『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

10.砕かれたガラス(2)

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「僕」
 ごくん、と真崎は唾を呑み込んだ。眼鏡の奥の瞳が不安に揺れている。
「僕は」
 電話が唐突に鳴って、美並が手を伸ばす前に石塚が取り上げた。
「はい、桜木通販流通管理課、石塚でございます……あ、はい、いらっしゃいますが」
 石塚の丁寧な応対におや、と思う。案の定、受話器を少し離しながら、
「課長」
「はい」
「真崎恵子さまからお電話ですが」
「え」
 ぎょっとした顔で振り向いた真崎はちらっと美並を見遣り、慌てて自席に戻った。
「こっちで取るよ、回して」
「はい」
「データ入力、続きやりますね」
「はい、お願いします」
 もしもし、京介ですが。
 席で鳴った電話に出た真崎に美並は了承を得た。神経質な視線で真崎が頷き、微かに眉を潜めて目を伏せる。その目元に一瞬どきりとするほど艶のある表情が広がって、美並は小さく溜め息をついた。
「んーと…」
 データを確認しキーボードを叩き始める。
 たぶん、真崎は来ない。
 大輔が美並に接触をはかってきた、その意図に恵子が噛んでいるとは思わないけれど、大輔が不在なのを利用して動こうとしているのは明白で。
「え……そんなのいきなり言われても」
 困惑した顔で真崎がますます眉をしかめる。
「今日の夕方?」
 これはますます。
 美並は無表情を装いながらキーを打った。
 正直なところ、美並一人で大輔に会うのは憂鬱だ。本当は、真崎が付いてきてくれるかと半分あてにしたところがあるのだけど、恵子の頼みなら断らないだろう。ましてや、真崎は美並が圭吾のことを今も想っていると誤解しているようでもあるし、気持ちとしては不安定だから……。
「伊吹さん」
「はい」
 電話を終えた真崎が立ち上がってやってきた。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「今日の夕方…僕の方も人と会う約束ができて」
 美並は見下ろしてくる真崎を見上げた。
 淡い繭は少しまた厚くなって、そこから透ける表情がよく見えない。
「じゃあ、私が御会いしてきます」
「うん、大輔の用事が何かわからないけれど」
 真崎は静かに続けた。
「よろしくお願いします」
 ぺこりとまるで仕事を頼むように頭を下げ、くるりと身を翻す。
 ちょっと出てきます、急ぎは携帯にね、と言いおいて、真崎は急ぎ足に部屋を出ていった。

 さて。
 問題はこの目の前の男が何をしにやってきたか、ということよね。
「お待たせしましたか」
 相変わらず明るく笑いながら、真崎大輔が大股で改札口を抜けてくる。
 濃い紺のジャケット、同色のスラックス、同系色のシャツに襟元のスカーフが渋めの茶色、薄めのコートを翻してやってくる大柄な男は、親し気な笑みとおおらかそうな態度で周囲の耳目を魅いている。
 きっとずっとこういう感じでやってきたのだろう。体育会系の裏表なく快活な好青年として。
 けれど美並の目には、その体の周囲に身動きするたびにゆらゆらと動く青黒いコロナのような影が見える。
 何だろう、これは。絡まれ取り込まれると息ができない、そんな気がする。
「いいえ、今来ました」
「それはよかった、こんな寒いところでお待たせしちゃ、京介に怒られる」
 わはは、と笑って、大輔はすぐそこです、と太い指で道の向こうを指差してみせる。
「『オリジン』って店ですが、御存じですか」
「いえ」
 この辺りは意外と来ないんですよ、と笑い返しながら、美並は胸のリボンを少し押さえた。
 おいおい、その店、一ヶ月ほど前に閉店したみたいだけど。
 胸の中で一人ごちる。
 実は少し早くここに来て、近くの喫茶店が『オリジン』だけであること、そこも新装開店のため一時的に閉店していることを確かめたのだ。
 大輔がそれを知らないとは思えない。けれど、既に閉店している店に美並を誘う意図はまだ見えない。
 いかにも頼りがいのある快活そうなこの男は、腹の底にとんでもなく澱んだものを秘めているのは確かだった。
「京介はどうですか、会社でちゃんとやってますか」
「はい、切れ者でみんなに頼りにされてます」
「え? あいつが? いやあ、家に居るときからは想像つかないなあ」
「物腰は柔らかいんですけど、締めるときは締めるんですよ」
「締めるときは締める、ね」
 ふふ、と大輔は妙な笑い方をした。
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