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7.泥土(3)
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「ふぅ…」
「っ」
『氷の双宮』の一室、真っ白に洗い立てられたシーツの上で、ユーノが小さく息を吐いた。ぎくりとして振り返り、相手がまだ昏々と眠っているのを確かめ、アシャは微かに溜め息をつく。
「…」
眺めていた『狩人の山』(オムニド)から目を逸らせ、ゆっくりとユーノが眠るベッドに近寄る。ためらった後、そっとその端に腰を降ろした。
「……ユーノ…」
低く呼びかける。だが、相手は未だ目覚める気配はない。
沈んだベッドにことりとユーノの頭が動いた。こちらを振り向く顔、血色は随分ましになったが、顎の下、左肩の包帯の中の傷には新たなものが加わっている。
「………」
アシャは小さく唇を噛んだ。
今回は、包帯を巻いていたのが幸いした。『穴の老人』(ディスティヤト)に引っ張られ,突然自らを襲った剣に、本能なのかとっさにユーノが手を放したおかげで、切っ先は滑って包帯を撫でる形になっていた。触れたものを悉く裂く剣は包帯を切り散らしながら肌まで食い込み、薄皮を削ぎ切りながら血を撒いていた。その奥の太い血管まで達しなかったのは、まさに僥倖だったと言える。
『氷の双宮』の水槽で二日、傷に上皮が張ったのを確認して一昨日ようやくベッドに移し、それから未だユーノは全ての機能を回復に注いでいるように眠り続けている。
「ユーノ…」
また痩せた。
水槽で十分に栄養を注いだはずなのに、また首筋が細くなり、肩が華奢になり、胸も薄くなってしまった。
それでも若さ故だろう、瑞々しく張りつめた肌は少しずつ艶やかな輝きを取り戻し、うなじの滑らかな線も、薄い耳朶の淡い色も、尖り気味の顎へ続く柔らかな頬の産毛も、言うまでもなく微かに開いて吐息を紡ぐふっくらとした唇も、全てがアシャの衝動を誘う。
「…」
唇を開いて首筋に寄せる。微かな熱に胸が轟く。
含みたい。辿りたい。この舌先で煽ってやりたい。声を聞きたい、甘く喘ぐ掠れ声を、受け入れることを堪えながら呼ぶ自分の名前を、呼吸に紛れて消えてしまう小さな悲鳴を。
アシャは薄く目を開いてユーノを見つめる。
疼く熱は体の奥で問い続けている。
「本当なのか…?」
(お前が、俺を、求めていると)
「都合のいい妄想か…?」
問いにユーノは応えない。
眠る呼吸は静かで穏やかで、自分の上にのしかかる餓えた存在に気づかない。
セールが嘘を言うとは思えない、あの状況であの声で。
(ならば、なぜいつも)
「いつも俺の手を払う…? 擦り抜ける…?」
拒んでいるはずではなかったのか。逃げているのではなかったのか。
男女としての交わりではなく、親しい友人として付き合い続ける、その一線を踏み越えてくれるなと、そう願われていたのではなかったのか。
イルファならば言うだろう、嫌がってみせるのは女の性なのだ、と。
『抱き寄せてみて、殴られたら潔く謝ればいいだけのことだろう』
だがアシャはためらう。
『泉の狩人』(オーミノ)との約束を破り、敵に回すのが怖いのではない。それが示した一つの可能性、ユーノには既に想う相手が居て、その相手にのみ貞節を尽くすと決めている、その心情を踏みにじっていくぞという警告が恐ろしい。
今はユーノは眠ってくれている。アシャが側に居ることを容認している、無意識のうちに。
思い出す、セレドの夜、気配一つでアシャを敵と認識して刃を向けた、あの瞳。
そしてまた、ユーノが今示している信頼を裏切った時に彼女が見せた拒否も、アシャの胸には苦しく痛い記憶となって残っている。
(『あの時』お前は俺の手を叩き落とした。触れられるのさえ嫌だと言うように)
ユーノの傷をレアナに見せた、その後しばらく、アシャはユーノに避け続けられていた。予想はしていたが、喪失感がひどすぎて、何とかようやく会話を交わしてみても距離を置かれてそっけなく、耐え切れずに伸ばした手をユーノは見事に拒んでみせた。
