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第2章
11.姉と弟(8)
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京介がどれほどの闇を抱えて生き延びてきたのか、見抜いてくれたのは伊吹だけだ。見抜いた上でなおかつ逃げずに抱えてくれたのも伊吹だけ。
「殺されることが……どんな…ことか……君は……知らない…っ」
「え…っ」
ことばの衝撃に弛んだ明の気配に踏み込む。汗に張り付くシャツがうっとうしい。精一杯伸ばした腕と脚、明が素早く見切って体を捩った。ゴールの方を意識して京介の背後に視線が動いた矢先、思いきり低くから明の体を舐め上がるように顔をすり寄せて伸び上がる。
「んっ」
紙一枚の近さに見合った顔に明が驚いた表情で体を引く。顔を見つめたままボールを押さえた京介の手の圧力を察して、叩き落とされる前にと体を横に振る、そのとたん、京介は体を沈めた。
「あ!」
京介の背後にあったのは街灯、そこだけ少し低めの位置にあったのを明は気付いていなかったのだろう。顔を上げる直前まで京介が体で遮っていたのも計算なら、明の視界が街灯の光にまっすぐ向いた瞬間に体を沈めたのも計算、ふいに視界に飛び込んできた照明の眩さに明の動きが止まったのは数秒、それでも狙っていた京介には十分な時間だ。
叩かれたボールが二人の間に落下する、それを掬い上げるようにして放り投げる動きはさっきの明そっくりだと気付くはず、驚愕に顔を歪めた相手に薄笑いを残して、京介は目算通りにボールを弾く。
ぼ、ん。
コーナーリングに軽くあたったそれは、少し真上に上がって、それからすとん、とリングを通過した、まるで予定されていた航路のように。
そして京介は体勢を崩して思いきり転がる、とっさに眼鏡を押さえたせいで右肩を強く打って、それでも視界の端で確かにゴールしたボールを確認して微笑む。
「はっ…は………はぁ…っ」
仰向けに寝そべったまま、必死に空気を貪った。真上には星の出ていない空、喘ぎながら両手足を投げ出して、がくがく震えている下半身、濡れたシャツがぞくぞくする。
「…街灯…」
明はゴールから落ちたボールを見送ってゆっくり背後を振り向き、その姿勢のまま呟いた。
「あんなところに、あったのか」
「…っふ、は…っ…」
京介は瞬いて潤んだ視界を開いた。そっくりな光景、けれど少しずつ、何かが少しずつ違ってきている、そう感じる。
「計算してたんだ?」
「友人…が……教えて……くれて…」
一つ、裏技教えてやるね、京介。
孝がいたずらっぽく笑いながら言った。
『試合が始まったら、全部を使うんだよ、体も心も感覚も。敵も味方も観客も』
どんな状況か見極めて、自分に一番有利になる方法を考えて。
孝が教えてくれた方法で取り戻せた未来。
きっと孝も手にしたかったはずだ、生き延びられるたった一つの道を。
なのに、孝が選んだ相手は大輔で、京介が選んだ相手が伊吹で。
運命はたったそれだけのことで命の行く先をこれほどはっきり分けてしまうのか。
漏れそうになる嗚咽を噛み殺す。
伊吹さん。
伊吹さん。
京介は失いたくない、どれほど理不尽で不当で傲慢な望みだと言われても、伊吹を失いたくないのだ。
「これで……一対一、だ」
とっさに噛んだ唇から、また滲み出した血の味を感じながら、体を起こした。振り返った明が鋭い目で京介を見る。
「次は、こういう方法は無理だよ」
「わかってる」
京介にはもう手駒がない。
明がうっそりと長袖のシャツを脱いだ。黒のランニング一枚、黒のジーンズのベルトを締め直し、靴紐を確かめる。立ち上がった京介にボールを投げてくる、その顔がひんやりとしたものになった。
「さっきの、どういう意味?」
殺されることを俺が知らないって言ったよね?
