175 / 503
第2章
11.姉と弟(3)
しおりを挟む
なぁんか、ひっかかるなあ。
帰宅してまず一息とインスタントコーヒーを啜りながら美並は眉を寄せる。
「うーむ」
『キスして』
不安定な顔をしてねだってきた真崎、しかもどこか冷えた眼の色は殺気立つ一歩手前。
『僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい』
何を真崎は「頑張る」気なのか。
誰に対して、のほうがいいか、そう考えたときに頭に浮かんだ二つの顔は大石と大輔。
「また、何か無茶しようとしてるんじゃないだろうなあ」
美並が先に退社しようとすると、あれこれ理由をつけてくっついてくるのが今日はなかった。
そりゃ、20代後半の男がべたべた甘えてくっついてこなかったからといって、不審がる方がおかしいのか。
「うーむ…」
これはかなり真崎に毒されてる、と溜め息まじりにコーヒーを飲み干して立ち上がる。
今日はもうすることもないけど、何だか気分が僅かに沈んで食欲が湧かないから、気分転換に入浴することにした。
熱めの湯を満たして、ざっと体を洗って浸る。
湯舟の中にぼんやり揺れる自分の身体に、美並はまたちょっと落ち込んだ。
大石が連絡を絶ったとき、仕事で忙しいのだろうと思ったのも確かだけど、ほんの少し、美並に興味をなくしたのかもしれない、とも思った。
結婚を申し出てくれたのは一晩過ごした美並が『初めて』だったから、気遣ってのことで、本当はいろんな意味でがっかりしたんじゃないか、だからあえて急かすこともないのかもしれない。
自分が距離を置いておきながら、微かに微かにそうも疑った。
「む」
湯に口元まで浸かって、ぼうっとする。
『美並じゃない人を好きになる』
明の不吉な予言に胸がずきずきする。
その可能性はある、と美並は思っている。
真崎は、まあ言えば、成長途中で凍ってしまっていたようなものだ。
人を好きになることを知る前に恵子に踏み込まれ、大輔に踏みにじられて、他人と関係を持つことは自分を殺すことと同義になってしまった。
そこを美並がなお踏み入って、幸い真崎は美並を深くまで受け入れてくれた、それこそ殺されてもいい、ぐらいに。
だからこそ、美並は真崎が世界と通じ合う唯一の扉になってしまったのだ。
けれど、扉は少しずつ着実に開かれていく。それまで見えなかった世界が、見えなかった風景が、扉が開くに従って真崎の視界に入ってくる。
そして、心は動きだし再び成長し始める、本来の道をゆっくりと辿りながら。侵されなければ熟していただろう、豊かな実りを確かめながら。
その徴候はすでにある。美並に無防備に甘えてくる真崎が、人目を引くほど鮮やかな表情を見せるようになっている。
「……」
大人になった真崎は、一体誰を求めるだろう。
それまで見ていた狭い世界の中だから、美並は価値があっただけで、もっと広くて美しい世界を眼にしたとき、美並なんて視界の端にも入らないかもしれない。
もっと心を動かす相手を見つけて魅かれていくかもしれない。
真崎が美並に甘えて側に居てくれるのは、今だけのことかもしれない。
『その結果は変わらないにしても、少なくとも一つは鮮やかな思い出が手に入る。それできっと寂しくないよ』
明にはそう強がった。
でないときっと心配する。
ただでさえ、明は美並のやり方を案じている。
なのに、これほど真崎に魅かれていると知れば、もっと心配してしまう。
もう、明からは離れてやらなくちゃいけない、守るべき相手が居るのだから。
けれど、美並は?
「……」
じっと眼を凝らして遠い記憶の光景を見る。
雪の上にぽつんと落ちた紅の光。舞い落ちた白い花びらを、めったにないこと、と女主人が言った。
仕方ない。
見えてしまうのだから、仕方ない。
一人で生きるしかない。
これで最後。
「……」
ぷくん、と泡を吹いた。おどけたまねでもしなくては、零れた涙が辛かった。
これで最後だ。そう思えば頑張れる。真崎が背中を向けるまで、他の大事な相手を見つけるまで、素知らぬ顔で。
そう、思っていたのだけど。
「……できる、かなぁ……」
初めて美並は不安になった。
ちゃんと離れられる、かなあ。
ざぶざぶと顔を洗う。
頑張るけど。
うんとうんと頑張るけど。
それこそ、自分の力にかけて。
でも。
「できたら……」
目の前で真崎が他の女性を選ぶところは見たくないなあ……。
へへ、と笑ってみた。
「その前に、辞めちゃえばいいかなあ」
新部署の話を思い出す。この先も一緒に働くことを望まれている、それはとても嬉しかった。
けれど同時に怖くなった。そんなにしっかり入り込んでしまっては、失う時にまた大怪我をする。大石を失った時のように、何もかもを削り落として立ち去る羽目になる。
「二度は……やだなあ……」
中途半端な口調で呟きながら美並は膝を抱いた。熱い湯なのに、身体が冷えて重くなる。
「きょ……すけ」
できる限り、名前で呼ばないでおこう。
できる限り、距離を保とう。
できる限り、負担を残さないように、不要になったらいつでも消えていけるように。
「京介…」
それでも無意識に、名前を繰り返す自分が切ない。
「もつかなあ…」
強いはずだけど。
慣れてるはずだけど。
ふ、と耳をそばだてた。
電話が鳴っている。部屋の電話だから真崎じゃない、そうとっさに思う自分に苦笑しながら、慌てて上がった。
帰宅してまず一息とインスタントコーヒーを啜りながら美並は眉を寄せる。
「うーむ」
『キスして』
不安定な顔をしてねだってきた真崎、しかもどこか冷えた眼の色は殺気立つ一歩手前。
『僕頑張るから、先に御褒美ちょうだい』
何を真崎は「頑張る」気なのか。
誰に対して、のほうがいいか、そう考えたときに頭に浮かんだ二つの顔は大石と大輔。
「また、何か無茶しようとしてるんじゃないだろうなあ」
美並が先に退社しようとすると、あれこれ理由をつけてくっついてくるのが今日はなかった。
そりゃ、20代後半の男がべたべた甘えてくっついてこなかったからといって、不審がる方がおかしいのか。
「うーむ…」
これはかなり真崎に毒されてる、と溜め息まじりにコーヒーを飲み干して立ち上がる。
今日はもうすることもないけど、何だか気分が僅かに沈んで食欲が湧かないから、気分転換に入浴することにした。
熱めの湯を満たして、ざっと体を洗って浸る。
湯舟の中にぼんやり揺れる自分の身体に、美並はまたちょっと落ち込んだ。
大石が連絡を絶ったとき、仕事で忙しいのだろうと思ったのも確かだけど、ほんの少し、美並に興味をなくしたのかもしれない、とも思った。
結婚を申し出てくれたのは一晩過ごした美並が『初めて』だったから、気遣ってのことで、本当はいろんな意味でがっかりしたんじゃないか、だからあえて急かすこともないのかもしれない。
自分が距離を置いておきながら、微かに微かにそうも疑った。
「む」
湯に口元まで浸かって、ぼうっとする。
『美並じゃない人を好きになる』
明の不吉な予言に胸がずきずきする。
その可能性はある、と美並は思っている。
真崎は、まあ言えば、成長途中で凍ってしまっていたようなものだ。
人を好きになることを知る前に恵子に踏み込まれ、大輔に踏みにじられて、他人と関係を持つことは自分を殺すことと同義になってしまった。
そこを美並がなお踏み入って、幸い真崎は美並を深くまで受け入れてくれた、それこそ殺されてもいい、ぐらいに。
だからこそ、美並は真崎が世界と通じ合う唯一の扉になってしまったのだ。
けれど、扉は少しずつ着実に開かれていく。それまで見えなかった世界が、見えなかった風景が、扉が開くに従って真崎の視界に入ってくる。
そして、心は動きだし再び成長し始める、本来の道をゆっくりと辿りながら。侵されなければ熟していただろう、豊かな実りを確かめながら。
その徴候はすでにある。美並に無防備に甘えてくる真崎が、人目を引くほど鮮やかな表情を見せるようになっている。
「……」
大人になった真崎は、一体誰を求めるだろう。
それまで見ていた狭い世界の中だから、美並は価値があっただけで、もっと広くて美しい世界を眼にしたとき、美並なんて視界の端にも入らないかもしれない。
もっと心を動かす相手を見つけて魅かれていくかもしれない。
真崎が美並に甘えて側に居てくれるのは、今だけのことかもしれない。
『その結果は変わらないにしても、少なくとも一つは鮮やかな思い出が手に入る。それできっと寂しくないよ』
明にはそう強がった。
でないときっと心配する。
ただでさえ、明は美並のやり方を案じている。
なのに、これほど真崎に魅かれていると知れば、もっと心配してしまう。
もう、明からは離れてやらなくちゃいけない、守るべき相手が居るのだから。
けれど、美並は?
