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王都・セイフォート・3

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「ああ。丁度、お前と入れ違いに王都に帰還した。礼を言いたかったようだ。ご家族について」

どこよりも安全な王都に住む王族だが、度々、戦争の最前線となる北部基地の慰問に行っていた。
その時によく護衛として同行していたのが、クシャースラが所属する部隊であった。
クシャースラはいつも長期の遠征に出る際には、自身の妻をオルキデアに託していくが、その話だろうか。

「そうですか。今回はクシャースラが帰還する前に、こちらも出兵してしまいました。悪いことをしました」
「あっちも、しばらくは休暇で王都にいるそうだ。お前も報告を終えたら休暇を取って、屋敷に戻ったらどうだ?」
「そうですね……」

独り身のオルキデアは、滅多に屋敷に戻らない。
たまに戻るとしても、せいぜい、着替えを取りに行く程度で、普段は執務室に併設している仮眠室を使っていた。
また各執務室には仮眠室以外にも、小さな浴室も付いている。
シャワーしか付いていないが、汗や汚れが流せればいいと考えているオルキデアには丁度良かった。
食事は軍部の食堂で提供されるので、しばらく屋敷に帰らなくても問題なかった。

そんな滅多に帰らないオルキデアの屋敷の管理は、近くに住む知り合いに任せていた。
父の代から親交があるので、信頼も置ける知り合いだった。
屋敷だけでなく、庭木の手入れもしてくれるので、非常に助かっていた。

そんな誰もいない屋敷に、わざわざ戻る必要が無いので、仕事が終わる度に戻るのが億劫というのもあったが、それ以外にもう一つ。
どうしても、オルキデアには屋敷に戻りたくない理由があった。

「それから、もう一人だが、こっちは最近来ていたな。妙齢の女性で、名前はティシュトリア・ラナンキュラスと名乗ったそうだ」

オルキデアの手がビクリと震えた。

「知り合いか?」
「……いいえ」

数年ぶりに聞く名前だった。
オルキデアが生きている内は、もう聞くことはないと思っていた。

「そうか。また出直すと言っていたから、近々、やって来るだろう」
「そうですか……」

嫌な汗が背中を流れる。
どうして、今更やって来たのか。
父の葬儀にも来なかった。あの女がーー。

「どうした? 顔色が悪いようだが」
「いいえ。なんでもありません。それでは、まだ仕事が残っていますので、これで失礼します」
「ああ。無理はするな」

そうして、オルキデアは敬礼すると、プロキオンの執務室を後にしたのだった。

「はあ、はあ……」

執務室から出ると、詰めていた息を吐いた。
酸欠時のように、とにかく息苦しかった。
急いでプロキオンの執務室から離れると、執務室から死角となる通路の影に入る。
誰もいない通路に片手をつくと、荒い息を繰り返したのだった。

「どうして、今頃やって来るんだ……」

子供の頃はどんなに望んでも、オルキデアの元に来てくれなかった。
父に産まれたばかりのオルキデアを押し付けて、屋敷の資産だけ食い尽して、別の男の元に行った。そのせいで、父は死んだようなものだった。
父が死んでも、一度だって、オルキデアを見てくれなかった。
自分が産んだ、息子をーー。

ティシュトリアこそが、オルキデアが屋敷に戻りたくない、もう一つの理由であった。
屋敷に戻ったら、ティシュトリア関係の何かに巻き込まれるのではないか。
父が死んだ時のように、オルキデアの身にも何かあるのではないかと。
そう考える内に、すっかり屋敷から足が遠のいてしまったのだった。

ようやく息を整えて、誰にも悟られないようにいつも通りの顔ーー周囲が冷ややかと表する顔に戻ると、コツコツと靴音を立てて、自分の執務室に向かう。

数週間ぶりに執務室に入ると、書類と空の酒瓶の山がオルキデアを出迎えた。
散らかったまま出兵したので、扉を開けたら、酒と埃が混ざった不快な臭いがするだろうと覚悟していた分、どこか拍子抜けした。
おそらく、留守を任せていた部下が、オルキデアが帰還する前に部屋を換気してくれたのだろう。空の酒瓶や書類はそのままで。

そんな空の酒瓶と書類の山の中に、フードを目深に被った小柄な人物が立っていた。
その者はオルキデアが入ってきたことに気がつくと、目深に被ったフードを外して、振り返ったのだった。

「オルキデア様」

鈴の鳴る様な声を上げて、オルキデアを振り返ったフードの人物はアリーシャだった。
オルキデアの姿を見つけて安心したのか、アリーシャは屈託ない笑みを浮かべる。
そんなアリーシャに乱れた心を癒されつつ、オルキデアは書類と空の酒瓶を掻き分けながら近づいて行ったのだった。

「ずっと車に乗っていただろう。疲れていないか?」
「私は大丈夫です。オルキデア様こそ、お疲れではないですか?」
「俺は慣れているから大丈夫だ。それより一人か?」

オルキデアが「またアリーシャを一人にして……」と愚痴を溢すと、アリーシャは「違います」と否定したのだった。
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