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第2章
3.京介(2)
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吐き尽くしてトイレから出、あちこち手配を進めたはずだが、何をどうしたのか京介の意識にはなかった。
ただめまいがひどくて、何度も眼鏡を磨いたり掛け直したりしながら、ついにはパソコン画面が揺れ始めたあたりで、残業を諦める。
石塚はとうに帰っているし、社内も残っている部署は現場対応の系統ばかり、明日は祝日だがこの分だと出てくるしかないなと見切りをつける。
「明日もう一度……見直しておかなくちゃならないな」
今日の対応が十分だったとは思えない。けれど、まだ胃のあたりがずくずくするし、水分は取っておかなくちゃと口にしたウーロン茶も吐きかけて、冷や汗をかきながら堪えた。
もう、帰らずにこのまま仮眠室でも使おうか。
思ったものの、何だか寒気もしてきたし、この上に風邪など引いては目も当てられない。
とりあえず部屋に戻って風邪薬を飲んで眠ろう、とよろめくようにタクシーで戻ってきて。
「あ…れ」
マンションのエントランスに、見覚えのある後ろ姿があった。
「伊吹…さん?」
「……おかえりなさい」
振り向いたのは確かに、今夜大石と『ハイウィンド・リール』に泊まっているはずの伊吹、微笑みながらこちらを見た顔が驚いたように強ばる。
「どうしたんですか」
「…え?」
「顔色、真っ青ですよ」
「そんなに……悪い?」
「はい」
慌てて近寄ってきた伊吹は片手に小さな茶色と白の箱を下げている。
「それ…」
「ああ、カフェプリン」
何を思い出したのか、仏像を思わせるような不思議な笑みで伊吹は頷き、
「村野さんから受け取ってきました」
「村野…?」
ああ、そうだ、とようやく思い出した。
昨日、付き合い出して一ヶ月になるからと頼んでおいたっけ。伊吹を失うんだと思ったから、もう何もかも忘れきっていた。
「『村野』に……行ったの?」
なのに、どうしてここに居るの。
「はい」
伊吹はもう一度頷いて、ふいに腕の中に体を寄せてきてどきりとした。
「京介?」
「あ」
違う、と気付く。
京介がよろめいて倒れそうになったのを、伊吹が支えてくれようとしたのだ。
「大丈夫ですか?」
「うん」
どうしてここに居るの。
どうしてあいつと一緒に居ないの。
どうしてまだ、僕のところに。
尋ねたいことが口を突きそうで、尋ねてしまったら何もかも消えて一人で立ち竦んでいそうで、震えた。
「部屋に入りましょうか」
「うん」
「……合鍵、作ってもらった方がいいですね」
「……あい、かぎ」
合鍵って。
それって。
強く不安定に疼き出した胸に唇を噛む。今すぐ伊吹を抱えて強く抱き締めて、合鍵どころか二度とどこにも出さないようにしてしまいたい。
足下が危うい京介を気遣って、伊吹はずっと寄り添っていてくれる。エレベーターに乗って廊下を歩きながら、また揺らめく視界に必死に考える。
ひょっとして、何か、大石に急な用事ができたんじゃないか。
それで、とにかく今夜は伊吹と一緒に居ることができなくなったんじゃないか。
ならば、今夜だけが京介に残された最後の機会じゃないのか。
今夜が最後なら。
ごく、と唾を呑み込む。
考えたことに一気に身体が熱くなる。
「ベッドに行けます?」
「ん」
「じゃあ、これを片付けて、暖房つけてきますね」
「うん」
部屋に入って、京介から離れてまず暖房をつけ、それからカフェプリンを片付けるためにキッチンへ向かう伊吹を見遣る。
誘う方法は、一つしか、知らない。
寝室に入って上着を脱ぐ。
今夜しかない。
崩れるようにベッドに寝そべる。
胸が波打って苦しい。
伊吹が大石の元に帰ると言い出す前に。
