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4.星の剣士(ニスフェル)(4)
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では、世の人々、ラズーンに属する者さえ知らぬその謎は、ラズーンを継ぐ者のみに伝授されているのだろうか。
(なぜ…)
思いつく理由は二つある。
余りにも難解な謎なので、選ばれたほんの一握りの人間しか理解できない。あるいは、長い時間をかけて導かれ教え込まれないとわからない。
もう一つは、余りにも危険な謎、この世の全ての意味を覆す謎ゆえに、世界を支配する一部の者にしか知らされていない。
(ひょっとすると、その両方、か)
ぞくり、と背筋が震えた。
ユーノがラズーンへ向かうということは、今まで思っていたより複雑な事情を含んでいるのかもしれない。
「一体何だろうな、その、二百年、祭ってのは…」
なおも首を捻り続けるユカル、そのことばをふいに低く深い歌声が遮った。
「…いと美しき乙女よ…」
ざわめく野営の片隅から響いてくる。
「歌…?」
「トシェンだ。あいつは歌がうまいよ」
「ふうん」
「おおかた、また、頼まれた恋歌でも教えてるんだろ」
「教える?」
「そ」
ユカルが悪戯っぽく片目をつぶる。
「野戦部隊(シーガリオン)の暮らしは、年がら年中、戦ばっかりだ。それでも俺達だって人の子だからな。たまには本気で恋もするさ。ところが、いくら気持ちが募っても、それを伝える術なんて持ってやしない」
ひょいと自分の姿を見回すように両手を上げてみせる。
「だから、せめてああして、トシェンに恋歌でも教えてもらって、目当ての娘に歌ってみようってのさ」
「へえ…」
「…いと…美しい……乙女よ…」
背の高いトシェンの側に立った、いかにも野戦部隊(シーガリオン)の典型のような武骨な男がおどおどと音律を繰り返す。
「その優しい腕もって…」
「その……優しき…か…かいな……もち…もって…」
「幼子を抱くか…」
「おさ…おさなご……を……いだ…くか…」
使い慣れないことばとなると、音律ばかりかてきめん歌詞も危うくなる。懸命さは伝わるが娘の心を蕩かすにはほど遠い。
「あーあ、見てられねえな」
ユカルがふてくされた口調で言って、トシェンに背を向けた。くすりと笑みをこぼしたユーノは少し目を閉じ、豊かな響きの歌に耳を傾けた。
「その甘き唇もて我を癒すか…」
習っていた男の方は気が挫かれてしまったらしい。その後を繰り返す声はなかった。
「我は傷つけり
そなたのことばにて
この胸は血を流し
この目は涙に濡れる……
ああ
哀れみたまえよ
そなたを恋うるにはあまりに惨めな我と言えども
この心はすでにそなたの側にあり
あああ
哀れみたまえよ
哀れみて
いくばくかの時を
我のために笑みたまえよ…」
(あわれみたまえよ…か)
ユーノは目を開けた。
その祈りも幾度、彼女の心の中で繰り返されたことだろう。
アシャの笑みを受けるたび、アシャの目が注がれるたびに、その時が永遠に続けばいいと願い、すぐにその場から消えてしまいたいとも思った。
(笑わないでね、アシャ……想うことは自由だと……誰かが言っていたんだ……)
もちろんそれは、私よりもうんと可愛い娘だったに違いないけど。
胸の中でさえ続けられない訴えを耳の奥で聞く。
ふと、どんな想いをしてもいいからアシャの側に居たい、と思った。
こんな遠くに離れていないで。互いの所在さえ知らないような場所ではなくて。
眉を潜めて苦笑する。
(ああ…私らしくない……ばかなことを考えている)
「いい声だろ」
「そうだね…」
「どうした、星の剣士(ニスフェル)?」
「…いや」
不審そうなユカルの声ににっと笑って、ユーノは槍を取り上げた。
「さ、仕上げをしておくか」
「頼むぜ、星の剣士(ニスフェル)。野戦部隊(シーガリオン)を代表する剣士なんだから」
「ああ」
振り仰いで任せといて、と微笑むと、相手が一瞬奇妙な顔になった。戸惑うようなたじろぐような、それでいてまじまじとこちらを覗き込むような。
「ユカル…?」
奇妙な沈黙。
「星の剣士(ニスフェル)!」
唐突に呼ばれてユーノは視線を外す。
「何だ」
「隊長がちょっと来いってさ」
「わかった! じゃ、ユカル」
「あ、ああ」
剣を背に負い立ち上がり、ユカルの側から離れようとして、相手が依然、どこかぼんやりとした顔で自分を見上げているのに気づく。
「ユカル?」
「……」
妙にぼうっと、いや、うっとり、とも言っていいような甘やかな表情にユーノは瞬きした。
(ユカルも誰かを好きなのかな)
「行くぞ?」
「えっ、あっ、うん」
はっとしたユカルが見る見る赤くなっていくのに二重に戸惑う。
「どうしたんだ?」
「あ、いや、そのっ」
ぶるぶるぶるっ、とユカルはふいに激しく顔を振った。顔ばかりではない、立ち上がったかと思うと、ぐいぐい拳を握った両手を押し下げるように体を動かし、何考えてんだ俺、とか、ちがうちがう、とか呟き続ける。
「男なんだぞ、男だ」
挙げ句にユーノに背中を向けて言い聞かせるように唸るのに、ユーノはますます首を捻る。
(男?)
