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第1章
11.イン・ジ・エアー(4)
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何があったのだろう。
運ばれてきた前菜を、綺麗だね、と嬉しそうに覗き込む真崎に伊吹は眉をしかめる。
「伊吹さん、ワイン呑む?」
「いえ、結構です」
「僕は少し呑もうかな……メインが魚だけど、今は赤が欲しいな」
ワインリストを開いて考え込む相手の表情は明るいし、仕草も滑らかでことばもはっきりしている。傍目から見れば、何も問題はないどころか、むしろ上機嫌と言っていい。
「課長?」
「ん? へえ、伊吹さん、これ牛蒡のスープだって」
「何がありました?」
おいしそうだね、と掬って口に運ぶ真崎は、伊吹が続けたことばに一瞬動きを止めた。
「何も」
こくん、とスープを呑んだ唇が平然と動く。
「どうして?」
早く呑まないと冷めちゃうよ。
次の一さじを掬いながら、
「……何があった、って聞くんだね」
「え?」
「何かあった、じゃないんだ」
俯いたままの顔を上げずにくすりと真崎は笑った。
「凄いや」
「……別にたいしたことじゃないですよ」
伊吹はスプーンを取り上げてスープを掬った。見かけよりコクがあって熱いのに気付いて、また改めて真崎を見る。
「スープ熱くなかったですか?」
「そう? 大丈夫だけど」
「……」
もう一さじ掬っても、やっぱり十分熱い。見つめると、真崎の唇も僅かに赤くなっている。
「……どうして」
パンを千切ってマーガリンを塗る、それでも真崎は視線を上げない。
「そんなこと聞くの」
上げないままに尋ねてくる。
「何を焦ってるの?」
「……っ」
びく、と真崎が体を震わせて手を止めた。そろそろと見返してくる目が眼鏡の向こうで煙っているように見える。
「焦ってる?」
「今日はゆっくり付き合いますから」
「……」
「コーヒーまでちゃんと付き合いますから」
「………うん…」
ふ、と真崎の力が抜けた。同時に瞳に光が戻ってきて、小さく息を吐いてパンを置く。
「……僕、焦ってた?」
「少しですけど」
「……そう」
そのままぼんやりと今度は身動きしなくなってしまう。
まるで真崎の中にある割れ砕けたガラスが、今真崎自身に突き刺さっているようだ。尖った針の上でゆらゆら揺れながら、少しずつ傷が増えていく。
「メイン来ましたよ」
「……」
「おいしそうですね」
「……うん」
魚は軽く蒸されてコンソメの薫りを立ち上らせている。色鮮やかなソースが皿と魚を絵のように飾っていた。添えられたブロッコリーも豊かな味を含んでいて、魚の淡白な軽さを楽しませる。
真崎はゆっくりと料理を片付けていった。時々自分が何処に居るのかわからなくなったように、瞬きして周囲を見回すのが怯えたように見える。
「誰か来るんですか」
「え」
「……誰かを探してるの?」
「あ、いや」
ぎくりとして振り返る目が不安定に揺れた。
「ごめん、僕、もう」
お腹いっぱいになっちゃったみたいで。
メインの途中でフォークとナイフを置き、その代わりのようにワインを口にした。伊吹が食事を進めていくのが待ち切れないような様子で苛立った顔でコースのコーヒーを放置する。次第に絞り上げられるようにきりきりしていく真崎に溜め息をついて、伊吹はごちそうさま、と手を合わせた。
今日は割り勘にしましょう、そう言っても真崎は聞かなかった。追い立てるように店を出てタクシーを拾い、すぐに自分のマンションへ向かおうとするのを止める。
「あ、すいません、玄翁町へお願いします」
「え?」
きょとんと真崎が振り返った。
「伊吹さんとこに行くの?」
知ってんのかよ、と突っ込みかけたが、ひどくへたっているようでもあるし手控える。
「おいしいコーヒー淹れてもらえるなら、試したいものがあるんです」
