193 / 503
第3章
1.白黒(1)
しおりを挟む
「じゃあ、行ってきます」
朝の会議を済ませた京介は昼近くなって席を立った。
『ニット・キャンパス』の締め切りが11月10日、今日は7日だからぎりぎりのところを何とか押し込むつもりだ。
「いってらっしゃい」
声が二つ重なって、石塚はデータ入力でパソコンに目を据えたまま、伊吹がにこりと笑ってくれたのが嬉しくて、笑い返しながらついつい側に寄る。
「伊吹さん、メール便は?」
「もう少ししたら行きます」
「今行かない?」
「? 急ぎですか?」
きょとんと見上げてくる相手に思わず唇を尖らせた。
わかんないのかな、もう。誘ってるのに、と覗き込む。
「外、寒そうだし」
「そうですね」
今週に入って急に冷えてきましたよね、と伊吹は依然そっけない。
「もっと冷えるかもしれないし」
「大丈夫です、上着羽織っていきますから」
「そうじゃなくて」
二人でそこまで一緒に行こう、って言ってるのに、と続けそうになって危うく制した。
伊吹の家に泊まって、昨日はついに鍵までもらって、それがもう嬉しくて嬉しくて仕方がない。少しでも離れていたくなくて、少しでも一緒に居たいけれど、仕事は容赦なく押し詰まってくるし、会社でべったりするわけにもいかないし、そういう僕の気持ちなんか全くわかってないんだよね、この人は、と睨みつけても、伊吹は平然としたもの、この書類処理が終わってからまとめて行きたいんですよね、とさらっと流されてがっかりする。
そんなことないと思うけど。
思うけどさ、ひょっとしたら、それほど伊吹さんは僕のこと気にしてないのかな、とか思うよね。
最近気が弛んでかっこ悪いところばかり見せてるからかな、と京介が思わず暗くなりかけた矢先、
「あ」
「何?」
「課長こそ、それ一枚じゃ寒いですよ?」
「ああ」
スーツ姿の自分を振仰いで眉を寄せた伊吹にちょっとほっとする。
「すぐ車に乗るからいいよ」
「運転できたんですか?」
「一応ね」
免許は取ったけれど、車を持とうと思わなかったのは、このあたりでは電車の方が便利がよかったのと、今まで仕事以外にうろつくことなどなかったせいだ。
でも、と何かごそごそと俯いて鞄を探している伊吹を見下ろしながら考える。
伊吹さんを乗せてどこかへ行くのは楽しいかもしれない。
京介の頭の中に放置状態になっている通帳が浮かぶ。結婚のことも考えて、買えないことはないなと素早く計算する。
じゃあ伊吹さんと一緒に車を見に行こう。また楽しみなことが増えた。
「あれ? あれ?」
「何?」
「んー、持ってきてたと思ったんだけど」
「何を?」
「使い捨てカイロ」
僕のために探してくれたんだ、とほんわり嬉しくなって微笑むと、仕方ないな、と伊吹が顔を上げた。
「ありません。仕方ないから、はい」
「はい?」
出されたのは濃い紺のカシミヤマフラー。
「寒かったらこれ、どうぞ」
「でも、伊吹さんは?」
「そんなに遅くなります?」
「あ、いや、帰社時間には戻るけど」
「もし、遅くなったら」
伊吹がにこりと笑って小さな声で呟く。
家に持ってきてください?
