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ブエン・ビアッヘ 下
ブエン・ビアッヘ 下
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十六日目 五月二十四日(月曜日)
朝食が付いていたので、ホテルのレストランで食べた。
部屋に戻り、身軽な格好になってホテルを出た。
今日は、昨日見られなかったカテドラルとヒラルダの塔を見ましょう、と三池は香織を誘った。
セビーリャのカテドラルはスペイン最大の大きさを誇っており、その建設には百二十年という歳月もかかっている。
そして、当時の四人の国王が柩を担いでいるコロンブスの墓も有名である。
新大陸の発見と征服はスペインに多大な富をもたらした。
イタリア人であるコロンブスはこのような形でスペインの繁栄に貢献した。
当時のスペインを構成していた四カ国の王に担がれる資格は十分にあったということだ。
また、ヒラルダの塔も百メートル近い高さを持ち、七十メートルという高さの展望台からは、セビーリャの街が一望できる。
しかし、あいにく、ヒラルダの塔は修理中で登ることは出来なかった。
三池は香織にウインクしながら、登れなかったという証拠写真を撮りましょう、と言って黄色に塗られた工事車両にデジカメを向けた。
それにしても、建物の巨大さにはほとほと感心する。
巨大な建築を長年かけて建設するというヨーロッパ人の熱意というか執念というか、並みはずれた発想と根性に三池はほとほと感心していた。
日本人には到底できない。
精々、数年かけて巨大な城を作るくらいのエネルギーしか無い民族だ、と思った。
農耕民族の限界か、とも思った。
「香織さん、セビーリャと言えば、歌劇カルメンの舞台となった街です。本場のフラメンコ・ショーを観ませんか。カルメン並みの粋な踊り子が踊るかも知れませんよ」
昼食を済ませ、ホテルに戻って、フラメンコ・ショーのことを訊くと、老舗のフラメンコ・ショーがある、と言う。
料金は少し高いが、二時間たっぷり観ることができる、とも言っていた。
その話に出た、ロス・ガリョスのフラメンコ・ショーを予約して貰った。
幸い、ホテルのすぐ近くにあった。
夜八時からのショーということで、その時間まで、お互い、自由行動としましょう、ということになった。
夜七時頃、香織はホテルに帰ってきた。
少し買いものをしてきた、と言っていた。
こんなものを買ってきました、と言って香織は三池に見せた。
三池に品物を見せる香織は少女のような顔をしていた。
その夜のフラメンコは二人を十分堪能させた。
フラメンコはかなり扇情的で猥褻な踊りである。
しかし、踊りは全て卑猥なものでは無かったか。
天照大神を天の岩戸から出させるために、アメノウズメノミコトが踊った踊りは極めつけの猥褻な踊りであったはず。
古来、神に捧げる踊りは男女の性を高らかに謳い上げる踊りでなければならなかったはずだ。
フラメンコ、アルゼンチン・タンゴはそれ故、人を根源から脅かし、感動させる。
踊りながら見せる表情は、セクシーでエクスタシーまで感じさせる表情である。
しかし、それで何が悪い。
猥褻さ、猥雑さ、大いに結構ではないか、本当はそうしたいくせに、興味なさそうな顔をして無視するのはまさに自分に対する欺瞞であり、恥ずべき偽善ではないのか。
昔、読んだ小説の題名に、見る前に跳べ、という題名があった。
俺もいっちょ跳んでみようか、と三池は思った。
三池は香織と共にホテルに帰り、不埒な思いを密かに巡らしている時、香織はふいに、これ上げます、と言って三池に夕方買ったお土産の一つを差し出した。
皮のコイン入れだった。
三池は気勢をそがれ、何だか意気消沈してしまった。
思わず、ありがとう、と言ってしまった。
十七日目 五月二十五日(火曜日)
朝食を食べてから、ホテルをチェックアウトして、二日前と同じ道を辿って、バス・ターミナルへ向かった。
そして、十時のコルドバ行きのバスに乗った。
コルドバのバス・ターミナルには十二時に着いた。
この街は八世紀から十一世紀にかけて、イスラムの都が置かれ、ヨーロッパ最大の繁栄を享受した街である。
バス・ターミナルのカフェテリアで昼食を時間をかけて摂り、時間を調整してから、タクシーに乗って、ホテルに向かった。
ホテルは観光名所・メスキータの入口すぐのところにあった。
ホテルにチェックインし、荷物を置き、貴重品を全て室内金庫に入れてから、街に出た。
スペインでの暮らしも二週間を過ぎ、大分旅慣れてきたような気がした。
メスキータから見物した。
メスキータはイスラム教とキリスト教が共存するモスクとして名高い。
勿論、初めはイスラムのモスクとして造られたが、レコンキスタによりカテドラルとして改造されてしまった。
白い大理石と赤い煉瓦が交互に組み合わせられた『円柱の森』と呼ばれる広場は観る者を限りなく幻惑させる。
この『円柱の森』の写真はコルドバを代表する一枚として常に観光雑誌に掲載されている。
次いで、アルカサルを見物した。
アルカサルは新大陸発見の旅の資金援助をコロンブスがカトリック両王に願い出た王城としてこれまた名高いところである。
アメリカ大陸はコロンブスが発見したと教科書には記されていたが、コロンブス以前にもヨーロッパ大陸から幾人かの白人が訪れている形跡がある。
三池は昔読んだメキシコ関係本の一節を思い出していた。
今でも、その書き出しの文句は覚えている。
アメリカは何度も発見された、というまことに皮肉っぽい文章からその本は始まっていた。
その書き出しが何とも愉快、且つ痛快で、三池はメキシコに居る間、何度も繰り返して読んだほどだ。
また、その後、カンクーンで買ってきたマヤ伝承の本の中で、十字架の墓の記述があったことも思い出した。
コロンブスの後、コンキスタドーレス(スペイン人の征服者たち)、同行したカトリック神父たちはマヤの部落で不思議な墓を見た。
部落の伝承によれば、コロンブス以前に、この部落に白い男がやって来て、いろいろな技術を教え、部落の人々を啓蒙したらしい。
その男は死んで葬られ、その墓には十字架が建てられた。
部落はその男の恩を忘れまいと死んだ命日には必ず部落の人全員が墓に参列するということだった。
コンキスタドーレスと神父たちが見たのは、その男の十字架の墓だった、と書かれてあった。
ひょっとすると、メキシコとかマヤの神話伝承で文化神とされている、メキシコ中央部のケツァルコアトル、マヤのククルカンはヨーロッパからコロンブスよりもずっと前に漂着したか、キリスト教布教のために新天地を目指して渡海してきた白人であったかも知れない、と三池は思った。
抽象的な神的存在では無く、生の人間として実在したと思われるケツァルコアトルは中央メキシコを追放されてから、マヤの文化圏にやって来て、ククルカンと呼ばれるに至っている。
ケツァルコアトル、ククルカン、共に、同じ『羽毛の蛇』という意味の名前であるが、膚の色が白く背が高い男であったらしい。
二人はユダヤ人街を歩いた。
セビーリャのサンタ・クルス街と同じような、迷路を思わせる細い道、白い家々が建ち並び、旅行者を幻惑させる街並みであった。
ホテルに帰り、少し休憩し、黄昏を迎えた頃、ホテルを出て、ビアナ宮殿に向かった。
ビアナ宮殿はパティオ(中庭)で有名なところだ。
数々の美しいパティオを見物してから、その宮殿を出て、近くにある、灯火のキリスト広場に行った。
カンテラの優しい灯りに照らされたキリスト像を観た。
厳かな雰囲気に包まれた広場で、二人はベンチに腰を下ろし、静かな優雅さを味わった。
「こういった広場には、何とも言えない味がありますね」
三池が言った。
「カトリックに特有なのかどうか、はっきりとしたことは知りませんが、広場にはとにかく人が集まります。昼と言わず、夜と言わず、人が集まり、散歩したり、お喋りをしたりして、コミュニケーションを図ります。こんなところは日本にはありませんね。日本の広場には人が常に集まるという古き良き伝統は全く無く、ただ、広場が欲しいという住民の要望を受けて、予算に基づき、粛々と広場を作っているだけ、という感がどうしても否めませんね」
三池が少々憤慨しながら香織に語った。
「そう言えば、そうですわねえ。この広場は日本の広場と違い、本当に市民がのんびりと歩き、お喋りをしていますものね。これも、一つの文化なのでしょうか」
香織も、三々五々集まってくる人々に目を向けながら、そう呟いた。
夕食はホテル近くのエル・カバーリョ・ロホというレストランで、名物の牛テールの煮込み料理とした。
茄子のフライとその店オリジナルのパンもなかなか美味しかった。
十八日目 五月二十六日(水曜日)
ホテルには朝食が付いていた。
屋外フラメンコ・ショーのパンフレットを見掛けたので、ホテルのカウンターで予約した。
ホテル近くのカルデナルという店で行われるフラメンコ・ショーであった。
夜十時半の開演で、ドリンク付きで結構低料金のショーである。
予約を済ませた二人はホテルを出て、ローマ橋を渡って、カラオーラの塔を見物した。
ローマ橋を守るために築かれた要塞で、現在はアル・アンダルス博物館として、コルドバ周辺の歴史博物館としての役割を果たしている。
その後、北に向かい、ミラフローレス橋を渡って、ポトロ広場を経て、考古学博物館を見学した。
ポトロは子馬という意味で、コルドバ市の紋章になっている。
ドン・キホーテに登場する旅籠屋・ポトロもある。
作者のセルバンテスも宿泊した、と云われている。
考古学博物館には、ローマ時代の収蔵品が一階に、また、イスラム支配下の時代の収蔵品が二階に陳列されている。
スペインは、ローマに占領され、イスラムに占領され、ナポレオンにも占領された。
過去、何度も征服され、国土を占領されたこの民族は、海を越えて征服者にもなった。
苛酷な圧政を敷かれた国民は、征服者となった土地では苛酷な圧政を敷く者となる。
太陽が沈まぬと称されたほど広大な植民地を有した国の末裔は今、経済的には二流という地位に甘んじている。
優越意識と劣等意識、過去の栄光と現在の凋落、プライドと冷酷な現実、といった相反する意識がこのスペインという国の国民を複雑な感情を持つ国民に仕立て上げている、という文章をどこかで読んだ記憶がある、と三池は思った。
博物館を出て、メスキータに戻り、近くのボデガス・メスキータというレストランで、六種類のタパスが付く定食を食べて、昼食とした。
ホテルに戻り、シャワーを浴びて、三池はベッドに横になった。
そのまま、うたた寝をしてしまった。
気付いた時は既に暗くなっており、時にはいいでしょうと香織が買ってきたボカディーリョを食べて夕食とした。
香織は三池を残して、付近を散策してきたらしい。
男からいろいろとピロポを受けましたよ、意味が分からなくて残念でしたけど、と言って笑っていた。
十時頃、ホテルを出て、百メートルと離れていないところにあるカルデナルで、フラメンコ・ショーを観た。
屋外のパティオで繰り広げられるフラメンコはいかにも情緒たっぷりで観る者を酔わせた。
フラメンコはジプシーの踊りであり、ジプシーはスペイン語ではヒターノと言う。
但し、彼らは自分たちのことをヒターノとは呼ばず、ロマと言っている。
ロマの意味は、『ひと』という意味だ。
自由気儘に、ヨーロッパを移動し、定住することを好まない彼らは当然、その土地に永住する者からは差別される。
差別される者の心から湧き出る踊りがフラメンコなのだ。
ロマ同士の人としての堅い結び付き、差別する者たちへの激しい怒り、男と女の根源的な愛の形、『ひと』としての自己主張など、観ている者にいろいろな感情、思いを喚起させるこのフラメンコはそのまま一つの芸術である、と三池は思った。
十九日目 五月二十七日(木曜日)
朝食を食べてから、ホテルをチェックアウトした。
タクシーを呼んでもらい、RENFEのコルドバ駅に向かった。
コルドバ駅のプラットホームは地下にあるが、暗さは感じなかった。
光がよく入る構造となっており、広くて明るいという印象を受けた。
少し驚いたのは、列車に乗る前に手荷物検査がなされたことであった。
「手荷物検査はなにも飛行機ばかりじゃないんですねえ」
香織が少し感心したような口ぶりで言った。
「テロ防止のためじゃないですか。ヨーロッパも結構物騒なんですねえ」
「でも、このような新幹線に乗るのは初めてですから、何だかわくわくします」
「全車指定席ですから、混み合うということはありません。優雅な列車の旅を味わってもらうという古き良き伝統なんでしょうか。僕なんか、古い人間ですから、ヨーロッパの列車というと、どうしてもオリエント急行を連想してしまいます。何泊もかけて旅をする、勿論、運賃だってバカ高く、庶民には高嶺の花だった頃の列車の旅を」
「アガサ・クリスティの世界ですわねえ」
「そうです。だって、この列車だって、ひょっとすると、卵型の頭をしたエルキュール・ポアロが乗っているかも知れませんよ。ほら、あの席あたりに、窓際のあの席です」
二人は少し興奮しながら、軽口を楽しんだ。
九時二十九分発のAVEと呼ばれる新幹線でマドリッドに向かった。
シエラ・モレーナ山脈にさしかかり、トンネルがいくつも続いた。
ごつごつとした岩が剥き出しになっている山肌に、しがみつくように立っているオリーブの木を見た。
やがて、古城が聳える丘と白い家々が建ち並ぶ町が見えてきた。
写真を撮れば、そのまま額に飾れる風景があまりにも多過ぎる、と三池は思った。
選ぶのは不可能だ、とも思った。
ところどころに、紅い花が群生していた。
赤い絨毯のようだ、と三池は思った。
初夏には、ヒマワリ畑が旅行者の眼を楽しませると云われているが、まだ、ヒマワリには早い時期だったのか、と三池は少し残念に思っていたが、この紅い花の絨毯は意外であり、三池と香織の眼を十分楽しませた。
そして、赤茶けた平原に葡萄畑が点在し、時折、羊の群れを連れて歩く羊飼いの姿も見掛けるようになってきた。
この荒涼とした、この地こそ、ドン・キホーテがロシナンテに跨り、驢馬に跨ったサンチョ・パンサを引き連れて威風堂々と冒険を求めて武者修行の旅をした、ラ・マンチャ。
三池の目は、次第に潤んできた。
どうしようもなかった。
俺はどんなにこの地に憧れてきたことか。
ふと、自分を見詰めている香織に気付いた。
何か、言うのかな、と三池は思った。
しかし、香織は言葉を発せず、じっと三池を見詰めたままだった。
列車は十一時十五分定刻きっかりにマドリッドのアトーチャ駅に着いた。