(…あんなことは今までなかった)
ユーノから頼られることはなくとも、伸ばした手をあそこまではっきりと拒まれたことなどなかったのに。
失ったのだ、と初めて気づいた。
アシャはユーノを失ってしまった。
拒否は予想していた、嫌われるかも知れないとも思っていた、それだけのことはしている自覚は十分あった。
考えもしていなかったのは、自分がそれに対してどれほど無防備だったのかということだ。
アシャは動揺した。動揺する自分にうろたえた。
ユーノからの拒否が怖い。振り向かれない背中が辛い。微笑み一つ手に入らないのに凍りつく。
たったあれだけのことで、あそこまで拒まれるのなら、もし他に想い人がいるユーノを抱いてしまったら、きっとアシャは自分の意味さえ失ってしまう。
(馬鹿な)
竦む自分を何度も嘲笑った。『氷のアシャ』だぞ、宮廷の美姫、諸国の令嬢、着飾った娘達が我先に微笑みを送ってくる、それと『この娘』を引き換えに?
(どこまでも、馬鹿な)
「…それとも…馬鹿になったのかな、俺は」
呟きが甘い。
目を閉じる。
それほど思い詰めた胸に、二度と想いを告げぬと決心した気持ちに、セールのことばは嵐のように襲い掛かってくる。
(『俺』を求めている…? どういう存在として? 付き人か? 友人か? 兄か? それとも)
旅の空に不安を慰めるただの男として、とか?
(……馬鹿な)
思わず綻んだ自分の顔に嗤う。
(それでも、いいだなんて思ってるんだな)
薄く目を開け、白く光るユーノの額にそっと唇を降ろした。
「…俺を…呼んでくれ」
額に唇を触れて囁く。くすぐったいのだろう、ん、と軽くユーノが鼻声で唸って体をよじる。
「俺を呼べ」
どんな形であろうと構わない。求められるなら、その望まれた形のままに応えよう。付き人ならば最終最後の盾となるように。友人ならば逆境に踏みとどまるように。兄なら嫁ぐのを見守るように。ただの男なら。
「俺を」
吐息でアシャ、と一声求めてくれれば、望むだけの快楽を与えよう、幾度も、繰り返し、満たされ、溢れ、意識を手放すその先まで。
柔らかな温かな匂い、獣のように笑みながら首筋に牙を落とす、その全てを啜るために口を開いた、その瞬間。
「…ん…」
ユーノが目覚めたのがわかった。はっとして顔を上げる、その視線をまっすぐに受け止めて、眠たげに開かれた黒い瞳が二度三度瞬く。
「……アシャ……?」
「……………ああ」
声はアシャを呼んでいなかった。側に来て、と言われたのではなく、そこに居るな、と確認された。一瞬胸に荒れた突風に顔をしかめ、アシャは頷き、体を起こす。
そうだ、約束した、お前の望むままに、求められる形でいようと。
「…俺だ」
『それ』は自分の望む形とは違っているのだ、と、また、遅まきながら自覚した。
「…私……ここは……」
ゆっくりとユーノは視線を動かす。苦しい胸に唇を噛むアシャには気づかぬ顔で。そして、次の瞬間、跳ね起きた。
「あ、つっっ」
胸から左肩にかけて巻かれた包帯を押さえ、顔を歪めながら見上げてくる。
「セールはっ」
「…」
アシャの顔を凝視して、ユーノは目を見開いた。
「……死んだ……のか」
「……ああ」
アシャの同意に見る見る青ざめ、俯く。ばさりと流れた髪の下、悔しそうに噛む唇と震える肩に切ない想いが湧き上がった。
「私の……せいだ……セール…」
掠れた声が続くのにアシャは顔を歪めて目を逸らせる。
(そんなにも、大切そうに、呼ばれるなら)
オレガシネバヨカッタ。
アシャの耳の奥底で、幼い声が小さく弾ける。
(やっぱりあれは、夢じゃなかったんだ)
ユーノは自分を切り刻むように想う。
(私を助けに、来てくれたんだ)
暴走するアシャを止めなくてはならないとわかっていた。けれど四肢は動かず声も出せず、焦燥に身もがいていたユーノの耳に届いた声。
『御安心を。このセール、命に代えて…お護りします』
『我らが……聖女王(シグラトル)……ユーノ…』
『「死の女神」(イラークトル)の……恵みの……もとに…』
(セール!)