「あ……うん」
それって、今日も行っていいってこと、だよね? ひょっとして、また泊まってもいい、とか。
ごくん、と思わず唾を呑み込んでしまって、慌ててマフラーを受け取る。
「あ、じゃあ、借りよう、かな」
「どうぞ」
「うん……」
ぎゅ、と握ると柔らかな甘い香りがする。それが側で眠る伊吹の体臭と同じだと気付いて、京介はなおさら相好を崩した。
「はい、流通、じゃなかった、開発管理課、石塚でございます」
背後で鳴り出した電話に出た石塚が声を改めた。
「申し訳ございません、真崎はただいま席を外しておりまして………あ、ええ、はい、そちらへ向かっている途中かと」
「あ」
気をきかせてくれたらしい石塚に慌てて振り向いた。誰、と口の形で聞くと、
「あ、はい、わかりました、申し伝えます、みなうち、さま、ですね」
軽く頷いて、ことさらはっきり相手の名前を発音してくれた。
「みなうち?」
漢字が思いつかない風の伊吹に笑って、『ニット・キャンパス』の協賛企業の一つだよ、と説明する。
「珍しい名前ですね?」
「源、内側の内、でみなうちって読むんだって。みなうち、よりき」
源内頼起、と書かれた名刺を見せる。抽象的な模様の入った名刺には『企画・イベント 晴』との文字もある。
「今回の『ニット・キャンパス』の発案は学生だけど、バックアップと企業側のまとめをやっているのがこの会社らしいよ」
「はれ?」
「はる」
有名なコンピューターの名前ですね、と伊吹が微笑んで、なるほど映画も伊吹の趣味の一つかと覚えておく。
じゃあ、映画にもまた一緒に出かけよう。
一つ一つこうして宝物みたいに伊吹が京介の中に満ちていく。
そうしていつか。
ずきりと傷んだ胸に思わず伊吹の手に触れた。問いかけるように見上げてくれた相手に京介は小さく笑う。
いつか。
苦しくて痛い過去も、伊吹の笑みや声や温もりにゆっくり埋められて消えていってくれるだろうか。
「課長?」
「………大丈夫」
引き寄せて、キスしたい。
ふらっと顔を寄せかけたとたん、背後から石塚の声が響いた。
「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」
「わかった、わたぎ、だね」
弾かれるように身体を起こす。
「ありがとう。じゃ、いってきます」
さすがにちろりと冷たい視線を石塚に流されて、京介は慌てて部屋を飛び出した。
朝の会議を済ませた京介は昼近くなって席を立った。
『ニット・キャンパス』の締め切りが11月10日、今日は7日だからぎりぎりのところを何とか押し込むつもりだ。
「いってらっしゃい」
声が二つ重なって、石塚はデータ入力でパソコンに目を据えたまま、伊吹がにこりと笑ってくれたのが嬉しくて、笑い返しながらついつい側に寄る。
「伊吹さん、メール便は?」
「もう少ししたら行きます」
「今行かない?」
「? 急ぎですか?」
きょとんと見上げてくる相手に思わず唇を尖らせた。
わかんないのかな、もう。誘ってるのに、と覗き込む。
「外、寒そうだし」
「そうですね」
今週に入って急に冷えてきましたよね、と伊吹は依然そっけない。
「もっと冷えるかもしれないし」
「大丈夫です、上着羽織っていきますから」
「そうじゃなくて」
二人でそこまで一緒に行こう、って言ってるのに、と続けそうになって危うく制した。
伊吹の家に泊まって、昨日はついに鍵までもらって、それがもう嬉しくて嬉しくて仕方がない。少しでも離れていたくなくて、少しでも一緒に居たいけれど、仕事は容赦なく押し詰まってくるし、会社でべったりするわけにもいかないし、そういう僕の気持ちなんか全くわかってないんだよね、この人は、と睨みつけても、伊吹は平然としたもの、この書類処理が終わってからまとめて行きたいんですよね、とさらっと流されてがっかりする。
そんなことないと思うけど。
思うけどさ、ひょっとしたら、それほど伊吹さんは僕のこと気にしてないのかな、とか思うよね。
最近気が弛んでかっこ悪いところばかり見せてるからかな、と京介が思わず暗くなりかけた矢先、
「あ」
「何?」
「課長こそ、それ一枚じゃ寒いですよ?」
「ああ」
スーツ姿の自分を振仰いで眉を寄せた伊吹にちょっとほっとする。
