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番外編

if story〜リンウッド〜3

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 初めて愛を言葉にしたのは十歳のときだった。

〈愛してる〉

 まだ八歳のイベリスにそう言ったとき、イベリスはキョトンとした顔でこちらを見ていた。何を言っているのかわかってもリンウッドが抱く愛情までは理解できていない。当然だ。まだたったの八歳。リンウッドが早熟すぎるのだ。
 それでもリンウッドは早過ぎたかと苦笑するどころか、その日から毎日イベリスに愛を捧げるようになった。おはようやおやすみの挨拶をするように会えば愛を囁いた。

〈おはよう、イベリス〉

 公爵家にも当然馬車はあるし、住み込みの御者もいる。それでもリンウッドは学校へ行くのにわざわざ遠回りをしてイベリスを迎えに行き、送る。
 十歳になる頃にはリンウッドの手話はイベリスの両親並みとなり、手話での会話に不自由はなくなっていた。歩きながらは手話。カフェなどに寄って座っているときはメモ帳に書いたりもする。手話ができるようになったからといってイベリスとの会話の記録がなくなるのは寂しいとリンウッドが言ったため。
 イベリスは嬉しかった。毎日毎日話をしてくれる人がいて。メモ帳でも手話でもなんでもいい。嫌そうな顔をせず、厄介そうな顔をせず、疎ましそうにこちらを見ずに一緒にいてくれる人は貴重だ。ましてや相手は好意を寄せてくれている。嬉しかった。

〈愛してるよ、イベリス〉

 九歳になっても、十歳になっても、十一歳になっても変わらず囁かれる愛にイベリスはいつも笑顔を見せる。その愛はイベリスにとって両親が言ってくれるのと同じものだと感じていたから。毎日一緒に過ごしてくれる優しいお兄さんという感じだった。
 それが変わり始めたのはイベリスが十二歳になった頃。

〈イベリス〉
〈ん?〉

 差し出されたメモ帳に書かれていた言葉を見てイベリスはその日、なんとなくじんわりとした感覚を胸に覚えた。四年間、毎日言われ続けた言葉で聞き飽きたとすら言えるほど目にしたその言葉に今日はなんだか不思議と引っかかった。悪い意味ではない。だが、嬉しいというわけでもない。
 いつもなら笑顔で頷いてくれるイベリスに今日は笑顔がないことが不安になったリンウッドが慌てて手を動かす。

〈ど、どうしたの!? しつこかった!?〉

 四年間毎日言い続けても足りないリンウッドだが、さすがに言い過ぎかという自覚はある。イベリスは優しいから「もういい」と拒絶することはない。それに甘えて毎日の習慣にしてしまった。
 リンウッドにとって一番怖いのはイベリスが愛を受け取ってくれなくなることではない。「もうやめて」と言われるのは何百万回も想像した。言うたびにそのシーンを想像しているし、毎日何十回と想像する。最悪の想像をしていれば最悪の事態になっても耐えられると思っているから。
 しかし、やはりそうなるかもしれない状況になると怖い。恐怖が押し寄せる。嫌な汗が全身から溢れ、心臓が異様に速く動き、呼吸が苦しくなる。何か嫌な言葉を言われるのではないかとイベリスの手の動きを見るのが怖くて防御反応で目眩が起こる。耳がキーンと鳴る。

〈大丈夫?〉
〈大丈夫〉

 揃えた指先を左胸から右胸に移動させるも大丈夫ではない。

〈体調悪そうだよ?〉
〈全然平気。今日はこんなに良い天気なのに体調が悪くなるなんてありえないよ〉
〈雨降りそうな天気だよ?〉

 見上げてみると確かに雨雲のように黒い雲が広がっている。そういえば今朝の新聞に今日は雨が降ると書いてあった気がする。傘はいつも馬車に備えてある。いつ雨が降っても大丈夫なように。だから今日も問題ないのだが、今はそんなことはどうだっていい。

