跡継ぎとして立派に育ったわ。だからあの人がいつ死のうとどうだっていいの。でも死ぬときの顔は見たいわね。私を子供を産む道具としてしか扱わなかった男が苦しむ最期の姿を見て笑ってやりたいの。できればこの手で首を絞め殺してやりたいけど』
酔っ払っていたせいで過激な言葉を使ってはいたが、酔っ払っていたからこそ飛び出した本音だろうと思っていた。
床に頭を打ち付けただけでは人を死なない。それも額を打ち付けただけでは。
父親は病的なまでに痛みに弱いことを知っている。だから血が出るほど頭を打ち付けるなどできるはずがない。
「お気に入りのカーペットなんです」
「父親が血が流れるほど頭を打ち付けると言っているのにお前が心配するのはカーペットの汚れか!」
「お父様が買ってくださった物ですから大事にしたいんです」
少し憂いのある表情を作ったクラリッサに父親の表情が心動かされたように変わる。親さえも騙されてしまうのを見ているとクラリッサもなんだか複雑な心境だった。
「お母様を呼んできてくれる?」
「呼ぶんじゃない! お前の母親の甲高い笑い声を聞くと頭が痛くなる!」
夫の失敗ほど愉快なものはないと言いたげに大笑いする姿を何度も見ている。嬉々とした表情を隠そうともしないのだ。淑女にあるまじき「ハッハー!」という甲高い笑い声は屋敷中どこにいても母親だとわかるほど特徴的で、父親はあの笑い声が大嫌いだと知っている。
「私は他国の王子と国王に会った日の夜にパーティーに出席することはしたくありません」
「それは王女の義務だ」
「……なるほど。なるほどなるほど。なるほどなるほどなるほど」
「あああああああああ、違う違う違う違う! 違うぞクラリッサ! 義務ではない! 間違えた!」
クラリッサが「なるほど」を連呼するときは非常に厄介な感情を抱えているとき。
三年前の冬、クラリッサの誕生日パーティーの日に父親は上機嫌になりすぎて口を滑らせてしまったことがあった。
『クラリッサ、お前がいれば我が国は安泰だ。大国のブスな王女たちではこれほどのプレゼントは集められないだろう! これは全て私の功績だ! 娘をブスに産んだことを後悔しているだろうな! お前の誕生日は私を喜ばせるためにあるようなものだ!』と。
会場では気取っていたが、屋敷に戻れば大笑いし始めた父親の発言にクラリッサが言い始めた「なるほど」という単語。そこから質問責めに遭い、完璧な笑顔ではなく嫌な笑顔で固定し、何を話しかけてもその笑顔を崩すことはなかった。やめなさいと言っても、すまなかったと謝っても解除はされず、明確な反省の意を口にするまでまともに会話してすらもらえなかったのだ。
クラリッサは理解あるいい子。それは変わっていないが、厄介な面も持ち合わせているのだと三年前に知ってから気をつけていたのに焦りで失敗した。
「お前はこの父親の願いを叶えるためにパーティーに出席してくれているんだ。嫌な顔も見せずに大役を果たしてくれること、日々どれだけ感謝しても足りないぐらいお前には感謝しているよ。本当にありがとう」
明確に言葉にしなければ許されないとわかってからはこうして口にするようになったが、感謝しても足りないと言いながら普段から感謝の言葉は一度もされたことがなく、ありがとうと言われたのはこれが初めてだった。
だが、クラリッサは許すことにした。父親の失言はもはや天性のものであり、今更直るとは思っていない。
「もういいですよ、お父様。謝ってくださってありがとうございます」
「じゃあ……」
「それとこれとは話が別です」
父親の期待を空まで蹴り飛ばしたクラリッサは無慈悲にも背を向けた。
「……お前がそこまで頑なに拒否するなら仕方ない……」
「わかっていただけて嬉しいです」
「頭をぶつけて寝込む。遠路遥々やってきてくれるレイニア国の王族に国王も王女も対応しなかったことでモレノスは全てを失うかもしれんが、仕方ない。これもこの国の運命だと民も受け入れてくれるだろう」
卑怯な言動をさせれば右に出る者はいない。民の名を口にする父親に唇を噛み締めて目を閉じ、ゆっくりと長い息を吐き出してからクラリッサがゆっくりと振り向くと父親は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
