『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

8.カード・スピーク(2)

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 風の吹く公園でどれだけ伊吹を抱き締めていただろう。
 くしゅん、と小さなくしゃみが胸で響いて覗き込む。
「伊吹さん?」
「……すみません」
「何?」
「洟、ついちゃったかも」
「……いいよ」
 そのままジャンパーに袖を通させて、もう一度ぎゅっと抱き締めてから京介は伊吹に笑いかけた。
「先、家に帰ってて?」
「でも、チラシ」
「え?」
「課長が集め損ねた分、集めたんですけど」
 ちら、と視線を流されて、見事に散らばっている紙に苦笑する。
「そうだったんだ」
 僕の、ため。
 じわりと熱くなった胸から伊吹を離したくなくて、それでも昼休みが終わるのは視界の端に入っている腕時計が教えている。
「『ニット・キャンパス』ですか、課長の考えてたの」
「うん」
 驚いた。
「よくわかったね?」
「今からどうにかなりそうなものって、あれぐらいですから」
 さらりと伊吹が言い放って、こんな冴えを知ったら、一層高山が欲しがるだろう、そう思った。
「帰ってから話す……だから戻ってて」
 このままじゃ風邪引いちゃいそうだから。
 名残り惜しく伊吹を離して、放り捨てられた『Brechen』を拾い上げ、汚れを落として小脇に抱える。
「伊吹さんはそれ着て戻って」
「それは?」
「参考資料……二度と着せない」
 ぼそりと言い切ると、微かに伊吹が笑う。
「課長は寒くないですか?」
「暑いぐらい」
 まさか、あんなことをするなんて思わなかった、そう思い出して、脳裏に過ったふわりとした柔らかな色味にどしんと腰が重くなって顔をしかめる。
「………戻るのはいいけど」
 この後仕事にならないんじゃないの?
 疼きかけた感覚に溜め息をついて伊吹を振り返る。
「美並」
「…はい」
「帰ろう?」
「はい」
 微笑んで伸ばした手に指を絡めてくる伊吹に、京介は深く豊かな息を吐いた。

「戻りました」
 つい浮き上がりそうな足を押さえつつ、課に戻ると、石塚が素早く顔を上げた。
「お電話です」
「僕に?」
「伊吹さんに」
「……大石さん?」
「はい」
「出るよ、代わって」
 昼は食べ損ねたけれど、もっとおいしくて熱いものを味わった体は、何だか経験したことのない温かさと強さに満ちている。
 今なら誰にも負ける気がしない。
 凄いな、と京介は密かに感動する。
 好きな人とするキスはこんなに気力をくれるものなんだ。
 知らなかった。
 だから恋人達は何度も何度もキスするんだ、見えない未来を一緒に歩くために。
 ジャンパーを着ていったはずなのに、シャツで戻ってきた京介が誰に会ってきたのか、薄々気付いているらしい石塚が鋭い視線を送ってくるのに、にこりと笑って受話器を取り上げる。
「はい、流通管理課、真崎京介です」
『………伊吹さんをお願いしたんですが』
「伊吹は今日は休んでいます、大石さん」
 真崎は戸惑った相手のことばに冷やかに笑った。
「どういった御用件でしょうか……午前中にもお電話頂いたそうですね」
 その時に石塚が休みを伝えているはずだ。
『いや、ちょっと確認したいことがあったので』
 揺れた語尾に家にかけたのに留守だったから、もう一度かけてきたんだと感じた。
「彼女が何か失礼を?」
 それなら僕が御用件をお聞きしますが。
「彼女のことなら、僕の課の問題でもありますので」
『……仕事じゃない』
 不愉快そうに大石が唸るのに、ますます笑みを深める。
「ならば、一層」
 静かにはっきりことばを継いだ。
「僕を通して頂きます」
『……どういうことです』
 あなたにどんな権利がある。
 言外の意味を読み取って冷たく吐き捨てる。
「説明しなくてはいけませんか」
『…………今日は強気ですね』
「この先もずっとそのつもりです」
 引く気はない、と響かせる。
『……鳴海工業を訪ねられたそうですが』
「いい製品を作って頂いた。ついでがあったのでお礼に伺いました」
『特別な計画があるとか話しておられたようですが』
「いえ」
 大石は鳴海の動きを無視しているわけではないらしい。
「これからもよろしくお願いします、そうお伝えしただけですよ」
『夏のニット商品については?』
「一般論です」
 予想以上に詳しい情報の掴み方、誰かが鳴海工業に張り付いていると見た方がいい、そう京介は判断した。
 とすると、あそこは正三郎が感じているように、見捨てられて放置されているということではなく、桜木通販の押さえのためにあえて温存されている、そればかりか、大石の頭の中には意外に大きな駒として置かれているということになる。
 ひょっとしたら。
「あなたのところのように、糸のために工場を確保するなんて荒技はできませんから」
『……』
 かけたかまに大石がはっきりと息を呑む気配がして、京介は薄く笑った。
 ビンゴ。
 側の机の『Brechen』に指を伸ばして、折り込まれた糸を確認する。
 この美しい光沢のある不思議な感触の糸は鳴海工業が開発したものなのだ。そして、その糸をうまく扱える職人は鳴海工業にしかいない。
 だからこそ、岩倉産業は鳴海工業から職人を引っ張るしかなかった、そういうことだ。
「いい糸ですね」
 さりげなく畳み掛ける。
「肌触りもいい。これを夏物にするとまた面白いでしょうね」
『………どこまで知っているんです』
 くす、と京介は笑った。
 なるほど、この糸はもともと『Brechen』のために開発されたものではないのだろう。おそらくは大石側の誰かが夏のニットのために開発を進めていたもので、それを試験半分で転用したのだろう。
 今回の一件で手ごたえを掴み、『Brechen』の夏シリーズを発想しているのかもしれない。
 そして、その夏シリーズを請け負う予定になっているのは鳴海工業だ。
 今この時期に経営が苦しくなった鳴海工業は岩倉産業に頼らざるを得ない。その見返りに夏に少々の負担を被ってもいい、そう思わせることもできる。一石二鳥だ。
「今度こちらもオリジナル商品の開発に取り組むことになります」
 京介は静かに続けた。
「鳴海工業さんにも協力して頂けるかなと思ってるんですよ」
 いい品物を流通させてお客さまに喜んで頂く事、これが何よりですからね。
『我が社と競合すると?』
「まさか。ただ」
 あなたには、負けない。
 ぽつりと続けたことばに大石が低く唸った。
『美並はあなたを選んだのか』
「ええ」
 間髪入れずに応じると、がしゃりと受話器が置かれる、その瞬間に。
 美並の抱き方も知らないくせに。
 掠れた声が響いた。
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