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9.『西の姫君』(9)
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「嫌です」
再度、アリオははっきりとした口調で拒絶した。
「嫌、とおっしゃられてもねえ…」
ギャティは『一応』敬意を表して跪いた姿勢ではいるものの、かなり不遜な口調で溜め息混じりに呟いた。
「私は自分の意志でこちらにいるのですもの」
「ジーフォ公がご心配されておられますよ」
「ご勝手に」
つん、と横を向いたアリオの横顔は、ほんの少しも譲歩する気配がない。きつい黒の瞳は閉じられたまま、白い夜着の上に羽織った紅の長衣、艶のある黒髪は今は一つに束ねられて、肩に波打っている。
「カルキュイが何者なのか、ご存知なんですか?」
仕方ないとギャティは説明を加える。
「『穴の老人』(ディスティヤト)と言う、恐ろしい太古生物の末裔なんですよ」
「彼が何者かは知りません」
アリオは依然、ギャティ如きに向ける顔ではないとでも言いたげに、面をそむけたまま言い放った。
「『穴の老人』(ディスティヤト)だか、『泉の狩人』(オーミノ)だか、そんなことは私に関係ないことです。私はただ、まだここに居るつもりだ、そう申し上げているだけですわ」
最後は少し礼儀を慮ったのか、口調を改めた。
「しかし、『西の姫君』、我ら『金羽根』はセシ公命令にて」
「セシ公なぞ知りません。それとも」
ギャテイを横目で見やり、
「ここで大声を上げてもよろしいのよ」
「…」
ギャティは溜め息を重ねた。
何という愚かな扱いにくい女だろう。リヒャルティの方がよっぽど扱いやすい。こんなことなら、遅かったと文句を言われるにせよ、バルカと役目を代われば良かった。
困惑を見て取ったのだろう、アリオは少し譲る様子で、けれどもからかうように、
「そうね、それとも、ここへアシャを呼んで下さる? 彼が迎えに来てくれるなら、考えないでもないわ」
「それは困りますな、アリオ姫」
「!」「!!」
ふいに戸口から別の声が響き、アリオははっとしたように振り返った。
「あなたには、もう少しこちらにご滞在頂かないと……お約束したでしょう? 必ずアシャと逢わせて差し上げよう、と」
いつの間に近寄って来ていたのか、カルキュイの姿がそこにあった。にたり、とこの上もなく不気味な笑顔になって、
「最もお話になれるかどうかはちと疑問ですな。なにせ『泥土』の泥獣(ガルシオン)は貪欲、『飢粉(シイナ)』でも浴びた日には、骨一つ残りますまいよ……そして、あなたは…」
「ひ……ぃっ……」
「…」
アリオが掠れた声を上げ、バルカが身構えたのも道理、笑ったカルキュイの口がゆっくりと大きく開き、唇の端まで開いてもなお『開き続けて』いく。
めりっ、と嫌な音がした。
肉が裂けていく。堪え難い力で上下に引き裂かれていく。唇の両端で、ボロ屑のように裂けた肉片が、見るもおぞましい赤黒く柔らかな裳裾と化して、開いた口の両下縁に垂れ下がっていく。ぽたっと肉片から血が滴り落ちた。カルキュイの口元は真っ赤だ。爛れた傷口のようにでこぼこした肉のうねりが、何かある意図を持って口の奥の方へ向かって引き締められている。
「は…」
「アリオ姫!」
気を失って崩折れたアリオをとっさに抱きとめながら、ギャティは顔を背けた。無理もない、男のギャティでも胸が悪くなる。死体なら見飽きている、様々なもので削り込まれた傷口も、しかしこれは。カルキュイが既に人間とは別のものになっていると言うことを、頭ではわかっていたが、これほどはっきり見せつけられると、腹立たしさよりおぞましさが先に立つ。
「く…くくくっ…」
口はなお開き続けていた。肉の避ける音だけではなく、骨が折れ砕け崩れる音も響いていた。カルキュイの顔がゆっくりと上下に裂けていっている、それなのに、その『口』は低い嗤い声を漏らした。
肉の襞が波打つ。波打って、ゆっくり収縮を始め、
「!!」
視界の端で何が起ころうとしているのかを悟って、ギャティは硬直した。
(リ、リヒャルティ…っ!!)
