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第一部

終わりと始まり【1】

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「すみません!」

 休日のとある雨上がりの日。駅から出て来た御國みくにがまだ雨粒が乾ききっていない駅前のペデストリアンデッキを歩いていると、後ろから小走りで近づいて来る者がいた。

「すみません! 待って下さい! すみません……!」

 自分が呼び止められていると思わず、気にせず歩いていると急に後ろから肩を掴まれる。心臓が一瞬止まったかと思うと、次いで激しい鼓動を立て始める。反射的に悲鳴を上げてしまったのだった。

「きゃあ!?」

 御國が上げた悲鳴が大きかったのか、周囲の人たちが訝しむように視線を向けて来る。注目を集めた御國の足がガクガクと震え始め、息が荒くなる。
 身を守ろうと身体を丸めながらおっかなびっくり振り向くと、そこには短く刈った髪を明るい茶髪に染めた若い男性が申し訳なさそうに立っていたのだった。

「すみません。驚かせるつもりはなくて……。これ、落とされましたよ」

 そう言って、若い男性は赤と黒のチェック模様のハンカチを差し出してきたので、御國は上着として羽織っていた薄手のコートに触れる。いつの間にかポケットに入れていたはずの自分のハンカチが無くなっていた。

「駅の改札口のところで落とされました」

 きっと定期入れを取り出した時に落としてしまったのだろう。考え事をしながら歩いていたの全く気付かなかった。

「あっ……ありがとう……ございます……」

 尻すぼみになりながら御國がハンカチを受け取ると、若い男性は元来た道を駆け足で戻って行く。向かった先に、髪を茶色に染めた若い女性が待っていた。きっと若い男性の連れなのだろう。御國は肩の力を抜くと、ハンカチを仕舞う。

「わわわっ……!」

 歩き始めた直後、今度は濡れたペデストリアンデッキのタイルに足を滑らしそうになって、慌てて近くの手摺りを掴む。後ろで一つにまとめたセミロングの黒髪が御國の動きに合わせて大きく揺れた。

「ふぅ……」

 息を大きく吐き出すと、手摺りから手を離す。
 近くに知り合いがいないとはいえ、見知らぬ衆目の中で、滑って転んで赤っ恥を掻く醜態を晒さなくて良かった。
 そう思いながら、御國は肩から落ちかけていた小さな肩掛けカバンを持ち直すと再び歩き出したのだった。

 子供の頃から、学校が休みの日は一日中家に引きこもっているようなインドア派の御國だったが、今日は珍しく片道一時間を掛けて、地元で一番大きな駅までやって来た。
 理由なんて大したものはなかった。ただ単に家に身の置き場がなくて――読み掛けの本を片手にカフェで美味しいお茶が飲みたかっただけだった。
 地元民や観光客でごった返す苦手な人込みを掻き分け、雨上がりで至るところに水溜まりが残るペデストリアンデッキを歩きながら、御國は小さくため息をついた。

(最近、結婚の話ばっかり……。もう、疲れちゃった……)

 今年に入って、海外に住む従妹が現地人と結婚式を挙げた。その結婚式から戻って来てから、同居している両親が執拗に結婚を勧めてくるようになった。

『二十六歳にもなって、いつまでも遊んでばかりいないで早く結婚しなさい! 早くわたしたちに孫の顔を見せて!』

 両親の言う通り、今年で二十六歳になる御國は、もう結婚していてもおかしくない年齢ではあった。
 従妹に限らず学生時代の友人たちも、次々と恋人を作って、結婚をして、早い子だともう出産をしていた。
 そんな友人たちと比較したら未だに彼氏さえいない御國は遅い方で、そんな御國を両親が心配する気持ちもよくわかる。
 けれども、御國も決して好きで結婚していない訳ではない。ただ何となく仕事や趣味を理由に彼氏を作る機会を逃してきただけだった。御國だって結婚したいし、子供だって欲しい。本当に仕事や趣味にばかり時間を費やして恋愛をする時間を得られなかっただけだった。本当にそれだけの――。
 胸を締め付けられる様な痛みを感じながら、ふと視線を遠くに移す。ペデストリアンデッキの奥の方に御國と同い年くらいの若い夫婦と父親の腕に抱かれた可愛らしい女の子の三人がいたのだった。