〈イベリス、今日は笑顔をくれないのは……どうして?〉

 聞きたくないと思っているのに聞かずにはいられない。それはもはや、自傷行為にも近い。せめて「ああ」と特になんでもないようにポンっと手を叩いてくれる仕草でもあれば安心できるのに、イベリスはジッと見つめた黙っていた。死刑宣告されるのを待つだけの被告の気分に手が震える。

〈どうしてリンウッドは愛してるって言うの?〉

 小さな疑問だが、これは慎重に答えなければならない気がしていた。今までは当たり前のように笑顔で受け取っていた愛に疑問を持った。それはイベリスが少し成長した証であり、興味を持っている証拠でもあったから。
 緊張からごくりと喉が鳴る。

〈僕が君に一目惚れをしたって話はしたよね?〉
〈何百回も〉
〈あの日、君に恋をしたけど、今は恋なんて言葉じゃ胸の中にある君への想いを表現するには小さすぎるんだ。今の僕の胸にあるのは恋じゃなくて愛だから、君に愛してると伝えたいんだよ〉
〈二日に一回とか、週末だけとかでもあなたが私を愛してることは忘れないよ?〉
〈そうだね。でも、毎日思うから。ああ、今日もイベリスを愛してるって〉

 イベリスにとっては変な返事だった。リンウッドにとっては至極当たり前のことだった。
 早々に恋をして愛を知ったリンウッドはイベリスを運命の相手だと思っているが、最悪そうではなかった場合も想定している。最悪の場合でもこの関係は崩したくないと切望していた。愛を囁ける関係が崩れても、良き理解者として、幼馴染として一緒にいることが許される関係でありたいと。
 でも本音は、こうして彼女に愛を囁く人間は自分だけがいいと思っている。だから一つ一つ、言葉を間違えないように丁寧に言葉にする。

〈私はまだ、愛してるってどういうことかわからない〉
〈いいんだよ。僕が伝えたくて伝えてるだけだから〉
〈同じ気持ちでなくちゃ寂しい?〉
〈そんなことないよ。僕はイベリスを愛してるから伝えたくて言ってるだけ。同じ気持ちが返ってこなきゃ、なんて思ったことは一度もないよ〉
〈言えなくてもいい?〉
〈もちろんだよ。だからイベリスはプレッシャーに感じないでくれると嬉しいな〉

 この言葉がプレッシャーになってしまうかもしれないと思ったのは言ってから。イベリスの顔が難しいものへと変わるのを見て内心少し焦っていた。もしここで距離を取るような言葉でも口にされようものなら崩れ落ちる自信がある。
 イベリスはなんでも言葉にするが、考えすぎる部分があるだけに言葉を待っている時間が怖い。

〈私が同じ言葉を返すと嬉しい?〉

 ドキッとした。いや、心臓が飛び出そうになった。いや、口から少し見えていたのではないか。それぐらい驚いた。
 愛を囁いてイベリスから同じ言葉が返ってくる日を何万回想像したことか。ここで嬉しいと答えれば明日から同じ言葉が返ってくるかもしれないと思ったのだが、リンウッドはイベリスの問いに頷けなかった。

〈嬉しくない?〉
〈嬉しくないわけない。嬉しいよ。でも、僕を喜ばせるために言うのはナシにしてほしい。君から返ってくる愛の言葉は本物がいいから、君が本当に僕を愛してると思ったときに言ってくれたほうがずっと嬉しいよ〉
〈待っててくれる?〉
〈もちろんだよ! 何十年だって待つよ! イベリスが隣に居てくれるなら僕は君からの愛の言葉がなくたって平気なんだから〉

 言葉を間違えただろうかと焦るもイベリスが笑顔になってくれたことに安堵する。

〈ちゃんと言うから待っててね〉

 その言葉だけで充分だ。愛は強要するものではなく、リンウッドに至っては一方通行の愛でも構わないとすら思っている。大事なのはイベリスの傍にいること。それ以上を期待すると今以上の欲に溺れてしまいそうで怖かった。
 手を差し出すと握ってくれる。この小さな手を握れる幸せを知っている者は少ない。家族と自分だけ。他の者は知らなくていい。大事に大事に育てて、守って、愛して……
 それだけで充分だ。

〈今日は何をしようか?〉

 まだこの頃は、そう思っていた──……
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