『泉の狩人』(オーミノ)はおいそれと『狩人の山』(オムニド)を降りない、降りてはならないと聞いていた。ラフィンニに許可を得たとは思えなかった。なのに、己の生き様、己の本分を越えて来てくれた。
(私は)
それに価するのだろうか。
「アシャ…」
食いしばる歯を無理矢理開いて尋ねた。
「セールの最後は…どうだった…?」
「聞いてどうする」
冷徹にも響くアシャの声、確かにそうだ、今更確かめたところで何の役にたつ、命は失われ存在は消え去り、既に取り戻せはしないのだぞとアシャの声が詰るようにも聴こえた。
「聞いて……覚えて……忘れない」
口にして、ぐっと胸に詰まった痛みを堪えて一瞬黙り込む。そしてもう一度、始めから。
「セールの最後を、聞いて、決して忘れない」
「何のために」
復讐のためか、いやそれこそ、誇り高い狩人には無用の配慮だろう、アシャはそう続けたそうだ。
ユーノはゆっくり首を振った。
「私に、どれだけ、賭けてくれた人がいたのか」
誰しも己の人生は己のために生きたいだろうに。
狩人もまた、己の本分を尽くしたかっただろうに。
「私をどれだけ大切に想ってくれた人がいたのか」
レスファートの泣き顔が脳裏に甦った。
どうしてぼくを置いていくの。
どうして怪我ばかりして戻ってくるの。
(ああ、本当にそうだ)
愚かな愚かな自分。
身を投げ出すほど支えられていながら、自分一人の願いで突っ走って、どれほどいろんな人に辛い想いをさせたのか。
(私は何にもわかってなかった)
聖女王(シグラトル)に選ばれたということは、狩人全ての終わりを見届けずに果てることは許されないということだ。レスファートから剣を受け取ったということは、彼の幸福を見守らずに逝くわけにはいかないということだ。
(その責任を、ほんの少しもわかっていなかった)
溢れ零れ落ちる涙をユーノは堪えなかった。
泣かなくてはならない。
泣いて刻まなければならない。
己の未熟が一つの命を奪ったのだ。
ユーノはまだまだ未熟だろう。これからも多くの想いを生かせないかも知れない。
「忘れない、のか」
低く問いかけるアシャの声に、顔を振り仰ぐ。
「でなければ、誰がセールに報いてやれる?」
「…」
アシャはユーノを見下ろし、少し、目を細めた。紫色の光り輝く瞳が影を孕んで重く沈む。
「セールの払った代償に見合う、どんなものが私にある?」
「……」
アシャは静かに目を閉じる。
(私は、本当にわかっていなかった)
セレドへ戻らなくてはならないのだ。途中で果てるわけには行かないのだ。なぜなら、ユーノは、ユーナ・セレディスは王位継承に力を持つ存在、セレドが確かに正当な継承者、レアナとそれを支えるアシャに受け継がれるのを見届けずに、旅の空に死ぬことなど許されない。
端整なアシャの顔は白く凍りついたように動かない。
アシャもまた、ユーノのことばに改めてユーノ自身の危うさを思い返しているのだろう。
(そうだ、本当に、私は愚かだった)
アシャも何度も止めてくれたのに。
アシャもまた王位継承者であるが故に、能力の前に必要とされる絶対条件に気づいていたのだろう。
生きていること。
捧げられた忠誠に堪えるためには、まず、生きていなくてはならない。
「……ごめん…」
ユーノは俯いた。
「…ごめんなさい、アシャ」
今まで本当に、ごめんなさい。
ユーノは絞り出すように謝った。
「私、何にもわかってなかった」
自分が哀しいとか、誰かが傷つくのが嫌だとか、そんなこんなに振り回されて、セレドの皇女である意味さえわかっていなかった。
「馬鹿な主でごめんなさい」
でも、どうか。