「五分ほど遅れると、全額払い戻しになるという話を聞いたことがあります。AVEにプライドを持っているんですね。そのプライドを賭けて、定刻より少し早めに到着するのだそうです。今日はまあ、定刻でしたが。このAVEができるまで、スペインの国鉄は遅れるし、遅いという悪評ばっかりだったらしいです。AVEができて、名誉挽回とばかり、気合いが入っているんでしょう。その意気や良し、ですねえ」
コルドバからマドリッドまで、一時間四十五分の旅だった。
「アトーチャ駅は二つの駅から構成されている複合駅で、在来線が走るアトーチャ・セルカニアス駅と、この新幹線といった高速列車が走るプエルタ・デ・アトーチャ駅とそれぞれ完全に独立した駅となっています。切符売り場も、駅長さんもそれぞれ別という話ですよ」
三池がスーツケースを車内の荷物置場から出しながら、香織に言った。
プエルタ・デ・アトーチャ駅は駅舎全体が熱帯植物園となっており、車内から降りた時、一瞬蒸し暑さを感じる、と云われています、と三池は付け加えた。
プエルタ・デ・アトーチャ駅から地下鉄のアトーチャ・レンフェ駅に出て、メトロブスと呼ばれる十回乗車の回数券を買って、地下鉄・一号線のバルデカルロス方面の電車に乗り、パシフィコ駅で地下鉄・六号線のメンデス・アルバロ方面循環の電車に乗り換えて、プラサ・エリプティカ駅で降りた。
地下鉄は掏りが多く、物騒だと言う話は聞いていたが、人が多い昼間ということでそれほど危険な感じは無かった。
地下鉄の駅は地下三階にあり、地下一階にあるエリプティカ広場・バス・ターミナルに出て、トレド行きのバスの切符を買った。
バスはコンティネンタル・アウト社のバスであるが、系列としては二人がバルセロナからコルドバまで利用したALSA社の系列会社のバスである。
それに乗れば、一時間半ほどでトレドに着く。
十五分ほど待って、バスに乗り込んだ。
マドリッドからトレドまでの道はカスティーリャ、ラ・マンチャの乾いて荒涼とした野原を走る道であった。
スペインは日本の一.三倍という面積を持った国であるが、地域的には多様性に富む国である。
カタルーニャ、バレンシア、アンダルシアという風土と、このカスティーリャ、ラ・マンチャという風土ではあまりに違い過ぎる。
ドン・キホーテに、アンダルシアのあっけらかんとした陽気な明るさは似合わない。
乾ききり荒涼とした苛烈な風土こそ、この愁い顔の遍歴の騎士には似合うというものである。
ラ・マンチャの荒れ果てた土地の中で、騎士道小説に惑溺した挙句、自分こそ世の中の不正を正すべく旅に出る諸国遍歴の騎士であると思い込み、武者修行の冒険の旅に出掛けて行き、行く先々で無残な挫折を繰り返し、人々の嘲笑を受け続ける者の物語を到底単なる滑稽小説とは読めない、と三池は車窓の侘びしい風景を見ながら思った。
もし、生まれ変われるものならば、今度はもっと世の中と関わり合いを持つ人間に生まれたい、とも思った。
少し、思い入れ過ぎ、かと三池は苦笑いした。
何か、おかしいことでも、と三池の顔に浮かんだ微かな笑いに気付いた香織が訊ねた。
いや、この地の果てのように荒れ果てた大地を見ていたら、ふと、ドン・キホーテの物語が頭に浮かびましてね、思わず笑ってしまった次第です、と三池は答えた。
トレドのバス・ターミナルには午後二時頃に着いた。
バス・ターミナルの建物は、古都にふさわしく、古色蒼然とした褐色を帯びた古びた建物であると思いきや、結構新しく近代的な建物であった。
トレドというイメージにふさわしくない建物だ、と三池はバスから降りて建物を眺めながら、そう思った。
明日のラ・マンチャの風車見物に備え、SAMARというバス会社の切符売場の前に立ち、コンスエグラまでの往復切符を二枚買った。
明日はここから、コンスエグラに向かう九時十五分のバスに乗ることとした。
ホテルまでは一キロほどの距離であったが、列車、地下鉄、バスを乗り継ぐ長旅で結構疲れていたので、タクシーを利用してホテルに向かった。
ホテルはプエルタ・デル・ソル(太陽の門)の近くにあった。
遠くに、アルカサルが結構大きく見えていた。
随分と大きなアルカサルなんだろう、と三池は思った。
ホテルにチェックインした後で、市内見物に出掛けた。
画家エル・グレコが愛した街として有名なこのトレドにはスペイン・カトリックの総本山として位置付けられているカテドラルがある。
ホテルから貰った観光地図を片手に、サンタ・クルス美術館を駆け足で見学し、アルカサル、カテドラル、エル・グレコの家、トランシト教会、サント・トメ教会、サン・マルティン橋、サン・フアン・デ・ロス・レイエス教会、サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会といった観光名所を外観だけ見物してホテルに戻った。
途中、カテドラル近くの観光案内所で日本語版のトレドの案内地図を貰った。
結構歩いた感じがして、疲れたので、ホテルで少し休息した。
部屋に入るなり、三池は椅子にうずくまるように腰を下ろしたが、香織はさほど疲れているようには見えなかった。
二十歳も違うということは、こんなものなのか、と三池は思い、何だかがっかりした。
三池が部屋で休んでいる間、香織はホテルのロビーに行き、片言のスペイン語で、近くにコイン・ランドリーはあるかとか、市場はあるかとか、いろいろと情報を聞いてきた。
スペイン語の発音は日本人には簡単で、スペイン人にも私が何を言おうとしているのか、結構理解してもらえるものだ、と香織は嬉しそうに話していた。
そうです、言葉というものは、相手が外国人であっても、聞いてやろうとする雅量というか、聞く耳さえあれば、通じるものなんです、その反面、聞く耳を持たない人には同じ日本人同士でも全然心に響かず、通じないものですよ、と三池も笑いながら言った。
ほんと、聞く耳を持たない人には何を言っても通じませんものねえ、と香織も何か思い当たることがあったらしく、神妙な顔で頷いた。
夕食はホテル近くにある有名なレストラン、ロペス・デ・トレドの二階で食べた。
観光案内書通り、なかなか、豪華な感じがするレストランだった。
満腹となってホテルに戻り、シャワーを浴びていたら急に睡魔に襲われ、急いでベッドに飛び込み、三池は久しぶりに爆睡してしまった。
二十日目 五月二十八日(金曜日)
今日は、ラ・マンチャ地方のコンスエグラに行き、風車を見物することとしていた。
予報では雷雨に見舞われるとあったが、予想に反して、空は綺麗に晴れ渡っていた。
それこそ、雲ひとつ無かった。
三池は心がうきうきとするのを感じていた。
ホテルから歩いてバス・ターミナルまで行き、カフェテリアで朝食を食べながら、コンスエグラに向かうSAMAR社のバスを待った。
九時十五分にバスは出発して、十時半にはコンスエグラのバス停に着いていた。
少し、雲行きは怪しくなっていた。
コンスエグラまでの道は三池の期待通り、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが通りそうな道だった。
人影もほとんど無く、いくつか停留所はあったものの、バスは小気味よくそれらの停留所を素通りして疾走して行った。
途中、痩せた大地にしがみつくように根付いている葡萄の畑を見た。
コンスエグラのバス停に降り立った二人は風車の丘に向かって歩き出した。
風車はすぐそこに見えていた。
コンビニのようなスーパーがあったので、そこで、飲みものとかサンドイッチを昼食用として買い込んだ。
ラ・マンチャ地方名物とされる羊乳チーズのマンチェゴ・チーズもあったので、ひとかけら切ってもらって買った。
「風車と言えば、何と言っても、ドン・キホーテです」
三池は歩きながら、香織に言った。
「この旅行に来る前に、ドン・キホーテを初めて完読しました」
三池は笑って言った。
「今まで、何回かトライしてきたのですが、いつも前篇の途中あたりで挫折して、後篇まで辿りつけなかったのです」
退職して、この半年間、辞書を片手にスペイン語原書にも取り組んでいたことは言わなかった。
言ってどうなるものでも無かったし、言えば、感心されることも無く、何だか、暇ですねえ、と笑われそうな気がしたからである。
今のスペイン語とかなり文法が違い、三池が持っている辞書には無い言葉も結構あり、原書読破はあと数か月はかかりそうだった。
何と言っても、四百年も前に発刊された小説なのだ。
日本語だって、四百年も前の文章はなかなか読めない。
やがて、古い城を挟んで、十一の風車が建ち並ぶ丘に着いた。
紅い花が咲き誇っていた。
新幹線の車窓から見た紅い花の正体が判った。
スペイン語ではアマポーラ、英語ではポピー、日本ではひなげし、別名、虞美人草とも呼ばれる花であった。
紅い花を前にして、香織も気付いたらしく、三池に向って微笑んだ。
「スペイン語では、アマポーラと呼びます。メキシコでは、女の子に結構多い名前ですよ」
「アマポーラ。優雅な響きを持つ名前ですね。とっても、可憐で綺麗な花」
三池は風車に目を向けながら、香織に言った。
「これらの風車には全て名前がついているという話です」
三池は言いながら、前面に広がる空、赤い大地、白い風車を前にして、自然と目が潤むのを感じた。
漸く、憧れのラ・マンチャの風車の丘に来たのだ。
この風景を観るために、俺はこのスペインに来たんだという思いで胸が締め付けられた。
泣いてもいいじゃないか、と思った。
ふと、自分を見詰めている香織の視線を感じた。
香織は優しく微笑んでいた。
立って周囲を見ている二人に、どこからか、声がかかった。
見渡すと、風車小屋の一つが売店になっており、その売店のおじさんが片言の日本語を操って二人に声をかけていた。
人懐っこいおじさんだった。
結構、日本語を喋る。
どこで、日本語を学んだか、三池は訊いてみた。
ここへ日本人観光客を案内してくるガイドから、少しずつ勉強したと言っていた。
何とは無しに、高いとは思ったが、風車の絵葉書を買わされてしまった。
「どうも、あのおじさん、日本人相手にいい商売をしていますね」
三池は風車小屋売店を出て、城の方に歩きながら、香織に言った。
全世界、日本人が行く観光地はそうらしいですよ、日本人はつい買ってしまうんです、と香織は笑いながら言った。
「そうそう、ここは葡萄とサフランの産地だそうです。セントロ、街の中心地のスーパーあたりで、サフランが売っていれば買いましょうか。結構いい土産になると思いますよ。第一、軽くていい」
「そうですね。サフランって、日本ではかなり高価な食材ですものねえ」
二人は丘の上で座り心地の良さそうな石を見つけて腰を下ろし、白い風車を見ながら、先ほどスーパーで買ったサンドイッチを食べた。
至福の時ですね、と三池は空を見上げながら言った。
しかし、空は一刻一刻と暗くなってきていた。
やはり、予報通り、雷雨になるかも知れません、そろそろ帰りましょう、と三池は香織を促した。
風車見物を終えて、コンスエグラのバス停まで戻って来たが、バスの時間までにはかなりの余裕があったので、セントロに行ってどこかの店に入り時間を潰しませんか、という話になった。
行ってみたら、バルがあったので、二人で入り、トルティーリャと呼ばれるジャガイモ入りのオムレツを食べながら、ビールを飲んで時間を潰した。
「スペインでは、このポテト入りのオムレツをトルティーリャと言いますが、メキシコではタコス、ご存じですよね、あのタコスの皮をトルティーリャ、トルティージャと言うんですよ」
「あら、そうなんですか。私、タコス、好きなんですよ」
「香織さん、日本ではタコスは堅いパリパリの皮のものを食べていましたか? それとも、柔らかい皮のものを食べていましたか?」
「そう言えば、お店によって違いましたね。堅いパリパリの方が多かったかも」
「本当は、柔らかい皮のタコスがオーソドックスなんです。皮もとうもろこしの粉から作った皮と小麦粉の皮と二種類ありますが、これもとうもろこしの皮が本物です。ただ、米国人の好みから、とうもろこしならば、堅めのパリパリ皮、柔らかい皮ならば小麦粉の皮と変化しただけなんです。僕は、メキシコでは現地のマヤの女性が鉄板焼きみたいにして焼き上げるとうもろこしの柔らかい皮に具を挟んで食べていました。女性が、粘土状のとうもろこし団子をこのように両手の掌で伸ばして、このくらいの円にしてから、鉄板か陶板の上で焼き上げるんです。温かいトルティージャに牛肉などの肉とレタスなどの野菜を挟み、チレという唐辛子を混ぜ、くるりと丸め、片方を少し折って、チレが零れないようにして食べるんです。チレは辛いので、ビールを飲みながら食べる、この旨さ、くせになります」
身振り手振りよろしく夢中になって話す三池を見ながら、香織は新しい三池を発見したような気がした。
その内、雷が鳴り響き、激しく雨が降ってきた。
二人はバルの窓から雨を眺めながら、雑談に耽っていたが、雨は段々小降りになり、いつしか止み、空はすっかり晴れ上がってきた。
午後三時二十分のバスに乗って、トレドに戻った。
トレドには午後四時半頃に着いた。
ホテルに歩いて戻り、シャワーを浴びて、夕暮れのトレド市内に出掛けた。
ビサグラ門からソコドベール広場に向かう道沿いにあるラ・アバディアというカフェテリアで少し早めの夕食を摂り、デザートとして、チュロスをチョコレートに漬けて食べながら、昼間のラ・マンチャへの小旅行の話を交わした。
「どうでしたか、ラ・マンチャの風車は?」
「大きな羽根と黒の円錐形の屋根、その下の白い円柱の小屋。風車小屋全体が芸術作品を観るような気がしました。ピタッとラ・マンチャの風土にマッチングしているんですから。本当に、コンスエグラまで出掛けて行って良かったと思います。私、三池さんに改めてお礼を言いますわ。いいものを見せて戴いて、本当に感激しましたから」
「そう言って戴いて、僕も嬉しいですね。僕も念願のラ・マンチャの風車を実際この眼で確認することができ、今はとても幸せな気持ちで一杯です。それに、丘の上で食べたサンドイッチ、それに、ケソ・マンチェーゴも美味しかった。今夜は幸せな気分で眠れます」
二十一日目 五月二十九日(土曜日)
いつもより、遅く起きた二人は、朝食を摂らずに、市内見物を行なうこととした。
二日前は外観だけを見るにとどめたカテドラルから始めた。
チケット売場を探したが、周辺に売場らしいところは見当たらなかった。
通りかかった人に訊いたら、お土産屋さんを指差した。
お土産屋さんの店に入り、訊いたら、ここで売っているのよ、という返事が返ってきた。
チケットを渡しながら、ここでも売っているけど、観光案内所でも販売していると言っていた。