「あなたは知ってるってこと?」
「ふふ」
思わず笑ってしまった。ボールをとんとん、と地面につく。
「知ってるよ」
自分の中でぎらぎら光る砕けたガラスに無数の自分が映ったのがわかった。どの京介も泣き叫び、震えながら悲鳴を上げている。
「何度も死んでる」
「え」
「でも、誰も助けてくれなかった」
埃に塗れた手で顎に流れ落ちたものを拭った。汗なのか血なのかそれとも涙なのか、ただそれが流れた感覚が痛かった。
「見つけてくれたのは、伊吹さんだけだ」
まっすぐ顔を上げて明を見る。
「僕が死んでることに気付いてくれたのは、伊吹さんだけ」
だから、君にも、譲れない。
「……行くよ」
京介はボールを高く放り投げた。
「殺されることが……どんな…ことか……君は……知らない…っ」
「え…っ」
ことばの衝撃に弛んだ明の気配に踏み込む。汗に張り付くシャツがうっとうしい。精一杯伸ばした腕と脚、明が素早く見切って体を捩った。ゴールの方を意識して京介の背後に視線が動いた矢先、思いきり低くから明の体を舐め上がるように顔をすり寄せて伸び上がる。
「んっ」
紙一枚の近さに見合った顔に明が驚いた表情で体を引く。顔を見つめたままボールを押さえた京介の手の圧力を察して、叩き落とされる前にと体を横に振る、そのとたん、京介は体を沈めた。
「あ!」
京介の背後にあったのは街灯、そこだけ少し低めの位置にあったのを明は気付いていなかったのだろう。顔を上げる直前まで京介が体で遮っていたのも計算なら、明の視界が街灯の光にまっすぐ向いた瞬間に体を沈めたのも計算、ふいに視界に飛び込んできた照明の眩さに明の動きが止まったのは数秒、それでも狙っていた京介には十分な時間だ。
叩かれたボールが二人の間に落下する、それを掬い上げるようにして放り投げる動きはさっきの明そっくりだと気付くはず、驚愕に顔を歪めた相手に薄笑いを残して、京介は目算通りにボールを弾く。
ぼ、ん。
コーナーリングに軽くあたったそれは、少し真上に上がって、それからすとん、とリングを通過した、まるで予定されていた航路のように。
そして京介は体勢を崩して思いきり転がる、とっさに眼鏡を押さえたせいで右肩を強く打って、それでも視界の端で確かにゴールしたボールを確認して微笑む。
「はっ…は………はぁ…っ」
仰向けに寝そべったまま、必死に空気を貪った。真上には星の出ていない空、喘ぎながら両手足を投げ出して、がくがく震えている下半身、濡れたシャツがぞくぞくする。
「…街灯…」
明はゴールから落ちたボールを見送ってゆっくり背後を振り向き、その姿勢のまま呟いた。
「あんなところに、あったのか」
「…っふ、は…っ…」
京介は瞬いて潤んだ視界を開いた。そっくりな光景、けれど少しずつ、何かが少しずつ違ってきている、そう感じる。
「計算してたんだ?」
「友人…が……教えて……くれて…」
一つ、裏技教えてやるね、京介。
孝がいたずらっぽく笑いながら言った。
『試合が始まったら、全部を使うんだよ、体も心も感覚も。敵も味方も観客も』
どんな状況か見極めて、自分に一番有利になる方法を考えて。
孝が教えてくれた方法で取り戻せた未来。
きっと孝も手にしたかったはずだ、生き延びられるたった一つの道を。
なのに、孝が選んだ相手は大輔で、京介が選んだ相手が伊吹で。
運命はたったそれだけのことで命の行く先をこれほどはっきり分けてしまうのか。
漏れそうになる嗚咽を噛み殺す。
伊吹さん。
伊吹さん。
京介は失いたくない、どれほど理不尽で不当で傲慢な望みだと言われても、伊吹を失いたくないのだ。
「これで……一対一、だ」
とっさに噛んだ唇から、また滲み出した血の味を感じながら、体を起こした。振り返った明が鋭い目で京介を見る。
「次は、こういう方法は無理だよ」
「わかってる」
京介にはもう手駒がない。
明がうっそりと長袖のシャツを脱いだ。黒のランニング一枚、黒のジーンズのベルトを締め直し、靴紐を確かめる。立ち上がった京介にボールを投げてくる、その顔がひんやりとしたものになった。
「さっきの、どういう意味?」
殺されることを俺が知らないって言ったよね?
「あなたは知ってるってこと?」
「ふふ」
思わず笑ってしまった。ボールをとんとん、と地面につく。
「知ってるよ」
自分の中でぎらぎら光る砕けたガラスに無数の自分が映ったのがわかった。どの京介も泣き叫び、震えながら悲鳴を上げている。
「何度も死んでる」
「え」
「でも、誰も助けてくれなかった」
埃に塗れた手で顎に流れ落ちたものを拭った。汗なのか血なのかそれとも涙なのか、ただそれが流れた感覚が痛かった。
「見つけてくれたのは、伊吹さんだけだ」
まっすぐ顔を上げて明を見る。
「僕が死んでることに気付いてくれたのは、伊吹さんだけ」
だから、君にも、譲れない。
「……行くよ」
京介はボールを高く放り投げた。
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