ずきずき傷むからだと心を必死に押し立て、頭を下げる。
「お願いです。もうしばらく、私に力を貸して。ううん、もうしばらく、見捨てないで」
ユーノ一人では今与えられている忠誠に応じられない。捧げられた祈りに答え切れない。見えないからこそ突っ走って引き受けてしまった責務は、もう身動きできない重荷になっている。ようやくそれがはっきり見えた。
(私じゃ、足りない)
力も知恵も心も体も、何もかも、足りない。
だから、セールを助けられなかった。
だから、レスファートを泣かせてきた。
だから、アシャを、繰り返し窮地に追いやって、ユーノの半端な動きの尻拭いをさせてきた。
「もう無茶はしないから。あなたの意見を聞くから。あなたに相談して、一番いい方法を見つけるから」
もっと鍛えるから。もっと頑張るから。もっと、立派な主になるから。
「だから、アシャ、お願い、もう少しだけ、ううん、セレドに戻れるまで、どうか私と一緒に居て」
「…」
「お願い、します…っ」
「……………ふぅ」
「……?」
ようやくわかったのかと叱り飛ばされるか、今更そんなことを言っても聞いてやらんと詰られるか、そのどちらかだと思っていたのに、沈黙の後零れた、どう聞いてもどこか切なげな溜め息にきょとんとして顔を上げ……上げた瞬間,ユーノは凍りついた。
「っ」
アシャ、泣きそうだ。
緩やかに瞼が上がる。奥に隠されていた瞳には光がたゆたっている。眉を微かに潜め、まるでほんの小さな子どもが大事なおもちゃを奪われたような、それを黙って見ているしかなかったような、唇を曲げて苦しげに、アシャは俯く。
「…アシャ…?」
「……セールが……最後に言った」
さらりと額から零れ落ちた前髪が、アシャの表情を隠した。
「うん?」
「お前が、俺を、もとめている、と」
「えっ……」
どこか舌足らずに聴こえるたどたどしい口調、けれど吐かれたことばは叩きのめすほどの威力がある。
「…」
自分は気を失っている間に何かを口走ってしまったのか。それとも『狩人の山』(オムニド)に居る間に、不可思議な力でユーノの心が読み取られてしまっていたのか。そのあまりにも切実な願いに、セールが伝えようとまでしてくれたのか。
「…本当か?」
アシャは瞬きした。光が瞳に吸い込まれ、かわりにきららかで強い輝きが満ちてくる。
今度はユーノが顔から血の気が引くのを感じた。
(どうしよう)
今ユーノはアシャに懇願した。立派な主になるから、側に居てくれ、と。
しかしそれは、セレドでならまだしも、ここラズーンにおいてはただただ失礼な物言いだったのではないか。あまりにも情けなくて自分勝手な物言いだったので、アシャを傷つけてしまったのではないか。
(どうしよう)
それでもアシャは必要だ。アシャの力も、知恵も、才能も、今のユーノにとっては手放せない。
「…本当だよ…」
声があやふやで息苦しくなった。
「…どういう意味で?」
静かなアシャの問いに追い詰められる。
「どういう、意味…?」
「お前にとって、俺は、何なんだ?」
「っ」
今度こそ、ユーノの全身から、血が音をたてて引いていった。
「っ」
『氷の双宮』の一室、真っ白に洗い立てられたシーツの上で、ユーノが小さく息を吐いた。ぎくりとして振り返り、相手がまだ昏々と眠っているのを確かめ、アシャは微かに溜め息をつく。
「…」
眺めていた『狩人の山』(オムニド)から目を逸らせ、ゆっくりとユーノが眠るベッドに近寄る。ためらった後、そっとその端に腰を降ろした。
「……ユーノ…」
低く呼びかける。だが、相手は未だ目覚める気配はない。
沈んだベッドにことりとユーノの頭が動いた。こちらを振り向く顔、血色は随分ましになったが、顎の下、左肩の包帯の中の傷には新たなものが加わっている。
