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帰らない娘
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「そうだ! せっかくグラキエスに来たんだからランプ屋に寄ってったらどうだい?」
「帰りに寄るつもり」
「へえ」
「なんだよ」
ニヤつく母親の下卑た笑みに眉を寄せるも「いんやあ?」と語尾を上げる。何を言いたいのかわかっているだけに腹が立つ。
シロップ漬けを食べ終えた皿を片付け始める母親が「お茶のおかわりは?」とイベリスの前のカップを指し、カップを差し出しながら頷く様子に「あいよ」と返事をした。
「気まぐれに贈るでないぞ」
「わかってるよ。てか別にランプ贈ったからどうのってわけじゃないだろ」
「お前ぐらいの歳になると言い伝えも薄れてゆくのじゃな」
「何が?」
祖父が若い頃には色々な言い伝えがあった。これにはこういう意味があって、あれにはこう意味が──と何回聞いたかわからない。贈る物に意味をつけて渡したいと考えた誰かが言っただけの言葉がまるで本当にそんな意味を持っているかのように広まっているだけだとウォルフは冷静に見ていたのだが、孫がランプを贈る意味を知らないことにどこか寂しげな表情を浮かべたため一応「どういう意味があるの?」と聞いてみることにした。
「ランプはどんな暗闇が訪れようともこの光と共に私と一緒に歩いてくださいって意味があるんじゃ」
「重たくない?」
「重いとはなんじゃ! 良い意味じゃろうが!」
「十代のウォルフに言ったところでその言葉の魅力はわからんさね。もっと大人になってからじゃないとねー?」
「大人だし。もう十六なんだから」
また母親が大笑いする。
「自分の光で相手を照らしたいことを伝えるときに贈ったりしたもんさ」
「母さんも?」
「もちろん! 部屋にあるランプは父さんから贈ってもらったもんだよ」
「へー、あの人がねぇ」
「意外とロマンチックなんだよ」
「別に知りたくないし」
おかわりを持ってきた母親がイベリスの前にカップを置くとキョトンとした表情が返ってきたことに首を傾げる。
「おかわり必要なかったですか?」
〈あ、おかわりって言ってくれたの? お皿片付けてくださったからまさかおかわり持ってきてくださると思ってなくて驚いただけ〉
「カップ片付けたと思ってたからおかわり持ってきたことに驚いたんだって。あと、おかわりはいらないって」
「いらないとは言ってないだろ」
なんでわかるんだと怖くなる。
「ま、たくさん食べて飲んだからこれ以上行くと外でトイレしたくなっても困るか」
「皇妃様は外でトイレなんてしない」
〈どんな話してるの!?〉
慌てるイベリスになんでもないとかぶりを振るも恥ずかしいこと言わないでと何か過去に失敗しただろうかと話されて困ることを必死に思い出している様子を見て三人が笑う。
イベリスの前に置いたカップを持ち上げて自分で飲む母親を見てウォルフが立ち上がった。
「今日は天気も悪いし、そろそろランプ屋に行くよ」
「部屋には連れ込まんのか?」
「やめとく。二人とも余計な勘繰りしそうだし」
「小遣いあるのかい?」
「え、くれるの?」
「当たり前じゃないか。皇妃様に贈るランプを親にもらったお小遣いで買うなんて最高の男じゃないか」
笑いながら飛ばされる嫌味にあからさまに不愉快を表情をに出すと笑い声は更に大きくなる。母親のこういうところが苦手だとイベリスの前に手を差し出し、外に行こうと伝えた。
立ち上がったイベリスが二人に頭を下げると二人も一緒に頭を下げる。
「またおいでね。いつでも歓迎するよ」
「今度は嫁としてな」
ウォルフは何も言わなかった。二人の言葉に反論も否定もイベリスに余計な勘ぐりをさせてしまうだけな気がしたから。
イベリスはテロスに戻ると言っている。よほどのことがなければもう一度グラキエスを訪れることはないだろう。自分たちが知るファーディナンドと魔女の契約執行までもう四ヶ月もない。残りの月日をイベリスはテロスで過ごすつもりなのだから。
パイのシロップ漬けを瓶に入れてもらったイベリスはご機嫌。両手を振って別れると、さほど遠くはないため獣化はせず歩いていくことにした。
「俺の抜け毛が詰まったクッションは俺が城で作ります」
「ふふっ、楽しみ」