「……」
じっと眼を凝らして遠い記憶の光景を見る。
雪の上にぽつんと落ちた紅の光。舞い落ちた白い花びらを、めったにないこと、と女主人が言った。
仕方ない。
見えてしまうのだから、仕方ない。
一人で生きるしかない。
これで最後。
「……」
ぷくん、と泡を吹いた。おどけたまねでもしなくては、零れた涙が辛かった。
これで最後だ。そう思えば頑張れる。真崎が背中を向けるまで、他の大事な相手を見つけるまで、素知らぬ顔で。
そう、思っていたのだけど。
「……できる、かなぁ……」
初めて美並は不安になった。
ちゃんと離れられる、かなあ。
ざぶざぶと顔を洗う。
頑張るけど。
うんとうんと頑張るけど。
それこそ、自分の力にかけて。
でも。
「できたら……」
目の前で真崎が他の女性を選ぶところは見たくないなあ……。
へへ、と笑ってみた。
「その前に、辞めちゃえばいいかなあ」
新部署の話を思い出す。この先も一緒に働くことを望まれている、それはとても嬉しかった。
けれど同時に怖くなった。そんなにしっかり入り込んでしまっては、失う時にまた大怪我をする。大石を失った時のように、何もかもを削り落として立ち去る羽目になる。
「二度は……やだなあ……」
中途半端な口調で呟きながら美並は膝を抱いた。熱い湯なのに、身体が冷えて重くなる。
「きょ……すけ」
できる限り、名前で呼ばないでおこう。
できる限り、距離を保とう。
できる限り、負担を残さないように、不要になったらいつでも消えていけるように。
「京介…」
それでも無意識に、名前を繰り返す自分が切ない。
「もつかなあ…」
強いはずだけど。
慣れてるはずだけど。
ふ、と耳をそばだてた。
電話が鳴っている。部屋の電話だから真崎じゃない、そうとっさに思う自分に苦笑しながら、慌てて上がった。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R18】淫乱メイドは今日も乱れる
ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。
毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を……
※性的な表現が多分にあるのでご注意ください
Take me out~私を籠から出すのは強引部長?~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「俺が君を守ってやる。
相手が父親だろうが婚約者だろうが」
そう言って私に自由を与えてくれたのは、父の敵の強引部長でした――。
香芝愛乃(かしば よしの)
24歳
家電メーカー『SMOOTH』経営戦略部勤務
専務の娘
で
IoT本部長で社長の息子である東藤の婚約者
父と東藤に溺愛され、なに不自由なく育ってきた反面、
なにひとつ自由が許されなかった
全てにおいて、諦めることになれてしまった人
×
高鷹征史(こうたか まさふみ)
35歳
家電メーカー『SMOOTH』経営戦略部部長
銀縁ボストン眼鏡をかける、人形のようにきれいな人
ただし、中身は俺様
革新的で社内の改革をもくろむ
保守的な愛乃の父とは敵対している
口、悪い
態度、でかい
でも自分に正直な、真っ直ぐな男
×
東藤春熙(とうどう はるき)
28歳
家電メーカー『SMOOTH』IoT本部長
社長の息子で次期社長
愛乃の婚約者
親の七光りもあるが、仕事は基本、できる人
優しい。
優しすぎて、親のプレッシャーが重荷
愛乃を過剰なまでに溺愛している
実は……??
スイートな婚約者とビターな上司。
愛乃が選ぶのは、どっち……?
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
【完結】堕ちた令嬢
マー子
恋愛
・R18・無理矢理?・監禁×孕ませ
・ハピエン
※レイプや陵辱などの表現があります!苦手な方は御遠慮下さい。
〜ストーリー〜
裕福ではないが、父と母と私の三人平凡で幸せな日々を過ごしていた。
素敵な婚約者もいて、学園を卒業したらすぐに結婚するはずだった。
それなのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう⋯?
◇人物の表現が『彼』『彼女』『ヤツ』などで、殆ど名前が出てきません。なるべく表現する人は統一してますが、途中分からなくても多分コイツだろう?と温かい目で見守って下さい。
◇後半やっと彼の目的が分かります。
◇切ないけれど、ハッピーエンドを目指しました。
◇全8話+その後で完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる