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『午前2時』4.アイ(3)

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「はい、朝倉ですが」
「あの…夜分申し訳ありません。松本理矢子と申しますが、そちらに滝志郎さんて方……」
「松本理矢子……え?! ヤコ?!」
『ロウ君なの?!』
 電話の向こうの声が弾ける。
「久し振りだな! 何だ? どうした、今頃?」
「あ…ごめんなさい、本当、こんな夜中に。けど、ううん、その、急にイギリスの方へ行くことになってね……明日の朝早く発つんだけど、朝だったら、ロウ君、起きてないと思って……ほら、いつも朝遅かったでしょ?』
「あ…なるほどな。へええ、イギリスか。どうしてまた?」
『うん…その……うちの主人の都合で…向こうの人なのよ』
「ああ……確か外交官だっけ。へえ、そうかあ、イギリスかぁ」
「それで、どうしても今、ロウ君に伝えたいことがあって』
「ん?」
『……高三の頃の、こと…』
 理矢この声がわずかに沈んだ。
『あの電話のせいで、ロウ君、二年も回り道したんだって、人に聞いたの。…あれがそうだったのね。あれ、ロウ君が取ってたら、ロウ君、もっとスムーズに大学行けてたのね』
「え…お、おい?」
 理矢子のことばの意味がわからず、思わず聞き直した。
 何のことだ? ひょっとして、ヤコが取った電話のことか?
「あれがそうだったのねって…あれ取ったの、お前だろ? それで、間違いだったって」
『そう……だけど、あの電話が「そう」だったって、私、知らなかったのよ』
「知らなかった?」
 無意識に背後を振り返る。周一郎は片頬を枕に埋めてこっちを見ている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ヤコ。確かめたいんだが、今、何時だ?」
『今? ………2時47分』
「…寝ぼけてはいないわけだ」
『当たり前でしょ! 誰が寝惚けて謝るもんですか』
「謝る? 高三の時のことを、か?」
『うん。ごめんね、ロウ君。私、あの時、一瞬迷ったのよ。迷って、自分の方を取ってしまったの』
「……ヤコ。できれば粗筋か、要約が知りたいんだが…」
 俺は溜め息混じりにお願いした。
『あの…ね…あの時、電話を取った時、私、一瞬何も聞こえなかったの』
「え?」
『あの、数ヶ月前から、そんな事が時々あったの。急に耳が聞こえなくなって、訳のわからない不安感が襲ってくる時が』
 ヤコは深い憂いに沈んだ声で続けた。
『それで、あの電話を取った時がそうだったの……後から医者に聞いたら、器質的なものだって……でも、その時、私は、聞こえないと言うことを知られたくなかったのよ。声楽の方も決まっていたし…』
 言われて気づいた。
 声楽家としての道が開かれていたヤコ。もし、その時、耳が聞こえなくなる時があるとわかれば、その道は完全に閉ざされてしまっていただろう。親が居る環境でも難しい道が、俺達のような孤児となれば、次のチャンスがなお少なくなるのはお互いよくわかっている。
『だから……ロウ君への電話かもしれない、と思った。同時に、そうじゃないのかもしれない、とも思った。確率は五分五分で………でも、もし私の耳がそんなことになっているとわかったら、道は閉ざされていたでしょうね、完全に。だから、私……自分を採ったの、ロウ君より……自分を採ったのよ』
 目の奥に、あの時のヤコの苦しそうな悲しそうな顔が浮かんだ。
『ごめんね、ロウ君。後で人に聞いて、ロウ君が二年、アルバイトし続けたって聞いて……私のせいだと思ったのよ。私があの時、言ってさえいれば良かったんだって。だって……その頃には私、耳の方が悪化して声楽は諦めていたから……。何の為に声楽の方を選んじゃったんだろうって、ひどく後悔したわ。そのせいで、ロウ君に言いたかったことも言えなくなったし……ごめんね、ロウ君』
 脳裏に高校を卒業してからのことが浮かぶ。根が少々のことでは堪えない質だから、辛いとはあんまり思わなかったが、情けない思いは澱んでいた。俺って人間はそれほどダメな人間なんだろうか。頑張っても何もできないんだろうか。落ち込んだのも一度や二度ではない。
 もし、あの時、ヤコが俺にきちんと伝えてくれていたなら。 
『それで……手紙を渡してもらったでしょ? 8時、「ソル」でって…』
「え? あれ、ヤコだったのか?」
『そう』
「でも、R.K.って…」
『ああ』
 くすっと寂しそうな笑い声が響いた。
『私、今は柏木理矢子なの。……つい、今の頭文字、使っちゃったのね。ロウ君には昔のままの松本理矢子でいようと思ってたのに』
 小さく溜め息をついて続ける。
『すっぽかしてごめんね。何か、怖かったの……ロウ君にちゃんと話そうと思って手紙を出したのに、自分が情けなくて、恥ずかしくって……行けなかった…』
 心の中で渦巻いていたややこしい感情は、どう言えばいいのだろう。腹立たしいような、悔しいような、悲しいような、切ないような。
 そんなこと、今更言ってもらってもどうにもならないだろう、今から高三の時に戻れるわけはないのだから。
 ただ、そう罵倒してしまうには、ヤコの声があまりにも辛そうで、無意識に返していた。
「いいよ」
『え?』
「もう、いいよ」
 気持ちが溢れる。
 そうだ、もういい。ヤコは十分悩んだんだろ? いつ俺のことを知ったのかは知らないけど、ひょっとしたら、それからずっと気にしてくれたんだろ? それでわざわざ『ソル』に俺を呼び出して、それでも結局来れなくて。なあ、ヤコ? 負けず嫌いで一所懸命で、こんな時間にわざわざ電話してきてさ。俺がそう言うのに非常に弱いっていうのを、ヤコは知ってたんだろうか?
 もういいよ、ヤコ。もういいから、そんな辛そうな声を出すなよ。
『ロウ君…』
「結局なるようになったんだと思うよ。だから、気にしなくていいよ」
『…ロウ君…』
 受話器の向こうのヤコの声は、滲んだような甘酸っぱさを湛えていた。
「電話、ありがとう。イギリス、気を付けて行ってこいよな」
『うん…うん、ロウ君』
 一瞬ヤコの声が、高三の頃のヤコの声になっていた。あの時まで好ましく思っていた少女の、魅力的な声に。
 ヤコに魅かれていたことがあった。だからこそ、裏切られたのが苦かった。けれど今、その苦さは俺の心の中で、何かもっと優しいものに変わっていた。
『じゃ…ロウ君…』
「ああ。旦那によろしく」
『うん…また、イギリスへ来てね、歓迎するから』
「もし、行けたらな」
 チン、と切れた通話。しばらく未練たらしく受話器を持っていた。
 溜め息一つ。
 おそらく、これで良かったんだ。
 受話器を置いて振り返ると、周一郎はいつの間にか寝入ってしまっていた。ルトも背中を丸くして眠り込んでいる。
「やっと寝たか」
 椅子に腰を下ろし、冷めたコーヒーを一口含んだ。
 ふと、ヤコの言いたくて言えなかったことというのは何だったんだろう、と思った。

 
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