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4.『穴の老人』(ディスティヤト)(4)
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「ふ…」
アシャは溜め息をついて目を開けた。
窓の外の喧噪はようやくおさまってきたようだが、夜はこれから深まる時間、夜明けまででもまだまだ遠い。
(眠ったふりも楽じゃない)
特にこの腕に、こいつだけはと想った相手を抱えての床なら、なおさら。
左腕にかかる重みが繰り返す優しい呼吸をしばらく聞きつつ、薄暗い天井を見上げていたが、やがてとうとう耐え切れず、そっと首を回してユーノを見た。
髪の毛がうっとうしそうに目元にかかっている。閉じた瞼には疲れの色が見える。それでも汗ばむこともなく、青白く見えることもない健やかな顔色に、無意識に安堵する。
(いい夢を見ているか…?)
胸の中で囁いた。
小さな唇が開いている。小気味よく肉を喰い千切る歯が並んでいる。微かに見える舌にごくりと唾を呑み込んでしまうのは、もう男の性というべきか。
抱えた腕には、まだ左肩を包んでいる包帯のざらつく感触があった。薄い下着を通して、体温が伝わる、アシャの指先をそそる熱さで。
「……」
そっともう片方の手で左肩を撫でた。
酷い目に合った。酷い目に遭わせてしまった。
付き人としてのアシャは無能の極みに尽きる。いつも主の危機に一歩遅く、主の傷みを増すことばかりしてのける。
なのに、そういうアシャの腕にユーノは無防備に眠ってくれる。
絶対の安心、絶対の信頼。
(安心と、信頼)
恋心、ではなくて。
「……………」
左肩を撫でた指先を静かに背中へ滑らせていった。
本当に華奢な骨格だ。肉も薄いし、強く抱き締めたら、どこか折れそうな気がするのに、この体のどこからあれほどの覇気と気迫が生まれるのか。どこからあの瞬発力と膂力が造り出されるのか。
(痩せたな)
セレドを出たときは、もう少しふっくらした部分があった気がする。乙女としての体格ではないにせよ、肩や腰にもう少し丸みがあった。
けれど今は刮げ落とされ限界まで鍛えられた刃物を思わせる鋭さだ。体の全てが闘うことに準備されている。
(娘、なのに)
しかも、それを強いたのは他ならぬアシャ、ラズーンそのものでさえある。
(だが、そうしなければ今頃は)
指先が下着の上から妙な違和感を捉えた。一瞬留まり、ためらい、やがて顔を歪めながら、アシャはそっと指先を潜り込ませて、直接肌身に触れていく。背中のかなり下、もう少しで腰に至るあたりから、妙につるりとした奇妙な感触の皮膚が上へと伸びているのを、ゆっくり辿る。
「…ん…」
小さく漏れた声にもアシャは指を止めなかった。背中を斜めに断ち切っていくような痛々しい傷痕を、指先の熱で消せないかと思いながら首へ向かって撫で上げていく。
「……ふ…」
「…………」
優しい吐息が響くのに目を閉じ、アシャは傷痕を辿っていった。
僅か十二歳、剣を引っさげ家族を護ろうと走る少女を、味方だとばかり思っていた剣の師匠、ゼラン・バルドスの剛剣が容赦なく斬りつける。咄嗟に振り向いて確かめた相手の顔さえ忘れてしまうほどの衝撃と、全身を苛む激痛に転がったユーノを思うと、こうしていても血の気が引く。
(俺がその場に居たかった)
その場に居て、卑劣な攻撃から護ってやりたかった。振り向こうとするユーノの目を押さえて抱きかかえ、ゼランをアシャの剣で屠ってしまってやりたかった。
指先に傷は幾つも触れる。時につるりと、時にごつごつと、そして明らかに治りかけた傷を何度も抉ったような重なり合った傷がうねりながら続いていく。途切れない。