「すぐ車に乗るからいいよ」
「運転できたんですか?」
「一応ね」
免許は取ったけれど、車を持とうと思わなかったのは、このあたりでは電車の方が便利がよかったのと、今まで仕事以外にうろつくことなどなかったせいだ。
でも、と何かごそごそと俯いて鞄を探している伊吹を見下ろしながら考える。
伊吹さんを乗せてどこかへ行くのは楽しいかもしれない。
京介の頭の中に放置状態になっている通帳が浮かぶ。結婚のことも考えて、買えないことはないなと素早く計算する。
じゃあ伊吹さんと一緒に車を見に行こう。また楽しみなことが増えた。
「あれ? あれ?」
「何?」
「んー、持ってきてたと思ったんだけど」
「何を?」
「使い捨てカイロ」
僕のために探してくれたんだ、とほんわり嬉しくなって微笑むと、仕方ないな、と伊吹が顔を上げた。
「ありません。仕方ないから、はい」
「はい?」
出されたのは濃い紺のカシミヤマフラー。
「寒かったらこれ、どうぞ」
「でも、伊吹さんは?」
「そんなに遅くなります?」
「あ、いや、帰社時間には戻るけど」
「もし、遅くなったら」
伊吹がにこりと笑って小さな声で呟く。
家に持ってきてください?
「あ……うん」
それって、今日も行っていいってこと、だよね? ひょっとして、また泊まってもいい、とか。
ごくん、と思わず唾を呑み込んでしまって、慌ててマフラーを受け取る。
「あ、じゃあ、借りよう、かな」
「どうぞ」
「うん……」
ぎゅ、と握ると柔らかな甘い香りがする。それが側で眠る伊吹の体臭と同じだと気付いて、京介はなおさら相好を崩した。
「はい、流通、じゃなかった、開発管理課、石塚でございます」
背後で鳴り出した電話に出た石塚が声を改めた。
「申し訳ございません、真崎はただいま席を外しておりまして………あ、ええ、はい、そちらへ向かっている途中かと」
「あ」
気をきかせてくれたらしい石塚に慌てて振り向いた。誰、と口の形で聞くと、
「あ、はい、わかりました、申し伝えます、みなうち、さま、ですね」
軽く頷いて、ことさらはっきり相手の名前を発音してくれた。
「みなうち?」
漢字が思いつかない風の伊吹に笑って、『ニット・キャンパス』の協賛企業の一つだよ、と説明する。
「珍しい名前ですね?」
「源、内側の内、でみなうちって読むんだって。みなうち、よりき」
源内頼起、と書かれた名刺を見せる。抽象的な模様の入った名刺には『企画・イベント 晴』との文字もある。
「今回の『ニット・キャンパス』の発案は学生だけど、バックアップと企業側のまとめをやっているのがこの会社らしいよ」
「はれ?」
「はる」
有名なコンピューターの名前ですね、と伊吹が微笑んで、なるほど映画も伊吹の趣味の一つかと覚えておく。
じゃあ、映画にもまた一緒に出かけよう。
一つ一つこうして宝物みたいに伊吹が京介の中に満ちていく。
そうしていつか。
ずきりと傷んだ胸に思わず伊吹の手に触れた。問いかけるように見上げてくれた相手に京介は小さく笑う。
いつか。
苦しくて痛い過去も、伊吹の笑みや声や温もりにゆっくり埋められて消えていってくれるだろうか。
「課長?」
「………大丈夫」
引き寄せて、キスしたい。
ふらっと顔を寄せかけたとたん、背後から石塚の声が響いた。
「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」
「わかった、わたぎ、だね」
弾かれるように身体を起こす。
「ありがとう。じゃ、いってきます」
さすがにちろりと冷たい視線を石塚に流されて、京介は慌てて部屋を飛び出した。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【R18】淫乱メイドは今日も乱れる
ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。
毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を……
※性的な表現が多分にあるのでご注意ください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる