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『午前2時』4.アイ(1)
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「ふ、う…」
半分泥水状態になった頭をぼんやりと振った。
時計は午前2時を少し過ぎている。
レポートはようよう1/3ほど進んだばかりで、この分じゃ完徹どころか『今朝』の朝食も摂らずにレポートを書き続け、加えて駅まで全力疾走しなくちゃならない。
「コーヒーでも淹れてくるか…」
ぼやきながら椅子の背に凭れ、うん、と伸びをした。硬くなった筋肉がみりみりと音を立てて引き伸ばされていく。自然と呼吸が止まって、息を詰め、そのままで耐えられるだけ伸びをし続けてから、だらんと両腕から力を抜いた。
「はあふ」
一瞬あまりの開放感に胸が詰まって、慌てて息を吐いた。
このあたりまでなら『快い疲労感』で済むのだが、これがもっと度が進むと、ヌタヌタの疲労感、やりきれない疲労感となって、挙げ句の果てに疲労感も感じない修羅場となる。
「あと2/3かよ…」
思わず溜め息が出た。
どこかに古びたランプでもないかと部屋を見回す。ランプの精にでも助けてもらわなければ、朝まで頑張る根性が擦り切れてしまう。
残念ながら、部屋の趣味のいい調度のどこにも、怪しげで古めかしいランプはなかった。ランプどころか、驚くほど整頓された部屋には装飾品の類が全くなかった。
俺がこの部屋に入るのは、確か3回目だ。
2回目がついこの間、周一郎が疲労でぶっ倒れて見舞いに来た時。
1年以上同じ屋根の下に居て、この部屋に入ったのが3回目というのは妙な気がする。
なにせ、俺は今までプライベートな個人部屋というものを全く持っていなくて、側にはいつも誰かがたむろしていた。施設では言うに及ばず、下宿しても、宮田とかお由宇とかなぜか山根とか、或いは全く別の友人とか、とにかく誰かしらがいつも側に居た気がする。
だからつい、他の人間もそうなんだろうと思っていたところがあって、周一郎みたいに、誰かが側に居るのを嫌がる人間がいるというのは、ちょっとした不思議だった。
(それも、苦しい時ほど、人を遠ざけたがる人間がいる、なんてな)
苦しい時には誰かに助けを求めたい。淋しい時や悲しい時には誰かに側に居て欲しい。それは人間として当たり前のことだと思う。
弱いと言うならそれでもいいが、人間なんて、そんな強いもんじゃない。
「…」
ゆっくり、周一郎に顔を向ける。
部屋でついている明かりは、俺が持ち込んだ簡易式の小さな机の上にあるスタンド一つだ。
光は部屋の中にぼんやりとした明るさとぼんやりした影を作っている。その光を避けるように、周一郎はベッドで丸くなっている。端正な顔立ちは心持ちしかめられていて、握った拳をベッドに押し付けるように、かすかに寝息を立てている。汗が薄く滲んでいる。熱はまだ下がってないのだろう。
周一郎の側で、ルトは小さな体を緊張させて蹲っていた。眠っていないことは目でわかる。金色の、光を浴びて燻したような輝きをたたえた瞳で、ルトはじっと俺を見つめていた。
「寝ないのか?」
周一郎を起こさないように、声の調子を落として尋ねてみる。
ルトは大きすぎる耳をぴくりと震わせ、俺の声に含まれたニュアンスを全て聞き取ろうとでもするように、くるりとこちらへ向けて立てた。青灰色の毛が光を跳ねて、周りにほのかな後輪を作る。
「にゃ…ん」
ルトも声を落として答え、俺を見つめた。ふと、その金目の後ろに、周一郎の透明な瞳があるように思えた。
「ひょっとして、周一郎も起きてるんじゃないか? ……お前の目の向こうで」
「…」
今度はルトは答えず、伸ばした前足の上に小さな顎を乗せた。耳を少し倒し、遠い悲しげな目になる。ルトの目、というよりは、背後の周一郎の目のようだ。
「そうやって、一晩中、起きていることもあったのか?」
「にぃ…」
珍しくンチメンタルな声を出した。そうっと誘うように頭を上げ、耳を寝かせてもう一度鳴く。
「にぃぃん…」
だって。
そう鳴いたように聞こえた。
だって、眠ってなんか、いられなかったんだ。
脳裏に、美華や山本や若子夫人、桜井の顔が過っていく。
『…居場所がないのは……あんまり…変わらなかった…』