本当は触ってもらいたかったが、部屋に連れていったらすぐには出られない。出たくなくなる。サーシャはここまで来ないだろうからこのまま家に閉じこもっていればいいのではと考えなくもなかったが、結局は悪あがきなだけ。
「ウォルフ?」
家から少し離れたところでウォルフが急に立ち止まった。
「よかったら……手を、繋ぎませんか?」
変に思われるだろうかと昨夜一緒に寝ておきながら心配するもイベリスはその手をしっかりと握った。
〈大きな手〉
「イベリス様が小さいんですよ」
〈あなたは誰よりも大きな人なのよ?〉
「まあ、確かに俺の手が大きいのかもしれませんね。イベリス様の頭をリンゴを潰すみたいに握れるかもしれません」
〈例えが悪すぎる〉
嫌そうな顔をするもすぐに笑顔へと変わるイベリスを愛しいと思う。お土産をもらってしまったと瓶が入った袋を持ち上げて見せるイベリスに笑顔を向けながら考えるのは、やはりテロスには戻るべきではないということ。戻って、ファーディナンドの傍に置いておきたくないし触れさせたくもない。イベリスはもっと自由であるべきだ。でも、ウォルフのその想いは伝わらない。何をそんなに意固地になっているのかをイベリスは話してくれなかった。わからないと言っていたが、きっと理由はあるし、自覚があるはず。
先に自分の想いを伝えてしまったからこそ話してもらえなかったのだろうと思っている。だが、早まったと後悔はしていない。キスしたことをファーディナンドが知れば怒るだろうが関係ない。言って許されるなら言ってやりたいのだ。
(お前と同じフィールドで戦うつもりはない)
心の中でファーディナンドにぶつける。
「ウォルフッ!」
名前を呼ばれてハッと我に返り、振り返った先にいた人物に顔が引き攣った。
中年女性が一人、こちらへ駆けてくる。
「ミーシャおばさん」
「やっぱりあなただったのね! 白い狼が見えたからあなたじゃないかと思って」
「サーシャの母です」
茶髪のストレートロングヘアの女性は雪のように白い肌をしていたが、どこかくたびれて見える。サーシャの母というよりはサーシャの祖母と紹介を受けても疑わないほどに。
「サーシャは一緒?」
絶対に聞かれると思っていた質問に戸惑ったそれが答えとなった。
「どうしてグラキエスに……ロベリア・キルヒシュ……?」
ひどく驚いた顔を見せるサーシャの母にイベリスが首を傾げるとウォルフによって背中に隠される。
何度も繰り返さなければならない状況にうんざりしているのはウォルフのほうだ。ロベリアが亡くなっていることを知っていながらなぜその名を口にするのか。ロベリアが亡くなったことを知っているなら新しい皇妃を迎えたことも知っているはず。誰も彼もがロベリアの名前を口にする。それがウォルフの怒りに火をつける。
「彼女はイベリス皇妃です」
少し怒気を含んだ強い口調にハッとして慌ててイベリスに頭を下げるミーシャに戸惑いながらウォルフを見上げると怒った表情に察した。またロベリアと間違えられたのだろうと。
「サーシャは相変わらず、家に帰るつもりはないの一点張りです」
「帰るよう説得してくれた?」
「何度か。でも考える素振りさえ見せません」
「どうして……」
サーシャは頑なに家に帰ろうとしない。それはイベリスやウォルフだけでなく家族さえもその理由を知らない。帰らない。帰るつもりはないの一点張りで、偶然にも帰る機会が訪れたというのに本当に足を向けなかった。今頃一人、読書の時間を満喫しているであろうサーシャは母親がこんな顔をして泣き震えているも知らないのだ。
テロスに召喚され、サーシャに会えたときは嬉しかった。家族思いの優しいサーシャに憧れていたから。突然誰にも理由を話すことなく家を出て行ってしまったっきり帰ってこなくなったサーシャを皆が恋しく思っていた。
この様子では手紙の一つも寄越していないのだろうと呆れながらもウォルフは伝えることにした。
「たぶんサーシャはもう帰らないと思います」
「そんな!」
「彼女はとても元気にやっています。イベリス様の侍女を拝命し、毎日イベリス様のお世話を使命としながら生きていますし」
「でも、あれから一度も帰ってきてないのよ。もう帰ってこないと思えなんて言われても納得できるわけないじゃないッ」
両手で顔を覆いながら泣くミーシャにかけてやる言葉を持っていない。何度も帰るよう、せめて手紙ぐらい書けと説得したが、サーシャはうるさいと言うだけで迷うことすらなかった。そのくせ、部屋の机の上には便箋があった。書こうとはしているが書けていないだけの可能性もあるが、あまり期待を持たせたくなかった。