なるほど、訊いてみなけりゃ判りませんね、と三池は言いながら、買ったチケットを香織に渡した。
カテドラルでは、黄金、銀、宝石で細工された聖体顕示台が有名である。
その金の一部は、コロンブスが新大陸から持ち帰った金が使われているとも云われている。
どこの金だろうと、金に代わりは無いが、三池は何となく不愉快な気持ちになった。
スペイン人は征服した土地から金でも銀でも容赦なく奪い、収奪した財宝は本国に送った。
嵩ばる金銀細工品はほとんどが熔かされて、単なる鋳塊・インゴットとされた。
インカの話は有名だ。
ピサロに囚われたインカ王は自分が幽閉されているこの部屋に入る分の黄金を与えるから、自分を解放して欲しいと懇願した。
部屋を満たす黄金が国中から集められた。
黄金は集まったが、スペイン人は約束を守らず、そのインカ王を処刑してしまった。
その後も問題がある。
絢爛豪華な細工が施されている見事な黄金細工は全て無残にも坩堝で熔かされ、単なる黄金のインゴットとされてしまったのである。
熔かされずに残った黄金細工もほんの少しだけ残されている。
いずれも、博物館に飾られれば、その博物館の目玉になるような逸品ばかりだ。
それが、単なるインゴットとなって、スペイン本国に船積みされて運ばれた。
インゴットとなった金を博物館に飾る馬鹿は居ない。
国宝級の黄金細工芸術品を坩堝に入れて熔かしてしまう、この暴挙は歴史の恥としていつまでも語られ続けるだろう、と三池は黄金祭檀を見ながら暗然たる気持ちになった。
次いで、サント・トメ教会を訪れた。
エル・グレコの最高傑作と言われる『オルガス伯爵の埋葬』の絵をじっくりと時間をかけて観ることができた。
エル・グレコはスペイン人では無く、外国人であった。
しかし、エル・グレコの国籍は名前で分かる。
エル・グレコはそのまま、ギリシァ人、という意味だ。
本名は、ドメニコス・テオトコブーロス、と云う。
ギリシァ人の名前は外国人にとっては長過ぎるし、発音もしづらい。
テオトコブーロスという名前も例外では無かった。
可愛そうに、時の王様から嫌われ宮廷画家になり損ねたこのギリシァ人の画家は、本名では呼ばれず、簡単にエル・グレコと人々から呼ばれた。
エルという定冠詞は伊達には付いていない。
エル・グレコ、あのギリシァ人、ギリシァから来たあの男、というようなニュアンスで若干敬意を込めて人々から呼ばれたのであろう。
その後、ソコドベール広場に戻り、トレド名物のソコトレンという観光ミニバスに乗って、座席からアルカサル、タホ川、エル・グレコの家、カテドラル広場を眺めた。
ソコトレンの乗車チケットは近くの売店では無く、少し離れた路地の観光案内所で売っていた。
昼食は、カテドラルの脇にあるカサ・アウレリオというレストランで、トレド名物料理となっている『鶉の赤ワイン煮込み』を食べた。
このレストランは結構高級レストランで、料理の値段もそれなりに高かった。
鶉の肉質は鶏肉と似ているが、少し柔らかい感じもした。
この郷土料理の他に、トレドには有名なお菓子がある。
マサパン、或いは、マジパンと呼ばれるお菓子だ。
香織が友達から聞いた話として、トレドに行くんだったら、このお菓子を食べてみなさいよ、と勧められた話をした。
買って、食べてみたいと三池に言った。
アーモンドの粉と蜂蜜から作られるこのお菓子は女性の間では結構有名らしい。
レストランを出て、三池が通りかかった人に訊いてみた。
すぐ判った。
支店はソコドベール広場にもあるが、本店はサント・トメ教会の近くにあるらしい。
早速、歩いて行ってみたら、マサパネス・サント・トメ菓子店という大きな看板が出ていた。
香織は喜んで、いそいそとその店の中に入って行った。
三池は普段は甘いものを敬遠していたが、香織から勧められて、買ったものを一つ、食べてみた。
何のことはない、日本で言えば、黄身しぐれのような和菓子と同じような味ではないか、悪くない、と三池は思った。
夕食はタクシーでパラドール・デ・トレドに行き、オープンテラスのカフェテリアで夕陽を眺めながら食べた。
「このパラドールにも本当は泊まりたかったんですが、グラナダ同様、ここも人気がありましてね、アクセスした時は既に遅く、満杯となっていました。インターネット情報によれば、何ヶ月も前に予約しないとすぐ一杯になってしまうようです。それと、大手の旅行会社の方でも押さえてしまうようで、個人で上手に予約するのは至難の業ですね」
「でも、泊まることはできなくとも、こうして、私たち、グラナダでもここトレドでも、このようにレストランで優雅な食事を楽しむことができています。私、三池さんに感謝していますわ」
二十二日目 五月三十日(日曜日)
ホテルをチェックアウトし、タクシーでRENFEの駅に向かった。
九時半のAVANTと呼ばれる特急に乗って、マドリッドに向かった。
途中、アマポーラが咲き乱れる紅い絨毯を所々で見ることが出来た。
三十分ほどで、アトーチャ駅に着いた。
ホテルはそこから、歩いてすぐのところにあった。
ホテルのカフェテリアでお茶を飲みながら、チェックインまでの時間調整をした。
チェックインし、部屋に荷物を入れ、室内金庫に貴重品を入れてから、ホテルを出た。
地下鉄のアトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ティルソ・デ・モリーナ駅で降りた。
そこから、西に歩いて、サン・イシドロ教会を経て、カスコロ広場に行き、ラストロ(日曜開催のノミの市)を見物した。
ここは掏りが多いところと聞いています、注意してください、と三池が小声で注意した。
大丈夫です、三池さんのご忠告に従い、お金は分散して持ち、パスポートはコピーしか持っていませんから、と香織は笑みを湛えながら三池に言った。
ラストロ見物後、カスコロ広場、サン・イシドロ教会、有名なレストラン・ボティンを横目で見ながら、マヨール広場に出た。
夕食はメソン・デル・チャンピーニョンというレストランに決めていた。
午後六時の開店を待って、店に入り、名物とされるマッシュルームの鉄板焼きを食べながら、白ワインを飲んだ。
「この大きなマッシュルームはクエンカ産のブラウンマッシュルームで、このように生ハムを載せて焼くのです。シンプルですが、コクがあって、あとを引く味だそうです。どうです、美味しいでしょう」
三池は注釈を付けながら、旺盛な食欲をみせて食べていた。
二人は大きなマッシュルームを口一杯に頬張りながら、その芳醇な汁を味わうという至福の時間を十分楽しんだ。
食事の後、そのレストランを出て、プエルタ・デル・ソル近くの地下鉄・ソル駅から地下鉄・一号線のバルデカルロス方面の電車に乗り、アトーチャ駅で降りて、ホテルに戻った。
二十三日目 五月三十一日(月曜日)
朝食は食べずに、ホテルを出た。
「今日は、プエルタ・デル・ソルと王宮周辺を廻りましょう」
三池は香織に言った。
二人は、アトーチャ駅から、地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗って、ソル駅で降りて、五分ほど歩いて、チョコラテリア・サン・ヒネスという店に行き、チュロスとチョコレートのセット・メニューを注文して朝食とした。
「どうしよう、私、肥ってしまう。困るわ。けど、美味しい」
香織はぶつぶつと不平を溢しながらも、美味しい、美味しいと食べていた。
プエルタ・デル・ソル、デスカルサス・レアレス修道院、王宮と見物した。
但し、デスカルサス・レアレス修道院は月曜休館ということで入れず、外観だけ眺め、写真におさめた。
プエルタ・デル・ソルはマドリッド市民の待ち合わせ場所として知られるところで、人が一杯たむろしていた。
広場中央には、カルロス三世の騎馬像が建っている。
王宮は百五十メートル四方の建物の中に二千七百の部屋を数える巨大建築物である。
三池たちは豪華さに圧倒されながら、時間をかけてゆっくりと見物した。
昼食は、マヨール広場近くの名門レストラン・ボティンで食べた。
このレストランは創業が千七百二十五年ということで世界最古のレストランということでギネス・ブックにも登録されている有名なレストランである。
「確か、ヘミングウェイの小説、『日はまた昇る』だったと思いますが、その小説にも登場するレストランです」
名物料理である『子豚の丸焼き』は一人前だけ注文し、お皿を貰って、取り合って食べた。
「今日は入ることはできませんでしたが、デスカルサス・レアレス修道院のデスカルサスという言葉はスペイン語では『裸足』という意味です。おそらく、修行のため、いつも裸足でいることを義務付けている教団なのかも知れません。ドン・キホーテにもこの言葉は出てきます。日本語訳では確か、跣足会と訳されていたと記憶しています」
ボティンを出て、二人は昨日同様、マヨール広場、サン・イシドロ教会と廻り、プエルタ・デル・ソルまでゆっくりと歩いて戻った。
「三池さん、夕食は野菜中心にしません。昼のお肉がまだお腹に一杯あるみたい。確か、バルセロナで食べたあの野菜サラダ・ビュッフェのお店、マドリッドにもあるとかおっしゃっていましたよねえ」
「ああ、フレスコという店のことですか。そうです、マドリッドにもあるという案内を見ましたね」
香織に促され、三池は観光案内書を捲った。
フレスコという店が掲載されていた。
その店は、プエルタ・デル・ソルから三百メートル足らずの地下鉄・グラン・ビア駅の近くにあった。
二人は、エル・コルテ・イングレスの中に入り、内部を見ながら、時間を潰した。
確かに、日本人が喜びそうなものがたくさん売られていた。
チョコレート、トゥロン、オリーブオイル、生ハムのパテ、シーフードの缶詰、パエーリャの素といった食料品の他、お土産として喜ばれそうな雑貨もたくさんあった。
ここだけで、お土産類は間に合ってしまいますね、と香織は喜んでいた。
七時頃、歩いてフレスコに行った。
早い時間であったせいか、バルセロナより混んでおらず、二人はゆったりと食事を取ることができた。
ピザとかスパゲッティといった料理も並べられ、スペイン人の若者たちは三池たちが驚くほどの食欲をみせてたいらげていた。
「何だか、僕は野菜はそれほど好きでは無いんですが、このところ油っこいものが多かったせいもあるのか、ここのように野菜サラダ系統の料理を見るとホッとしますね」
しみじみと話す三池の様子が可笑しかったのか、香織も笑いながら頷いた。
二十四日目 六月一日(火曜日)
ホテルを出て、王立植物園を右手に見ながら、プラド通りを歩き、プラド美術館に入った。
入館し、インフォメーションで館内案内図を貰い、それを片手に館内を廻った。
また、音声ガイドも借りた。
日本語の音声ガイドは無かったので、三池はスペイン語、香織は英語のものを借りた。
途中、カフェテリアでお茶を飲んで休憩しながら、五時間ほどかけてじっくりと観た。
名画があり過ぎる、と三池は思った。
「ここを一時間程度で鑑賞するコツを書いた記事をどこかの雑誌で昔見たことがあります」
館内のベンチに腰を下ろし、三池は笑いながら、香織に言った。
「その記事では、鑑賞する名画の順番まで書いてあって、この絵を見たら、次はここを通って急いで歩き、この絵を見ます、とかいった書きかたで人気のある絵を要領よく見て歩くコツが事細かに書かれています」
三池の皮肉な口調に、香織も笑い始めていた。
「日本人に人気がある絵は何と言っても、フラ・アンジェリコの『受胎告知』、エル・グレコの『羊飼いの礼拝』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ムリーリョの『無原罪のお宿り』、ルーベンスの『三美神』、ゴヤの『着衣のマハ』と『裸体のマハ』といった絵でしょう。この記事は、それら有名な絵を効率良く見て廻るためのノウ・ハウ本というか、ノウ・ハウ記事なんです。いくら、忙しいツァーだから、しょうがないじゃあないか、と言ってもあまりにもナンセンスだと思いませんか」
口を少し尖らせて語る三池の話に香織は思わず笑ってしまった。
「そうですよねえ。いくら何でも、ひどすぎるかも。この間、スペインに来る前、旅行会社のツアー案内のパンフレットを見ていたら、行動予定の中に、プラド美術館は盛り込まれておらず、バスでソフィア王妃芸術センターで『ゲルニカ』鑑賞二十分、と記載されていました」
「今日はたっぷりと時間をかけて廻ることができましたが、人は結構居ましたね。人気のある絵では人が多過ぎて、長時間かけて鑑賞するということは叶いませんでした。実は、ゴヤに限定することですが、ほとんど無人の部屋で、僕は、あの『裸体のマハ』、『着衣のマハ』といったゴヤの名画をじっくりと鑑賞したことがあるのですよ」
三池が思わせぶりな口調で語り始めた。
香織は三池を見ながら、じっと聴き入った。
「もう、三十年以上も前のことになりますが、僕がメキシコに滞在していた頃、遊びでメキシコシティに行ったことがあります。確か、千九百七十八年だったと思います。そして、日本に帰る前に一度、国立芸術院で演じられていた民俗舞踊を見たいと思って、芸術院に行ってみたのです。しかし、あいにく、その日は公演が休演日ということで空振りに終わりました。仕方が無い、と諦め、出口に向かって歩いていたら、たまたま、二階の展示室でゴヤ展が開催されていたのです。見ると、スペイン・プラド美術館所蔵のゴヤの絵画が展示されていたのです。もしかすると、あの有名な『裸体のマハ』も展示されているのかな、と思い、入場料を払い、入ってみました。すると、ありましたね。『着衣のマハ』と『裸体のマハ』が展示されていました。勿論、『カルロス四世の家族』とか『マドリッド、千八百八年五月三日』、『巨人』、『我が子を食らうサトゥルヌス』などの名画もありました」
三池は両手の掌を目の前で擦り合わせ、過去を思い出すような眼差しをしながら、言った。
「でも、一番感動したのは、何と言っても、『裸体のマハ』です。今日観られて、お判りになったと思いますが、『着衣のマハ』と『裸体のマハ』とでは、マハの眼が全然違うのです。『着衣のマハ』の眼は、お澄まし顔の眼、一方、『裸体のマハ』の眼は、挑むような、男を挑発するような眼なのです。こんなことを、香織さんの前で話すのはまことに不謹慎なんですが、その当時、僕は二十九歳の男でした。あの『裸体のマハ』の艶めかしい色っぽい眼には思わずぞくぞくとしたものです。香織さんには到底判らない男の生理的感覚です」
三池は、こんなことを話して申し訳無い、というような顔をした。
『旬』という言葉がある。
人にも旬があるとするならば、あの頃が俺の旬であったかも知れない、と三池は苦笑いした。
