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契約執行

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 蜂蜜のような透き通った金色の髪を靡かせながら現れた少女はまるでそこに椅子があるかのように宙に腰掛け、足を組んだ。パリスグリーンの大きな瞳に影が落ちるほど長いまつ毛。一般的よりも白い肌はどこか浮世離れした美しさがある。
 だが、この場にいる誰も、その美しさに見惚れることはなかった。何故ここに、何故今日なんだと誰もがその言葉で頭がいっぱいだった。
 ファーディナンドとサーシャ、イベリスとウォルフ。少女に会ったことがある人間とない人間がいるが、なくとも彼女が誰なのかわかった。

「魔女……?」

 一番に口を開いたのはウォルフだった。
 振り返った魔女がピストルを向けるように作った指を向けて「正解」と言った。

「何故だ! まだ一ヶ月あるはずだろ!」

 吠えるファーディナンドに魔女があえてキョトンとした顔を見せる。

「一ヶ月? いつからの残り一ヶ月? まさかとは思うけど、あなたが結婚してからの計算じゃないわよね?」

 立てた人差し指をクルッと回すように動かすだけで魔女の目の前にティーセットが現れる。大きな丸型ティーポットが自動で傾き、カップに紅茶を注ぐ。それが終わると今度はその横に皿に盛られたクッキーが現れる。それをヒョイと摘んで口に放り込む。

「私が言った一年は契約したその日からの一年。当然でしょ」 
「あのときはまだイベリスはいなかった!」
「だから? あなたは器を用意すると言った。そのときに器があったかどうかなんて私には関係ない。見つかったのが一年前でも今日でも執行は決定してる。器が見つかったらそこに魂を降ろすし、見つかってなかったら契約は無効。それだけよ」
「彼女はロベリアの器ではない! 契約は無効だ!」

 淡々と語る魔女に愛想はなく、ファーディナンドの言葉を聞きながら無表情に近い表情で紅茶を飲む。ゆっくりとカップをソーサーに下ろしたあと「それはムリ」と静かな声で告げた。

「何故だ! ロベリアの魂を降ろす必要はない! あの契約は無効でいい! 俺の望みなど叶えてくれなくていいんだ!」
「器を愛しちゃったからとかいうバカみたいな理由だったら殴るわよ」
「そうだ。ッ!」

 パンッと乾いた音がしてファーディナンドの顔が動いた。魔女は動いていない。それでも確かにファーディナンドは頬に強い打撃を受けた。その場にいた全員がその光景を見ていたが、誰にも何が叩いたのかは見えなかった。

「ねえ、自分がどれほどくだらないこと言ってるか、わかってる?」
「ああ、わかっている……。だが、頼む。イベリスはロベリアの器ではないんだ。ロベリアの器は用意できなかった。だからロベリアの魂は諦め──」

 まだ喋っているファーディナンドを無視して振り返った魔女にイベリスの肩が大きく跳ねる。自分よりも幼く見えるこの少女が本当に魔女なのだろうかと疑いすらあるが、ファーディナンドの言葉から疑いの余地はない。

「イベリス・リングデール、十六歳。明日、十七歳の誕生日を迎える。そうよね?」
「ッ!?」
「この世で最もつまらない男のせいで十六歳でこの世を去ることになるとは、可哀想にね。同情しちゃう」
「魔女! お前が望む物は──ッ!」

 今度はファーディナンドの身体が一瞬で壁に叩きつけられた。浮くという動作もないままに壁まで吹き飛ばされた。
 何が起こっているのかわからない。これが魔女の力なのだとしたら──イベリスの中に強い絶望が広がる。

「あの日、もう一度私をお前と呼んだら殺すって言ったわよね? ああ、覚えてないのね。自分が契約した日のことも思えてないんだから仕方ないか。じゃあもう一度だけチャンスをあげる。次、私をお前と呼んだら殺すから」
「の、望む物は全て用意する……だ、だから、契約は破棄させてくれ……!」

 内臓が、骨が、筋肉が、衝撃に震える。壁に激突し、床に落ちた身体を震わせながら起こして魔女の前まで歩いていくも辿り着く前にガラス戸のような壁が現れた。その前でファーディナンドの足が止まる。

「ムリよ」
「頼む。魔女よ、頼む。俺が愚かだった。あの日の選択を後悔しているんだ。イベリスを殺すわけにはいかない。俺の命を差し出す代わりにイベリスを救ってくれ」
「私が願いを叶えるのはたった一度だけ。あなたはそのたった一度の願いは愛する妻を生き返らせることだった。契約破棄は願いになるの。だからムリよ」
「頼むッ!!」

 崩れ落ちるように膝をついたファーディナンドがそのまま床に額をつけて土下座をする。それでも魔女の表情は変わらない。

「人間って土下座が好きよね。駄々をこねればお菓子を買ってもらえると思ってる子供みたい。この世で最もつまらない行為だわ」

 蔑む視線と言葉が突き刺さるように降ってくる。それでもファーディナンドは頭を上げようとしない。

「わかってないようだから教えてあげる。テロス帝国の皇帝の土下座も、命も、それらにはなんの価値もないの。私との契約を破棄できる切り札になると思って口にしたんでしょうけど、ムダよ。あなた自身に価値なんてないんだから」
「どうすればいい!? どうすれば契約を破棄できる!? 破棄できるなら俺はなんでもする! だから──」

 魔女が片手を見せつけるように広げると金色に輝く紙が現れた。そこからヒラヒラと左右に揺れながら落ちていく紙はちょうどファーディナンドの前に着地した。

「小さな脳みそだから覚えてないのも仕方ないかもしれないけど、それがあなたが私と交わした契約書。字が読めるならもう一度読んでみるのね」

 頭を上げて紙を見る。金色に光る紙に契約内容がビッシリと黒字で書かれている。その最後には確かに自分の字でサインしてあった。
 頭から契約を再読していると途中で勢いよく顔を上げる。

「ね? 書いてあるでしょ。私はそれをちゃあんと伝えたし、あなたはそれに息巻いてこう言った。当然だ。無効にしてたまるか、ってね」

 蘇る記憶。

「あ、あのときは……」
「今の感情はあのときとは違うんだ、とか笑っちゃうようなこと言わないでよ。言ったところでそこに書いてあることが全てだけど」
「ああ……あああ……」

 後悔に震えるファーディナンドの前で共鳴するように契約書が震え、ある一文が宙に飛び出した。

【いかなる理由があろうと契約を無効にはできない】

 当時、ロベリアの復活しか頭になかったファーディナンドにとってこの契約文は存在しないも同然だった。
 世界で最も性悪と称される魔女が土下座一つで心を変えるはずもなく、大の大人がお菓子を買ってもらえない子供のように泣きじゃくって懇願したとて同じこと。

「お待ちください」
「あら、サーシャ。久しぶりね、私の可愛いスパイちゃん」

 耳を疑ったファーディナンドが目を見開き、サーシャを見る。
 
「スパイってお前やっぱり……」

 ウォルフはその可能性も疑っていただけに驚きはなかった。やはり、という思いと嫌悪の増加。
 可愛いなんて思ってもいなくせにと眉を寄せるサーシャの後ろに回るとそのまま前に回した手で顎を支えるように手を置く。

「サーシャはすごいのよ。この若さで単身、あの森に挑んできた勇者ちゃんなのよね」

 嫌悪を剥き出しにしているのはサーシャも同じ。相手はウォルフではなく魔女。拳を握り、唇を噛み締めながらも魔女の言葉を否定はしない。

「……お前、どうやって終焉の森を抜けた……?」

 驚くウォルフにサーシャは答えず、代わりに魔女が答えた。

「教えてあげればいいのに。魔法の使用は禁じられていないんでしょ?」
「魔法って……凍らせるだけしかできないって言ってただろ……。広い範囲は安定しないって……」
「凍らせる“だけ”がどれほど便利な魔法か、グラキエス出身のワンちゃんにはわからないのね」
「俺は犬じゃねぇ。白狼だ」

 どっちも同じだとウォルフの言葉を無視する魔女が続ける。

「年中凍ってるグラキエスでは、なーんの役にも立たなかったでしょうけど、終焉の森を上手く抜けるには氷が一番なのよ。グラキエスの皇帝もそうやって森を抜けた。凍らせれば襲われる心配はない。備わった魔力が強力であればあるほどね。だって森ごと凍らせちゃえば済む話なんだから」

 簡単に言ってはいるが、森ごと凍らせるなどサーシャには不可能だとウォルフは思う。だが、サーシャはテロスの中心を流れる川を凍らせた。どれだけの数がどれほど滑ろうと割れることはなかった。嵐の中、船を凍らせて守った。思えばサーシャはあれだけの魔法を使いながらも倒れはしなかった。サーシャはそれだけ魔力を持っていることかと横目で見るも、ウォルフはまだ引っかかっていた。

「お前の魔力はそんなになかったはずだ」

 テロスで再会したときのサーシャの魔力はそこまでじゃなかった。巨大な船を凍らせたり、人を細胞まで凍らせることができるほどの魔力はなかったはず。それがいつの間にか強くなっていることに気付いたのは聖女が現れた頃。
 ウォルフの指摘に視線を逸らしたままのサーシャの代わりにまた魔女が答えた。

「魔力量は増やせる」
「魔女との取引で、か?」
「正解」

 ふふッと笑う魔女がイベリスの横へと戻っていく。宙を舞うように移動する魔女に顔を向けるも目は合わない。

「だけど、サーシャの魔力量が増えたのはごく最近のことよ。終焉の森を抜けたのは間違いなくこの子の実力。あなたの知る彼女の魔力量だけで抜けたのよ」
「どうやって──」
「人間って面白くてね、愛のためならどんな場面でも実力以上の力を出せるの。終焉の森を抜けた者は全員そうよ。欲望だけで抜けられた抜けられた者はいない」
「愛?」

 なんのことだと眉を顰めるウォルフにサーシャは「言わないで!」と叫んだ。
 顔色が悪くなってきているサーシャにとってこれは一生秘密にしておくつもりだった話なのだろうと察したウォルフが魔女に話すよう促す視線を向ける。

「あと数日後に訪れるだろう死神を待つだけだった弟の病が嘘のように消えた。喜ばしいはずの出来事から姉は目を逸らすようにその場を離れた」

 ハッとする。

「魔女と取引して弟の病を治したなんて家族に知られたくなかったのよね。だって魔女との契約は今や世界中がそれを禁忌としてるんだから。もし誰かに知られでもしたら契約者だけじゃなく、その家族までが迫害を受けることになるんだもの」

 意地でも帰ろうとしなかった理由が明らかとなったが、ウォルフにはまだ疑問があった。

「コイツの部屋にあったあの青い炎はアンタとの繋がりか?」
「あれは伝書鳩より便利な連絡ツールよ。報告書を燃やすと私に届くようになってるの」
「報告書? スパイって言ってたが、何をコイツに探らせてたんだ?」
「探らせてたなんて人聞きの悪いこと言わないでくれる? そこでダンゴムシみたいに丸まってる皇帝の一年間の行動を報告してもらってただけ」
「なんのために?」
「退屈しのぎよ」

 本当にそうだろうか。退屈しのぎのためだけに一年も監視させる理由がどこにある。
 イベリスが鳥籠に触れようとしてサーシャが大声を出したのは火傷するからではなく魔女の魔力に触らせたくなかったからで、それには納得がいった。それでも疑問は山のように溢れてくる。
 
「それが不治の病を治す引き換え条件ってか?」
「そうね」
「でも、コイツの弟の病が治ったのは一年前じゃない」
「弟を治すためだったらなんでもやるって言ったその目が気に入ってね、そのときは代償は貰わなかったの。時が来たら動いてもらうって契約だけしてね」
「それが今回だと……」
「私の選択は間違ってなかった。こんなにくだらなくて面白いことになったんだもの」