淋しそうな周一郎の表情がオーバーラップして、ことばが耳にこだまする。
(そう、か)
朝倉家へ来た周一郎は、どれほど多くの視線に晒されていただろう。
当主大悟の決めたことだ、誰も表立って文句は言わなかったかも知れない。けれど、既にもう一つの視界を得ていた周一郎にとって、周囲の本音などはガラス越しだったはずだ。
にこやかな女達の笑みの後ろにあるのは物珍しさと好奇心、見かけの端正さに対する欲望だ。男達の平然とした表情の裏には、嫉妬心と『化け物』に対する優越感が渦巻いている。
それらを含んだ、そして最もそれらを透かして見せてくれる目。目。目。
孤独と人間不信に疲れ切ってこの部屋に戻って来ても、きっとろくに眠ることがなかった、ほんの『ガキ』の周一郎。
「………」
溜め息をついて立ち上がった。近寄ってタオルを取る。タオルはじっとりとした重さに、淀むような熱をたたえていた。
「下がってないな」
タオルを水に浸して数回中で絞り直す。部屋が暖かいせいか、洗面器の水はもう温くなっている。絞ったタオルを丁寧にたたみ、周一郎の額に載せた。
ふ、とふいに相手が目を開ける。
「…苦しくないか?」
周一郎は緩く首を振った、
「コーヒ、淹れてくるけど……何か欲しいものがあるか? 大したものは出来んが、牛乳ぐらいは温めてこれるぞ」
「いいえ」
周一郎は嬉しそうに微笑した。
「そ…か。何か欲しいものがあったら言えよ、持って来てやるからな」
「はい」
大人しく頷いて目を閉じる。
(あんまり素直すぎるのも不気味なもんだな)
洗面器を持ってドアに向かい、片手で開いて通り抜け、今度は足で蹴って閉めようとすると、いつの間にベッドから降りて来たのか、ルトがギリギリでドアの隙間をすり抜けてくる。
「ご主人の方はいいのか?」
「にゃあ」
「ふうん」
周一郎の部屋を離れ、洗面器を両手で支えてゆっくりと階段を降りる。こんなところで転んでみろ、なかなか楽しいことになる。
「おい…こら、あまりまとわりつくな」
ただでさえ足元が見えにくくて危なっかしい俺なのに、ルトはじゃれつくように一緒に階段を降りてくる。
「こら…こらって。うろちょろしてると尻尾を踏んじまうって」
「にゃっ」
悲鳴じみた俺の声に、へ、、誰が踏まれるかい、と言いたげに、ルトはひょいと横へ逃げて見せた。鼻白む俺を見上げて、光沢のある牙を煌めかせる。
「わかったわかった、お前さんがすばしこいのは十分わかったから」
思わず立ち止まり、たぷんと揺れた水にひやりとした。止まった俺の足にルトが体を擦り付けて頭を伸ばし、珍しく撫でてくれ、と要求してくる。
「周一郎だけかと思ったが、お前も熱があるのか?」
「にゃあうん」
駄目なのか?
そう聞こえたほど露骨に、ルトは俺を見上げた。金目があまりにも一所懸命に見えたから、つい、踊り場でしゃがみ込み、洗面器を置いて、ルトの頭から背中へと手を滑らせた。
全く何が悲しくて、夜中の階段の踊り場で猫を撫でてなくちゃならんのか。
そうは考えたものの、ルトガ気持ち良さそうに目を閉じる仕草に、つい、まあいいやと思ってしまった。
まあいいや。夜中に猫を撫でてる酔狂な男が一人ぐらい居たって、世界平和には問題ないだろうし、地球滅亡の危機も引き起こさないだろう。
(けどまあ)
これが大体、厄介事を引き寄せる原因だったりするわけだよなあ。
「ふむ」
ルトを撫でる手を止める。
そうとも、まあいいやと思ってしまうから、いつも損な役ばかり割り振られる羽目になるのではなかったか。
俺の手が止まったのに、ルトはぱっちりと目を開けた。さっきまでの従順さが嘘のようにきゅっ
と鼻に皺を寄せ、口の両端を吊り上げる。にやあっと崩れるふてぶてしい笑い方だ。ぎょっとする俺の隙をついて、あっという間に爪を立て、俺の肩へとよじ登る。
「痛い痛い痛い……こらルト!」
「にゃあ?」
「重いだろ!」
「にゃーん」
知るかい。騙された方が悪いのさ。そう聞こえた。
「計略かあ?」
「にゃん」
「そうはっきり答えんなよ」
顔が見えないのではっきりわからないが、気配から察すると、例の、半分嘲りのこもった『笑い方』をしているのに違いない。
「ルト!」
呼びかけてももう、返事もしなければ、擦り寄ることもない。
「ちぇっ」