(もっと早くお前の側に居たかった)
運命を呪う。
時間を呪う。
アシャはなぜセレドに居なかったのだろう。
ユーノがこれほど傷つく前に、ほんの幼い頃から共に居て、ああ、本当に付き人としてずっとずっと一緒に生きてこれれば、こんな傷みは負わせなかったものを。
(そうすれば、これから先、お前から離れていくしかなくとも、もっと気持ちが楽だった)
本当だろうか? むしろ、掌中の玉を誰に奪われるかと付きまとって、ユーノにうるさがられていたかも知れない。
(それでも、今よりずっと、お前と長く居られたんだ)
「ユーノ…」
思わず零れた声が我ながら苦しそうで、思わず低く笑って眉を寄せた。
(お前を抱けるのは、きっと今夜が最後だ)
はっきり意識のあるユーノが、こんな風にアシャに身を委ねることなどあり得ないだろう。この先の動乱で、こんな風にアシャに身を委ねるほど意識がないユーノが居るのなら、それはユーノの死を意味する。
(お前を、失う)
ユーノが傷つくことさえこれほど苦しいのに、この世界にユーノが居なくなる、とは。
(俺は…正気で居られる、のか)
脳裏を掠める闇の草原、金色の魔性となって高く嗤いつつ命を喰らう自分の姿が、今これほどはっきりと目に浮かぶ。
きっと破壊を望むだろう、ユーノが居ないこの世界に、存続する価値など認めないと、真顔で言い切ることだろう。
(誰が俺を狩ってくれる…?)
ミネルバか。ラフィンニか。それとも『太皇(スーグ)』自らか。
ギヌアでは格不足なのは明らかだ、守るものを失くし自分を屠るつもりのアシャに『人』が太刀打ちできるわけもない。
だから、それほどの災厄となる前に、アシャはユーノを諦めなくてはならないのだろう、まだ『人』でいるうちに。
(諦められるか? 諦められるのか、本当に?)
指に伝わる傷ついた躯、鼻先を掠める髪の匂いに、思わずそっと唇を触れる。静かに頬をすり寄せる。
(俺は…どうしてもっと早く、お前を自分のものにしておかなかったんだろうな)
苦く嗤った。
それこそ旅の始めなら、ユーノも世界の大きさに驚いていたし、不安も心細さもあっただろう。時折見た、どこか無防備な表情に付け入る隙も山ほどあったはず、そんな手管は両手に余るほど知っていたはずなのだ。
(あの頃なら、俺の腕に崩れてくれたかも知れない)
一瞬の妄想、だが駆け上がった衝撃は予想以上、思わず口を開いてユーノの髪を軽く噛んだ。たかが髪の毛、温もりもなければ気配も宿らない、もっと近しくもっと温かなものが欲しくて、何度も額に唇を触れかけては『聖なる輪』(リーソン)に気づき堪えて離れ、かろうじて顔を背けて頬を押し当てることで我慢する。
(考えてみれば、出逢った時から気になって、気になり続けて)
セレドの第一皇女レアナは、確かに噂以上の美姫だった。ラズーンから離れて旅から旅の暮らしを、一時留まってもいいと思わせるほどの貴婦人だった。
けれどユーノは、もっと切実な、もっと肌に近い、もっと、まるで、アシャにずっと欠けていた、何か、のような。
「…っ」
失いたくない。
がつっ、と胸の中で何かが壊れた。荒々しくユーノの躯を引き寄せる。素肌を触れていた背中ごと抱き寄せ、その肢体の全てを自分の細胞に取り込もうとするように抱き竦める。髪から耳元へ一気に唇を滑らせていく。
「…は…っっ」
引き寄せられたユーノは目覚めない。目覚めないまま、抱き竦められてアシャの肩口に顔を埋めた相手の唇が直接アシャの素肌に触れる。じん、と鈍い熱さに灼かれて疼く、まっすぐアシャの体の中央を容赦なく貫いて、命の鼓動に炎を叩きつける。
(俺のものになるのは嫌か? お前の心には、もう他の誰かがいるのか?)
