『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

11.姉と弟(5)

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 仕事が思ったよりも長引いて、京介が社を出た時には辺りはもう薄暗くなりつつあった。
 何か問いたげな伊吹に微笑して背中を向けてきた、本当はもう一度抱き締めたかったけれど。
 電車の窓ガラスに、不安そうに自分の体を抱いているスーツ姿の若い男が映っている。それをじっと検分するように凝視する。
 どこまで説得できるだろう。
 どこで納得してくれるだろう。
 京介には伊吹が必要なのだ。絶対に、それこそ、生死をかけたぎりぎりの場所で。
 第一、もう伊吹なしで眠れなくなりつつあるのを意識している。一人でベッドに入っていると、体が寒くてそのまま凍えてしまいそうな気になる。夕べだって伊吹の着ているジャージを抱きかかえて眠ったのに、夜中に目覚めた瞬間に温もりを探してジャージをまさぐっていたのに気付いて切なくて辛くて、また自分で慰めようか、それとも睡眠薬でも噛み砕いて貪るか、などと煮詰まりかけた。
 駅についてホームから改札へ、外に出て暗くなった空に一瞬怯む。
 釣瓶落としとはよく言ったものだ、濃紺に沈む視界にはもう微かな星が瞬いている。
 それは駅の灯や街灯がなければ、あの大輔に襲われた夜そっくりの空で。
「……」
 思わず月を求めてあちこち見回した。
 月が出ていれば、少しは早く大輔の意図に気づけたかもしれない。
 月が出ていれば、少しは逃げやすかったかもしれない。
 そんなことはありえない、そう思いつつ、月が見えない空がまるでこの先の運命を暗示してくるようで、無意識に体が竦む。
 けれど、月はない。
 ぞくりと震えたのは恐怖か、それとも。
「っ」
 唇を噛んで危うい境界を転げ落ちていきそうなのを堪え、京介は歩き出した。
 駅から離れるに従って住宅街へ入っていく。市役所の横を抜け、公園に向かう道は街灯が少なくて、今にも背中から押し倒されそうな感覚になって冷や汗が滲む。
 まるで、あの時、みたいだ。
 両側を満たす草木、冷えた夜気はあの日ほどねっとりしていないけれど、それでも月がなくて足下が見えない不安定さ、細く続く通路に、馬鹿なことを考えるんじゃない、と繰り返す。
 ここはあそこじゃない。
 今はあの時じゃない。
 大輔はいない。
 大丈夫だ。
 がさっ。
「っっ!」
 背後でいきなり茂みをかき分ける音が響いて、竦んで立ち止まりかけたのをかろうじて振り返る。
「あ」
「やだ」
 出てきたのはカップル、きちんとした格好の割りには乱れた女性の髪と口紅、どこかぼうっとした表情が視界に飛び込んで、京介は瞬きした。
「おいで」
「うん」
 男がちらっとこちらを見遣って慌ただしく女性を抱えて遠ざかる。女性の足下が少し危うい。何をしていたのかすぐにわかるような腰の不安定さに京介は凍りつくような思いで見送る。
 あんな顔をしていたのだろうか、自分も。
 あんな風に無防備に大輔の背中にすがっていたのだろうか。
 全てを許して、踏み込まれてしまったものの弱々しさで。
 きり、と歯を食いしばった。
 フラッシュバックが現実の中で次々襲い掛かってくるようだ。
 では、この先に進んだら、そこには何が待っているのだろうか。もしかして、大輔に弄ばれたあの瞬間が?
「ぐ」
 込み上げた吐き気とめまいに片手で口を押さえる。
 嫌だ。
 嫌だ。
 もう一度、あんなことになるのは、絶対嫌だ。
 悲鳴を上げて走って逃げ去ってしまいたい。
 けれど、そうすれば、伊吹を失うことになる。
 込み上げたものを呑み下し、京介は唇を噛んだ。感覚が鈍くて、必死に力を込め、苦い鉄の味が広がってようやく我に返る。
「美並」
 目を閉じて、名前を呟いた。
「み、なみ」
 荒くなった呼吸をゆっくりおさめる。
「みなみ…」
 嫌だ。
 そうだ、嫌だ。
 もうこれ以上、大切なものをただの一つだって失いたくない、ましてやようやく手に入れた居場所を幻などに奪われてたまるか。
 口を手の甲で横殴りに擦る。血は止まっているようだ。ぺろりと舐めて顔を上げ、一歩ずつ公園に近付いていく。
 やがて紺青の空に鮮やかな黄色の炎を広げる銀杏に囲まれたいつかの場所にたどりついた。
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