ふぅん、と首を傾げた真崎が少し浮上して伊吹はほっとした。
運ばれてきた前菜を、綺麗だね、と嬉しそうに覗き込む真崎に伊吹は眉をしかめる。
「伊吹さん、ワイン呑む?」
「いえ、結構です」
「僕は少し呑もうかな……メインが魚だけど、今は赤が欲しいな」
ワインリストを開いて考え込む相手の表情は明るいし、仕草も滑らかでことばもはっきりしている。傍目から見れば、何も問題はないどころか、むしろ上機嫌と言っていい。
「課長?」
「ん? へえ、伊吹さん、これ牛蒡のスープだって」
「何がありました?」
おいしそうだね、と掬って口に運ぶ真崎は、伊吹が続けたことばに一瞬動きを止めた。
「何も」
こくん、とスープを呑んだ唇が平然と動く。
「どうして?」
早く呑まないと冷めちゃうよ。
次の一さじを掬いながら、
「……何があった、って聞くんだね」
「え?」
「何かあった、じゃないんだ」
俯いたままの顔を上げずにくすりと真崎は笑った。
「凄いや」
「……別にたいしたことじゃないですよ」
伊吹はスプーンを取り上げてスープを掬った。見かけよりコクがあって熱いのに気付いて、また改めて真崎を見る。
「スープ熱くなかったですか?」
「そう? 大丈夫だけど」
「……」
もう一さじ掬っても、やっぱり十分熱い。見つめると、真崎の唇も僅かに赤くなっている。
「……どうして」
パンを千切ってマーガリンを塗る、それでも真崎は視線を上げない。
「そんなこと聞くの」
上げないままに尋ねてくる。
「何を焦ってるの?」
「……っ」
びく、と真崎が体を震わせて手を止めた。そろそろと見返してくる目が眼鏡の向こうで煙っているように見える。
「焦ってる?」
「今日はゆっくり付き合いますから」
「……」
「コーヒーまでちゃんと付き合いますから」
「………うん…」
ふ、と真崎の力が抜けた。同時に瞳に光が戻ってきて、小さく息を吐いてパンを置く。
「……僕、焦ってた?」
「少しですけど」
「……そう」
そのままぼんやりと今度は身動きしなくなってしまう。
まるで真崎の中にある割れ砕けたガラスが、今真崎自身に突き刺さっているようだ。尖った針の上でゆらゆら揺れながら、少しずつ傷が増えていく。
「メイン来ましたよ」
「……」
「おいしそうですね」
「……うん」
魚は軽く蒸されてコンソメの薫りを立ち上らせている。色鮮やかなソースが皿と魚を絵のように飾っていた。添えられたブロッコリーも豊かな味を含んでいて、魚の淡白な軽さを楽しませる。
真崎はゆっくりと料理を片付けていった。時々自分が何処に居るのかわからなくなったように、瞬きして周囲を見回すのが怯えたように見える。
「誰か来るんですか」
「え」
「……誰かを探してるの?」
「あ、いや」
ぎくりとして振り返る目が不安定に揺れた。
「ごめん、僕、もう」
お腹いっぱいになっちゃったみたいで。
メインの途中でフォークとナイフを置き、その代わりのようにワインを口にした。伊吹が食事を進めていくのが待ち切れないような様子で苛立った顔でコースのコーヒーを放置する。次第に絞り上げられるようにきりきりしていく真崎に溜め息をついて、伊吹はごちそうさま、と手を合わせた。
今日は割り勘にしましょう、そう言っても真崎は聞かなかった。追い立てるように店を出てタクシーを拾い、すぐに自分のマンションへ向かおうとするのを止める。
「あ、すいません、玄翁町へお願いします」
「え?」
きょとんと真崎が振り返った。
「伊吹さんとこに行くの?」
知ってんのかよ、と突っ込みかけたが、ひどくへたっているようでもあるし手控える。
「おいしいコーヒー淹れてもらえるなら、試したいものがあるんです」
ふぅん、と首を傾げた真崎が少し浮上して伊吹はほっとした。
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