デイジーが言ったようにパーティーに出る以外、能がないと言えどクラリッサもモレノスの王女。民が犠牲になる可能性があると言われてまで無情にはなれない。
「……お父様……」
「ん? どうした? 私は今から寝込むんだ。お前は出たくないし、それを責めつもりはない。誰も悪くないんだから仕方ないだろう?」
クラリッサの頭の中では刃物のように鋭い蹴りで何かを飛ばし、それを掴んで思いきり投げて空へと飛ばす。残りは焼却炉に放り込んで燃やしてしまう映像が浮かんでいた。頭の中でもモザイクはかかっているが、全てクラリッサの願望だ。
実際そうすることはできないため、クラリッサは拳を握りしめて笑顔を作った。
「ではお父様、これからおもてなしに行きますので気絶しない程度に頭を床に思いきり、強く、血が出るぐらい、ぶつけてください。それが終わったら一緒に行きましょうか」
今は屋敷の中。鑑賞用でいる必要などない。だからクラリッサはあえて挑発を返した。やれるものならやってみろと。
頬を引き攣らせる父親と余裕の笑みを浮かべるクラリッサ。引くに引けない状態となった二人は、しばらくの間、対峙し続けていた。
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だが、それはクラリッサが好むクラリッサであってクラリッサ王女ではない。王女は完璧でなければならないのだから。
「ねえ、あなたは恋人に手紙を書いたりするの?」
クラリッサの唐突な問いかけに使用人は戸惑いを見せない。そして迷うことなくノーと答える。
これは使用人全員に言い渡されている絶対に守らなければならない国王の命令。
『クラリッサが何かに興味を持っても何も知らないフリをしろ。全てにおいてノーと答えろ』と。
手紙は書く。書き方だって知っている。なかなか会えない恋人に毎月手紙を送っているが、使用人は表情を変えないまま即答した。
「いいえ、書きません」
「手紙を書くと返事がもらえるんでしょう?」
「必ずとは限りません。返事が来ないことのほうが多いですよ。郵便事故はとても多いんです。出した手紙のほとんどが相手に届かない時代ですから」
「そうなの? それじゃあ手紙を書く意味はないのね? 皆そうなの?」
「はい。手紙のやりとりという時代は終わりました」
淡々と答えられるとそれが真実なのだと信じてしまう。彼女たちは父親とは違う。尽くしてくれているからこそ信用に値すると信じていた。
手紙の時代が終わったのなら紙とペンを強請るのは怪しまれる。字を知らない人間が紙とペンを用意してくれなどと言えば父親への報告は待ったなし。
残念だという言葉は心にしまっておこうとため息を堪えて立ちあがろうとしたクラリッサの耳に届いたノックの音。
「私だ」
「どうぞ」
クラリッサが立ち上がると同時に椅子が引かれ、横に避けられる。使用人がドアを開けに行き、そこから入ってきた父親を不思議そうな顔で見つめると笑顔が向けられた。
「今日も完璧だな、クラリッサ。お前は本当に美しい。女神カロンの生まれ変わりだな」
「ありがとうございます」
聞き飽きた言葉に言い飽きた言葉。これも“うんざり”だった。
「支度はできてるみたいだな」
なんの話かわからないと無言で首を傾げるクラリッサに父親は立てた人差し指を軽く揺らす。
「ほら、レイニアの王子と会う約束だ」
まるで前々から楽しみにしていた約束であるかのような言い方だが、内容に思わず思いきり眉を寄せた。
「断ってくださいと言ったはずですが?」
「こ、断ろうと思ったんだが時間がなくて断れなかったんだ! いやはや、もう少し時間があれば断れたんだがな!」
白々しい。十歳のロニーでさえそれが嘘だと見破れるほどの下手くそな演技には嫌悪さえ感じる。
断れと言ったのは一週間前。充分に時間はあったはず。それなのに父親は断らなかった。あえて。
「……今からでもお断りしてください」
「無茶を言うな! 向こうは遠路遥々やってきてくれるんだぞ! それも船で!」
「私には関係ありません」
「おもてなしぐらいするべきだ!」
「ではお父様だけでどうぞご自由に、精一杯のおもてなしをしてください」
頑として受け入れようとしない娘に父親の表情が固くなる。
クラリッサはきょうだいの中で誰よりも理解ある子だと思っていた。渋々だとわかっているが、パーティーに出れば嫌な顔も疲れた顔も見せることなく役目を果たしてくれる優しい子だと。
その娘がこれほどハッキリとした拒否を見せるのには理由があるとわかっていても、今回ばかりは引くわけはいかないと父親は最終手段に出た。
「クラリッサ、頼む。ここは私の顔を立ててくれ。断ってもいい。いや、断ってくれ。お前の口からズバッと断ってくれていい。結婚する気はないと言うだけでいいんだ! 頼む! 頼むクラリッサ!」
親が子供に頭を下げるなどあってはならない。貴族は頭を下げない生き物だ。伸びた背中は見せても曲がった背中は見せない。だが、今の父親の背中は怯えた猫のように床の上で丸まっている。頭を下げるどころか、土下座だ。
「……お父様、そのようなことは親がすべきことではありません。お父様のお気持ちは分かりましたから」
「おお、では……ッ!?」
顔を上げてクラリッサの顔を見て蒼白になった父親にクラリッサは言い放つ。
「土下座をすれば娘は聞かざるを得ないとわかっていて、そういう行動に出たということが」
「ちがっ、これは誠意だよ、クラリッサ! 私なりの誠意なんだ! 断れと言われて断らなかったことを悪いと思っているからするんだ! けして父親がここまでしたのだから娘が聞かないはずがないと思ってしたわけじゃないぞ!」
ボロボロと本音がこぼれ落ちるのを白い目で見ながらクラリッサは鬼の形相をやめて完璧な笑顔を見せた。
「わかりました」
「おおっ、わかってくれるか! さすがはクラリッサだ! お前は本当に女神だな!」
「いえ、わかったのはお父様が反省しているということです。私はその謝罪を受け入れますと言っているだけですよ、お父様」
「……で、では、出てもらえるな?」
「いいえ、まさか。私には関係ないと言ったはずです」
「クラリッサ、これは大事な食事会なんだ──ヒッ!」
目の前に落ちたヒールは絨毯のせいで音は鳴りこそしなかったが、勢いだけでもクラリッサの怒りは伝わった。
ドレスであるためしゃがむことはできない。だからクラリッサは立ったまま父親を見下ろす。機嫌を伺うように視線だけで上目遣いで見てくる父親に言い放った。
「約束はパーティーへの出席だけのはずです。それを違えるとおっしゃるのですね?」
「……わかっているよ、クラリッサ。全ては私の不徳の致すところだ」
「そうですね。では、おもてなしお願いします」
聞く耳を持たない娘の頑固さに妻の血を強く引いたと父親の顔が歪む。
ここで諦めるわけにはいかない。相手は王子だけではなく父親である国王もついてくると手紙に書いてあった。他国の王が顔を合わせれば条約について話をすることは避けられないだろう。それにはまずクラリッサの同席がなければ話にならない。二人はモレノスの王に会いに来るのではなく、娘のクラリッサに会いに来るのが目的なのだから。
そのためには手段を選んではいられない。覚悟を決めた目でクラリッサを見上げた父親も最後の手段に打って出る。
「お前がどうしてもと拒むのなら私はここで床に頭を打ち付けて頭から血を流すぞ」
「……お父様、そういうことはお母様の前でお願いします」
母親は以前、クラリッサの部屋にやってきて気持ちを話したことがあった。
『子供もたくさん産んだし、エヴァンは跡継ぎとして立派に育ったわ。だからあの人がいつ死のうとどうだっていいの。でも死ぬときの顔は見たいわね。私を子供を産む道具としてしか扱わなかった男が苦しむ最期の姿を見て笑ってやりたいの。できればこの手で首を絞め殺してやりたいけど』
酔っ払っていたせいで過激な言葉を使ってはいたが、酔っ払っていたからこそ飛び出した本音だろうと思っていた。
床に頭を打ち付けただけでは人を死なない。それも額を打ち付けただけでは。
父親は病的なまでに痛みに弱いことを知っている。だから血が出るほど頭を打ち付けるなどできるはずがない。
「お気に入りのカーペットなんです」
「父親が血が流れるほど頭を打ち付けると言っているのにお前が心配するのはカーペットの汚れか!」
「お父様が買ってくださった物ですから大事にしたいんです」
少し憂いのある表情を作ったクラリッサに父親の表情が心動かされたように変わる。親さえも騙されてしまうのを見ているとクラリッサもなんだか複雑な心境だった。
「お母様を呼んできてくれる?」
「呼ぶんじゃない! お前の母親の甲高い笑い声を聞くと頭が痛くなる!」