「せっかくシャルが治ったのに……。あの子が治るのを誰よりも信じてたのはあの子なのに……」
「シャルは元気にしてますか?」
「ええ、元気よ。友達もできたの。シャルもサーシャに会いたがってるのに……!」
不治の病だと言われ、誰よりも絶望し、誰よりも治ることを信じていたのが姉のサーシャだった。それなのにサーシャは弟が治ると家を出た。グラキエスが嫌になったのであれば別の国に行けばいいだけなのに、わざわざ大陸を超えたのは捜索願いによって家に連れ戻されないためか。帰らないという強い意思を持って飛び出したサーシャの意思は今も変わっていない。
「今のサーシャに期待しないほうがいいです」
「シャルが会いたがってるの。ずっと、お姉ちゃんに会いたいって言うの……」
まだ幼い弟の願いを聞けば、と普通なら考えるのだろうが、あの頑固さはきっとそれでは揺るがない。
「おばさん、俺たち今から行かなきゃいけない所があるからこれで失礼するよ」
「サーシャに伝えて! 一度でいいから会いに来てって!」
「伝えておきます」
グラキエスを離れる前に会ったが、そのときよりも悪化しているように見えた。顔色は悪く、病んでいるように見える。
息子が病に倒れ、治ったと思ったら娘が家出した。子煩悩だった母親にとってこれほど辛いことはないだろう。居場所がわかっていても城で働いている以上は会いに行けない。門前払いが目に見えている。
「風邪引く前に家に戻ってください」
両手で顔を覆ったまま何度も頷きながら家へと戻っていくサーシャの母親の背中は小さく、すっかり痩せてしまっている。
〈サーシャはどうして帰らないのかしら……〉
「アイツの考えてることはよくわかりません。嘘つきですし」
〈そんなひどいこと言わないの。仲良くして〉
「俺はしたいと思ってますけどね」
ひどいの一体誰だろう。ファーディナンド、サーシャ。イベリスを囲む人間二人が魔女と繋がっているのは偶然か?
なんでもない顔をしながらイベリスと接する二人に嫌悪すら感じるウォルフは以前のように友好的に接しようとは思えなくなっていた。
サク、サク、と雪を踏む音が遠くなっていく。玄関の前で振り返って頭を下げるミーシャに軽く手を上げながらバラバラになった家族をサーシャはどう思っているのかと少し問い詰めたくなった。
「帰りに寄るつもり」
「へえ」
「なんだよ」
ニヤつく母親の下卑た笑みに眉を寄せるも「いんやあ?」と語尾を上げる。何を言いたいのかわかっているだけに腹が立つ。
シロップ漬けを食べ終えた皿を片付け始める母親が「お茶のおかわりは?」とイベリスの前のカップを指し、カップを差し出しながら頷く様子に「あいよ」と返事をした。
「気まぐれに贈るでないぞ」
「わかってるよ。てか別にランプ贈ったからどうのってわけじゃないだろ」
「お前ぐらいの歳になると言い伝えも薄れてゆくのじゃな」
「何が?」
祖父が若い頃には色々な言い伝えがあった。これにはこういう意味があって、あれにはこう意味が──と何回聞いたかわからない。贈る物に意味をつけて渡したいと考えた誰かが言っただけの言葉がまるで本当にそんな意味を持っているかのように広まっているだけだとウォルフは冷静に見ていたのだが、孫がランプを贈る意味を知らないことにどこか寂しげな表情を浮かべたため一応「どういう意味があるの?」と聞いてみることにした。
「ランプはどんな暗闇が訪れようともこの光と共に私と一緒に歩いてくださいって意味があるんじゃ」
「重たくない?」
「重いとはなんじゃ! 良い意味じゃろうが!」
「十代のウォルフに言ったところでその言葉の魅力はわからんさね。もっと大人になってからじゃないとねー?」
「大人だし。もう十六なんだから」
また母親が大笑いする。
「自分の光で相手を照らしたいことを伝えるときに贈ったりしたもんさ」
「母さんも?」
「もちろん! 部屋にあるランプは父さんから贈ってもらったもんだよ」
「へー、あの人がねぇ」
「意外とロマンチックなんだよ」
「別に知りたくないし」
おかわりを持ってきた母親がイベリスの前にカップを置くとキョトンとした表情が返ってきたことに首を傾げる。
「おかわり必要なかったですか?」
〈あ、おかわりって言ってくれたの? お皿片付けてくださったからまさかおかわり持ってきてくださると思ってなくて驚いただけ〉
「カップ片付けたと思ってたからおかわり持ってきたことに驚いたんだって。あと、おかわりはいらないって」
