『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

11.姉と弟(7)

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 京介は、明から受け取ったボールを一度地面に置いた。
 上着を脱いで近くのベンチに投げる。首を反らせネクタイを緩め、引き抜いて、それも放る。シャツのボタンを一つ、考えて二つ外す。袖も肘まで捲り上げ、眼鏡を掛け直し、ちら、と周囲に視線を走らせる。
「本気になった?」
 明が面白がるような声をかけてくる。
「……本気だよ」
 明の声にとんとん、とジャンプして足下を確かめる。
 まさかこんな勝負を持ちかけられるとは思っていなかった。革靴は不利だ。どうしてもとっさの踏み込みが鈍くなる。
『相手の眼を見て、京介』
 孝がいつか教えてくれたことはもっと他にもあっただろうか。
『体の向きと爪先で方向はごまかせる。うまくなれば視線も。でも、大抵どうする気なのかは眼でわかる』
 高校で、孝がそれだけは楽しみにしていたバスケットボール。
『同好会だから、これ以上部員が減るとなくなっちゃうよ』
 人気の絶えた校庭で、町中の小さなゴールポストで、孤独をまぎらせるようにボールを追っていた細い姿。
『忘れられる、何もかも』
 ボールを追ってさえいられれば。
『京介ならできる。読んで、相手の動こうとする先。考えて、相手が何をしようとしているのか』
 そう教えた孝が、大輔が何を考えていたのか、わからなかったはずはなかっただろうに。自分を大切にしてくれるとは思っていなかっただろうに。恵子の気持ちの揺れも気付いていたかもしれないのに。
 全てを呑み込んで孝は逝ってしまった。
「ずっと、本気だ」
 京介は明の方へドリブルしながらまっすぐ走り出した。
「正面、特攻っ?」
 まさか。甘いでしょ。
 笑いながらすぐに行く手を塞いでくる明に、まさかだよね、と笑い返して、突っ込むと見せ掛けて片足支点に身を翻す。
「っ」
 京介のターンが意外に鋭かったのだろう、明が笑みを消した。とっさにステップを踏み変え、京介の動きを封じてくる。のしかかるような威圧感に耐えながら、ボールを庇って地面に叩き付けたのはフェイク、跳ね返るところへ手を伸ばした明の指先でボールを掬い、バウンドさせてもう片方の手へ、同時に体をくるりと一回転させて明をいなす。
「やるじゃん」
「っ」
 だが、明は振り切られてくれない。ばかりか、確実に先を読んで回り込み、両腕を広げて覆い被さってくるのに、一瞬大輔の姿が重なって、京介は竦みかけた脚で地面を蹴った。右へずれるステップ、けど置き去れない。着地と同時に逆に蹴る、すぐ再び追い付いてくる。
「経験あるんだね」
 明が嬉しそうに笑った。
「年齢にしちゃフットワーク軽い」
「ありが、とう」
 応じた息がもう上がりかけていた。さすがに五歳を越える年齢差はきつい。
「でも、遅い」
 くす、と明が笑って先回りした瞬間に京介の手からボールを奪った。ぱん、と軽い音をたてて、生き物のようにボールが明の両手の間を跳ねながら動き、あっという間にその背後に隠される。舌打ちしながら回り込む、と見せて急な停止、回りかけた明の後ろを取れるはずだったが、ボールはあっさり明の支配圏に庇われてしまう。
 形勢逆転、じりじりとゴールの方へ進む明の進行速度は格段に遅い。ボールを操って京介を振り回すのを楽しんでいるようにも見える。視線は京介の方へ固定されたままだ。額から汗を流し始めた京介に、柔らかな笑みを向けてくる。
「もっと仕掛けてこないと無理だよ」
「、っ」
「違う、そっちじゃない」
 京介の伸ばした指の先でボールは霧のように消えた。脚の間を潜ってどこかへ飛び跳ねそうだったのに、その先に明のがっしりした掌が待ち構えていて、それを追う前にまた消える。
「諦めたら」
「嫌、だ…っ」
「無理だって」
「くっ」
「美並はあなたには重すぎる」
「ふ、っ」
「ちっ」
 おしゃべりに気を取られたのか、一瞬動いた明の視線の先に伸ばした手がもう少しでボールに触れかけて、どすっ、と強く明の体があたってきた。熱の籠った固い筋肉、濡れてきた肌に押し付けられて、否応なく幻の自分の悲鳴が耳の奥で響き渡る。
「重、すぎる、もんか」
 喘ぎながら吐く自分の声が掠れている。
「何も、知らない、くせに」
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