夫の失敗ほど愉快なものはないと言いたげに大笑いする姿を何度も見ている。嬉々とした表情を隠そうともしないのだ。淑女にあるまじき「ハッハー!」という甲高い笑い声は屋敷中どこにいても母親だとわかるほど特徴的で、父親はあの笑い声が大嫌いだと知っている。
「私は他国の王子と国王に会った日の夜にパーティーに出席することはしたくありません」
「それは王女の義務だ」
「……なるほど。なるほどなるほど。なるほどなるほどなるほど」
「あああああああああ、違う違う違う違う! 違うぞクラリッサ! 義務ではない! 間違えた!」
クラリッサが「なるほど」を連呼するときは非常に厄介な感情を抱えているとき。
三年前の冬、クラリッサの誕生日パーティーの日に父親は上機嫌になりすぎて口を滑らせてしまったことがあった。
『クラリッサ、お前がいれば我が国は安泰だ。大国のブスな王女たちではこれほどのプレゼントは集められないだろう! これは全て私の功績だ! 娘をブスに産んだことを後悔しているだろうな! お前の誕生日は私を喜ばせるためにあるようなものだ!』と。
会場では気取っていたが、屋敷に戻れば大笑いし始めた父親の発言にクラリッサが言い始めた「なるほど」という単語。そこから質問責めに遭い、完璧な笑顔ではなく嫌な笑顔で固定し、何を話しかけてもその笑顔を崩すことはなかった。やめなさいと言っても、すまなかったと謝っても解除はされず、明確な反省の意を口にするまでまともに会話してすらもらえなかったのだ。
クラリッサは理解あるいい子。それは変わっていないが、厄介な面も持ち合わせているのだと三年前に知ってから気をつけていたのに焦りで失敗した。
「お前はこの父親の願いを叶えるためにパーティーに出席してくれているんだ。嫌な顔も見せずに大役を果たしてくれること、日々どれだけ感謝しても足りないぐらいお前には感謝しているよ。本当にありがとう」
明確に言葉にしなければ許されないとわかってからはこうして口にするようになったが、感謝しても足りないと言いながら普段から感謝の言葉は一度もされたことがなく、ありがとうと言われたのはこれが初めてだった。
だが、クラリッサは許すことにした。父親の失言はもはや天性のものであり、今更直るとは思っていない。
「もういいですよ、お父様。謝ってくださってありがとうございます」
「じゃあ……」
「それとこれとは話が別です」
父親の期待を空まで蹴り飛ばしたクラリッサは無慈悲にも背を向けた。
「……お前がそこまで頑なに拒否するなら仕方ない……」
「わかっていただけて嬉しいです」
「頭をぶつけて寝込む。遠路遥々やってきてくれるレイニア国の王族に国王も王女も対応しなかったことでモレノスは全てを失うかもしれんが、仕方ない。これもこの国の運命だと民も受け入れてくれるだろう」
卑怯な言動をさせれば右に出る者はいない。民の名を口にする父親に唇を噛み締めて目を閉じ、ゆっくりと長い息を吐き出してからクラリッサがゆっくりと振り向くと父親は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
デイジーが言ったようにパーティーに出る以外、能がないと言えどクラリッサもモレノスの王女。民が犠牲になる可能性があると言われてまで無情にはなれない。
「……お父様……」
「ん? どうした? 私は今から寝込むんだ。お前は出たくないし、それを責めつもりはない。誰も悪くないんだから仕方ないだろう?」
クラリッサの頭の中では刃物のように鋭い蹴りで何かを飛ばし、それを掴んで思いきり投げて空へと飛ばす。残りは焼却炉に放り込んで燃やしてしまう映像が浮かんでいた。頭の中でもモザイクはかかっているが、全てクラリッサの願望だ。
実際そうすることはできないため、クラリッサは拳を握りしめて笑顔を作った。
「ではお父様、これからおもてなしに行きますので気絶しない程度に頭を床に思いきり、強く、血が出るぐらい、ぶつけてください。それが終わったら一緒に行きましょうか」
今は屋敷の中。鑑賞用でいる必要などない。だからクラリッサはあえて挑発を返した。やれるものならやってみろと。
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