胸で繰り返した問いには自分で答える、そんなものは消してやる、今ここに、アシャの印を刻みつけて、視界の全て、体の全てにアシャの存在を焼き付けて、アシャの声しか聞こえぬように、アシャの目しか見ないように、アシャのことしか考えられなくなるように、ユーノの自我を欠片さえ残さず喰らい尽くして蹂躙する。
「ユーノ…」
薄笑いしながらユーノの耳朶に快楽を注ごうと含みかけた、その途端。
その程度の覚悟か。
「っっ」
冷酷な声が遥か背後から響き渡って、一瞬にして凍りついた。
(ラ…フィン…ニ…)
『ユーノには、既に想い人がいる』
『泉の狩人』(オーミノ)の長はそう言わなかったか。
雪と氷に閉ざされた闇、世界の裏側で魔性としての命を抱え続けた長の冷笑が轟く。
アシャ、そなたはもう少しましな男だと思っておったわ。見苦しい。
「…く…っ」
(安心と、信頼)
ユーノから得たものは、たったその二つ。
けれど今、アシャはその二つさえも粉々に砕こうとしているのではないか。
(俺は)
ユーノを失いたくない。だが、それよりもなお。
(ユーノを、もう、傷つけたくない)
後少しで耳に触れようとしていた唇を、アシャは静かに閉じた。強く引き締め、それでも開いて温もりを求めようとする唇で、代わりに小さく切なく呼びかける。
「ユーノ」
(俺は、お前を、傷つけない)
「俺は……お前の……付き人…だよ、な……」
ゆっくり大きく呼吸を繰り返す。高ぶった気持ち、体に籠った熱を、一息ごとに吐き出していく。
(『氷のアシャ』が何てザマだ)
「俺は…お前を…護る為に居る…んだよな…」
怪我をしているわけではない、意識がなくなっているわけでもない、それでもユーノはアシャの腕で熟睡している、絶対の安全圏と信じ切って。
あのユーノが。
セレドの夜に、あれほど冷ややかにアシャを見下ろしていたユーナ・セレディスが。
『そなたの想いとはそんなものだったのか。己一人の欲情も御せぬとは……「氷のアシャ」も落ちぶれたものよ、のう?』
嘲笑うラフィンニの快哉が、闇の向こうから聞こえる気がする。
『やはりそなた達には任せておけぬ。聖女王(シグラトル)は我らが護ろう』
続く哄笑は昏迷の闇を踏みにじって幾重にも鳴り響く。
『愚かなり、人間。やはりそなた達は滅ぶのが世のため、我らが蹄の下に崩れ散るがいい!』
あーっはははははははあああっっ!
「…ふ……ぅ…」
アシャはのろのろと体を横たえた。これだけのことをしてのけても、一向に目を覚まさないユーノ、本当に眠ってしまっているのか、それとも予想もしていなかったアシャの狂態に息を潜めているだけか。
だがそれはたった一つの事実をアシャに突きつけているのではないか。
(聖女王(シグラトル)……聖なる少女……この腕にあっても、俺のものには、ならない)
胸にあたるユーノの唇の柔らかさが、皮膚を通して心臓の真裏まで染み通ってくる。目を閉じて、その艶やかな温もりだけを味わっていると、静かに続く寝息が、荒れ乱れた自分の呼吸を優しく窘めていくようだ。
「……よく…眠ってるよなあ…」
自分の声は迷子になった子どものようだった。目的地はわかっているのに、そこに至る道も、目印も捜し出せず、握りしめた地図を開くことさえできずに途方にくれている。
そっと、力を緩めた。
ころりとごく自然にユーノの体が外へと零れ出す。
追いたくて、けれどもう、近づけなくて。
「俺はお前の枕程度か」
ユーノは起きない。アシャの腕に頬を当てている顔はひどく幼い。二人の間に開いた距離を寒がることも心細がることもなく、静かに安らいで眠っている。むしろ、どこかほっとした顔で微笑んでさえいるように見える。
縮まらない。
これほどの想いを叩きつけても、この距離はどうにもできない。
(お前が休めるのなら、それでいいんだろう、きっと)
怪我をしている主を安らがせているのだから、十分正しい働きなのだろう。
だが。
「……今夜は少し、辛い、な」
アシャは呻いて目を閉じた。
無意識のうちに、強く唇を噛みしめた。
アシャは溜め息をついて目を開けた。
窓の外の喧噪はようやくおさまってきたようだが、夜はこれから深まる時間、夜明けまででもまだまだ遠い。
(眠ったふりも楽じゃない)
特にこの腕に、こいつだけはと想った相手を抱えての床なら、なおさら。
左腕にかかる重みが繰り返す優しい呼吸をしばらく聞きつつ、薄暗い天井を見上げていたが、やがてとうとう耐え切れず、そっと首を回してユーノを見た。
髪の毛がうっとうしそうに目元にかかっている。閉じた瞼には疲れの色が見える。それでも汗ばむこともなく、青白く見えることもない健やかな顔色に、無意識に安堵する。
(いい夢を見ているか…?)