(あの女の子、二歳くらいかな……? 可愛い……)

 ふっくらとした可愛らしい頬、肩より少し短い髪、女性を中心に世界中で人気の白い猫風のキャラクターが書かれたトレーナーを着た女の子は、時折ペデストリアンデッキの下を走る車や通行人を小さな手で指しながら何かを話している様だった。そんな女の子に付き添う若い夫婦も楽しそうに談笑しているように見えたのだった。

(もし私も結婚出来たら、ああやって楽しそうに笑えるのかな……)

 そんな若い夫婦と女の子に気を取られながら、下の道路に続く階段を降りていた時だった。
 不意に後ろから駆け下りて来た人と御國の肩がぶつかった。そのまま態勢を立て直す間もなく、御國は濡れた段差で足を滑らせたのだった。

(えっ……)

 近くの手摺りを掴もうにも、手を伸ばした先には腰の曲がった老婆が掴んでいた。その老婆を押し退けるわけにもいかず、御國の手は宙を掴む。

(何でもいいから、掴まないと!)

 けれどもそう思った時には、既に足が段差から離れて地面に向かって落下していた。
 どうすることもできないまま、スローモーションで動いていく景色を眺めていると、先程の若い夫婦と女の子の三人と目が合った。
 夫婦は驚嘆して目を丸く見開いていたが、御國自身もそんな顔をしているような気がした。
 そうしている間に、御國の身体は音を立てて階段下のコンクリートに叩きつけられた。首の骨が嫌な音を立て、地面にぶつけた身体に鈍い痛みが走る。

「くっ……」

 衝撃で身体に力が入らず、指先一つ動かせなかった。痛みに呻いていると、階段から落ちた御國に気付いて、通行人が周囲に集まってきたのだった。

「大丈夫ですか? 動けますか?」

 最初に声を掛けて来たのは、御國と同い年くらいの若い女性だったが、他にも「大丈夫か!?」や「救急車を呼びますか?」と老若男女問わず声を掛けられたものの、御國は声を出すことも出来なかった。

「誰か! 医者はいませんか!?」
「早く、救急車を……!」

 誰かが叫んいる声を遠くで聞きながら、自分の頭からお湯が流れて出ているのを感じていた。

(まさか出血したの……)

 それがお湯ではなく自分の頭から流れた血のだと気付いた時、雨上がりのアスファルトや近くを走る車のエンジンの匂いに混ざって鉄臭い血の臭いが辺りに漂い始める。やがてそれも臭わなくなったかと思うと、身体から血の気が失せて、コンクリートと同じ体温になっていくのを感じたのだった。
 急速に視界が暗くなっていくが、身動きが取れない御國は、ただ呆然と雨上がりの澄み渡った空と周囲で騒ぐ人々を眺めている事しか出来なかった。

(ああ……。私、死ぬんだ)

 ――死は突然やってくる。

 どこかで聞いた様な言葉が急に頭の中で閃く。その言葉を頭の中で反芻しながら、暗くなっていく視界をなんとか動かすと、先程の若い夫婦が目を見開いて、女の子に御國を見せない様にしながら真っ青な顔でこっちを見ていた。
 小さな男の子の兄弟を連れた別の夫婦も、御國に駆け寄ろうとする兄弟を引き留めながら、若い夫婦と同じ顔をして御國を見ていたのだった。

(私も、あんな子供が欲しかったなあ……。でも、私は……)

 やがて周囲の喧騒も車の音も何もかも聞こえなくなったかと思うと、すとんと意識が落ちてしまう。
 これが御國としての最期の記憶であった。
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