「………」
アシャは小さく唇を噛んだ。
今回は、包帯を巻いていたのが幸いした。『穴の老人』(ディスティヤト)に引っ張られ,突然自らを襲った剣に、本能なのかとっさにユーノが手を放したおかげで、切っ先は滑って包帯を撫でる形になっていた。触れたものを悉く裂く剣は包帯を切り散らしながら肌まで食い込み、薄皮を削ぎ切りながら血を撒いていた。その奥の太い血管まで達しなかったのは、まさに僥倖だったと言える。
『氷の双宮』の水槽で二日、傷に上皮が張ったのを確認して一昨日ようやくベッドに移し、それから未だユーノは全ての機能を回復に注いでいるように眠り続けている。
「ユーノ…」
また痩せた。
水槽で十分に栄養を注いだはずなのに、また首筋が細くなり、肩が華奢になり、胸も薄くなってしまった。
それでも若さ故だろう、瑞々しく張りつめた肌は少しずつ艶やかな輝きを取り戻し、うなじの滑らかな線も、薄い耳朶の淡い色も、尖り気味の顎へ続く柔らかな頬の産毛も、言うまでもなく微かに開いて吐息を紡ぐふっくらとした唇も、全てがアシャの衝動を誘う。
「…」
唇を開いて首筋に寄せる。微かな熱に胸が轟く。
含みたい。辿りたい。この舌先で煽ってやりたい。声を聞きたい、甘く喘ぐ掠れ声を、受け入れることを堪えながら呼ぶ自分の名前を、呼吸に紛れて消えてしまう小さな悲鳴を。
アシャは薄く目を開いてユーノを見つめる。
疼く熱は体の奥で問い続けている。
「本当なのか…?」
(お前が、俺を、求めていると)
「都合のいい妄想か…?」
問いにユーノは応えない。
眠る呼吸は静かで穏やかで、自分の上にのしかかる餓えた存在に気づかない。
セールが嘘を言うとは思えない、あの状況であの声で。
(ならば、なぜいつも)
「いつも俺の手を払う…? 擦り抜ける…?」
拒んでいるはずではなかったのか。逃げているのではなかったのか。
男女としての交わりではなく、親しい友人として付き合い続ける、その一線を踏み越えてくれるなと、そう願われていたのではなかったのか。
イルファならば言うだろう、嫌がってみせるのは女の性なのだ、と。
『抱き寄せてみて、殴られたら潔く謝ればいいだけのことだろう』
だがアシャはためらう。
『泉の狩人』(オーミノ)との約束を破り、敵に回すのが怖いのではない。それが示した一つの可能性、ユーノには既に想う相手が居て、その相手にのみ貞節を尽くすと決めている、その心情を踏みにじっていくぞという警告が恐ろしい。
今はユーノは眠ってくれている。アシャが側に居ることを容認している、無意識のうちに。
思い出す、セレドの夜、気配一つでアシャを敵と認識して刃を向けた、あの瞳。
そしてまた、ユーノが今示している信頼を裏切った時に彼女が見せた拒否も、アシャの胸には苦しく痛い記憶となって残っている。
(『あの時』お前は俺の手を叩き落とした。触れられるのさえ嫌だと言うように)
ユーノの傷をレアナに見せた、その後しばらく、アシャはユーノに避け続けられていた。予想はしていたが、喪失感がひどすぎて、何とかようやく会話を交わしてみても距離を置かれてそっけなく、耐え切れずに伸ばした手をユーノは見事に拒んでみせた。
(…あんなことは今までなかった)
ユーノから頼られることはなくとも、伸ばした手をあそこまではっきりと拒まれたことなどなかったのに。
失ったのだ、と初めて気づいた。
アシャはユーノを失ってしまった。
拒否は予想していた、嫌われるかも知れないとも思っていた、それだけのことはしている自覚は十分あった。