「信じられないような話ですが、その展示会では警備員を除けば、入場者は僕一人くらいでした。ゴヤの名画展示会では普通考えられない話です。何故だか、分かりますか?」
「実を言えば、その日は平日で、時間帯はメキシコ人のシエスタの時間帯だったのです」
香織は思わず噴き出して笑った。
「実は、香織さん。今日、僕は新発見をしましたよ」
三池がまた、思わせぶりな言葉を吐いた。
「僕は、長い間、マハ・デスヌーダとか、マハ・ヴェスティーダと思い込んでいましたが、それは間違いでした。今日、絵の標題を見たら、ラ・マハ・デスヌーダであり、ラ・マハ・ヴェスティーダであることを発見したのです。つまり、定冠詞のラがちゃんと付いているのですよ。何と、マハはその女性の名前、つまり、固有名詞では無く、一般名詞だったんです。一般名詞のマハは、日本語で言えば、『カッコいい女』とか『いい女』という意味なんです。ラ・マハ・デスヌーダというのは、裸のいい女、という意味になります。ラ・マハ・ヴェスティーダは、服を着たいい女、という意味になるんですねえ」
香織は三池の話を興味深く聴いていた。
「マハは『いい女』であり、『いい男』は、マホ、と言います。イメージとしては、そう、フラメンコを踊る女はマハであり、フラメンコを踊る男性はマホ、となります」
プラド美術館を出た二人は、レティーロ公園まで足をのばして昼下がりの公園内を暫く散策した。
「このレティーロ公園は、夜間は物騒なところらしいです。強盗がやたら出る、とインターネット情報にありましたから」
「それでも、私たち、ラッキーだったのか、怖い思いをすることはありませんでしたね」
「実は、僕は旅行中、これをいつも持ち歩いていたのです」
三池はポケットから、小さな防犯ブザーを取り出して、香織に見せた。
アラッ、私も持っていました、と香織も防犯ブザーを取り出して三池に見せた。
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
レティーロ公園を暫く歩いた後で、二人はホテルに戻り、少し休憩した。
夜は、生ハムで有名なところに行きましょう、と三池が提案した。
地下鉄・アトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ソル駅で降りた。
少し歩いて、『ムセオ・デル・ハモン』という立ち飲みバルとレストランが併設されている店で、赤ワインとハモン・イベリコ、パン・コン・トマテで夕食とした。
ハム博物館という名前を付けているだけあって、天井から何十というハムが所狭しとぶら下がっていた。
口に入ると、一瞬でとろけてしまうハモン・イベリコはさすがの味であった。
三池もかなり食べたが、香織の健啖振りには驚かされた。
肥ってしまう、困る、ダイエットが辛い、とこぼしながらも、香織はなかなかの健啖家振りを発揮した。
二十五日目 六月二日(水曜日)
昨夜のハモン・イベリコのせいか、空腹感が全然無かった。
朝食は抜きましょう、とどちらかとも無く言い出した。
二人はホテルを出て、近くのソフィア王妃芸術センターに入り、あまりにも名高いピカソの『ゲルニカ』を鑑賞した。
三池はこのモノクロの巨大な絵の前でひとしきり感慨に耽った。
灰色には無限のグラデーションがある。
ピカソはこの灰色という立派な色彩を用いて、怒りと悲しみをこの巨大なキャンバスに描いたのだ、と三池は思った。
悪い平和も無ければ、良い戦争も無い、と言った誰かの言葉がふと脳裏を過ぎった。
二十世紀は戦争の世紀と言われて久しいが、今生きている二十一世紀も実は戦争の世紀であったと、後世の人から言われないという保証は何一つ無い。
歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、そして、二度目は喜劇として、という言葉がある。
二十世紀の戦争は悲劇で、二十一世紀の戦争は喜劇、いや、そんなことは無い、戦争である限り、喜劇はあり得ず、何度似たような戦争が起こっても、悲劇はいつまでも悲劇でしか無い、戦争を喜劇にしてはいけない、と三池は思った。
その美術館を出て、プラド通りを歩き、ティッセン・ボルネミッサ美術館に向かった。
その美術館の前に、『銀座』という名前の日本食レストランがあった。
トレモリーノス以来の日本食もいいでしょう、と三池が香織を誘った。
入ってみて、驚いた。
回転寿司コーナーがあり、日本人以外の客でほとんど満席の状態だった。
少し待って、何とか二人分の席が空いたので、二人は緑茶を飲みながら、寿司をつまんだ。
お腹を満たしてから、ティッセン・ボルネミッサ美術館に入った。
予想外に素晴らしい絵がたくさんあった。
元々は、ティッセン・ボルネミッサ男爵という人の個人的蒐集物であったが、二十年ばかり前に政府が買い上げて、美術館としたということだった。
三時間ばかり見学して、そこを出た。
地下鉄・セビーリャ駅まで歩き、地下鉄・二号線のクアトロ・カミーノス方面の電車に乗り、オペラ駅で降りた。
駅近くのラ・ボラというレストランでソパ・デ・カスティーリャというスープから始まる、地元マドリッドの料理を食べて、夕食とした。
二十六日目 六月三日(木曜日)
RENFEのアトーチャ駅のカフェテリアで朝食を摂った。
それから、地下鉄でグラン・ビアに行き、スペイン広場、歴史博物館、ゴヤのパンテオンなどを見物した。
スペイン広場にはセルバンテスのモニュメントと、ご存知、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像がある。
「メキシコのグアナフアトにも、ドン・キホーテの博物館があり、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、それに愛馬ロシナンテに関する絵画、彫刻が所狭しと陳列されています。とにかく、世界的な人気者であることは間違い無いです。また、ドン・キホーテという小説は当時スペインで語られていた格言・諺がぎっしりと詰まった小説でもあり、多くは狂言まわしの役どころを担ったサンチョ・パンサによって引用されますが、なかなか面白い表現がたくさんあります。例えば、・・・」
三池は少し目を上に上げて思い出すようにして、香織に言った。
「『十字架の後ろに悪魔がひそむ』、これは日本の諺で言えば、『外面如菩薩、内面如夜叉』と同じ意味です。『羊の毛を刈りに行って、刈られて帰る』、これは『ミイラとりがミイラになる』という諺と一緒ですね。『愛については、全てのものを平等にする、と言われる』という諺は、『恋に上下の隔て無し』いう日本の諺と同じです。その他、『燕一羽で夏にはならず』という諺は、日本の『早合点は禁物』と同じ意味で使われています。何でも、ドン・キホーテを詳細に調べた人の話によれば、四百以上の格言・諺が随所に散りばめられ、小説に彩りを添えているという話です。セルバンテスの好みか、当時の文学的作品の一般的な傾向だったかは知りませんが、僕もこのスペイン旅行から帰ったら、また再読し、格言・諺らしい言葉を全て抽出してみようか、と思っているのです。何せ、時間だけはたっぷりありますから」
三池の言葉を聞いて、香織は好意的な微笑を浮かべた。
二人は三日前に行ったサラダ・レストランの『フレスコ』を再訪し、サラダ・ビュッフェを食べて昼食とした。
その後、サラマンカ地区周辺を散策した。
コロンブスの塔が立っているコロン広場、アルタミラの洞窟壁画が再現されている国立考古学博物館、画家ソローリャが住んでいた住居を改造して美術館としたソローリャ美術館といったところを廻った。
その後、ホテルに戻った二人は明日の帰国に備えて、思い思いに荷物の整理を始めた。
スペイン最後の夜くらいは外出せずに、このホテルでのんびりと過ごしましょうか、と三池は香織に提案した。
それで、夕食はホテルのレストランで食べることとした。
ホテルのレストランのテーブルには赤いグラスに入った蝋燭が置かれ、ロマンティックな雰囲気を醸し出していた。
「このような蝋燭が置かれたテーブルを見ると、僕はメキシコのタスコのホテルのレストランを思い出しますね。慕情の街と呼ばれるタスコは山沿いの街で、夜になると、オレンジがかった黄色の光を放つカンテラが通りを一斉に照らします。その照明に照らされる夜の道もロマンティックなんですが、高い丘の上にあるホテルのバルコニーから見る夜景もとてもロマンティックなんです。僕はそのホテルのレストランで夕食を食べたのですが、そこのテーブルにもこれと同じような赤い容器に入った蝋燭がちらちらと炎を揺らしながら燃えていました。マルガリータというテキーラ・ベースのカクテルを飲みながら、その時はステーキを食べました。今はあまり肉は食べないんですが、当時の僕はどちらかと言えば、肉食系統でして、ミディアムに焼いて貰った、そのフィレテ・デ・チャンピーニョン、マッシュルーム入りヒレ・ステーキは美味しかったですね。今度、またご一緒に旅行する機会があったら、今度はメキシコにしましょうか。メキシコならば、僕は今回よりもっと上手にエスコートできますよ。その自信はありますから」
三池の言葉を聴き終った香織は、いつでも結構ですから、今度はメキシコに連れて行ってください、と三池に言った。
「それなら、今度は、新婚旅行という線で行きましょうか」
三池は冗談めかして、香織に言った。
香織は笑いながら、本気にしますわよ、と香織も冗談めかして三池に言った。
二人はそれっきり黙ったまま、か細く揺れる蝋燭の炎を凝視めるばかりであった。
二十七日目 六月四日(金曜日)
朝六時にホテルをチェックアウトして、タクシーでマドリッド・バラハス空港に向かった。
タクシーの運転手は中年の快活な男だった。
スペインではどんなところを廻って来たのか、訊いて来た。
三池がこの四週間の間に旅行して廻ったところを列挙した。
そんなに廻ったのか、スペイン人の俺も未だ行っていないところもある、とびっくりしていた。
ところで、セニョーラ、旦那と一緒の旅行はどうだった、と香織に訊いて来た。
三池が香織に訊かれた内容を少し照れながら通訳した。
香織はにっこりと笑い、ムイ・ビエン(とても良かった)と答えた。
答えを聞いた運転手は、右手の親指を上に立てた。
空港の第一ターミナルには六時半に着いた。
少し余分にチップを渡した。
運転手は、グラスィアスと言いながら運転席に戻り、ブエン・ビアッヘと言い残して去って行った。
七時にルフトハンザドイツ航空のカウンターでチェックインを行なった。
成田までのバゲージ・スルーと、フランクフルト空港でのスルー・チェックインを要望した。
その後、空港内の二十四時間営業のカフェテリアで軽めの朝食を摂った。
簡単なセキュリティー・チェックを受けて、搭乗ゲートに向かった。
途中、免税店があったが、フランクフルト空港での出国審査時の手荷物検査で液体類は引っかかり没収されるということを聞いていたので、飲みものの類は買わなかった。
九時五分、定刻通り、飛行機はフランクフルトに向かって飛び立った。
十一時四十五分、フランクフルト空港に到着した。
到着後、出国審査と手荷物検査を受けた。
乗り継ぎの搭乗ゲートを確認した後で、二人は免税店で少し買いものをした。
その後、カフェテリアでドイツビールを飲みながら、昼食を摂った。
午後一時三十五分、フランクフルト空港を飛び立ち、一路、成田空港に向かった。
二十八日目 六月五日(土曜日)
到着前の機内で、『携帯品・別送品申告書』の用紙を受け取り、三池と香織はそれぞれ記入した。
僕が代表するわけにはいかないしねえ、と三池は笑いながら隣に座っている香織に言った。
お互い、独立した世帯ですものねえ、と香織も笑って言った。
午前七時半、成田空港に到着した。
朝食を空港内のレストランで摂った後、香織はそのまま母親が待つ東京の自宅に帰ることとしていた。
三池はリムジンバスに乗り込む香織を見送った。
バスに乗り込む際、香織は思い切ったような表情を浮かべて、三池に何事か囁いた。
それから、香織はバスに乗り込み、窓から三池に手を振った。
三池も手を振って応えたが、どこかぎごちない仕草だった。
バスが走り去った後、三池は暫く困惑したような表情を浮かべて、バス停に立っていた。
そして、三池もホテルのシャトルバスに乗って、宿泊予定のホテルに向かった。
ホテルに荷物を預け、チェックインまでの時間を潰すため、三池は車を運転して成田市内のイオンモールに向かった。
本屋で暫く過ごし、昼食を食べてからホテルに向かった。
夜、ホテルの窓辺に座り、放心したように缶ビールを飲みながら、三池は香織のことを想っていた。
携帯電話が鳴った。
出てみると、香織の少しハスキーな声が聞こえてきた。
旅行でお世話になりました、といったお礼の言葉と共に、ご迷惑で無ければ、これからも交際して欲しい、一人の女性として交際して欲しい、と香織は三池に話した。
電話が切れた後、成田離婚という話はよく聞くところであるが、成田結婚という話は聞いたことがない、果たしてどうしたものだろうか、齢の差はあまり関係無いのか、と三池は窓の外の成田空港の夜景を見ながら思っていた。
三池の耳の奥で、リムジンバスに乗り込む前、香織が囁いた言葉がまだ残っていた。
あなたが好きになりました、おそらく、これは『愛』です、と香織は三池に言ったのだ。
二十九日目 六月六日(日曜日)
ホテルをチェックアウトして、三池は高速道路を走らせながら、香織との今後の展開を秘かに楽しんでいる自分に気付いた。
意外でもあり、一方、予想通りというような複雑な心境を抱えたまま、車を運転していた。
四週間のスペイン旅行という『非日常』を経て、今から『日常回帰』して行く。
ああ、やれやれ、楽しかったけれど、旅は終った、やっぱり、我が家が一番、狭いながらも楽しい我が家か、と前の自分ならばそのように思い、懐かしい日常へ心のギアーをスムースにチェンジして行ったであろうが。
今は違う。
家が近づいてくるにつれて、早く我が家のソファーに寝そべりたいという普段の欲求が全然起こって来ないのだ。
香織との今後のアバンチュールを考えている自分が居り、香織を何とかして幸せにしてやりたいと思う自分しかいなかった。
アバンチュール、アドベンチャー、アベントゥーラ、冒険!
アベントゥーラを求めて旅に出て、ただの風車を残虐非道な巨人と思い込み、果敢に闘いを挑んで突進して行く、あのドン・キホーテにならなければならない。
何のために?
答えは決まっている。
香織のため、そして、自分のためだ。
吉と出るか、凶とでるか?