ひょっとして、ユカルの好きな相手というのは男性なんだろうか。
(ありえなくもない…)
脳裏を掠めたのはイルファだ。ただ、イルファの場合は、アシャを女性と考えてしまって、という経過もあるが。
(でも野戦部隊(シーガリオン)にそういう対象になりそうな人はいないよなあ…)
周囲のがっしりぎっちりの筋肉群を見回して、いやそういう場合もあるのかと思い直し、いやいやそれはどうだろうとぐるぐる考え出した頭を、ユーノは慌てて横に振った。たとえそうであっても、ユーノには力になることなんてできそうにない。
(自分の気持ちさえ持て余しているんだもんなあ…)
「話があるなら、また後で聞くよ」
「えっ、話っ? いやっ、あのっ、後でっ、後でなっ!」
ばっと振り向いたユカルがばたばたと大きく両手を振るのにくすりと笑って背中を向けた。
「おい!」
ユーノは辺りを見回して叫んだ。
「どこにいる?」
先を走っていたはずの平原竜(タロ)もいなければ、呼び出したはずのシートスの姿もない。
呼びに来た男に従ってきて、いやに飛ばすなと思いつつ、仲間から見えなくなるだろう、これほど離れて何をするんだというあたりまで引っ張ってこられ、ついさっき、男は岩かどを曲がると平原竜(タロ)もろともに姿を消してしまった。
(あいつの名前は何て言ったっけ)
野戦部隊(シーガリオン)全員の名前をまだ覚えていない。覚えていないうちに、額帯(ネクト)を受け、星の剣士(ニスフェル)などという異名を当てられたユーノと、何となく距離を取った隊員もいる。
そう言えば、あの男とはまだことばを交わしたことはなかったかもしれない。
「シートス!」
返ってくるのは沈黙のみ、応えはない。
周囲を見渡しつつ、あちこちを見回って、ユーノは嫌な予感に顔をしかめた。
(おびき出された?)
可能性は高い。
(でも、なぜ?)
手綱を引き、向きを変えようとすると、突然、曇り始めた空から風が吹き下ろし、赤茶けた草原をそよがせる。スォーガ特有の疾風だ。
「ん?」
波打つ草原を眺めたユーノの視界にふと、一カ所、妙な揺れ方をする部分が飛び込んだ。その部分だけ何かで区切られたように、草のそよぎ方がずれている。
近づいて思わず息を呑んだ。
そこには、かなり深いだろうという裂け目が口を開けていた。スォーガに時々見られる『風の乙女(ベルセド)の住みか』と呼ばれる場所だ。遥か昔の大きな地震が、このように台地に傷を残したのだと言う。スォーガの風はこの裂け目を通り抜け、物悲しい声を上げて草原を走り抜けていく。
スォーガの人々は、それを『風の乙女(ベルセド)』と呼んでいた。ごくまれに、家畜がこの風に誘われて物狂いし、裂け目の中へ誘い込まれる。『風の乙女(ベルセド)』に呼ばれたと噂される現象だ。
薄暗い曇天の空は低く、光は重かった。裂け目の上層、ごつごつした岩肌はおぼろに見えるものの、下層から底は闇に沈んでほとんど見えない。裂け目の奥に引き込まれるような気がして、ユーノは慌て気味に体を立て直し、ヒストの向きを変えた、次の瞬間。
どっ。
「っ!」
衝撃に目を見開くと同時に、硬直した体が一気に背後へ持ち去られた。警告するように嘶くヒストの声が遠ざかる。馬の背中から軽々吹っ飛んだ自分の右肩に突き立っている槍、その朱房を、ユーノは呆然と見やった。
(なに……?)