 くだらないのか面白いのか。魔女の性格がわからない。ファーディナンドの土下座には冷めた顔をし、サーシャがスパイだったことを暴露する顔はまるでパーティーでもしているように明るい。
 性悪を具現化したような生き物だと吐き気がする。

「一年もスパイ活動させるなんて、相当な性悪だな」
「あら、あなたはイベリスと過ごした一年を長いと感じた?」

 ありえない。長いどころかあっという間だった。目まぐるしく変わる、という言葉を初めて実感したぐらいだ。できるなら時間を戻したい。ここで、足の一本でも差し出して魔女と契約したいとさえ思ってしまうほどに。

「不治の病という死亡フラグをたった一年、スパイとして身を置くだけでなかったことにできるんだから安いもんだと思うけど?」

 神でなければ治せないだろう病を魔女に定期連絡するだけで治せるならウォルフもそうする。イベリスが不治の病にかかったら迷わず終焉の森に飛び込むだろう。

「でもま、今はそれよりも重い契約を受けたけど」

 どういうことだと振り返ったウォルフと目が合ったサーシャはすぐに俯き、自分の腕を掴む。爪が食い込むほど強く握る腕は震えているように見えた。
 サーシャはいつも自分のことを語ろうとしない。語ることがないのではなく、語ってボロが出ると困るから語らないでいたのだと悟った。

「重い契約?」
「もう、手袋が外せないのよね?」

 いつからか、サーシャは手袋をするようになった。どんなときも外すことがない。それこそイベリスを風呂に入れるときでさえ外さなくなったという。イベリスが外すよう促しても彼女は『滑らなくていい』と答えた。手袋をする前だって手が滑って何かを落としたり壊したことは一度もない。それなのに滑ることを理由に外さなくなった手袋をイベリスもウォルフも疑問に感じていた。

「私のことはどうだっていいでしょ……」

 声を震わせるサーシャの周りを一周した魔女がニッコリ笑う。

「どうして? 私はあなたの愛に感動したから皆に教えてあげたいのよ。良いことしたら自慢しなくちゃ」
「必要ない!」
「慎ましやかが美徳だと思ってるなら大間違い。あなたは自己犠牲という名の愛のもと、ヒーローになったの。感謝されなくちゃ」
「感謝なんてしてほしくない! 私が勝手にしたことだから! 誰かに知ってもらう必要なんてない!!」
「あら、そんなことないわ。だって、誰にも触れられなくなった代わりにあなたは誘拐されたイベリス・リングデールの位置情報を得たじゃない」

 ウォルフがハッとする。船で出たとわかったが、どこにいるかまでは港にいた人夫たちもわからなかった。教えてくれたのは船が進んでいった方角だけ。それなのにサーシャはまるでイベリスの居場所を知っているかのように進む方角を指示し続けた。疑うウォルフに「たぶん」と何度も言っていたが、指示されるままに進んだ先にイベリスはいた。

「さっき、願いを叶えるのはたった一度だと言ったな?」
「そうね。基本的にはそうよ。でも彼女は私の可愛い駒だし、忠実だったから叶えてあげたの。欲望で契約だ破棄だって言うあの男とは違う」
「陛下は命を差し出すと言ってる」
「私は命に価値なんてないと言った」

 サーシャのスパイ行為は皇帝の命よりも価値があると言っているように聞こえる。全てにおいて淡々と答える魔女が気に入らない。全身の毛が逆立つような苛立ちを感じながら何度拳を握り直したか。

「私に嫌ってるくせに忠実に働く良い子ちゃんには褒美をあげたくなったの。魔女って気まぐれだから。それに、代償を払うって言ったのはこの子だしね」
「なんで──」
「ねえ、問い詰めるのは結構だけど、誰のおかげで大事な想い人を五体満足で取り戻せたのか思い出したほうがいいんじゃない? そこに感謝以外の言葉が必要なのかしら?」

 口を噤み、唇を噛み締めたウォルフがサーシャに身体を向け、深く頭を下げた。もし、サーシャが取引したおかげでイベリスが助かったのが事実であれば、魔女の言うとおり、感謝の言葉以外必要ないのだから。
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