胸の中で囁いた。
小さな唇が開いている。小気味よく肉を喰い千切る歯が並んでいる。微かに見える舌にごくりと唾を呑み込んでしまうのは、もう男の性というべきか。
抱えた腕には、まだ左肩を包んでいる包帯のざらつく感触があった。薄い下着を通して、体温が伝わる、アシャの指先をそそる熱さで。
「……」
そっともう片方の手で左肩を撫でた。
酷い目に合った。酷い目に遭わせてしまった。
付き人としてのアシャは無能の極みに尽きる。いつも主の危機に一歩遅く、主の傷みを増すことばかりしてのける。
なのに、そういうアシャの腕にユーノは無防備に眠ってくれる。
絶対の安心、絶対の信頼。
(安心と、信頼)
恋心、ではなくて。
「……………」
左肩を撫でた指先を静かに背中へ滑らせていった。
本当に華奢な骨格だ。肉も薄いし、強く抱き締めたら、どこか折れそうな気がするのに、この体のどこからあれほどの覇気と気迫が生まれるのか。どこからあの瞬発力と膂力が造り出されるのか。
(痩せたな)
セレドを出たときは、もう少しふっくらした部分があった気がする。乙女としての体格ではないにせよ、肩や腰にもう少し丸みがあった。
けれど今は刮げ落とされ限界まで鍛えられた刃物を思わせる鋭さだ。体の全てが闘うことに準備されている。
(娘、なのに)
しかも、それを強いたのは他ならぬアシャ、ラズーンそのものでさえある。
(だが、そうしなければ今頃は)
指先が下着の上から妙な違和感を捉えた。一瞬留まり、ためらい、やがて顔を歪めながら、アシャはそっと指先を潜り込ませて、直接肌身に触れていく。背中のかなり下、もう少しで腰に至るあたりから、妙につるりとした奇妙な感触の皮膚が上へと伸びているのを、ゆっくり辿る。
「…ん…」
小さく漏れた声にもアシャは指を止めなかった。背中を斜めに断ち切っていくような痛々しい傷痕を、指先の熱で消せないかと思いながら首へ向かって撫で上げていく。
「……ふ…」
「…………」
優しい吐息が響くのに目を閉じ、アシャは傷痕を辿っていった。
僅か十二歳、剣を引っさげ家族を護ろうと走る少女を、味方だとばかり思っていた剣の師匠、ゼラン・バルドスの剛剣が容赦なく斬りつける。咄嗟に振り向いて確かめた相手の顔さえ忘れてしまうほどの衝撃と、全身を苛む激痛に転がったユーノを思うと、こうしていても血の気が引く。
(俺がその場に居たかった)
その場に居て、卑劣な攻撃から護ってやりたかった。振り向こうとするユーノの目を押さえて抱きかかえ、ゼランをアシャの剣で屠ってしまってやりたかった。
指先に傷は幾つも触れる。時につるりと、時にごつごつと、そして明らかに治りかけた傷を何度も抉ったような重なり合った傷がうねりながら続いていく。途切れない。
(もっと早くお前の側に居たかった)
運命を呪う。
時間を呪う。
アシャはなぜセレドに居なかったのだろう。
ユーノがこれほど傷つく前に、ほんの幼い頃から共に居て、ああ、本当に付き人としてずっとずっと一緒に生きてこれれば、こんな傷みは負わせなかったものを。
(そうすれば、これから先、お前から離れていくしかなくとも、もっと気持ちが楽だった)