全て、神の思し召し、と三池は微笑んだ。
今回の旅行でホテルをチェックアウトする度に、ホテルのフロントから毎回言われた言葉が、ふと脳裏に甦ってきた。
『ブエン・ビアッヘ!(良い旅を!)』
それは、二人の今後の旅に対する『はなむけ』の言葉ともなっていたのかも知れない。
完
朝食が付いていたので、ホテルのレストランで食べた。
部屋に戻り、身軽な格好になってホテルを出た。
今日は、昨日見られなかったカテドラルとヒラルダの塔を見ましょう、と三池は香織を誘った。
セビーリャのカテドラルはスペイン最大の大きさを誇っており、その建設には百二十年という歳月もかかっている。
そして、当時の四人の国王が柩を担いでいるコロンブスの墓も有名である。
新大陸の発見と征服はスペインに多大な富をもたらした。
イタリア人であるコロンブスはこのような形でスペインの繁栄に貢献した。
当時のスペインを構成していた四カ国の王に担がれる資格は十分にあったということだ。
また、ヒラルダの塔も百メートル近い高さを持ち、七十メートルという高さの展望台からは、セビーリャの街が一望できる。
しかし、あいにく、ヒラルダの塔は修理中で登ることは出来なかった。
三池は香織にウインクしながら、登れなかったという証拠写真を撮りましょう、と言って黄色に塗られた工事車両にデジカメを向けた。
それにしても、建物の巨大さにはほとほと感心する。
巨大な建築を長年かけて建設するというヨーロッパ人の熱意というか執念というか、並みはずれた発想と根性に三池はほとほと感心していた。
日本人には到底できない。
精々、数年かけて巨大な城を作るくらいのエネルギーしか無い民族だ、と思った。
農耕民族の限界か、とも思った。
「香織さん、セビーリャと言えば、歌劇カルメンの舞台となった街です。本場のフラメンコ・ショーを観ませんか。カルメン並みの粋な踊り子が踊るかも知れませんよ」
昼食を済ませ、ホテルに戻って、フラメンコ・ショーのことを訊くと、老舗のフラメンコ・ショーがある、と言う。
料金は少し高いが、二時間たっぷり観ることができる、とも言っていた。
その話に出た、ロス・ガリョスのフラメンコ・ショーを予約して貰った。
幸い、ホテルのすぐ近くにあった。
夜八時からのショーということで、その時間まで、お互い、自由行動としましょう、ということになった。
夜七時頃、香織はホテルに帰ってきた。
少し買いものをしてきた、と言っていた。
こんなものを買ってきました、と言って香織は三池に見せた。
三池に品物を見せる香織は少女のような顔をしていた。
その夜のフラメンコは二人を十分堪能させた。
フラメンコはかなり扇情的で猥褻な踊りである。
しかし、踊りは全て卑猥なものでは無かったか。
天照大神を天の岩戸から出させるために、アメノウズメノミコトが踊った踊りは極めつけの猥褻な踊りであったはず。
古来、神に捧げる踊りは男女の性を高らかに謳い上げる踊りでなければならなかったはずだ。
フラメンコ、アルゼンチン・タンゴはそれ故、人を根源から脅かし、感動させる。
踊りながら見せる表情は、セクシーでエクスタシーまで感じさせる表情である。
しかし、それで何が悪い。
猥褻さ、猥雑さ、大いに結構ではないか、本当はそうしたいくせに、興味なさそうな顔をして無視するのはまさに自分に対する欺瞞であり、恥ずべき偽善ではないのか。
昔、読んだ小説の題名に、見る前に跳べ、という題名があった。
俺もいっちょ跳んでみようか、と三池は思った。
三池は香織と共にホテルに帰り、不埒な思いを密かに巡らしている時、香織はふいに、これ上げます、と言って三池に夕方買ったお土産の一つを差し出した。
皮のコイン入れだった。
三池は気勢をそがれ、何だか意気消沈してしまった。
思わず、ありがとう、と言ってしまった。
十七日目 五月二十五日(火曜日)
朝食を食べてから、ホテルをチェックアウトして、二日前と同じ道を辿って、バス・ターミナルへ向かった。
そして、十時のコルドバ行きのバスに乗った。
コルドバのバス・ターミナルには十二時に着いた。
この街は八世紀から十一世紀にかけて、イスラムの都が置かれ、ヨーロッパ最大の繁栄を享受した街である。
バス・ターミナルのカフェテリアで昼食を時間をかけて摂り、時間を調整してから、タクシーに乗って、ホテルに向かった。
ホテルは観光名所・メスキータの入口すぐのところにあった。
ホテルにチェックインし、荷物を置き、貴重品を全て室内金庫に入れてから、街に出た。
スペインでの暮らしも二週間を過ぎ、大分旅慣れてきたような気がした。
メスキータから見物した。
メスキータはイスラム教とキリスト教が共存するモスクとして名高い。
勿論、初めはイスラムのモスクとして造られたが、レコンキスタによりカテドラルとして改造されてしまった。
白い大理石と赤い煉瓦が交互に組み合わせられた『円柱の森』と呼ばれる広場は観る者を限りなく幻惑させる。
この『円柱の森』の写真はコルドバを代表する一枚として常に観光雑誌に掲載されている。
次いで、アルカサルを見物した。
アルカサルは新大陸発見の旅の資金援助をコロンブスがカトリック両王に願い出た王城としてこれまた名高いところである。
アメリカ大陸はコロンブスが発見したと教科書には記されていたが、コロンブス以前にもヨーロッパ大陸から幾人かの白人が訪れている形跡がある。
三池は昔読んだメキシコ関係本の一節を思い出していた。
今でも、その書き出しの文句は覚えている。
アメリカは何度も発見された、というまことに皮肉っぽい文章からその本は始まっていた。
その書き出しが何とも愉快、且つ痛快で、三池はメキシコに居る間、何度も繰り返して読んだほどだ。
また、その後、カンクーンで買ってきたマヤ伝承の本の中で、十字架の墓の記述があったことも思い出した。
コロンブスの後、コンキスタドーレス(スペイン人の征服者たち)、同行したカトリック神父たちはマヤの部落で不思議な墓を見た。
部落の伝承によれば、コロンブス以前に、この部落に白い男がやって来て、いろいろな技術を教え、部落の人々を啓蒙したらしい。
その男は死んで葬られ、その墓には十字架が建てられた。
部落はその男の恩を忘れまいと死んだ命日には必ず部落の人全員が墓に参列するということだった。
コンキスタドーレスと神父たちが見たのは、その男の十字架の墓だった、と書かれてあった。
ひょっとすると、メキシコとかマヤの神話伝承で文化神とされている、メキシコ中央部のケツァルコアトル、マヤのククルカンはヨーロッパからコロンブスよりもずっと前に漂着したか、キリスト教布教のために新天地を目指して渡海してきた白人であったかも知れない、と三池は思った。
抽象的な神的存在では無く、生の人間として実在したと思われるケツァルコアトルは中央メキシコを追放されてから、マヤの文化圏にやって来て、ククルカンと呼ばれるに至っている。
ケツァルコアトル、ククルカン、共に、同じ『羽毛の蛇』という意味の名前であるが、膚の色が白く背が高い男であったらしい。
二人はユダヤ人街を歩いた。
セビーリャのサンタ・クルス街と同じような、迷路を思わせる細い道、白い家々が建ち並び、旅行者を幻惑させる街並みであった。
ホテルに帰り、少し休憩し、黄昏を迎えた頃、ホテルを出て、ビアナ宮殿に向かった。
ビアナ宮殿はパティオ(中庭)で有名なところだ。
数々の美しいパティオを見物してから、その宮殿を出て、近くにある、灯火のキリスト広場に行った。
カンテラの優しい灯りに照らされたキリスト像を観た。
厳かな雰囲気に包まれた広場で、二人はベンチに腰を下ろし、静かな優雅さを味わった。
「こういった広場には、何とも言えない味がありますね」
三池が言った。
「カトリックに特有なのかどうか、はっきりとしたことは知りませんが、広場にはとにかく人が集まります。昼と言わず、夜と言わず、人が集まり、散歩したり、お喋りをしたりして、コミュニケーションを図ります。こんなところは日本にはありませんね。日本の広場には人が常に集まるという古き良き伝統は全く無く、ただ、広場が欲しいという住民の要望を受けて、予算に基づき、粛々と広場を作っているだけ、という感がどうしても否めませんね」
三池が少々憤慨しながら香織に語った。
「そう言えば、そうですわねえ。この広場は日本の広場と違い、本当に市民がのんびりと歩き、お喋りをしていますものね。これも、一つの文化なのでしょうか」
香織も、三々五々集まってくる人々に目を向けながら、そう呟いた。
夕食はホテル近くのエル・カバーリョ・ロホというレストランで、名物の牛テールの煮込み料理とした。
茄子のフライとその店オリジナルのパンもなかなか美味しかった。
十八日目 五月二十六日(水曜日)
ホテルには朝食が付いていた。
屋外フラメンコ・ショーのパンフレットを見掛けたので、ホテルのカウンターで予約した。
ホテル近くのカルデナルという店で行われるフラメンコ・ショーであった。
夜十時半の開演で、ドリンク付きで結構低料金のショーである。
予約を済ませた二人はホテルを出て、ローマ橋を渡って、カラオーラの塔を見物した。
ローマ橋を守るために築かれた要塞で、現在はアル・アンダルス博物館として、コルドバ周辺の歴史博物館としての役割を果たしている。
その後、北に向かい、ミラフローレス橋を渡って、ポトロ広場を経て、考古学博物館を見学した。
ポトロは子馬という意味で、コルドバ市の紋章になっている。
ドン・キホーテに登場する旅籠屋・ポトロもある。
作者のセルバンテスも宿泊した、と云われている。
考古学博物館には、ローマ時代の収蔵品が一階に、また、イスラム支配下の時代の収蔵品が二階に陳列されている。
スペインは、ローマに占領され、イスラムに占領され、ナポレオンにも占領された。
過去、何度も征服され、国土を占領されたこの民族は、海を越えて征服者にもなった。
苛酷な圧政を敷かれた国民は、征服者となった土地では苛酷な圧政を敷く者となる。
太陽が沈まぬと称されたほど広大な植民地を有した国の末裔は今、経済的には二流という地位に甘んじている。
優越意識と劣等意識、過去の栄光と現在の凋落、プライドと冷酷な現実、といった相反する意識がこのスペインという国の国民を複雑な感情を持つ国民に仕立て上げている、という文章をどこかで読んだ記憶がある、と三池は思った。
博物館を出て、メスキータに戻り、近くのボデガス・メスキータというレストランで、六種類のタパスが付く定食を食べて、昼食とした。
ホテルに戻り、シャワーを浴びて、三池はベッドに横になった。
そのまま、うたた寝をしてしまった。
気付いた時は既に暗くなっており、時にはいいでしょうと香織が買ってきたボカディーリョを食べて夕食とした。
香織は三池を残して、付近を散策してきたらしい。
男からいろいろとピロポを受けましたよ、意味が分からなくて残念でしたけど、と言って笑っていた。
十時頃、ホテルを出て、百メートルと離れていないところにあるカルデナルで、フラメンコ・ショーを観た。
屋外のパティオで繰り広げられるフラメンコはいかにも情緒たっぷりで観る者を酔わせた。
フラメンコはジプシーの踊りであり、ジプシーはスペイン語ではヒターノと言う。
但し、彼らは自分たちのことをヒターノとは呼ばず、ロマと言っている。
ロマの意味は、『ひと』という意味だ。
自由気儘に、ヨーロッパを移動し、定住することを好まない彼らは当然、その土地に永住する者からは差別される。
差別される者の心から湧き出る踊りがフラメンコなのだ。
ロマ同士の人としての堅い結び付き、差別する者たちへの激しい怒り、男と女の根源的な愛の形、『ひと』としての自己主張など、観ている者にいろいろな感情、思いを喚起させるこのフラメンコはそのまま一つの芸術である、と三池は思った。
十九日目 五月二十七日(木曜日)
朝食を食べてから、ホテルをチェックアウトした。
タクシーを呼んでもらい、RENFEのコルドバ駅に向かった。
コルドバ駅のプラットホームは地下にあるが、暗さは感じなかった。
光がよく入る構造となっており、広くて明るいという印象を受けた。
少し驚いたのは、列車に乗る前に手荷物検査がなされたことであった。
「手荷物検査はなにも飛行機ばかりじゃないんですねえ」
香織が少し感心したような口ぶりで言った。
「テロ防止のためじゃないですか。ヨーロッパも結構物騒なんですねえ」
「でも、このような新幹線に乗るのは初めてですから、何だかわくわくします」
「全車指定席ですから、混み合うということはありません。優雅な列車の旅を味わってもらうという古き良き伝統なんでしょうか。僕なんか、古い人間ですから、ヨーロッパの列車というと、どうしてもオリエント急行を連想してしまいます。何泊もかけて旅をする、勿論、運賃だってバカ高く、庶民には高嶺の花だった頃の列車の旅を」
「アガサ・クリスティの世界ですわねえ」
「そうです。だって、この列車だって、ひょっとすると、卵型の頭をしたエルキュール・ポアロが乗っているかも知れませんよ。ほら、あの席あたりに、窓際のあの席です」
二人は少し興奮しながら、軽口を楽しんだ。
九時二十九分発のAVEと呼ばれる新幹線でマドリッドに向かった。
シエラ・モレーナ山脈にさしかかり、トンネルがいくつも続いた。
ごつごつとした岩が剥き出しになっている山肌に、しがみつくように立っているオリーブの木を見た。
やがて、古城が聳える丘と白い家々が建ち並ぶ町が見えてきた。
写真を撮れば、そのまま額に飾れる風景があまりにも多過ぎる、と三池は思った。
選ぶのは不可能だ、とも思った。
ところどころに、紅い花が群生していた。
赤い絨毯のようだ、と三池は思った。
初夏には、ヒマワリ畑が旅行者の眼を楽しませると云われているが、まだ、ヒマワリには早い時期だったのか、と三池は少し残念に思っていたが、この紅い花の絨毯は意外であり、三池と香織の眼を十分楽しませた。
そして、赤茶けた平原に葡萄畑が点在し、時折、羊の群れを連れて歩く羊飼いの姿も見掛けるようになってきた。
この荒涼とした、この地こそ、ドン・キホーテがロシナンテに跨り、驢馬に跨ったサンチョ・パンサを引き連れて威風堂々と冒険を求めて武者修行の旅をした、ラ・マンチャ。
三池の目は、次第に潤んできた。
どうしようもなかった。
俺はどんなにこの地に憧れてきたことか。
ふと、自分を見詰めている香織に気付いた。
何か、言うのかな、と三池は思った。
しかし、香織は言葉を発せず、じっと三池を見詰めたままだった。
列車は十一時十五分定刻きっかりにマドリッドのアトーチャ駅に着いた。
