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断罪

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 昼休憩時、ファーディナンドはまたイベリスの部屋を訪れていた。
 ノックをし、サーシャが出て「本当に来た」と言いたげな表情でこちらを見て、一度ドアを閉め、数秒経ってから中へと招き入れた。

「イベリス」

 昼食もティータイムもない一輪挿しが置かれただけのテーブルの前にイベリスは座っていた。どうぞと手で向かいに座ることを促され、それに従って腰掛けた。
 イベリスの前にはメモ帳とペン。それを見ただけでホッと安堵する。

「昨日の暴言を謝罪させてくれ」

 文字を読んだイベリスはすぐにかぶりを振った。それは謝罪は必要ないという意味か、謝罪したところで許さんという意味か。ペンを取るイベリスが書く字を追っていく。

〈私はあなたを怒らせたいわけでも呆れられたいわけでもないんです。あなたが大事にしている人たちのことは私も大事にすべきなのかもしれないけれど……〉
「違う。お前はロベリアに会ったこともないのに、その親族を皇妃としてもてなせなどとふざけたことを言ってしまった。アイゼンに逆の立場になって考えろと言われ、俺がお前の立場だったらと想像したらそれがどんなに苦痛であるかわかった。俺は自分が正しいと思い込み、お前への配慮を欠いただけでなく、お前を傷つけ、それを当然とした」

 すまないと頭を下げるファーディナンドの前に差し出されたメモ帳に書かれていた言葉に慌てて顔を上げた。

〈私はあなたが思っているより傷ついてはいないと思うんです。あなたがロベリアを愛していることは周知の事実ですし、食事会に招いたのは彼女の親族なのですから出席しないと言った私に不義理を感じたのも当然でしょう。その想いを私で上書きしようとも思いませんから、それほど傷ついてはいないんです〉

 その言葉は突き放しも同然に感じた。当然だ。自分が突き放すように言ったのだからそうしてやろうと誰だって仕返しを考える。だが、ファーディナンドはその前にイベリスが敬語であることに引っかかった。

「何故急に敬語を使うんだ?」
〈怒っていたり拗ねているからではありません。皇妃となった以上は夫といえど皇帝陛下に馴れ馴れしい口を利くべきではないと考えを改めました〉
「俺が許可しているんだ。今更敬語など使うな」
〈これは区切りです〉
「区切り? 一体なんの区切りだ?」
〈私はここで皇妃として生きるための〉
「だから俺が──」

 言葉の途中でかぶりを振るイベリスが言葉を綴る。

〈陛下、反省の弁を述べてくださったのはとても嬉しいですが、どうぞ私のことは放っておいてください〉
「何故だ……」
〈私は本来であれば陛下が望むままにもっとロベリアに近付くべきでした。でも、従えば私が私でなくなってしまうのが嫌で反抗し続けていました。まるで玩具を買ってもらえなかった子供のように〉
「お前はお前のままいればいい」

 苦笑めいた小さな笑みをうっすらと滲ませながらもう一度かぶりを振った。

「陛下、どうか私のことはお気遣いなく過ごしてください。私は私で皇妃としてやるべきことをやっていくつもりですので、ご心配なく」

 まるで他人行儀なその内容にファーディナンドは言葉が出てこなかった。謝ればそれでいいと安易に考えていた。怒っていても拗ねていても機嫌が戻るまで謝って、イベリスが笑ったら一緒にボートに乗るのもいいだろうと。
 一目惚れしたと嘘をつき、バレていると開き直り、相手が何も言ってこないのをいいことに自分にとってのいつもどおりを過ごしていた罰だろうか。

『いいか、ファーディナンド。お前がこれからどれほど素晴らしい実績を積み重ねたとしても、ほんの小さな出来事で、たったこれぐらいのことでと思うようなことでその努力は全てなかったものになってしまう瞬間が訪れないとは言い切れないだろう。お前が嘆き悲しみ、どれほど反省したところで失った信用は取り戻せない。また一から始めるしかなくなるんだ。たった一度だ。これまでの実績など相手には関係ない。お前が、自らの過ちによって失墜した場合、お前は二度と相手から信頼を得ることはないだろう。だから現実の一つ一つを噛み締め、判断し、正しき道をゆけ。それが皇帝になる者のあるべき姿だ。お前は間違ってはならん』

 父親の言葉を思い出した。感情的になってしまったが故の過ち。それを正すべく謝りに来た。だが、イベリスは以前のように笑ってはくれない。一昨日までは笑ってくれていたのに。落書きした紙をファーディナンドの書類の間に挟んでおいたり、寝室に入ってくるタイミングを狙って驚かせたり、洗った手をそのまま彼の顔にかけたり、幼子のような悪戯をしていた。
 皇妃として生きるなど言わなかった。私は私だからと胸を張って開き直ってすらいた。犬を飼いたい。ボートに乗りたい。氷の上を滑りたい。皇妃が求めるような願いではないものばかり口にしては叶えてやると喜んだ。
 満面の笑み。微笑み。悪戯めいた笑み。勝ち誇った笑み──そんなものがもう見れなくなってしまったかのようにイベリスはファーディナンドを無表情で見るばかり。