思わず胸の中で自らの長に向かって悲鳴を上げる。腰が今にも砕けてしまいそうだ、だが、砕ければ最後、自分もまたカルキュイと同じように、人ではない何者かに熔け崩れて行きそうな気がする。その恐怖だけが両足を支える。
体を竦めたギャティの前で、カルキュイの開き切った『口』は、ゆっくりと己を喰い始めていた。いや、カルキュイの中の『穴の老人』(ディスティヤト)が、と言った方がいいかも知れない。
開いた口の中央から、するりと細く長い舌が伸びた。舌は口の周りを探るように舐めると、ふと、目当てのものを見つけたと言いたげに動きを止めた。その部分をもう少し吟味するように左右に揺れたかと思うと、びらびらと垂れ下がった肉片にぬるりと絡みついて、引きちぎろうとするようにぐうっと口の中へと引っ張る。粘着性のある何かを無理矢理引き裂いていくような音が響いた、次の瞬間。
ずるり。
カルキュイの顔全体が『ずれ込んだ』。
「う…うっ」
ギャティは思わず目を閉じて唸った。足が震える。瞼の裏の闇に、今見てしまった光景が刻み込まれる。
ピチャピチャと濡れた舌が鳴る音がした。恐ろしく巨大な肉食獣が獲物を飲み込みながら立てる咀嚼音もする。
もう見なくてもわかる。ずれ込んだカルキュイの顔が、肉から剥ぎ取られた生皮の面が、鼻から頬、目から眉、額へとあの口に吸い込まれ、喰われていっているのだ。
ぐうっと黄水胃の腑から押し上げられて来るのを、ギャティは必死に飲み下した。脂汗が額から流れ落ちる。立っている足元が頼りなく鳴る。もう駄目だ、と観念した瞬間、それまで聞こえていた音とは全く違う音が響いた。同時に、ぞっとするほど冷ややかな声が届く。
「つまらん見世物興行だな」
(アシャ?!)
はっとしてギャティは目を開けて振り返った。
再度、アリオははっきりとした口調で拒絶した。
「嫌、とおっしゃられてもねえ…」
ギャティは『一応』敬意を表して跪いた姿勢ではいるものの、かなり不遜な口調で溜め息混じりに呟いた。
「私は自分の意志でこちらにいるのですもの」
「ジーフォ公がご心配されておられますよ」
「ご勝手に」
つん、と横を向いたアリオの横顔は、ほんの少しも譲歩する気配がない。きつい黒の瞳は閉じられたまま、白い夜着の上に羽織った紅の長衣、艶のある黒髪は今は一つに束ねられて、肩に波打っている。
「カルキュイが何者なのか、ご存知なんですか?」
仕方ないとギャティは説明を加える。
「『穴の老人』(ディスティヤト)と言う、恐ろしい太古生物の末裔なんですよ」
「彼が何者かは知りません」
アリオは依然、ギャティ如きに向ける顔ではないとでも言いたげに、面をそむけたまま言い放った。
「『穴の老人』(ディスティヤト)だか、『泉の狩人』(オーミノ)だか、そんなことは私に関係ないことです。私はただ、まだここに居るつもりだ、そう申し上げているだけですわ」
最後は少し礼儀を慮ったのか、口調を改めた。
「しかし、『西の姫君』、我ら『金羽根』はセシ公命令にて」
「セシ公なぞ知りません。それとも」
ギャテイを横目で見やり、
「ここで大声を上げてもよろしいのよ」
「…」
ギャティは溜め息を重ねた。
何という愚かな扱いにくい女だろう。リヒャルティの方がよっぽど扱いやすい。こんなことなら、遅かったと文句を言われるにせよ、バルカと役目を代われば良かった。
困惑を見て取ったのだろう、アリオは少し譲る様子で、けれどもからかうように、
「そうね、それとも、ここへアシャを呼んで下さる? 彼が迎えに来てくれるなら、考えないでもないわ」
「それは困りますな、アリオ姫」
「!」「!!」
ふいに戸口から別の声が響き、アリオははっとしたように振り返った。
「あなたには、もう少しこちらにご滞在頂かないと……お約束したでしょう? 必ずアシャと逢わせて差し上げよう、と」