「五分ほど遅れると、全額払い戻しになるという話を聞いたことがあります。AVEにプライドを持っているんですね。そのプライドを賭けて、定刻より少し早めに到着するのだそうです。今日はまあ、定刻でしたが。このAVEができるまで、スペインの国鉄は遅れるし、遅いという悪評ばっかりだったらしいです。AVEができて、名誉挽回とばかり、気合いが入っているんでしょう。その意気や良し、ですねえ」
コルドバからマドリッドまで、一時間四十五分の旅だった。
「アトーチャ駅は二つの駅から構成されている複合駅で、在来線が走るアトーチャ・セルカニアス駅と、この新幹線といった高速列車が走るプエルタ・デ・アトーチャ駅とそれぞれ完全に独立した駅となっています。切符売り場も、駅長さんもそれぞれ別という話ですよ」
三池がスーツケースを車内の荷物置場から出しながら、香織に言った。
プエルタ・デ・アトーチャ駅は駅舎全体が熱帯植物園となっており、車内から降りた時、一瞬蒸し暑さを感じる、と云われています、と三池は付け加えた。
プエルタ・デ・アトーチャ駅から地下鉄のアトーチャ・レンフェ駅に出て、メトロブスと呼ばれる十回乗車の回数券を買って、地下鉄・一号線のバルデカルロス方面の電車に乗り、パシフィコ駅で地下鉄・六号線のメンデス・アルバロ方面循環の電車に乗り換えて、プラサ・エリプティカ駅で降りた。
地下鉄は掏りが多く、物騒だと言う話は聞いていたが、人が多い昼間ということでそれほど危険な感じは無かった。
地下鉄の駅は地下三階にあり、地下一階にあるエリプティカ広場・バス・ターミナルに出て、トレド行きのバスの切符を買った。
バスはコンティネンタル・アウト社のバスであるが、系列としては二人がバルセロナからコルドバまで利用したALSA社の系列会社のバスである。
それに乗れば、一時間半ほどでトレドに着く。
十五分ほど待って、バスに乗り込んだ。
マドリッドからトレドまでの道はカスティーリャ、ラ・マンチャの乾いて荒涼とした野原を走る道であった。
スペインは日本の一.三倍という面積を持った国であるが、地域的には多様性に富む国である。
カタルーニャ、バレンシア、アンダルシアという風土と、このカスティーリャ、ラ・マンチャという風土ではあまりに違い過ぎる。
ドン・キホーテに、アンダルシアのあっけらかんとした陽気な明るさは似合わない。
乾ききり荒涼とした苛烈な風土こそ、この愁い顔の遍歴の騎士には似合うというものである。
ラ・マンチャの荒れ果てた土地の中で、騎士道小説に惑溺した挙句、自分こそ世の中の不正を正すべく旅に出る諸国遍歴の騎士であると思い込み、武者修行の冒険の旅に出掛けて行き、行く先々で無残な挫折を繰り返し、人々の嘲笑を受け続ける者の物語を到底単なる滑稽小説とは読めない、と三池は車窓の侘びしい風景を見ながら思った。
もし、生まれ変われるものならば、今度はもっと世の中と関わり合いを持つ人間に生まれたい、とも思った。
少し、思い入れ過ぎ、かと三池は苦笑いした。
何か、おかしいことでも、と三池の顔に浮かんだ微かな笑いに気付いた香織が訊ねた。
いや、この地の果てのように荒れ果てた大地を見ていたら、ふと、ドン・キホーテの物語が頭に浮かびましてね、思わず笑ってしまった次第です、と三池は答えた。
トレドのバス・ターミナルには午後二時頃に着いた。
バス・ターミナルの建物は、古都にふさわしく、古色蒼然とした褐色を帯びた古びた建物であると思いきや、結構新しく近代的な建物であった。
トレドというイメージにふさわしくない建物だ、と三池はバスから降りて建物を眺めながら、そう思った。
明日のラ・マンチャの風車見物に備え、SAMARというバス会社の切符売場の前に立ち、コンスエグラまでの往復切符を二枚買った。
明日はここから、コンスエグラに向かう九時十五分のバスに乗ることとした。
ホテルまでは一キロほどの距離であったが、列車、地下鉄、バスを乗り継ぐ長旅で結構疲れていたので、タクシーを利用してホテルに向かった。
ホテルはプエルタ・デル・ソル(太陽の門)の近くにあった。
遠くに、アルカサルが結構大きく見えていた。
随分と大きなアルカサルなんだろう、と三池は思った。
ホテルにチェックインした後で、市内見物に出掛けた。
画家エル・グレコが愛した街として有名なこのトレドにはスペイン・カトリックの総本山として位置付けられているカテドラルがある。
ホテルから貰った観光地図を片手に、サンタ・クルス美術館を駆け足で見学し、アルカサル、カテドラル、エル・グレコの家、トランシト教会、サント・トメ教会、サン・マルティン橋、サン・フアン・デ・ロス・レイエス教会、サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会といった観光名所を外観だけ見物してホテルに戻った。
途中、カテドラル近くの観光案内所で日本語版のトレドの案内地図を貰った。
結構歩いた感じがして、疲れたので、ホテルで少し休息した。
部屋に入るなり、三池は椅子にうずくまるように腰を下ろしたが、香織はさほど疲れているようには見えなかった。
二十歳も違うということは、こんなものなのか、と三池は思い、何だかがっかりした。
三池が部屋で休んでいる間、香織はホテルのロビーに行き、片言のスペイン語で、近くにコイン・ランドリーはあるかとか、市場はあるかとか、いろいろと情報を聞いてきた。
スペイン語の発音は日本人には簡単で、スペイン人にも私が何を言おうとしているのか、結構理解してもらえるものだ、と香織は嬉しそうに話していた。
そうです、言葉というものは、相手が外国人であっても、聞いてやろうとする雅量というか、聞く耳さえあれば、通じるものなんです、その反面、聞く耳を持たない人には同じ日本人同士でも全然心に響かず、通じないものですよ、と三池も笑いながら言った。
ほんと、聞く耳を持たない人には何を言っても通じませんものねえ、と香織も何か思い当たることがあったらしく、神妙な顔で頷いた。
夕食はホテル近くにある有名なレストラン、ロペス・デ・トレドの二階で食べた。
観光案内書通り、なかなか、豪華な感じがするレストランだった。
満腹となってホテルに戻り、シャワーを浴びていたら急に睡魔に襲われ、急いでベッドに飛び込み、三池は久しぶりに爆睡してしまった。
二十日目 五月二十八日(金曜日)
今日は、ラ・マンチャ地方のコンスエグラに行き、風車を見物することとしていた。
予報では雷雨に見舞われるとあったが、予想に反して、空は綺麗に晴れ渡っていた。
それこそ、雲ひとつ無かった。
三池は心がうきうきとするのを感じていた。
ホテルから歩いてバス・ターミナルまで行き、カフェテリアで朝食を食べながら、コンスエグラに向かうSAMAR社のバスを待った。
九時十五分にバスは出発して、十時半にはコンスエグラのバス停に着いていた。
少し、雲行きは怪しくなっていた。
コンスエグラまでの道は三池の期待通り、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが通りそうな道だった。
人影もほとんど無く、いくつか停留所はあったものの、バスは小気味よくそれらの停留所を素通りして疾走して行った。
途中、痩せた大地にしがみつくように根付いている葡萄の畑を見た。
コンスエグラのバス停に降り立った二人は風車の丘に向かって歩き出した。
風車はすぐそこに見えていた。
コンビニのようなスーパーがあったので、そこで、飲みものとかサンドイッチを昼食用として買い込んだ。
ラ・マンチャ地方名物とされる羊乳チーズのマンチェゴ・チーズもあったので、ひとかけら切ってもらって買った。
「風車と言えば、何と言っても、ドン・キホーテです」
三池は歩きながら、香織に言った。
「この旅行に来る前に、ドン・キホーテを初めて完読しました」
三池は笑って言った。
「今まで、何回かトライしてきたのですが、いつも前篇の途中あたりで挫折して、後篇まで辿りつけなかったのです」
退職して、この半年間、辞書を片手にスペイン語原書にも取り組んでいたことは言わなかった。
言ってどうなるものでも無かったし、言えば、感心されることも無く、何だか、暇ですねえ、と笑われそうな気がしたからである。
今のスペイン語とかなり文法が違い、三池が持っている辞書には無い言葉も結構あり、原書読破はあと数か月はかかりそうだった。
何と言っても、四百年も前に発刊された小説なのだ。
日本語だって、四百年も前の文章はなかなか読めない。
やがて、古い城を挟んで、十一の風車が建ち並ぶ丘に着いた。
紅い花が咲き誇っていた。
新幹線の車窓から見た紅い花の正体が判った。
スペイン語ではアマポーラ、英語ではポピー、日本ではひなげし、別名、虞美人草とも呼ばれる花であった。
紅い花を前にして、香織も気付いたらしく、三池に向って微笑んだ。
「スペイン語では、アマポーラと呼びます。メキシコでは、女の子に結構多い名前ですよ」
「アマポーラ。優雅な響きを持つ名前ですね。とっても、可憐で綺麗な花」
三池は風車に目を向けながら、香織に言った。
「これらの風車には全て名前がついているという話です」
三池は言いながら、前面に広がる空、赤い大地、白い風車を前にして、自然と目が潤むのを感じた。
漸く、憧れのラ・マンチャの風車の丘に来たのだ。
この風景を観るために、俺はこのスペインに来たんだという思いで胸が締め付けられた。
泣いてもいいじゃないか、と思った。
ふと、自分を見詰めている香織の視線を感じた。
香織は優しく微笑んでいた。
立って周囲を見ている二人に、どこからか、声がかかった。
見渡すと、風車小屋の一つが売店になっており、その売店のおじさんが片言の日本語を操って二人に声をかけていた。
人懐っこいおじさんだった。
結構、日本語を喋る。
どこで、日本語を学んだか、三池は訊いてみた。
ここへ日本人観光客を案内してくるガイドから、少しずつ勉強したと言っていた。
何とは無しに、高いとは思ったが、風車の絵葉書を買わされてしまった。
「どうも、あのおじさん、日本人相手にいい商売をしていますね」
三池は風車小屋売店を出て、城の方に歩きながら、香織に言った。
全世界、日本人が行く観光地はそうらしいですよ、日本人はつい買ってしまうんです、と香織は笑いながら言った。
「そうそう、ここは葡萄とサフランの産地だそうです。セントロ、街の中心地のスーパーあたりで、サフランが売っていれば買いましょうか。結構いい土産になると思いますよ。第一、軽くていい」
「そうですね。サフランって、日本ではかなり高価な食材ですものねえ」
二人は丘の上で座り心地の良さそうな石を見つけて腰を下ろし、白い風車を見ながら、先ほどスーパーで買ったサンドイッチを食べた。
至福の時ですね、と三池は空を見上げながら言った。
しかし、空は一刻一刻と暗くなってきていた。
やはり、予報通り、雷雨になるかも知れません、そろそろ帰りましょう、と三池は香織を促した。
風車見物を終えて、コンスエグラのバス停まで戻って来たが、バスの時間までにはかなりの余裕があったので、セントロに行ってどこかの店に入り時間を潰しませんか、という話になった。
行ってみたら、バルがあったので、二人で入り、トルティーリャと呼ばれるジャガイモ入りのオムレツを食べながら、ビールを飲んで時間を潰した。
「スペインでは、このポテト入りのオムレツをトルティーリャと言いますが、メキシコではタコス、ご存じですよね、あのタコスの皮をトルティーリャ、トルティージャと言うんですよ」
「あら、そうなんですか。私、タコス、好きなんですよ」
「香織さん、日本ではタコスは堅いパリパリの皮のものを食べていましたか? それとも、柔らかい皮のものを食べていましたか?」
「そう言えば、お店によって違いましたね。堅いパリパリの方が多かったかも」
「本当は、柔らかい皮のタコスがオーソドックスなんです。皮もとうもろこしの粉から作った皮と小麦粉の皮と二種類ありますが、これもとうもろこしの皮が本物です。ただ、米国人の好みから、とうもろこしならば、堅めのパリパリ皮、柔らかい皮ならば小麦粉の皮と変化しただけなんです。僕は、メキシコでは現地のマヤの女性が鉄板焼きみたいにして焼き上げるとうもろこしの柔らかい皮に具を挟んで食べていました。女性が、粘土状のとうもろこし団子をこのように両手の掌で伸ばして、このくらいの円にしてから、鉄板か陶板の上で焼き上げるんです。温かいトルティージャに牛肉などの肉とレタスなどの野菜を挟み、チレという唐辛子を混ぜ、くるりと丸め、片方を少し折って、チレが零れないようにして食べるんです。チレは辛いので、ビールを飲みながら食べる、この旨さ、くせになります」
身振り手振りよろしく夢中になって話す三池を見ながら、香織は新しい三池を発見したような気がした。
その内、雷が鳴り響き、激しく雨が降ってきた。
二人はバルの窓から雨を眺めながら、雑談に耽っていたが、雨は段々小降りになり、いつしか止み、空はすっかり晴れ上がってきた。
午後三時二十分のバスに乗って、トレドに戻った。
トレドには午後四時半頃に着いた。
ホテルに歩いて戻り、シャワーを浴びて、夕暮れのトレド市内に出掛けた。
ビサグラ門からソコドベール広場に向かう道沿いにあるラ・アバディアというカフェテリアで少し早めの夕食を摂り、デザートとして、チュロスをチョコレートに漬けて食べながら、昼間のラ・マンチャへの小旅行の話を交わした。
「どうでしたか、ラ・マンチャの風車は?」
「大きな羽根と黒の円錐形の屋根、その下の白い円柱の小屋。風車小屋全体が芸術作品を観るような気がしました。ピタッとラ・マンチャの風土にマッチングしているんですから。本当に、コンスエグラまで出掛けて行って良かったと思います。私、三池さんに改めてお礼を言いますわ。いいものを見せて戴いて、本当に感激しましたから」
「そう言って戴いて、僕も嬉しいですね。僕も念願のラ・マンチャの風車を実際この眼で確認することができ、今はとても幸せな気持ちで一杯です。それに、丘の上で食べたサンドイッチ、それに、ケソ・マンチェーゴも美味しかった。今夜は幸せな気分で眠れます」
二十一日目 五月二十九日(土曜日)
いつもより、遅く起きた二人は、朝食を摂らずに、市内見物を行なうこととした。
二日前は外観だけを見るにとどめたカテドラルから始めた。
チケット売場を探したが、周辺に売場らしいところは見当たらなかった。
通りかかった人に訊いたら、お土産屋さんを指差した。
お土産屋さんの店に入り、訊いたら、ここで売っているのよ、という返事が返ってきた。
チケットを渡しながら、ここでも売っているけど、観光案内所でも販売していると言っていた。
なるほど、訊いてみなけりゃ判りませんね、と三池は言いながら、買ったチケットを香織に渡した。
カテドラルでは、黄金、銀、宝石で細工された聖体顕示台が有名である。