明らかに野戦部隊(シーガリオン)の槍、味方の武器に射抜かれたことが信じられない。とろとろと流れる時間の中で、必死に答えを探して見回した目に、前の岩陰からのそりと現れたコクラノの姿が映った。それだけではなく、その後ろ、コクラノの背中を守る盾のような黄色のマント、モスの遠征隊、ジャントス・アレグノの姿もある。
(不覚…っ)
「っう!」
どさっと地面に投げ出され叩き付けられ、激痛に意識が明滅した。傷の痛み、衝撃の大きさ、何より視界に入ってくるコクラノのひねくれた笑みに吐き気がする。
「いい様だな、え? 星の剣士(ニスフェル)」
「くっ」
勢いよく槍を抜かれ、ユーノは小さく声を上げた。熱いぬめりが右肩からじわじわと背中へ腹へ広がっていく。
「運のいい奴だ、急所をそれてる」
ジャントスが皮肉っぽい笑い方をしながら屈み込んでくる。
「だが、そう幸運でもあるまいよ」
コクラノがにやにや笑いを顔中に広げながら、槍の穂先を拭う。
「…卑怯……者……モスと通……じた…のか……」
込み上げる吐き気と戦いながら、ユーノは呻いた。
「俺は自分の力を認めてくれるところへ行ったまでさ。それに、お前とは…」
相手は一歩、ユーノに近づいた。必死に体を引きずって後じさりをする。また近づく。また下がる。
肩の下でざらりと岩が砕けて転げ落ちる音がし、総毛立った。背後から吹き上げてくる冷たい風、あの裂け目に追い詰められたと知るのに時間はかからなかった。
にたり、とコクラノが笑み崩れ、片足をこれ見よがしに引き上げる。
「これまで、だ!」
「あ!!」
がっ、と激しい一蹴りがユーノを跳ね飛ばした。何を掴む間もなく、一気に裂け目に落とされる。
「さらばだ! 星の剣士(ニスフェル)!! あははははあああ!」
「く……ぅ…っ」
響く哄笑がみるみる遠ざかる。
落下していく、底なしの闇。恐怖が体を押し包む。
(裏切り……野戦部隊(シーガリオン)が危ない…)
「ユカ…ル…」
シートス。
「アシ…」
声は途絶えた。
ユーノの意識は体とともに、深い闇へと吸い込まれていった。
(なぜ…)
思いつく理由は二つある。
余りにも難解な謎なので、選ばれたほんの一握りの人間しか理解できない。あるいは、長い時間をかけて導かれ教え込まれないとわからない。
もう一つは、余りにも危険な謎、この世の全ての意味を覆す謎ゆえに、世界を支配する一部の者にしか知らされていない。
(ひょっとすると、その両方、か)
ぞくり、と背筋が震えた。
ユーノがラズーンへ向かうということは、今まで思っていたより複雑な事情を含んでいるのかもしれない。
「一体何だろうな、その、二百年、祭ってのは…」
なおも首を捻り続けるユカル、そのことばをふいに低く深い歌声が遮った。
「…いと美しき乙女よ…」
ざわめく野営の片隅から響いてくる。
「歌…?」
「トシェンだ。あいつは歌がうまいよ」
「ふうん」
「おおかた、また、頼まれた恋歌でも教えてるんだろ」
「教える?」
「そ」
ユカルが悪戯っぽく片目をつぶる。
「野戦部隊(シーガリオン)の暮らしは、年がら年中、戦ばっかりだ。それでも俺達だって人の子だからな。たまには本気で恋もするさ。ところが、いくら気持ちが募っても、それを伝える術なんて持ってやしない」
ひょいと自分の姿を見回すように両手を上げてみせる。
「だから、せめてああして、トシェンに恋歌でも教えてもらって、目当ての娘に歌ってみようってのさ」
「へえ…」
「…いと…美しい……乙女よ…」
背の高いトシェンの側に立った、いかにも野戦部隊(シーガリオン)の典型のような武骨な男がおどおどと音律を繰り返す。
「その優しい腕もって…」
「その……優しき…か…かいな……もち…もって…」
「幼子を抱くか…」
「おさ…おさなご……を……いだ…くか…」
使い慣れないことばとなると、音律ばかりかてきめん歌詞も危うくなる。懸命さは伝わるが娘の心を蕩かすにはほど遠い。
「あーあ、見てられねえな」
ユカルがふてくされた口調で言って、トシェンに背を向けた。くすりと笑みをこぼしたユーノは少し目を閉じ、豊かな響きの歌に耳を傾けた。
「その甘き唇もて我を癒すか…」
習っていた男の方は気が挫かれてしまったらしい。その後を繰り返す声はなかった。
「我は傷つけり
そなたのことばにて
この胸は血を流し
この目は涙に濡れる……