仕方なしに俺は、肩にルトを載せたまま、もう一度洗面器を持ち上げ、階下の食堂へと降りていった。
半分泥水状態になった頭をぼんやりと振った。
時計は午前2時を少し過ぎている。
レポートはようよう1/3ほど進んだばかりで、この分じゃ完徹どころか『今朝』の朝食も摂らずにレポートを書き続け、加えて駅まで全力疾走しなくちゃならない。
「コーヒーでも淹れてくるか…」
ぼやきながら椅子の背に凭れ、うん、と伸びをした。硬くなった筋肉がみりみりと音を立てて引き伸ばされていく。自然と呼吸が止まって、息を詰め、そのままで耐えられるだけ伸びをし続けてから、だらんと両腕から力を抜いた。
「はあふ」
一瞬あまりの開放感に胸が詰まって、慌てて息を吐いた。
このあたりまでなら『快い疲労感』で済むのだが、これがもっと度が進むと、ヌタヌタの疲労感、やりきれない疲労感となって、挙げ句の果てに疲労感も感じない修羅場となる。
「あと2/3かよ…」
思わず溜め息が出た。
どこかに古びたランプでもないかと部屋を見回す。ランプの精にでも助けてもらわなければ、朝まで頑張る根性が擦り切れてしまう。
残念ながら、部屋の趣味のいい調度のどこにも、怪しげで古めかしいランプはなかった。ランプどころか、驚くほど整頓された部屋には装飾品の類が全くなかった。
俺がこの部屋に入るのは、確か3回目だ。
2回目がついこの間、周一郎が疲労でぶっ倒れて見舞いに来た時。
1年以上同じ屋根の下に居て、この部屋に入ったのが3回目というのは妙な気がする。
なにせ、俺は今までプライベートな個人部屋というものを全く持っていなくて、側にはいつも誰かがたむろしていた。施設では言うに及ばず、下宿しても、宮田とかお由宇とかなぜか山根とか、或いは全く別の友人とか、とにかく誰かしらがいつも側に居た気がする。
だからつい、他の人間もそうなんだろうと思っていたところがあって、周一郎みたいに、誰かが側に居るのを嫌がる人間がいるというのは、ちょっとした不思議だった。
(それも、苦しい時ほど、人を遠ざけたがる人間がいる、なんてな)
苦しい時には誰かに助けを求めたい。淋しい時や悲しい時には誰かに側に居て欲しい。それは人間として当たり前のことだと思う。
弱いと言うならそれでもいいが、人間なんて、そんな強いもんじゃない。
「…」
ゆっくり、周一郎に顔を向ける。
部屋でついている明かりは、俺が持ち込んだ簡易式の小さな机の上にあるスタンド一つだ。
光は部屋の中にぼんやりとした明るさとぼんやりした影を作っている。その光を避けるように、周一郎はベッドで丸くなっている。端正な顔立ちは心持ちしかめられていて、握った拳をベッドに押し付けるように、かすかに寝息を立てている。汗が薄く滲んでいる。熱はまだ下がってないのだろう。
周一郎の側で、ルトは小さな体を緊張させて蹲っていた。眠っていないことは目でわかる。金色の、光を浴びて燻したような輝きをたたえた瞳で、ルトはじっと俺を見つめていた。
「寝ないのか?」
周一郎を起こさないように、声の調子を落として尋ねてみる。
ルトは大きすぎる耳をぴくりと震わせ、俺の声に含まれたニュアンスを全て聞き取ろうとでもするように、くるりとこちらへ向けて立てた。青灰色の毛が光を跳ねて、周りにほのかな後輪を作る。
「にゃ…ん」
ルトも声を落として答え、俺を見つめた。ふと、その金目の後ろに、周一郎の透明な瞳があるように思えた。
「ひょっとして、周一郎も起きてるんじゃないか? ……お前の目の向こうで」
「…」
今度はルトは答えず、伸ばした前足の上に小さな顎を乗せた。耳を少し倒し、遠い悲しげな目になる。ルトの目、というよりは、背後の周一郎の目のようだ。
「そうやって、一晩中、起きていることもあったのか?」
「にぃ…」
珍しくンチメンタルな声を出した。そうっと誘うように頭を上げ、耳を寝かせてもう一度鳴く。
「にぃぃん…」
だって。
そう鳴いたように聞こえた。
だって、眠ってなんか、いられなかったんだ。
脳裏に、美華や山本や若子夫人、桜井の顔が過っていく。
『…居場所がないのは……あんまり…変わらなかった…』
淋しそうな周一郎の表情がオーバーラップして、ことばが耳にこだまする。
(そう、か)
朝倉家へ来た周一郎は、どれほど多くの視線に晒されていただろう。