本当だろうか? むしろ、掌中の玉を誰に奪われるかと付きまとって、ユーノにうるさがられていたかも知れない。
(それでも、今よりずっと、お前と長く居られたんだ)
「ユーノ…」
思わず零れた声が我ながら苦しそうで、思わず低く笑って眉を寄せた。
(お前を抱けるのは、きっと今夜が最後だ)
はっきり意識のあるユーノが、こんな風にアシャに身を委ねることなどあり得ないだろう。この先の動乱で、こんな風にアシャに身を委ねるほど意識がないユーノが居るのなら、それはユーノの死を意味する。
(お前を、失う)
ユーノが傷つくことさえこれほど苦しいのに、この世界にユーノが居なくなる、とは。
(俺は…正気で居られる、のか)
脳裏を掠める闇の草原、金色の魔性となって高く嗤いつつ命を喰らう自分の姿が、今これほどはっきりと目に浮かぶ。
きっと破壊を望むだろう、ユーノが居ないこの世界に、存続する価値など認めないと、真顔で言い切ることだろう。
(誰が俺を狩ってくれる…?)
ミネルバか。ラフィンニか。それとも『太皇(スーグ)』自らか。
ギヌアでは格不足なのは明らかだ、守るものを失くし自分を屠るつもりのアシャに『人』が太刀打ちできるわけもない。
だから、それほどの災厄となる前に、アシャはユーノを諦めなくてはならないのだろう、まだ『人』でいるうちに。
(諦められるか? 諦められるのか、本当に?)
指に伝わる傷ついた躯、鼻先を掠める髪の匂いに、思わずそっと唇を触れる。静かに頬をすり寄せる。
(俺は…どうしてもっと早く、お前を自分のものにしておかなかったんだろうな)
苦く嗤った。
それこそ旅の始めなら、ユーノも世界の大きさに驚いていたし、不安も心細さもあっただろう。時折見た、どこか無防備な表情に付け入る隙も山ほどあったはず、そんな手管は両手に余るほど知っていたはずなのだ。
(あの頃なら、俺の腕に崩れてくれたかも知れない)
一瞬の妄想、だが駆け上がった衝撃は予想以上、思わず口を開いてユーノの髪を軽く噛んだ。たかが髪の毛、温もりもなければ気配も宿らない、もっと近しくもっと温かなものが欲しくて、何度も額に唇を触れかけては『聖なる輪』(リーソン)に気づき堪えて離れ、かろうじて顔を背けて頬を押し当てることで我慢する。
(考えてみれば、出逢った時から気になって、気になり続けて)
セレドの第一皇女レアナは、確かに噂以上の美姫だった。ラズーンから離れて旅から旅の暮らしを、一時留まってもいいと思わせるほどの貴婦人だった。
けれどユーノは、もっと切実な、もっと肌に近い、もっと、まるで、アシャにずっと欠けていた、何か、のような。
「…っ」
失いたくない。
がつっ、と胸の中で何かが壊れた。荒々しくユーノの躯を引き寄せる。素肌を触れていた背中ごと抱き寄せ、その肢体の全てを自分の細胞に取り込もうとするように抱き竦める。髪から耳元へ一気に唇を滑らせていく。
「…は…っっ」
引き寄せられたユーノは目覚めない。目覚めないまま、抱き竦められてアシャの肩口に顔を埋めた相手の唇が直接アシャの素肌に触れる。じん、と鈍い熱さに灼かれて疼く、まっすぐアシャの体の中央を容赦なく貫いて、命の鼓動に炎を叩きつける。
(俺のものになるのは嫌か? お前の心には、もう他の誰かがいるのか?)