その金の一部は、コロンブスが新大陸から持ち帰った金が使われているとも云われている。
どこの金だろうと、金に代わりは無いが、三池は何となく不愉快な気持ちになった。
スペイン人は征服した土地から金でも銀でも容赦なく奪い、収奪した財宝は本国に送った。
嵩ばる金銀細工品はほとんどが熔かされて、単なる鋳塊・インゴットとされた。
インカの話は有名だ。
ピサロに囚われたインカ王は自分が幽閉されているこの部屋に入る分の黄金を与えるから、自分を解放して欲しいと懇願した。
部屋を満たす黄金が国中から集められた。
黄金は集まったが、スペイン人は約束を守らず、そのインカ王を処刑してしまった。
その後も問題がある。
絢爛豪華な細工が施されている見事な黄金細工は全て無残にも坩堝で熔かされ、単なる黄金のインゴットとされてしまったのである。
熔かされずに残った黄金細工もほんの少しだけ残されている。
いずれも、博物館に飾られれば、その博物館の目玉になるような逸品ばかりだ。
それが、単なるインゴットとなって、スペイン本国に船積みされて運ばれた。
インゴットとなった金を博物館に飾る馬鹿は居ない。
国宝級の黄金細工芸術品を坩堝に入れて熔かしてしまう、この暴挙は歴史の恥としていつまでも語られ続けるだろう、と三池は黄金祭檀を見ながら暗然たる気持ちになった。
次いで、サント・トメ教会を訪れた。
エル・グレコの最高傑作と言われる『オルガス伯爵の埋葬』の絵をじっくりと時間をかけて観ることができた。
エル・グレコはスペイン人では無く、外国人であった。
しかし、エル・グレコの国籍は名前で分かる。
エル・グレコはそのまま、ギリシァ人、という意味だ。
本名は、ドメニコス・テオトコブーロス、と云う。
ギリシァ人の名前は外国人にとっては長過ぎるし、発音もしづらい。
テオトコブーロスという名前も例外では無かった。
可愛そうに、時の王様から嫌われ宮廷画家になり損ねたこのギリシァ人の画家は、本名では呼ばれず、簡単にエル・グレコと人々から呼ばれた。
エルという定冠詞は伊達には付いていない。
エル・グレコ、あのギリシァ人、ギリシァから来たあの男、というようなニュアンスで若干敬意を込めて人々から呼ばれたのであろう。
その後、ソコドベール広場に戻り、トレド名物のソコトレンという観光ミニバスに乗って、座席からアルカサル、タホ川、エル・グレコの家、カテドラル広場を眺めた。
ソコトレンの乗車チケットは近くの売店では無く、少し離れた路地の観光案内所で売っていた。
昼食は、カテドラルの脇にあるカサ・アウレリオというレストランで、トレド名物料理となっている『鶉の赤ワイン煮込み』を食べた。
このレストランは結構高級レストランで、料理の値段もそれなりに高かった。
鶉の肉質は鶏肉と似ているが、少し柔らかい感じもした。
この郷土料理の他に、トレドには有名なお菓子がある。
マサパン、或いは、マジパンと呼ばれるお菓子だ。
香織が友達から聞いた話として、トレドに行くんだったら、このお菓子を食べてみなさいよ、と勧められた話をした。
買って、食べてみたいと三池に言った。
アーモンドの粉と蜂蜜から作られるこのお菓子は女性の間では結構有名らしい。
レストランを出て、三池が通りかかった人に訊いてみた。
すぐ判った。
支店はソコドベール広場にもあるが、本店はサント・トメ教会の近くにあるらしい。
早速、歩いて行ってみたら、マサパネス・サント・トメ菓子店という大きな看板が出ていた。
香織は喜んで、いそいそとその店の中に入って行った。
三池は普段は甘いものを敬遠していたが、香織から勧められて、買ったものを一つ、食べてみた。
何のことはない、日本で言えば、黄身しぐれのような和菓子と同じような味ではないか、悪くない、と三池は思った。
夕食はタクシーでパラドール・デ・トレドに行き、オープンテラスのカフェテリアで夕陽を眺めながら食べた。
「このパラドールにも本当は泊まりたかったんですが、グラナダ同様、ここも人気がありましてね、アクセスした時は既に遅く、満杯となっていました。インターネット情報によれば、何ヶ月も前に予約しないとすぐ一杯になってしまうようです。それと、大手の旅行会社の方でも押さえてしまうようで、個人で上手に予約するのは至難の業ですね」
「でも、泊まることはできなくとも、こうして、私たち、グラナダでもここトレドでも、このようにレストランで優雅な食事を楽しむことができています。私、三池さんに感謝していますわ」
二十二日目 五月三十日(日曜日)
ホテルをチェックアウトし、タクシーでRENFEの駅に向かった。
九時半のAVANTと呼ばれる特急に乗って、マドリッドに向かった。
途中、アマポーラが咲き乱れる紅い絨毯を所々で見ることが出来た。
三十分ほどで、アトーチャ駅に着いた。
ホテルはそこから、歩いてすぐのところにあった。
ホテルのカフェテリアでお茶を飲みながら、チェックインまでの時間調整をした。
チェックインし、部屋に荷物を入れ、室内金庫に貴重品を入れてから、ホテルを出た。
地下鉄のアトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ティルソ・デ・モリーナ駅で降りた。
そこから、西に歩いて、サン・イシドロ教会を経て、カスコロ広場に行き、ラストロ(日曜開催のノミの市)を見物した。
ここは掏りが多いところと聞いています、注意してください、と三池が小声で注意した。
大丈夫です、三池さんのご忠告に従い、お金は分散して持ち、パスポートはコピーしか持っていませんから、と香織は笑みを湛えながら三池に言った。
ラストロ見物後、カスコロ広場、サン・イシドロ教会、有名なレストラン・ボティンを横目で見ながら、マヨール広場に出た。
夕食はメソン・デル・チャンピーニョンというレストランに決めていた。
午後六時の開店を待って、店に入り、名物とされるマッシュルームの鉄板焼きを食べながら、白ワインを飲んだ。
「この大きなマッシュルームはクエンカ産のブラウンマッシュルームで、このように生ハムを載せて焼くのです。シンプルですが、コクがあって、あとを引く味だそうです。どうです、美味しいでしょう」
三池は注釈を付けながら、旺盛な食欲をみせて食べていた。
二人は大きなマッシュルームを口一杯に頬張りながら、その芳醇な汁を味わうという至福の時間を十分楽しんだ。
食事の後、そのレストランを出て、プエルタ・デル・ソル近くの地下鉄・ソル駅から地下鉄・一号線のバルデカルロス方面の電車に乗り、アトーチャ駅で降りて、ホテルに戻った。
二十三日目 五月三十一日(月曜日)
朝食は食べずに、ホテルを出た。
「今日は、プエルタ・デル・ソルと王宮周辺を廻りましょう」
三池は香織に言った。
二人は、アトーチャ駅から、地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗って、ソル駅で降りて、五分ほど歩いて、チョコラテリア・サン・ヒネスという店に行き、チュロスとチョコレートのセット・メニューを注文して朝食とした。
「どうしよう、私、肥ってしまう。困るわ。けど、美味しい」
香織はぶつぶつと不平を溢しながらも、美味しい、美味しいと食べていた。
プエルタ・デル・ソル、デスカルサス・レアレス修道院、王宮と見物した。
但し、デスカルサス・レアレス修道院は月曜休館ということで入れず、外観だけ眺め、写真におさめた。
プエルタ・デル・ソルはマドリッド市民の待ち合わせ場所として知られるところで、人が一杯たむろしていた。
広場中央には、カルロス三世の騎馬像が建っている。
王宮は百五十メートル四方の建物の中に二千七百の部屋を数える巨大建築物である。
三池たちは豪華さに圧倒されながら、時間をかけてゆっくりと見物した。
昼食は、マヨール広場近くの名門レストラン・ボティンで食べた。
このレストランは創業が千七百二十五年ということで世界最古のレストランということでギネス・ブックにも登録されている有名なレストランである。
「確か、ヘミングウェイの小説、『日はまた昇る』だったと思いますが、その小説にも登場するレストランです」
名物料理である『子豚の丸焼き』は一人前だけ注文し、お皿を貰って、取り合って食べた。
「今日は入ることはできませんでしたが、デスカルサス・レアレス修道院のデスカルサスという言葉はスペイン語では『裸足』という意味です。おそらく、修行のため、いつも裸足でいることを義務付けている教団なのかも知れません。ドン・キホーテにもこの言葉は出てきます。日本語訳では確か、跣足会と訳されていたと記憶しています」
ボティンを出て、二人は昨日同様、マヨール広場、サン・イシドロ教会と廻り、プエルタ・デル・ソルまでゆっくりと歩いて戻った。
「三池さん、夕食は野菜中心にしません。昼のお肉がまだお腹に一杯あるみたい。確か、バルセロナで食べたあの野菜サラダ・ビュッフェのお店、マドリッドにもあるとかおっしゃっていましたよねえ」
「ああ、フレスコという店のことですか。そうです、マドリッドにもあるという案内を見ましたね」
香織に促され、三池は観光案内書を捲った。
フレスコという店が掲載されていた。
その店は、プエルタ・デル・ソルから三百メートル足らずの地下鉄・グラン・ビア駅の近くにあった。
二人は、エル・コルテ・イングレスの中に入り、内部を見ながら、時間を潰した。
確かに、日本人が喜びそうなものがたくさん売られていた。
チョコレート、トゥロン、オリーブオイル、生ハムのパテ、シーフードの缶詰、パエーリャの素といった食料品の他、お土産として喜ばれそうな雑貨もたくさんあった。
ここだけで、お土産類は間に合ってしまいますね、と香織は喜んでいた。
七時頃、歩いてフレスコに行った。
早い時間であったせいか、バルセロナより混んでおらず、二人はゆったりと食事を取ることができた。
ピザとかスパゲッティといった料理も並べられ、スペイン人の若者たちは三池たちが驚くほどの食欲をみせてたいらげていた。
「何だか、僕は野菜はそれほど好きでは無いんですが、このところ油っこいものが多かったせいもあるのか、ここのように野菜サラダ系統の料理を見るとホッとしますね」
しみじみと話す三池の様子が可笑しかったのか、香織も笑いながら頷いた。
二十四日目 六月一日(火曜日)
ホテルを出て、王立植物園を右手に見ながら、プラド通りを歩き、プラド美術館に入った。
入館し、インフォメーションで館内案内図を貰い、それを片手に館内を廻った。
また、音声ガイドも借りた。
日本語の音声ガイドは無かったので、三池はスペイン語、香織は英語のものを借りた。
途中、カフェテリアでお茶を飲んで休憩しながら、五時間ほどかけてじっくりと観た。
名画があり過ぎる、と三池は思った。
「ここを一時間程度で鑑賞するコツを書いた記事をどこかの雑誌で昔見たことがあります」
館内のベンチに腰を下ろし、三池は笑いながら、香織に言った。
「その記事では、鑑賞する名画の順番まで書いてあって、この絵を見たら、次はここを通って急いで歩き、この絵を見ます、とかいった書きかたで人気のある絵を要領よく見て歩くコツが事細かに書かれています」
三池の皮肉な口調に、香織も笑い始めていた。
「日本人に人気がある絵は何と言っても、フラ・アンジェリコの『受胎告知』、エル・グレコの『羊飼いの礼拝』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ムリーリョの『無原罪のお宿り』、ルーベンスの『三美神』、ゴヤの『着衣のマハ』と『裸体のマハ』といった絵でしょう。この記事は、それら有名な絵を効率良く見て廻るためのノウ・ハウ本というか、ノウ・ハウ記事なんです。いくら、忙しいツァーだから、しょうがないじゃあないか、と言ってもあまりにもナンセンスだと思いませんか」
口を少し尖らせて語る三池の話に香織は思わず笑ってしまった。
「そうですよねえ。いくら何でも、ひどすぎるかも。この間、スペインに来る前、旅行会社のツアー案内のパンフレットを見ていたら、行動予定の中に、プラド美術館は盛り込まれておらず、バスでソフィア王妃芸術センターで『ゲルニカ』鑑賞二十分、と記載されていました」
「今日はたっぷりと時間をかけて廻ることができましたが、人は結構居ましたね。人気のある絵では人が多過ぎて、長時間かけて鑑賞するということは叶いませんでした。実は、ゴヤに限定することですが、ほとんど無人の部屋で、僕は、あの『裸体のマハ』、『着衣のマハ』といったゴヤの名画をじっくりと鑑賞したことがあるのですよ」
三池が思わせぶりな口調で語り始めた。
香織は三池を見ながら、じっと聴き入った。
「もう、三十年以上も前のことになりますが、僕がメキシコに滞在していた頃、遊びでメキシコシティに行ったことがあります。確か、千九百七十八年だったと思います。そして、日本に帰る前に一度、国立芸術院で演じられていた民俗舞踊を見たいと思って、芸術院に行ってみたのです。しかし、あいにく、その日は公演が休演日ということで空振りに終わりました。仕方が無い、と諦め、出口に向かって歩いていたら、たまたま、二階の展示室でゴヤ展が開催されていたのです。見ると、スペイン・プラド美術館所蔵のゴヤの絵画が展示されていたのです。もしかすると、あの有名な『裸体のマハ』も展示されているのかな、と思い、入場料を払い、入ってみました。すると、ありましたね。『着衣のマハ』と『裸体のマハ』が展示されていました。勿論、『カルロス四世の家族』とか『マドリッド、千八百八年五月三日』、『巨人』、『我が子を食らうサトゥルヌス』などの名画もありました」
三池は両手の掌を目の前で擦り合わせ、過去を思い出すような眼差しをしながら、言った。
「でも、一番感動したのは、何と言っても、『裸体のマハ』です。今日観られて、お判りになったと思いますが、『着衣のマハ』と『裸体のマハ』とでは、マハの眼が全然違うのです。『着衣のマハ』の眼は、お澄まし顔の眼、一方、『裸体のマハ』の眼は、挑むような、男を挑発するような眼なのです。こんなことを、香織さんの前で話すのはまことに不謹慎なんですが、その当時、僕は二十九歳の男でした。あの『裸体のマハ』の艶めかしい色っぽい眼には思わずぞくぞくとしたものです。香織さんには到底判らない男の生理的感覚です」
三池は、こんなことを話して申し訳無い、というような顔をした。
『旬』という言葉がある。
人にも旬があるとするならば、あの頃が俺の旬であったかも知れない、と三池は苦笑いした。
「信じられないような話ですが、その展示会では警備員を除けば、入場者は僕一人くらいでした。ゴヤの名画展示会では普通考えられない話です。何故だか、分かりますか?」
「実を言えば、その日は平日で、時間帯はメキシコ人のシエスタの時間帯だったのです」