ああ
哀れみたまえよ
そなたを恋うるにはあまりに惨めな我と言えども
この心はすでにそなたの側にあり
あああ
哀れみたまえよ
哀れみて
いくばくかの時を
我のために笑みたまえよ…」
(あわれみたまえよ…か)
ユーノは目を開けた。
その祈りも幾度、彼女の心の中で繰り返されたことだろう。
アシャの笑みを受けるたび、アシャの目が注がれるたびに、その時が永遠に続けばいいと願い、すぐにその場から消えてしまいたいとも思った。
(笑わないでね、アシャ……想うことは自由だと……誰かが言っていたんだ……)
もちろんそれは、私よりもうんと可愛い娘だったに違いないけど。
胸の中でさえ続けられない訴えを耳の奥で聞く。
ふと、どんな想いをしてもいいからアシャの側に居たい、と思った。
こんな遠くに離れていないで。互いの所在さえ知らないような場所ではなくて。
眉を潜めて苦笑する。
(ああ…私らしくない……ばかなことを考えている)
「いい声だろ」
「そうだね…」
「どうした、星の剣士(ニスフェル)?」
「…いや」
不審そうなユカルの声ににっと笑って、ユーノは槍を取り上げた。
「さ、仕上げをしておくか」
「頼むぜ、星の剣士(ニスフェル)。野戦部隊(シーガリオン)を代表する剣士なんだから」
「ああ」
振り仰いで任せといて、と微笑むと、相手が一瞬奇妙な顔になった。戸惑うようなたじろぐような、それでいてまじまじとこちらを覗き込むような。
「ユカル…?」
奇妙な沈黙。
「星の剣士(ニスフェル)!」
唐突に呼ばれてユーノは視線を外す。
「何だ」
「隊長がちょっと来いってさ」
「わかった! じゃ、ユカル」
「あ、ああ」
剣を背に負い立ち上がり、ユカルの側から離れようとして、相手が依然、どこかぼんやりとした顔で自分を見上げているのに気づく。
「ユカル?」
「……」
妙にぼうっと、いや、うっとり、とも言っていいような甘やかな表情にユーノは瞬きした。
(ユカルも誰かを好きなのかな)
「行くぞ?」
「えっ、あっ、うん」
はっとしたユカルが見る見る赤くなっていくのに二重に戸惑う。
「どうしたんだ?」
「あ、いや、そのっ」
ぶるぶるぶるっ、とユカルはふいに激しく顔を振った。顔ばかりではない、立ち上がったかと思うと、ぐいぐい拳を握った両手を押し下げるように体を動かし、何考えてんだ俺、とか、ちがうちがう、とか呟き続ける。
「男なんだぞ、男だ」
挙げ句にユーノに背中を向けて言い聞かせるように唸るのに、ユーノはますます首を捻る。
(男?)
ひょっとして、ユカルの好きな相手というのは男性なんだろうか。
(ありえなくもない…)
脳裏を掠めたのはイルファだ。ただ、イルファの場合は、アシャを女性と考えてしまって、という経過もあるが。
(でも野戦部隊(シーガリオン)にそういう対象になりそうな人はいないよなあ…)
周囲のがっしりぎっちりの筋肉群を見回して、いやそういう場合もあるのかと思い直し、いやいやそれはどうだろうとぐるぐる考え出した頭を、ユーノは慌てて横に振った。たとえそうであっても、ユーノには力になることなんてできそうにない。
(自分の気持ちさえ持て余しているんだもんなあ…)
「話があるなら、また後で聞くよ」
「えっ、話っ? いやっ、あのっ、後でっ、後でなっ!」
ばっと振り向いたユカルがばたばたと大きく両手を振るのにくすりと笑って背中を向けた。
「おい!」
ユーノは辺りを見回して叫んだ。
「どこにいる?」
先を走っていたはずの平原竜(タロ)もいなければ、呼び出したはずのシートスの姿もない。
呼びに来た男に従ってきて、いやに飛ばすなと思いつつ、仲間から見えなくなるだろう、これほど離れて何をするんだというあたりまで引っ張ってこられ、ついさっき、男は岩かどを曲がると平原竜(タロ)もろともに姿を消してしまった。
(あいつの名前は何て言ったっけ)
野戦部隊(シーガリオン)全員の名前をまだ覚えていない。覚えていないうちに、額帯(ネクト)を受け、星の剣士(ニスフェル)などという異名を当てられたユーノと、何となく距離を取った隊員もいる。
そう言えば、あの男とはまだことばを交わしたことはなかったかもしれない。
「シートス!」
返ってくるのは沈黙のみ、応えはない。
周囲を見渡しつつ、あちこちを見回って、ユーノは嫌な予感に顔をしかめた。
(おびき出された?)