考えもしていなかったのは、自分がそれに対してどれほど無防備だったのかということだ。
アシャは動揺した。動揺する自分にうろたえた。
ユーノからの拒否が怖い。振り向かれない背中が辛い。微笑み一つ手に入らないのに凍りつく。
たったあれだけのことで、あそこまで拒まれるのなら、もし他に想い人がいるユーノを抱いてしまったら、きっとアシャは自分の意味さえ失ってしまう。
(馬鹿な)
竦む自分を何度も嘲笑った。『氷のアシャ』だぞ、宮廷の美姫、諸国の令嬢、着飾った娘達が我先に微笑みを送ってくる、それと『この娘』を引き換えに?
(どこまでも、馬鹿な)
「…それとも…馬鹿になったのかな、俺は」
呟きが甘い。
目を閉じる。
それほど思い詰めた胸に、二度と想いを告げぬと決心した気持ちに、セールのことばは嵐のように襲い掛かってくる。
(『俺』を求めている…? どういう存在として? 付き人か? 友人か? 兄か? それとも)
旅の空に不安を慰めるただの男として、とか?
(……馬鹿な)
思わず綻んだ自分の顔に嗤う。
(それでも、いいだなんて思ってるんだな)
薄く目を開け、白く光るユーノの額にそっと唇を降ろした。
「…俺を…呼んでくれ」
額に唇を触れて囁く。くすぐったいのだろう、ん、と軽くユーノが鼻声で唸って体をよじる。
「俺を呼べ」
どんな形であろうと構わない。求められるなら、その望まれた形のままに応えよう。付き人ならば最終最後の盾となるように。友人ならば逆境に踏みとどまるように。兄なら嫁ぐのを見守るように。ただの男なら。
「俺を」
吐息でアシャ、と一声求めてくれれば、望むだけの快楽を与えよう、幾度も、繰り返し、満たされ、溢れ、意識を手放すその先まで。
柔らかな温かな匂い、獣のように笑みながら首筋に牙を落とす、その全てを啜るために口を開いた、その瞬間。
「…ん…」
ユーノが目覚めたのがわかった。はっとして顔を上げる、その視線をまっすぐに受け止めて、眠たげに開かれた黒い瞳が二度三度瞬く。
「……アシャ……?」
「……………ああ」
声はアシャを呼んでいなかった。側に来て、と言われたのではなく、そこに居るな、と確認された。一瞬胸に荒れた突風に顔をしかめ、アシャは頷き、体を起こす。
そうだ、約束した、お前の望むままに、求められる形でいようと。
「…俺だ」
『それ』は自分の望む形とは違っているのだ、と、また、遅まきながら自覚した。
「…私……ここは……」
ゆっくりとユーノは視線を動かす。苦しい胸に唇を噛むアシャには気づかぬ顔で。そして、次の瞬間、跳ね起きた。
「あ、つっっ」
胸から左肩にかけて巻かれた包帯を押さえ、顔を歪めながら見上げてくる。
「セールはっ」
「…」
アシャの顔を凝視して、ユーノは目を見開いた。
「……死んだ……のか」
「……ああ」
アシャの同意に見る見る青ざめ、俯く。ばさりと流れた髪の下、悔しそうに噛む唇と震える肩に切ない想いが湧き上がった。
「私の……せいだ……セール…」
掠れた声が続くのにアシャは顔を歪めて目を逸らせる。
(そんなにも、大切そうに、呼ばれるなら)
オレガシネバヨカッタ。
アシャの耳の奥底で、幼い声が小さく弾ける。
(やっぱりあれは、夢じゃなかったんだ)
ユーノは自分を切り刻むように想う。
(私を助けに、来てくれたんだ)
暴走するアシャを止めなくてはならないとわかっていた。けれど四肢は動かず声も出せず、焦燥に身もがいていたユーノの耳に届いた声。
『御安心を。このセール、命に代えて…お護りします』
『我らが……聖女王(シグラトル)……ユーノ…』
『「死の女神」(イラークトル)の……恵みの……もとに…』
(セール!)