香織は思わず噴き出して笑った。
「実は、香織さん。今日、僕は新発見をしましたよ」
三池がまた、思わせぶりな言葉を吐いた。
「僕は、長い間、マハ・デスヌーダとか、マハ・ヴェスティーダと思い込んでいましたが、それは間違いでした。今日、絵の標題を見たら、ラ・マハ・デスヌーダであり、ラ・マハ・ヴェスティーダであることを発見したのです。つまり、定冠詞のラがちゃんと付いているのですよ。何と、マハはその女性の名前、つまり、固有名詞では無く、一般名詞だったんです。一般名詞のマハは、日本語で言えば、『カッコいい女』とか『いい女』という意味なんです。ラ・マハ・デスヌーダというのは、裸のいい女、という意味になります。ラ・マハ・ヴェスティーダは、服を着たいい女、という意味になるんですねえ」
香織は三池の話を興味深く聴いていた。
「マハは『いい女』であり、『いい男』は、マホ、と言います。イメージとしては、そう、フラメンコを踊る女はマハであり、フラメンコを踊る男性はマホ、となります」
プラド美術館を出た二人は、レティーロ公園まで足をのばして昼下がりの公園内を暫く散策した。
「このレティーロ公園は、夜間は物騒なところらしいです。強盗がやたら出る、とインターネット情報にありましたから」
「それでも、私たち、ラッキーだったのか、怖い思いをすることはありませんでしたね」
「実は、僕は旅行中、これをいつも持ち歩いていたのです」
三池はポケットから、小さな防犯ブザーを取り出して、香織に見せた。
アラッ、私も持っていました、と香織も防犯ブザーを取り出して三池に見せた。
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
レティーロ公園を暫く歩いた後で、二人はホテルに戻り、少し休憩した。
夜は、生ハムで有名なところに行きましょう、と三池が提案した。
地下鉄・アトーチャ駅から地下鉄・一号線のピナル・デ・チャマルティン方面の電車に乗り、ソル駅で降りた。
少し歩いて、『ムセオ・デル・ハモン』という立ち飲みバルとレストランが併設されている店で、赤ワインとハモン・イベリコ、パン・コン・トマテで夕食とした。
ハム博物館という名前を付けているだけあって、天井から何十というハムが所狭しとぶら下がっていた。
口に入ると、一瞬でとろけてしまうハモン・イベリコはさすがの味であった。
三池もかなり食べたが、香織の健啖振りには驚かされた。
肥ってしまう、困る、ダイエットが辛い、とこぼしながらも、香織はなかなかの健啖家振りを発揮した。
二十五日目 六月二日(水曜日)
昨夜のハモン・イベリコのせいか、空腹感が全然無かった。
朝食は抜きましょう、とどちらかとも無く言い出した。
二人はホテルを出て、近くのソフィア王妃芸術センターに入り、あまりにも名高いピカソの『ゲルニカ』を鑑賞した。
三池はこのモノクロの巨大な絵の前でひとしきり感慨に耽った。
灰色には無限のグラデーションがある。
ピカソはこの灰色という立派な色彩を用いて、怒りと悲しみをこの巨大なキャンバスに描いたのだ、と三池は思った。
悪い平和も無ければ、良い戦争も無い、と言った誰かの言葉がふと脳裏を過ぎった。
二十世紀は戦争の世紀と言われて久しいが、今生きている二十一世紀も実は戦争の世紀であったと、後世の人から言われないという保証は何一つ無い。
歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、そして、二度目は喜劇として、という言葉がある。
二十世紀の戦争は悲劇で、二十一世紀の戦争は喜劇、いや、そんなことは無い、戦争である限り、喜劇はあり得ず、何度似たような戦争が起こっても、悲劇はいつまでも悲劇でしか無い、戦争を喜劇にしてはいけない、と三池は思った。
その美術館を出て、プラド通りを歩き、ティッセン・ボルネミッサ美術館に向かった。
その美術館の前に、『銀座』という名前の日本食レストランがあった。
トレモリーノス以来の日本食もいいでしょう、と三池が香織を誘った。
入ってみて、驚いた。
回転寿司コーナーがあり、日本人以外の客でほとんど満席の状態だった。
少し待って、何とか二人分の席が空いたので、二人は緑茶を飲みながら、寿司をつまんだ。
お腹を満たしてから、ティッセン・ボルネミッサ美術館に入った。
予想外に素晴らしい絵がたくさんあった。
元々は、ティッセン・ボルネミッサ男爵という人の個人的蒐集物であったが、二十年ばかり前に政府が買い上げて、美術館としたということだった。
三時間ばかり見学して、そこを出た。
地下鉄・セビーリャ駅まで歩き、地下鉄・二号線のクアトロ・カミーノス方面の電車に乗り、オペラ駅で降りた。
駅近くのラ・ボラというレストランでソパ・デ・カスティーリャというスープから始まる、地元マドリッドの料理を食べて、夕食とした。
二十六日目 六月三日(木曜日)
RENFEのアトーチャ駅のカフェテリアで朝食を摂った。
それから、地下鉄でグラン・ビアに行き、スペイン広場、歴史博物館、ゴヤのパンテオンなどを見物した。
スペイン広場にはセルバンテスのモニュメントと、ご存知、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像がある。
「メキシコのグアナフアトにも、ドン・キホーテの博物館があり、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、それに愛馬ロシナンテに関する絵画、彫刻が所狭しと陳列されています。とにかく、世界的な人気者であることは間違い無いです。また、ドン・キホーテという小説は当時スペインで語られていた格言・諺がぎっしりと詰まった小説でもあり、多くは狂言まわしの役どころを担ったサンチョ・パンサによって引用されますが、なかなか面白い表現がたくさんあります。例えば、・・・」
三池は少し目を上に上げて思い出すようにして、香織に言った。
「『十字架の後ろに悪魔がひそむ』、これは日本の諺で言えば、『外面如菩薩、内面如夜叉』と同じ意味です。『羊の毛を刈りに行って、刈られて帰る』、これは『ミイラとりがミイラになる』という諺と一緒ですね。『愛については、全てのものを平等にする、と言われる』という諺は、『恋に上下の隔て無し』いう日本の諺と同じです。その他、『燕一羽で夏にはならず』という諺は、日本の『早合点は禁物』と同じ意味で使われています。何でも、ドン・キホーテを詳細に調べた人の話によれば、四百以上の格言・諺が随所に散りばめられ、小説に彩りを添えているという話です。セルバンテスの好みか、当時の文学的作品の一般的な傾向だったかは知りませんが、僕もこのスペイン旅行から帰ったら、また再読し、格言・諺らしい言葉を全て抽出してみようか、と思っているのです。何せ、時間だけはたっぷりありますから」
三池の言葉を聞いて、香織は好意的な微笑を浮かべた。
二人は三日前に行ったサラダ・レストランの『フレスコ』を再訪し、サラダ・ビュッフェを食べて昼食とした。
その後、サラマンカ地区周辺を散策した。
コロンブスの塔が立っているコロン広場、アルタミラの洞窟壁画が再現されている国立考古学博物館、画家ソローリャが住んでいた住居を改造して美術館としたソローリャ美術館といったところを廻った。
その後、ホテルに戻った二人は明日の帰国に備えて、思い思いに荷物の整理を始めた。
スペイン最後の夜くらいは外出せずに、このホテルでのんびりと過ごしましょうか、と三池は香織に提案した。
それで、夕食はホテルのレストランで食べることとした。
ホテルのレストランのテーブルには赤いグラスに入った蝋燭が置かれ、ロマンティックな雰囲気を醸し出していた。
「このような蝋燭が置かれたテーブルを見ると、僕はメキシコのタスコのホテルのレストランを思い出しますね。慕情の街と呼ばれるタスコは山沿いの街で、夜になると、オレンジがかった黄色の光を放つカンテラが通りを一斉に照らします。その照明に照らされる夜の道もロマンティックなんですが、高い丘の上にあるホテルのバルコニーから見る夜景もとてもロマンティックなんです。僕はそのホテルのレストランで夕食を食べたのですが、そこのテーブルにもこれと同じような赤い容器に入った蝋燭がちらちらと炎を揺らしながら燃えていました。マルガリータというテキーラ・ベースのカクテルを飲みながら、その時はステーキを食べました。今はあまり肉は食べないんですが、当時の僕はどちらかと言えば、肉食系統でして、ミディアムに焼いて貰った、そのフィレテ・デ・チャンピーニョン、マッシュルーム入りヒレ・ステーキは美味しかったですね。今度、またご一緒に旅行する機会があったら、今度はメキシコにしましょうか。メキシコならば、僕は今回よりもっと上手にエスコートできますよ。その自信はありますから」
三池の言葉を聴き終った香織は、いつでも結構ですから、今度はメキシコに連れて行ってください、と三池に言った。
「それなら、今度は、新婚旅行という線で行きましょうか」
三池は冗談めかして、香織に言った。
香織は笑いながら、本気にしますわよ、と香織も冗談めかして三池に言った。
二人はそれっきり黙ったまま、か細く揺れる蝋燭の炎を凝視めるばかりであった。
二十七日目 六月四日(金曜日)
朝六時にホテルをチェックアウトして、タクシーでマドリッド・バラハス空港に向かった。
タクシーの運転手は中年の快活な男だった。
スペインではどんなところを廻って来たのか、訊いて来た。
三池がこの四週間の間に旅行して廻ったところを列挙した。
そんなに廻ったのか、スペイン人の俺も未だ行っていないところもある、とびっくりしていた。
ところで、セニョーラ、旦那と一緒の旅行はどうだった、と香織に訊いて来た。
三池が香織に訊かれた内容を少し照れながら通訳した。
香織はにっこりと笑い、ムイ・ビエン(とても良かった)と答えた。
答えを聞いた運転手は、右手の親指を上に立てた。
空港の第一ターミナルには六時半に着いた。
少し余分にチップを渡した。
運転手は、グラスィアスと言いながら運転席に戻り、ブエン・ビアッヘと言い残して去って行った。
七時にルフトハンザドイツ航空のカウンターでチェックインを行なった。
成田までのバゲージ・スルーと、フランクフルト空港でのスルー・チェックインを要望した。
その後、空港内の二十四時間営業のカフェテリアで軽めの朝食を摂った。
簡単なセキュリティー・チェックを受けて、搭乗ゲートに向かった。
途中、免税店があったが、フランクフルト空港での出国審査時の手荷物検査で液体類は引っかかり没収されるということを聞いていたので、飲みものの類は買わなかった。
九時五分、定刻通り、飛行機はフランクフルトに向かって飛び立った。
十一時四十五分、フランクフルト空港に到着した。
到着後、出国審査と手荷物検査を受けた。
乗り継ぎの搭乗ゲートを確認した後で、二人は免税店で少し買いものをした。
その後、カフェテリアでドイツビールを飲みながら、昼食を摂った。
午後一時三十五分、フランクフルト空港を飛び立ち、一路、成田空港に向かった。
二十八日目 六月五日(土曜日)
到着前の機内で、『携帯品・別送品申告書』の用紙を受け取り、三池と香織はそれぞれ記入した。
僕が代表するわけにはいかないしねえ、と三池は笑いながら隣に座っている香織に言った。
お互い、独立した世帯ですものねえ、と香織も笑って言った。
午前七時半、成田空港に到着した。
朝食を空港内のレストランで摂った後、香織はそのまま母親が待つ東京の自宅に帰ることとしていた。
三池はリムジンバスに乗り込む香織を見送った。
バスに乗り込む際、香織は思い切ったような表情を浮かべて、三池に何事か囁いた。
それから、香織はバスに乗り込み、窓から三池に手を振った。
三池も手を振って応えたが、どこかぎごちない仕草だった。
バスが走り去った後、三池は暫く困惑したような表情を浮かべて、バス停に立っていた。
そして、三池もホテルのシャトルバスに乗って、宿泊予定のホテルに向かった。
ホテルに荷物を預け、チェックインまでの時間を潰すため、三池は車を運転して成田市内のイオンモールに向かった。
本屋で暫く過ごし、昼食を食べてからホテルに向かった。
夜、ホテルの窓辺に座り、放心したように缶ビールを飲みながら、三池は香織のことを想っていた。
携帯電話が鳴った。
出てみると、香織の少しハスキーな声が聞こえてきた。
旅行でお世話になりました、といったお礼の言葉と共に、ご迷惑で無ければ、これからも交際して欲しい、一人の女性として交際して欲しい、と香織は三池に話した。
電話が切れた後、成田離婚という話はよく聞くところであるが、成田結婚という話は聞いたことがない、果たしてどうしたものだろうか、齢の差はあまり関係無いのか、と三池は窓の外の成田空港の夜景を見ながら思っていた。
三池の耳の奥で、リムジンバスに乗り込む前、香織が囁いた言葉がまだ残っていた。
あなたが好きになりました、おそらく、これは『愛』です、と香織は三池に言ったのだ。
二十九日目 六月六日(日曜日)
ホテルをチェックアウトして、三池は高速道路を走らせながら、香織との今後の展開を秘かに楽しんでいる自分に気付いた。
意外でもあり、一方、予想通りというような複雑な心境を抱えたまま、車を運転していた。
四週間のスペイン旅行という『非日常』を経て、今から『日常回帰』して行く。
ああ、やれやれ、楽しかったけれど、旅は終った、やっぱり、我が家が一番、狭いながらも楽しい我が家か、と前の自分ならばそのように思い、懐かしい日常へ心のギアーをスムースにチェンジして行ったであろうが。
今は違う。
家が近づいてくるにつれて、早く我が家のソファーに寝そべりたいという普段の欲求が全然起こって来ないのだ。
香織との今後のアバンチュールを考えている自分が居り、香織を何とかして幸せにしてやりたいと思う自分しかいなかった。
アバンチュール、アドベンチャー、アベントゥーラ、冒険!
アベントゥーラを求めて旅に出て、ただの風車を残虐非道な巨人と思い込み、果敢に闘いを挑んで突進して行く、あのドン・キホーテにならなければならない。
何のために?
答えは決まっている。
香織のため、そして、自分のためだ。
吉と出るか、凶とでるか?
全て、神の思し召し、と三池は微笑んだ。
今回の旅行でホテルをチェックアウトする度に、ホテルのフロントから毎回言われた言葉が、ふと脳裏に甦ってきた。
『ブエン・ビアッヘ!(良い旅を!)』
それは、二人の今後の旅に対する『はなむけ』の言葉ともなっていたのかも知れない。
完
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