可能性は高い。
(でも、なぜ?)
手綱を引き、向きを変えようとすると、突然、曇り始めた空から風が吹き下ろし、赤茶けた草原をそよがせる。スォーガ特有の疾風だ。
「ん?」
波打つ草原を眺めたユーノの視界にふと、一カ所、妙な揺れ方をする部分が飛び込んだ。その部分だけ何かで区切られたように、草のそよぎ方がずれている。
近づいて思わず息を呑んだ。
そこには、かなり深いだろうという裂け目が口を開けていた。スォーガに時々見られる『風の乙女(ベルセド)の住みか』と呼ばれる場所だ。遥か昔の大きな地震が、このように台地に傷を残したのだと言う。スォーガの風はこの裂け目を通り抜け、物悲しい声を上げて草原を走り抜けていく。
スォーガの人々は、それを『風の乙女(ベルセド)』と呼んでいた。ごくまれに、家畜がこの風に誘われて物狂いし、裂け目の中へ誘い込まれる。『風の乙女(ベルセド)』に呼ばれたと噂される現象だ。
薄暗い曇天の空は低く、光は重かった。裂け目の上層、ごつごつした岩肌はおぼろに見えるものの、下層から底は闇に沈んでほとんど見えない。裂け目の奥に引き込まれるような気がして、ユーノは慌て気味に体を立て直し、ヒストの向きを変えた、次の瞬間。
どっ。
「っ!」
衝撃に目を見開くと同時に、硬直した体が一気に背後へ持ち去られた。警告するように嘶くヒストの声が遠ざかる。馬の背中から軽々吹っ飛んだ自分の右肩に突き立っている槍、その朱房を、ユーノは呆然と見やった。
(なに……?)
明らかに野戦部隊(シーガリオン)の槍、味方の武器に射抜かれたことが信じられない。とろとろと流れる時間の中で、必死に答えを探して見回した目に、前の岩陰からのそりと現れたコクラノの姿が映った。それだけではなく、その後ろ、コクラノの背中を守る盾のような黄色のマント、モスの遠征隊、ジャントス・アレグノの姿もある。
(不覚…っ)
「っう!」
どさっと地面に投げ出され叩き付けられ、激痛に意識が明滅した。傷の痛み、衝撃の大きさ、何より視界に入ってくるコクラノのひねくれた笑みに吐き気がする。
「いい様だな、え? 星の剣士(ニスフェル)」
「くっ」
勢いよく槍を抜かれ、ユーノは小さく声を上げた。熱いぬめりが右肩からじわじわと背中へ腹へ広がっていく。
「運のいい奴だ、急所をそれてる」
ジャントスが皮肉っぽい笑い方をしながら屈み込んでくる。
「だが、そう幸運でもあるまいよ」
コクラノがにやにや笑いを顔中に広げながら、槍の穂先を拭う。
「…卑怯……者……モスと通……じた…のか……」
込み上げる吐き気と戦いながら、ユーノは呻いた。
「俺は自分の力を認めてくれるところへ行ったまでさ。それに、お前とは…」
相手は一歩、ユーノに近づいた。必死に体を引きずって後じさりをする。また近づく。また下がる。
肩の下でざらりと岩が砕けて転げ落ちる音がし、総毛立った。背後から吹き上げてくる冷たい風、あの裂け目に追い詰められたと知るのに時間はかからなかった。
にたり、とコクラノが笑み崩れ、片足をこれ見よがしに引き上げる。
「これまで、だ!」
「あ!!」
がっ、と激しい一蹴りがユーノを跳ね飛ばした。何を掴む間もなく、一気に裂け目に落とされる。
「さらばだ! 星の剣士(ニスフェル)!! あははははあああ!」
「く……ぅ…っ」
響く哄笑がみるみる遠ざかる。
落下していく、底なしの闇。恐怖が体を押し包む。
(裏切り……野戦部隊(シーガリオン)が危ない…)
「ユカ…ル…」
シートス。
「アシ…」
声は途絶えた。
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