いつの間に近寄って来ていたのか、カルキュイの姿がそこにあった。にたり、とこの上もなく不気味な笑顔になって、
「最もお話になれるかどうかはちと疑問ですな。なにせ『泥土』の泥獣(ガルシオン)は貪欲、『飢粉(シイナ)』でも浴びた日には、骨一つ残りますまいよ……そして、あなたは…」
「ひ……ぃっ……」
「…」
アリオが掠れた声を上げ、バルカが身構えたのも道理、笑ったカルキュイの口がゆっくりと大きく開き、唇の端まで開いてもなお『開き続けて』いく。
めりっ、と嫌な音がした。
肉が裂けていく。堪え難い力で上下に引き裂かれていく。唇の両端で、ボロ屑のように裂けた肉片が、見るもおぞましい赤黒く柔らかな裳裾と化して、開いた口の両下縁に垂れ下がっていく。ぽたっと肉片から血が滴り落ちた。カルキュイの口元は真っ赤だ。爛れた傷口のようにでこぼこした肉のうねりが、何かある意図を持って口の奥の方へ向かって引き締められている。
「は…」
「アリオ姫!」
気を失って崩折れたアリオをとっさに抱きとめながら、ギャティは顔を背けた。無理もない、男のギャティでも胸が悪くなる。死体なら見飽きている、様々なもので削り込まれた傷口も、しかしこれは。カルキュイが既に人間とは別のものになっていると言うことを、頭ではわかっていたが、これほどはっきり見せつけられると、腹立たしさよりおぞましさが先に立つ。
「く…くくくっ…」
口はなお開き続けていた。肉の避ける音だけではなく、骨が折れ砕け崩れる音も響いていた。カルキュイの顔がゆっくりと上下に裂けていっている、それなのに、その『口』は低い嗤い声を漏らした。
肉の襞が波打つ。波打って、ゆっくり収縮を始め、
「!!」
視界の端で何が起ころうとしているのかを悟って、ギャティは硬直した。
(リ、リヒャルティ…っ!!)
思わず胸の中で自らの長に向かって悲鳴を上げる。腰が今にも砕けてしまいそうだ、だが、砕ければ最後、自分もまたカルキュイと同じように、人ではない何者かに熔け崩れて行きそうな気がする。その恐怖だけが両足を支える。
体を竦めたギャティの前で、カルキュイの開き切った『口』は、ゆっくりと己を喰い始めていた。いや、カルキュイの中の『穴の老人』(ディスティヤト)が、と言った方がいいかも知れない。
開いた口の中央から、するりと細く長い舌が伸びた。舌は口の周りを探るように舐めると、ふと、目当てのものを見つけたと言いたげに動きを止めた。その部分をもう少し吟味するように左右に揺れたかと思うと、びらびらと垂れ下がった肉片にぬるりと絡みついて、引きちぎろうとするようにぐうっと口の中へと引っ張る。粘着性のある何かを無理矢理引き裂いていくような音が響いた、次の瞬間。
ずるり。
カルキュイの顔全体が『ずれ込んだ』。
「う…うっ」
ギャティは思わず目を閉じて唸った。足が震える。瞼の裏の闇に、今見てしまった光景が刻み込まれる。
ピチャピチャと濡れた舌が鳴る音がした。恐ろしく巨大な肉食獣が獲物を飲み込みながら立てる咀嚼音もする。
もう見なくてもわかる。ずれ込んだカルキュイの顔が、肉から剥ぎ取られた生皮の面が、鼻から頬、目から眉、額へとあの口に吸い込まれ、喰われていっているのだ。
ぐうっと黄水胃の腑から押し上げられて来るのを、ギャティは必死に飲み下した。脂汗が額から流れ落ちる。立っている足元が頼りなく鳴る。もう駄目だ、と観念した瞬間、それまで聞こえていた音とは全く違う音が響いた。同時に、ぞっとするほど冷ややかな声が届く。
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(アシャ?!)
はっとしてギャティは目を開けて振り返った。
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