『泉の狩人』(オーミノ)はおいそれと『狩人の山』(オムニド)を降りない、降りてはならないと聞いていた。ラフィンニに許可を得たとは思えなかった。なのに、己の生き様、己の本分を越えて来てくれた。
(私は)
それに価するのだろうか。
「アシャ…」
食いしばる歯を無理矢理開いて尋ねた。
「セールの最後は…どうだった…?」
「聞いてどうする」
冷徹にも響くアシャの声、確かにそうだ、今更確かめたところで何の役にたつ、命は失われ存在は消え去り、既に取り戻せはしないのだぞとアシャの声が詰るようにも聴こえた。
「聞いて……覚えて……忘れない」
口にして、ぐっと胸に詰まった痛みを堪えて一瞬黙り込む。そしてもう一度、始めから。
「セールの最後を、聞いて、決して忘れない」
「何のために」
復讐のためか、いやそれこそ、誇り高い狩人には無用の配慮だろう、アシャはそう続けたそうだ。
ユーノはゆっくり首を振った。
「私に、どれだけ、賭けてくれた人がいたのか」
誰しも己の人生は己のために生きたいだろうに。
狩人もまた、己の本分を尽くしたかっただろうに。
「私をどれだけ大切に想ってくれた人がいたのか」
レスファートの泣き顔が脳裏に甦った。
どうしてぼくを置いていくの。
どうして怪我ばかりして戻ってくるの。
(ああ、本当にそうだ)
愚かな愚かな自分。
身を投げ出すほど支えられていながら、自分一人の願いで突っ走って、どれほどいろんな人に辛い想いをさせたのか。
(私は何にもわかってなかった)
聖女王(シグラトル)に選ばれたということは、狩人全ての終わりを見届けずに果てることは許されないということだ。レスファートから剣を受け取ったということは、彼の幸福を見守らずに逝くわけにはいかないということだ。
(その責任を、ほんの少しもわかっていなかった)
溢れ零れ落ちる涙をユーノは堪えなかった。
泣かなくてはならない。
泣いて刻まなければならない。
己の未熟が一つの命を奪ったのだ。
ユーノはまだまだ未熟だろう。これからも多くの想いを生かせないかも知れない。
「忘れない、のか」
低く問いかけるアシャの声に、顔を振り仰ぐ。
「でなければ、誰がセールに報いてやれる?」
「…」
アシャはユーノを見下ろし、少し、目を細めた。紫色の光り輝く瞳が影を孕んで重く沈む。
「セールの払った代償に見合う、どんなものが私にある?」
「……」
アシャは静かに目を閉じる。
(私は、本当にわかっていなかった)
セレドへ戻らなくてはならないのだ。途中で果てるわけには行かないのだ。なぜなら、ユーノは、ユーナ・セレディスは王位継承に力を持つ存在、セレドが確かに正当な継承者、レアナとそれを支えるアシャに受け継がれるのを見届けずに、旅の空に死ぬことなど許されない。
端整なアシャの顔は白く凍りついたように動かない。
アシャもまた、ユーノのことばに改めてユーノ自身の危うさを思い返しているのだろう。
(そうだ、本当に、私は愚かだった)
アシャも何度も止めてくれたのに。
アシャもまた王位継承者であるが故に、能力の前に必要とされる絶対条件に気づいていたのだろう。
生きていること。
捧げられた忠誠に堪えるためには、まず、生きていなくてはならない。
「……ごめん…」
ユーノは俯いた。
「…ごめんなさい、アシャ」
今まで本当に、ごめんなさい。
ユーノは絞り出すように謝った。
「私、何にもわかってなかった」