胸で繰り返した問いには自分で答える、そんなものは消してやる、今ここに、アシャの印を刻みつけて、視界の全て、体の全てにアシャの存在を焼き付けて、アシャの声しか聞こえぬように、アシャの目しか見ないように、アシャのことしか考えられなくなるように、ユーノの自我を欠片さえ残さず喰らい尽くして蹂躙する。
「ユーノ…」
薄笑いしながらユーノの耳朶に快楽を注ごうと含みかけた、その途端。
その程度の覚悟か。
「っっ」
冷酷な声が遥か背後から響き渡って、一瞬にして凍りついた。
(ラ…フィン…ニ…)
『ユーノには、既に想い人がいる』
『泉の狩人』(オーミノ)の長はそう言わなかったか。
雪と氷に閉ざされた闇、世界の裏側で魔性としての命を抱え続けた長の冷笑が轟く。
アシャ、そなたはもう少しましな男だと思っておったわ。見苦しい。
「…く…っ」
(安心と、信頼)
ユーノから得たものは、たったその二つ。
けれど今、アシャはその二つさえも粉々に砕こうとしているのではないか。
(俺は)
ユーノを失いたくない。だが、それよりもなお。
(ユーノを、もう、傷つけたくない)
後少しで耳に触れようとしていた唇を、アシャは静かに閉じた。強く引き締め、それでも開いて温もりを求めようとする唇で、代わりに小さく切なく呼びかける。
「ユーノ」
(俺は、お前を、傷つけない)
「俺は……お前の……付き人…だよ、な……」
ゆっくり大きく呼吸を繰り返す。高ぶった気持ち、体に籠った熱を、一息ごとに吐き出していく。
(『氷のアシャ』が何てザマだ)
「俺は…お前を…護る為に居る…んだよな…」
怪我をしているわけではない、意識がなくなっているわけでもない、それでもユーノはアシャの腕で熟睡している、絶対の安全圏と信じ切って。
あのユーノが。
セレドの夜に、あれほど冷ややかにアシャを見下ろしていたユーナ・セレディスが。
『そなたの想いとはそんなものだったのか。己一人の欲情も御せぬとは……「氷のアシャ」も落ちぶれたものよ、のう?』
嘲笑うラフィンニの快哉が、闇の向こうから聞こえる気がする。
『やはりそなた達には任せておけぬ。聖女王(シグラトル)は我らが護ろう』
続く哄笑は昏迷の闇を踏みにじって幾重にも鳴り響く。
『愚かなり、人間。やはりそなた達は滅ぶのが世のため、我らが蹄の下に崩れ散るがいい!』
あーっはははははははあああっっ!
「…ふ……ぅ…」
アシャはのろのろと体を横たえた。これだけのことをしてのけても、一向に目を覚まさないユーノ、本当に眠ってしまっているのか、それとも予想もしていなかったアシャの狂態に息を潜めているだけか。
だがそれはたった一つの事実をアシャに突きつけているのではないか。
(聖女王(シグラトル)……聖なる少女……この腕にあっても、俺のものには、ならない)
胸にあたるユーノの唇の柔らかさが、皮膚を通して心臓の真裏まで染み通ってくる。目を閉じて、その艶やかな温もりだけを味わっていると、静かに続く寝息が、荒れ乱れた自分の呼吸を優しく窘めていくようだ。
「……よく…眠ってるよなあ…」
自分の声は迷子になった子どものようだった。目的地はわかっているのに、そこに至る道も、目印も捜し出せず、握りしめた地図を開くことさえできずに途方にくれている。
そっと、力を緩めた。
ころりとごく自然にユーノの体が外へと零れ出す。
追いたくて、けれどもう、近づけなくて。
「俺はお前の枕程度か」
ユーノは起きない。アシャの腕に頬を当てている顔はひどく幼い。二人の間に開いた距離を寒がることも心細がることもなく、静かに安らいで眠っている。むしろ、どこかほっとした顔で微笑んでさえいるように見える。
縮まらない。
これほどの想いを叩きつけても、この距離はどうにもできない。
(お前が休めるのなら、それでいいんだろう、きっと)
怪我をしている主を安らがせているのだから、十分正しい働きなのだろう。
だが。
「……今夜は少し、辛い、な」
アシャは呻いて目を閉じた。
無意識のうちに、強く唇を噛みしめた。
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