当主大悟の決めたことだ、誰も表立って文句は言わなかったかも知れない。けれど、既にもう一つの視界を得ていた周一郎にとって、周囲の本音などはガラス越しだったはずだ。
にこやかな女達の笑みの後ろにあるのは物珍しさと好奇心、見かけの端正さに対する欲望だ。男達の平然とした表情の裏には、嫉妬心と『化け物』に対する優越感が渦巻いている。
それらを含んだ、そして最もそれらを透かして見せてくれる目。目。目。
孤独と人間不信に疲れ切ってこの部屋に戻って来ても、きっとろくに眠ることがなかった、ほんの『ガキ』の周一郎。
「………」
溜め息をついて立ち上がった。近寄ってタオルを取る。タオルはじっとりとした重さに、淀むような熱をたたえていた。
「下がってないな」
タオルを水に浸して数回中で絞り直す。部屋が暖かいせいか、洗面器の水はもう温くなっている。絞ったタオルを丁寧にたたみ、周一郎の額に載せた。
ふ、とふいに相手が目を開ける。
「…苦しくないか?」
周一郎は緩く首を振った、
「コーヒ、淹れてくるけど……何か欲しいものがあるか? 大したものは出来んが、牛乳ぐらいは温めてこれるぞ」
「いいえ」
周一郎は嬉しそうに微笑した。
「そ…か。何か欲しいものがあったら言えよ、持って来てやるからな」
「はい」
大人しく頷いて目を閉じる。
(あんまり素直すぎるのも不気味なもんだな)
洗面器を持ってドアに向かい、片手で開いて通り抜け、今度は足で蹴って閉めようとすると、いつの間にベッドから降りて来たのか、ルトがギリギリでドアの隙間をすり抜けてくる。
「ご主人の方はいいのか?」
「にゃあ」
「ふうん」
周一郎の部屋を離れ、洗面器を両手で支えてゆっくりと階段を降りる。こんなところで転んでみろ、なかなか楽しいことになる。
「おい…こら、あまりまとわりつくな」
ただでさえ足元が見えにくくて危なっかしい俺なのに、ルトはじゃれつくように一緒に階段を降りてくる。
「こら…こらって。うろちょろしてると尻尾を踏んじまうって」
「にゃっ」
悲鳴じみた俺の声に、へ、、誰が踏まれるかい、と言いたげに、ルトはひょいと横へ逃げて見せた。鼻白む俺を見上げて、光沢のある牙を煌めかせる。
「わかったわかった、お前さんがすばしこいのは十分わかったから」
思わず立ち止まり、たぷんと揺れた水にひやりとした。止まった俺の足にルトが体を擦り付けて頭を伸ばし、珍しく撫でてくれ、と要求してくる。
「周一郎だけかと思ったが、お前も熱があるのか?」
「にゃあうん」
駄目なのか?
そう聞こえたほど露骨に、ルトは俺を見上げた。金目があまりにも一所懸命に見えたから、つい、踊り場でしゃがみ込み、洗面器を置いて、ルトの頭から背中へと手を滑らせた。
全く何が悲しくて、夜中の階段の踊り場で猫を撫でてなくちゃならんのか。
そうは考えたものの、ルトガ気持ち良さそうに目を閉じる仕草に、つい、まあいいやと思ってしまった。
まあいいや。夜中に猫を撫でてる酔狂な男が一人ぐらい居たって、世界平和には問題ないだろうし、地球滅亡の危機も引き起こさないだろう。
(けどまあ)
これが大体、厄介事を引き寄せる原因だったりするわけだよなあ。
「ふむ」
ルトを撫でる手を止める。
そうとも、まあいいやと思ってしまうから、いつも損な役ばかり割り振られる羽目になるのではなかったか。
俺の手が止まったのに、ルトはぱっちりと目を開けた。さっきまでの従順さが嘘のようにきゅっ
と鼻に皺を寄せ、口の両端を吊り上げる。にやあっと崩れるふてぶてしい笑い方だ。ぎょっとする俺の隙をついて、あっという間に爪を立て、俺の肩へとよじ登る。
「痛い痛い痛い……こらルト!」
「にゃあ?」
「重いだろ!」
「にゃーん」
知るかい。騙された方が悪いのさ。そう聞こえた。
「計略かあ?」
「にゃん」
「そうはっきり答えんなよ」
顔が見えないのではっきりわからないが、気配から察すると、例の、半分嘲りのこもった『笑い方』をしているのに違いない。
「ルト!」
呼びかけてももう、返事もしなければ、擦り寄ることもない。
「ちぇっ」
仕方なしに俺は、肩にルトを載せたまま、もう一度洗面器を持ち上げ、階下の食堂へと降りていった。
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