自分が哀しいとか、誰かが傷つくのが嫌だとか、そんなこんなに振り回されて、セレドの皇女である意味さえわかっていなかった。
「馬鹿な主でごめんなさい」
でも、どうか。
ずきずき傷むからだと心を必死に押し立て、頭を下げる。
「お願いです。もうしばらく、私に力を貸して。ううん、もうしばらく、見捨てないで」
ユーノ一人では今与えられている忠誠に応じられない。捧げられた祈りに答え切れない。見えないからこそ突っ走って引き受けてしまった責務は、もう身動きできない重荷になっている。ようやくそれがはっきり見えた。
(私じゃ、足りない)
力も知恵も心も体も、何もかも、足りない。
だから、セールを助けられなかった。
だから、レスファートを泣かせてきた。
だから、アシャを、繰り返し窮地に追いやって、ユーノの半端な動きの尻拭いをさせてきた。
「もう無茶はしないから。あなたの意見を聞くから。あなたに相談して、一番いい方法を見つけるから」
もっと鍛えるから。もっと頑張るから。もっと、立派な主になるから。
「だから、アシャ、お願い、もう少しだけ、ううん、セレドに戻れるまで、どうか私と一緒に居て」
「…」
「お願い、します…っ」
「……………ふぅ」
「……?」
ようやくわかったのかと叱り飛ばされるか、今更そんなことを言っても聞いてやらんと詰られるか、そのどちらかだと思っていたのに、沈黙の後零れた、どう聞いてもどこか切なげな溜め息にきょとんとして顔を上げ……上げた瞬間,ユーノは凍りついた。
「っ」
アシャ、泣きそうだ。
緩やかに瞼が上がる。奥に隠されていた瞳には光がたゆたっている。眉を微かに潜め、まるでほんの小さな子どもが大事なおもちゃを奪われたような、それを黙って見ているしかなかったような、唇を曲げて苦しげに、アシャは俯く。
「…アシャ…?」
「……セールが……最後に言った」
さらりと額から零れ落ちた前髪が、アシャの表情を隠した。
「うん?」
「お前が、俺を、もとめている、と」
「えっ……」
どこか舌足らずに聴こえるたどたどしい口調、けれど吐かれたことばは叩きのめすほどの威力がある。
「…」
自分は気を失っている間に何かを口走ってしまったのか。それとも『狩人の山』(オムニド)に居る間に、不可思議な力でユーノの心が読み取られてしまっていたのか。そのあまりにも切実な願いに、セールが伝えようとまでしてくれたのか。
「…本当か?」
アシャは瞬きした。光が瞳に吸い込まれ、かわりにきららかで強い輝きが満ちてくる。
今度はユーノが顔から血の気が引くのを感じた。
(どうしよう)
今ユーノはアシャに懇願した。立派な主になるから、側に居てくれ、と。
しかしそれは、セレドでならまだしも、ここラズーンにおいてはただただ失礼な物言いだったのではないか。あまりにも情けなくて自分勝手な物言いだったので、アシャを傷つけてしまったのではないか。
(どうしよう)
それでもアシャは必要だ。アシャの力も、知恵も、才能も、今のユーノにとっては手放せない。
「…本当だよ…」
声があやふやで息苦しくなった。
「…どういう意味で?」
静かなアシャの問いに追い詰められる。
「どういう、意味…?」
「お前にとって、俺は、何なんだ?」
「っ」
今度こそ、ユーノの全身から、血が音をたてて引いていった。
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