『ラズーン』第五部

segakiyui

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9.『西の姫君』(1)

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 『泥土』での争いから離れ、ここ、アギャン公の屋敷はひっそりと静まり返っていた。
 アギャン公の後継ぎとしてカルキュイが即位したのだから、もう少し活気があって良さそうなものだったが、人っ子一人いない回廊には生気のかけらもない。
 いや、奥まったところにある公の私室には明かりが灯っている。誰か居るらしいぼそぼそとした話し声が聞こえる。にしても、何とひそやかな声だろう。あたりを取り囲む、古風な浮き彫りを施した石壁に吸い込まれて消えて行きそうだ。
 が、不意に、それらはどっとした哄笑に変わった。
「…何がおかしいのです?」
 『西の姫君』、アリオ・ラシェットは、アギャン公私室、白い毛皮を敷き詰めた部屋の、ほぼ中央に置かれたテーブルの一端についたまま、鋭く正面からカルキュイの目を見返した。
 黒の髪、黒の瞳、きつい面立ちには一国の姫君としても十分に通る誇りの高さが伺える。が、残念なことに、唇には妙に残忍なところがあって、それが彼女をどこか下卑た印象に貶めていた。 
「何が、と言われても」
 アリオの正面、アギャンの公位を乗っ取ったばかりのカルキュイは、焦げ茶色の、相変わらず野心に満ちた眼を伏せて、僅かに苦笑した。
「あなたはアシャを憎んでいる、とおっしゃった。その舌の根も乾かぬうちから、アシャを諦めきれぬと続けられるわけだ」
「誰も、諦め切れない、などと言った覚えはありません」
 アリオは真紅の唇を苛立たしげに噛んだ。
「ただ、あの男の無礼さが許せないだけです」
「ほう…」
 カルキュイは目を細めてアリオを一瞥し、相手のほっそりとした首筋が紛れもない怒りに震えるのを見て取った。一瞬物欲しげな、けれど色欲とは違った欲望を浮かべたカルキュイは、すぐさま気づかれまいとするようにことばを継いだ。
「では、どうしてわざわざここへこられた? アシャと会わせて差し上げよう、たったそれだけの文面で?」
「…それは…」
 アリオは言い澱んだ。
「…それは、二人になって、あの男に言ってやりたいことがあったからです」
「なぜ、あなたを拒んだのか、ですか」
「…あなたにお話する必要はありません」
 強い視線をカルキュイに投げて、それ以上の質問を封じたアリオの心は乱れている。
 アシャ。
 アシャ・ラズーン。
 黄金の髪、紫水晶の瞳をしなやかな体に飾り、剣をとっては比類なく、学に秀で、立風琴(リュシ)を巧みに弾きこなし、都中の人気の的だった。
 確かにミダス公の娘リディノとほのかな情を通じているとの噂もあったが、仮にも自分は『西の姫君』と呼ばれたほどの女性、よもや相手にされぬということはあるまい。
 高を括っていたアリオだったが、かの『光の少年』(氷のアシャ)はその名の通り、美姫と名高いアリオを一顧だにしなかった。そればかりか、魔物(パルーク)を相手にした方がましだと言ってよこした。しかも、アシャと結ばれラズーンの頂点に立つと言う夢をあっさり砕いておきながら、ふいと風のように旅に出てしまい、ようやく帰ってきたと思えば、側にはセレドの第一皇女、レアナを侍らせていた。
(女嫌いが聞いて呆れる!)
 レアナの噂は遠くセレドの地から、このラズーンにまで聞こえていた。栗色の柔らかな髪、優しくたゆとう赤みがかった茶色の、宝石を思わせる瞳、心根温かく声音甘く、旅人達はセレド皇宮で身を休められることを望み、レアナの微笑を求めて、彼の地を旅すると言う。
(レアナに私のどこが劣ると言うの?)
 半ば、当てつけてジーフォ公の婚約者となったものの、夜毎に胸を騒がせる甘い夢は、いつもアシャの姿を含んでいた。胸苦しさに目覚めれば、隣にいるのは精悍ではあるものの、どちらかと言えば武骨で美しさとはほど遠いジーフォ公の横顔、その一途ささえも生臭くて我慢ならなかった。
 夜を迎えるたびにアリオは心の中で言い聞かせたものだった。アシャもあの時はまだ子どもだったのだと。女の真の魅力を知らない少年は、それ故にアリオに冷たく当たるしかできなかったのだと。今、立派に成人となったアシャならば、アリオの美しさも悩ましさも、心奪うほど激しいときめきとして映るに違いない。我知らずアリオの足元に跪き、身も世もあらぬ声で彼女への恋心を告白し、ひたすらに彼女の手を、いや指先なりとと求めるに違いない。
 けれどたとえそうであっても。
(私はアシャを振り返りもしないのだわ)
 アリオは手にした盃の酒を含みながら、唇を歪めて笑った。
 そうとも、誰が振り向いてなぞやるものか。
 あの時、アリオの恋情をどうして受け入れなかったのかと散々に後悔させてやる。跪いたアシャに嗤い声を響かせ、ドレスの裾にも触れさせずに立ち去るのだ。残されたアシャの項垂れた様子が、今から目に浮かぶ。『西の姫君』であるアリオ・ラシェットを無下にした報いを受けるがいい。
 アリオは妄想に酔っていて気づかない、カルキュイがどんな眼で自分を眺めているのかを。もし、カルキュイの焦茶の瞳を少しでも覗き込んでいれば、さしもアリオも、自分がとんでもない男の元にきてしまったのだと気づいただろう。
 それは人の眼ではなかった。無防備に飛び込んできたとびきり美味しそうな食べ物が転がっているのを涎を垂らしながら見つめている獣の眼、あるいは捧げられ晒された生贄のどこから屠ってやろうかと考えている殺人鬼の眼だった。
 またこうも言えただろう。
 それはこの世界に生を営むものの眼ではなく、太古の昔、荒廃の世に息づいていた、荒々しくもおぞましい、命を貪り喰らうことしか考えない生き物の眼だ、と。
 だが、アリオは気づかない。気づかないまま、自分の胸の中に閉じこもり、アシャを跪かせる瞬間を思って悦に入っている。
 互いが互いの思惑に沈み、相手の気持ちなど考えもしないのは、ある意味確かにこの2人にふさわしい夜だった。
 アリオとカルキュイの向かい合う間の左側に、外に面した窓があった。黒金の鉄格子で外界と遮られた向こう側、一つの影がすうっと動いた。目を凝らせば月光に映える黄金の髪の輝きが見えただろうが、ほんの一瞬のこと。もちろん、2人は気づかない。
 影は吸い込まれるように、闇に静かに消えて行った。
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