「……ボートに……乗らないか? そこで話をしよう」

 迷うことすらせずかぶりを振られる。

「夜は部屋に戻ってくるだろう?」

 かぶりは振らなかった。その代わり、言葉が綴られる。

〈今日から別々に寝ましょう。私はここで過ごします。陛下も好きな時間に好きなようにお休みください〉
「俺たちは夫婦だろう」

 どの口がそう言っているんだ。イベリスの目はそう言っているように見えた。

〈あのベッドは陛下とロベリアの物であって私の物ではありません。私のベッドはここに〉
「ベッドを変えればいいのか? それとも部屋か? ロベリアの肖像画も写真もしまえばいいのか?」

 それにもかぶりを振る。

〈陛下、先程も申し上げましたが、私のことは気遣ってくださらなくてよいのです。これは私のわがままです〉
「ワガママなどと勝手な思い込みで言ったことを謝る。お前の主張は当然だった」
〈謝罪は必要ありません。私は、ここで過ごしたいのです〉

 単純な話。拒絶だった。明確な拒否。
 何をそんなに必死になっているんだ。五ヶ月後にはロベリアが戻ってくる。今更必死に相手のご機嫌伺いなどせずとも相手は皇妃として生きると言っているのだから逃げ出すつもりはないということ。気にする必要はないと言っているのだから五ヶ月間放置しておけばいい。
 以前の自分ならそう思っていただろうとファーディナンドは思う。だが、今この場でそう考えることはできなかった。そして気付いた。何故自分がイベリスにロベリアのようになれと強制するのをやめたのか。
 イベリスを見ていると自分が何者にもならない自然でいられたからだ。
 ロベリアと結婚してからファーディナンドはずっと良い夫であろうとしていた。相手を喜ばせたいがために相手の願いはなんでも叶え、心が離れていかないように根こそぎ愛した。そうするとロベリアも同じだけ返してくれたからだ。それが誰にも愛されない人生を生きてきたファーディナンドにとってとても心地良いものだったから。その瞬間を取り戻したくてイベリスに求婚した。
 当初はロベリアのようになれと言いつけ、歩き方も食べ方も笑い方も教育係をつけて徹底した。注意も散々行った。だが、いつからか、そうするのをやめた。
 イベリスは愛を伝えてこないし、上品ではないし、子供で、皇妃としての自覚もない。それでも、ファーディナンドはロベリアといるときよりずっと自然体でいられた。言い合いができること。気取らずに歩けること。ただそれだけで心地良かったのだと気付いた。
 ボートに乗ってロマンチックな言葉も雰囲気も出さなくていい。ただ穏やかな揺れに身を任せながら真上にある大きな月を見上げるだけ。リラックスする時間の中、ロベリアなら肩にもたれて甘えてきただろう。でもイベリスは違う。急に「じゃんけんしよう」と言い出し、負けたらデコピンと罰ゲームまでつけた。
 かと思えば氷の上を滑っているときのイベリスはとても静かだった。
 ロベリアではない。その当然さを誰よりも感じていたのはファーディナンドだ。誰よりも求めていたからこそ違いをありありと感じ、そして惹きつけられた。 

「……イベリス、俺が間違っていた」
〈陛下、お忙しい中、お時間を割いていただきありがとうございました〉
「話がしたい。お前とちゃんと話がしたいんだ」
〈私からお話するようなことは何もありません〉
「俺がする」

 かぶりを振られた。その答えが全てだと言うようにゆっくりと。

「陛下、お時間でございます」

 外で待っていたアイゼンが懐中時計をしまいながらドアを開けて無慈悲にも休憩時間は終わりだと呼び戻す。
 無表情のイベリスを見つめながらゆっくりと立ち上がるファーディナンドがドアへ向かう際、イベリスも立ち上がってドアまで見送りに行く。

「イベリス、俺はお前のことを知りたいと思っている。ちゃんと、知りたいんだ」

 口元に笑みを浮かべるだけのそれは作り物であり、イベリス本来の笑顔ではない。イベリスとの間には今までになかった一線が引かれている。
 突き放し、罵倒し、傷つけたことにさえ気付かず、亡き妻に固執し続ける男の今更の願いを叶えてやる理由がイベリスにはない。わかっている。七ヶ月も放置しておいて今更すぎる。遅すぎた。
 押し寄せる後悔を飲み込むしかできず、そのまま部屋を出て行った。


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