「伊吹、さん」
声が震えた。
「ちょっと、来て」
「はい?」
近付いてくる足音に熱い息を吐いた。
ただめまいがひどくて、何度も眼鏡を磨いたり掛け直したりしながら、ついにはパソコン画面が揺れ始めたあたりで、残業を諦める。
石塚はとうに帰っているし、社内も残っている部署は現場対応の系統ばかり、明日は祝日だがこの分だと出てくるしかないなと見切りをつける。
「明日もう一度……見直しておかなくちゃならないな」
今日の対応が十分だったとは思えない。けれど、まだ胃のあたりがずくずくするし、水分は取っておかなくちゃと口にしたウーロン茶も吐きかけて、冷や汗をかきながら堪えた。
もう、帰らずにこのまま仮眠室でも使おうか。
思ったものの、何だか寒気もしてきたし、この上に風邪など引いては目も当てられない。
とりあえず部屋に戻って風邪薬を飲んで眠ろう、とよろめくようにタクシーで戻ってきて。
「あ…れ」
マンションのエントランスに、見覚えのある後ろ姿があった。
「伊吹…さん?」
「……おかえりなさい」
振り向いたのは確かに、今夜大石と『ハイウィンド・リール』に泊まっているはずの伊吹、微笑みながらこちらを見た顔が驚いたように強ばる。
「どうしたんですか」
「…え?」
「顔色、真っ青ですよ」
「そんなに……悪い?」
「はい」
慌てて近寄ってきた伊吹は片手に小さな茶色と白の箱を下げている。
「それ…」
「ああ、カフェプリン」
何を思い出したのか、仏像を思わせるような不思議な笑みで伊吹は頷き、
「村野さんから受け取ってきました」
「村野…?」
ああ、そうだ、とようやく思い出した。
昨日、付き合い出して一ヶ月になるからと頼んでおいたっけ。伊吹を失うんだと思ったから、もう何もかも忘れきっていた。
「『村野』に……行ったの?」
なのに、どうしてここに居るの。
「はい」
伊吹はもう一度頷いて、ふいに腕の中に体を寄せてきてどきりとした。
「京介?」
「あ」
違う、と気付く。
京介がよろめいて倒れそうになったのを、伊吹が支えてくれようとしたのだ。
「大丈夫ですか?」
「うん」
どうしてここに居るの。
どうしてあいつと一緒に居ないの。
どうしてまだ、僕のところに。
尋ねたいことが口を突きそうで、尋ねてしまったら何もかも消えて一人で立ち竦んでいそうで、震えた。
「部屋に入りましょうか」
「うん」
「……合鍵、作ってもらった方がいいですね」
「……あい、かぎ」
合鍵って。
それって。
強く不安定に疼き出した胸に唇を噛む。今すぐ伊吹を抱えて強く抱き締めて、合鍵どころか二度とどこにも出さないようにしてしまいたい。
足下が危うい京介を気遣って、伊吹はずっと寄り添っていてくれる。エレベーターに乗って廊下を歩きながら、また揺らめく視界に必死に考える。
ひょっとして、何か、大石に急な用事ができたんじゃないか。
それで、とにかく今夜は伊吹と一緒に居ることができなくなったんじゃないか。
ならば、今夜だけが京介に残された最後の機会じゃないのか。
今夜が最後なら。
ごく、と唾を呑み込む。
考えたことに一気に身体が熱くなる。
「ベッドに行けます?」
「ん」
「じゃあ、これを片付けて、暖房つけてきますね」
「うん」
部屋に入って、京介から離れてまず暖房をつけ、それからカフェプリンを片付けるためにキッチンへ向かう伊吹を見遣る。
誘う方法は、一つしか、知らない。
寝室に入って上着を脱ぐ。
今夜しかない。
崩れるようにベッドに寝そべる。
胸が波打って苦しい。
伊吹が大石の元に帰ると言い出す前に。
「伊吹、さん」
声が震えた。
「ちょっと、来て」
「はい?」
近付いてくる足音に熱い息を吐いた。
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