「いらないとは言ってないだろ」
なんでわかるんだと怖くなる。
「ま、たくさん食べて飲んだからこれ以上行くと外でトイレしたくなっても困るか」
「皇妃様は外でトイレなんてしない」
〈どんな話してるの!?〉
慌てるイベリスになんでもないとかぶりを振るも恥ずかしいこと言わないでと何か過去に失敗しただろうかと話されて困ることを必死に思い出している様子を見て三人が笑う。
イベリスの前に置いたカップを持ち上げて自分で飲む母親を見てウォルフが立ち上がった。
「今日は天気も悪いし、そろそろランプ屋に行くよ」
「部屋には連れ込まんのか?」
「やめとく。二人とも余計な勘繰りしそうだし」
「小遣いあるのかい?」
「え、くれるの?」
「当たり前じゃないか。皇妃様に贈るランプを親にもらったお小遣いで買うなんて最高の男じゃないか」
笑いながら飛ばされる嫌味にあからさまに不愉快を表情をに出すと笑い声は更に大きくなる。母親のこういうところが苦手だとイベリスの前に手を差し出し、外に行こうと伝えた。
立ち上がったイベリスが二人に頭を下げると二人も一緒に頭を下げる。
「またおいでね。いつでも歓迎するよ」
「今度は嫁としてな」
ウォルフは何も言わなかった。二人の言葉に反論も否定もイベリスに余計な勘ぐりをさせてしまうだけな気がしたから。
イベリスはテロスに戻ると言っている。よほどのことがなければもう一度グラキエスを訪れることはないだろう。自分たちが知るファーディナンドと魔女の契約執行までもう四ヶ月もない。残りの月日をイベリスはテロスで過ごすつもりなのだから。
パイのシロップ漬けを瓶に入れてもらったイベリスはご機嫌。両手を振って別れると、さほど遠くはないため獣化はせず歩いていくことにした。
「俺の抜け毛が詰まったクッションは俺が城で作ります」
「ふふっ、楽しみ」
本当は触ってもらいたかったが、部屋に連れていったらすぐには出られない。出たくなくなる。サーシャはここまで来ないだろうからこのまま家に閉じこもっていればいいのではと考えなくもなかったが、結局は悪あがきなだけ。
「ウォルフ?」
家から少し離れたところでウォルフが急に立ち止まった。
「よかったら……手を、繋ぎませんか?」
変に思われるだろうかと昨夜一緒に寝ておきながら心配するもイベリスはその手をしっかりと握った。
〈大きな手〉
「イベリス様が小さいんですよ」
〈あなたは誰よりも大きな人なのよ?〉
「まあ、確かに俺の手が大きいのかもしれませんね。イベリス様の頭をリンゴを潰すみたいに握れるかもしれません」
〈例えが悪すぎる〉
嫌そうな顔をするもすぐに笑顔へと変わるイベリスを愛しいと思う。お土産をもらってしまったと瓶が入った袋を持ち上げて見せるイベリスに笑顔を向けながら考えるのは、やはりテロスには戻るべきではないということ。戻って、ファーディナンドの傍に置いておきたくないし触れさせたくもない。イベリスはもっと自由であるべきだ。でも、ウォルフのその想いは伝わらない。何をそんなに意固地になっているのかをイベリスは話してくれなかった。わからないと言っていたが、きっと理由はあるし、自覚があるはず。
先に自分の想いを伝えてしまったからこそ話してもらえなかったのだろうと思っている。だが、早まったと後悔はしていない。キスしたことをファーディナンドが知れば怒るだろうが関係ない。言って許されるなら言ってやりたいのだ。
(お前と同じフィールドで戦うつもりはない)
心の中でファーディナンドにぶつける。
「ウォルフッ!」
名前を呼ばれてハッと我に返り、振り返った先にいた人物に顔が引き攣った。
中年女性が一人、こちらへ駆けてくる。
「ミーシャおばさん」
「やっぱりあなただったのね! 白い狼が見えたからあなたじゃないかと思って」
「サーシャの母です」
茶髪のストレートロングヘアの女性は雪のように白い肌をしていたが、どこかくたびれて見える。サーシャの母というよりはサーシャの祖母と紹介を受けても疑わないほどに。
「サーシャは一緒?」
絶対に聞かれると思っていた質問に戸惑ったそれが答えとなった。
「どうしてグラキエスに……ロベリア・キルヒシュ……?」
ひどく驚いた顔を見せるサーシャの母にイベリスが首を傾げるとウォルフによって背中に隠される。
