『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

11.姉と弟(3)

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 なぁんか、ひっかかるなあ。
 帰宅してまず一息とインスタントコーヒーを啜りながら美並は眉を寄せる。
「うーむ」
『キスして』
 不安定な顔をしてねだってきた真崎、しかもどこか冷えた眼の色は殺気立つ一歩手前。
『僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい』
 何を真崎は「頑張る」気なのか。
 誰に対して、のほうがいいか、そう考えたときに頭に浮かんだ二つの顔は大石と大輔。
「また、何か無茶しようとしてるんじゃないだろうなあ」
 美並が先に退社しようとすると、あれこれ理由をつけてくっついてくるのが今日はなかった。
 そりゃ、20代後半の男がべたべた甘えてくっついてこなかったからといって、不審がる方がおかしいのか。
「うーむ…」
 これはかなり真崎に毒されてる、と溜め息まじりにコーヒーを飲み干して立ち上がる。
 今日はもうすることもないけど、何だか気分が僅かに沈んで食欲が湧かないから、気分転換に入浴することにした。
 熱めの湯を満たして、ざっと体を洗って浸る。
 湯舟の中にぼんやり揺れる自分の身体に、美並はまたちょっと落ち込んだ。
 大石が連絡を絶ったとき、仕事で忙しいのだろうと思ったのも確かだけど、ほんの少し、美並に興味をなくしたのかもしれない、とも思った。
 結婚を申し出てくれたのは一晩過ごした美並が『初めて』だったから、気遣ってのことで、本当はいろんな意味でがっかりしたんじゃないか、だからあえて急かすこともないのかもしれない。
 自分が距離を置いておきながら、微かに微かにそうも疑った。
「む」
 湯に口元まで浸かって、ぼうっとする。
『美並じゃない人を好きになる』
 明の不吉な予言に胸がずきずきする。
 その可能性はある、と美並は思っている。
 真崎は、まあ言えば、成長途中で凍ってしまっていたようなものだ。
 人を好きになることを知る前に恵子に踏み込まれ、大輔に踏みにじられて、他人と関係を持つことは自分を殺すことと同義になってしまった。
 そこを美並がなお踏み入って、幸い真崎は美並を深くまで受け入れてくれた、それこそ殺されてもいい、ぐらいに。
 だからこそ、美並は真崎が世界と通じ合う唯一の扉になってしまったのだ。
 けれど、扉は少しずつ着実に開かれていく。それまで見えなかった世界が、見えなかった風景が、扉が開くに従って真崎の視界に入ってくる。
 そして、心は動きだし再び成長し始める、本来の道をゆっくりと辿りながら。侵されなければ熟していただろう、豊かな実りを確かめながら。
 その徴候はすでにある。美並に無防備に甘えてくる真崎が、人目を引くほど鮮やかな表情を見せるようになっている。
「……」
 大人になった真崎は、一体誰を求めるだろう。
 それまで見ていた狭い世界の中だから、美並は価値があっただけで、もっと広くて美しい世界を眼にしたとき、美並なんて視界の端にも入らないかもしれない。
 もっと心を動かす相手を見つけて魅かれていくかもしれない。
 真崎が美並に甘えて側に居てくれるのは、今だけのことかもしれない。
『その結果は変わらないにしても、少なくとも一つは鮮やかな思い出が手に入る。それできっと寂しくないよ』
 明にはそう強がった。
 でないときっと心配する。
 ただでさえ、明は美並のやり方を案じている。
 なのに、これほど真崎に魅かれていると知れば、もっと心配してしまう。
 もう、明からは離れてやらなくちゃいけない、守るべき相手が居るのだから。
 けれど、美並は?
「……」
 じっと眼を凝らして遠い記憶の光景を見る。
 雪の上にぽつんと落ちた紅の光。舞い落ちた白い花びらを、めったにないこと、と女主人が言った。
 仕方ない。
 見えてしまうのだから、仕方ない。
 一人で生きるしかない。
 これで最後。
「……」
 ぷくん、と泡を吹いた。おどけたまねでもしなくては、零れた涙が辛かった。
 これで最後だ。そう思えば頑張れる。真崎が背中を向けるまで、他の大事な相手を見つけるまで、素知らぬ顔で。
 そう、思っていたのだけど。
「……できる、かなぁ……」
 初めて美並は不安になった。
 ちゃんと離れられる、かなあ。
 ざぶざぶと顔を洗う。
 頑張るけど。
 うんとうんと頑張るけど。
 それこそ、自分の力にかけて。
 でも。
「できたら……」
 目の前で真崎が他の女性を選ぶところは見たくないなあ……。
 へへ、と笑ってみた。
「その前に、辞めちゃえばいいかなあ」
 新部署の話を思い出す。この先も一緒に働くことを望まれている、それはとても嬉しかった。
 けれど同時に怖くなった。そんなにしっかり入り込んでしまっては、失う時にまた大怪我をする。大石を失った時のように、何もかもを削り落として立ち去る羽目になる。
「二度は……やだなあ……」
 中途半端な口調で呟きながら美並は膝を抱いた。熱い湯なのに、身体が冷えて重くなる。
「きょ……すけ」
 できる限り、名前で呼ばないでおこう。
 できる限り、距離を保とう。
 できる限り、負担を残さないように、不要になったらいつでも消えていけるように。
「京介…」
 それでも無意識に、名前を繰り返す自分が切ない。
「もつかなあ…」
 強いはずだけど。
 慣れてるはずだけど。
 ふ、と耳をそばだてた。
 電話が鳴っている。部屋の電話だから真崎じゃない、そうとっさに思う自分に苦笑しながら、慌てて上がった。
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