何度も繰り返さなければならない状況にうんざりしているのはウォルフのほうだ。ロベリアが亡くなっていることを知っていながらなぜその名を口にするのか。ロベリアが亡くなったことを知っているなら新しい皇妃を迎えたことも知っているはず。誰も彼もがロベリアの名前を口にする。それがウォルフの怒りに火をつける。
「彼女はイベリス皇妃です」
少し怒気を含んだ強い口調にハッとして慌ててイベリスに頭を下げるミーシャに戸惑いながらウォルフを見上げると怒った表情に察した。またロベリアと間違えられたのだろうと。
「サーシャは相変わらず、家に帰るつもりはないの一点張りです」
「帰るよう説得してくれた?」
「何度か。でも考える素振りさえ見せません」
「どうして……」
サーシャは頑なに家に帰ろうとしない。それはイベリスやウォルフだけでなく家族さえもその理由を知らない。帰らない。帰るつもりはないの一点張りで、偶然にも帰る機会が訪れたというのに本当に足を向けなかった。今頃一人、読書の時間を満喫しているであろうサーシャは母親がこんな顔をして泣き震えているも知らないのだ。
テロスに召喚され、サーシャに会えたときは嬉しかった。家族思いの優しいサーシャに憧れていたから。突然誰にも理由を話すことなく家を出て行ってしまったっきり帰ってこなくなったサーシャを皆が恋しく思っていた。
この様子では手紙の一つも寄越していないのだろうと呆れながらもウォルフは伝えることにした。
「たぶんサーシャはもう帰らないと思います」
「そんな!」
「彼女はとても元気にやっています。イベリス様の侍女を拝命し、毎日イベリス様のお世話を使命としながら生きていますし」
「でも、あれから一度も帰ってきてないのよ。もう帰ってこないと思えなんて言われても納得できるわけないじゃないッ」
両手で顔を覆いながら泣くミーシャにかけてやる言葉を持っていない。何度も帰るよう、せめて手紙ぐらい書けと説得したが、サーシャはうるさいと言うだけで迷うことすらなかった。そのくせ、部屋の机の上には便箋があった。書こうとはしているが書けていないだけの可能性もあるが、あまり期待を持たせたくなかった。
「せっかくシャルが治ったのに……。あの子が治るのを誰よりも信じてたのはあの子なのに……」
「シャルは元気にしてますか?」
「ええ、元気よ。友達もできたの。シャルもサーシャに会いたがってるのに……!」
不治の病だと言われ、誰よりも絶望し、誰よりも治ることを信じていたのが姉のサーシャだった。それなのにサーシャは弟が治ると家を出た。グラキエスが嫌になったのであれば別の国に行けばいいだけなのに、わざわざ大陸を超えたのは捜索願いによって家に連れ戻されないためか。帰らないという強い意思を持って飛び出したサーシャの意思は今も変わっていない。
「今のサーシャに期待しないほうがいいです」
「シャルが会いたがってるの。ずっと、お姉ちゃんに会いたいって言うの……」
まだ幼い弟の願いを聞けば、と普通なら考えるのだろうが、あの頑固さはきっとそれでは揺るがない。
「おばさん、俺たち今から行かなきゃいけない所があるからこれで失礼するよ」
「サーシャに伝えて! 一度でいいから会いに来てって!」
「伝えておきます」
グラキエスを離れる前に会ったが、そのときよりも悪化しているように見えた。顔色は悪く、病んでいるように見える。
息子が病に倒れ、治ったと思ったら娘が家出した。子煩悩だった母親にとってこれほど辛いことはないだろう。居場所がわかっていても城で働いている以上は会いに行けない。門前払いが目に見えている。
「風邪引く前に家に戻ってください」
両手で顔を覆ったまま何度も頷きながら家へと戻っていくサーシャの母親の背中は小さく、すっかり痩せてしまっている。
〈サーシャはどうして帰らないのかしら……〉
「アイツの考えてることはよくわかりません。嘘つきですし」
〈そんなひどいこと言わないの。仲良くして〉
「俺はしたいと思ってますけどね」
ひどいの一体誰だろう。ファーディナンド、サーシャ。イベリスを囲む人間二人が魔女と繋がっているのは偶然か?
なんでもない顔をしながらイベリスと接する二人に嫌悪すら感じるウォルフは以前のように友好的に接しようとは思えなくなっていた。
サク、サク、と雪を踏む音が遠くなっていく。玄関の前で振り返って頭を下げるミーシャに軽く手を上げながらバラバラになった家族をサーシャはどう思っているのかと少し問い詰めたくなった。
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