64 / 503
第1章
10.砕かれたガラス(2)
しおりを挟む
「僕」
ごくん、と真崎は唾を呑み込んだ。眼鏡の奥の瞳が不安に揺れている。
「僕は」
電話が唐突に鳴って、美並が手を伸ばす前に石塚が取り上げた。
「はい、桜木通販流通管理課、石塚でございます……あ、はい、いらっしゃいますが」
石塚の丁寧な応対におや、と思う。案の定、受話器を少し離しながら、
「課長」
「はい」
「真崎恵子さまからお電話ですが」
「え」
ぎょっとした顔で振り向いた真崎はちらっと美並を見遣り、慌てて自席に戻った。
「こっちで取るよ、回して」
「はい」
「データ入力、続きやりますね」
「はい、お願いします」
もしもし、京介ですが。
席で鳴った電話に出た真崎に美並は了承を得た。神経質な視線で真崎が頷き、微かに眉を潜めて目を伏せる。その目元に一瞬どきりとするほど艶のある表情が広がって、美並は小さく溜め息をついた。
「んーと…」
データを確認しキーボードを叩き始める。
たぶん、真崎は来ない。
大輔が美並に接触をはかってきた、その意図に恵子が噛んでいるとは思わないけれど、大輔が不在なのを利用して動こうとしているのは明白で。
「え……そんなのいきなり言われても」
困惑した顔で真崎がますます眉をしかめる。
「今日の夕方?」
これはますます。
美並は無表情を装いながらキーを打った。
正直なところ、美並一人で大輔に会うのは憂鬱だ。本当は、真崎が付いてきてくれるかと半分あてにしたところがあるのだけど、恵子の頼みなら断らないだろう。ましてや、真崎は美並が圭吾のことを今も想っていると誤解しているようでもあるし、気持ちとしては不安定だから……。
「伊吹さん」
「はい」
電話を終えた真崎が立ち上がってやってきた。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「今日の夕方…僕の方も人と会う約束ができて」
美並は見下ろしてくる真崎を見上げた。
淡い繭は少しまた厚くなって、そこから透ける表情がよく見えない。
「じゃあ、私が御会いしてきます」
「うん、大輔の用事が何かわからないけれど」
真崎は静かに続けた。
「よろしくお願いします」
ぺこりとまるで仕事を頼むように頭を下げ、くるりと身を翻す。
ちょっと出てきます、急ぎは携帯にね、と言いおいて、真崎は急ぎ足に部屋を出ていった。
さて。
問題はこの目の前の男が何をしにやってきたか、ということよね。
「お待たせしましたか」
相変わらず明るく笑いながら、真崎大輔が大股で改札口を抜けてくる。
濃い紺のジャケット、同色のスラックス、同系色のシャツに襟元のスカーフが渋めの茶色、薄めのコートを翻してやってくる大柄な男は、親し気な笑みとおおらかそうな態度で周囲の耳目を魅いている。
きっとずっとこういう感じでやってきたのだろう。体育会系の裏表なく快活な好青年として。
けれど美並の目には、その体の周囲に身動きするたびにゆらゆらと動く青黒いコロナのような影が見える。
何だろう、これは。絡まれ取り込まれると息ができない、そんな気がする。
「いいえ、今来ました」
「それはよかった、こんな寒いところでお待たせしちゃ、京介に怒られる」
わはは、と笑って、大輔はすぐそこです、と太い指で道の向こうを指差してみせる。
「『オリジン』って店ですが、御存じですか」
「いえ」
この辺りは意外と来ないんですよ、と笑い返しながら、美並は胸のリボンを少し押さえた。
おいおい、その店、一ヶ月ほど前に閉店したみたいだけど。
胸の中で一人ごちる。
実は少し早くここに来て、近くの喫茶店が『オリジン』だけであること、そこも新装開店のため一時的に閉店していることを確かめたのだ。
大輔がそれを知らないとは思えない。けれど、既に閉店している店に美並を誘う意図はまだ見えない。
いかにも頼りがいのある快活そうなこの男は、腹の底にとんでもなく澱んだものを秘めているのは確かだった。
「京介はどうですか、会社でちゃんとやってますか」
「はい、切れ者でみんなに頼りにされてます」
「え? あいつが? いやあ、家に居るときからは想像つかないなあ」
「物腰は柔らかいんですけど、締めるときは締めるんですよ」
「締めるときは締める、ね」
ふふ、と大輔は妙な笑い方をした。
ごくん、と真崎は唾を呑み込んだ。眼鏡の奥の瞳が不安に揺れている。
「僕は」
電話が唐突に鳴って、美並が手を伸ばす前に石塚が取り上げた。
「はい、桜木通販流通管理課、石塚でございます……あ、はい、いらっしゃいますが」
石塚の丁寧な応対におや、と思う。案の定、受話器を少し離しながら、
「課長」
「はい」
「真崎恵子さまからお電話ですが」
「え」
ぎょっとした顔で振り向いた真崎はちらっと美並を見遣り、慌てて自席に戻った。
「こっちで取るよ、回して」
「はい」
「データ入力、続きやりますね」
「はい、お願いします」
もしもし、京介ですが。
席で鳴った電話に出た真崎に美並は了承を得た。神経質な視線で真崎が頷き、微かに眉を潜めて目を伏せる。その目元に一瞬どきりとするほど艶のある表情が広がって、美並は小さく溜め息をついた。
「んーと…」
データを確認しキーボードを叩き始める。
たぶん、真崎は来ない。
大輔が美並に接触をはかってきた、その意図に恵子が噛んでいるとは思わないけれど、大輔が不在なのを利用して動こうとしているのは明白で。
「え……そんなのいきなり言われても」
困惑した顔で真崎がますます眉をしかめる。
「今日の夕方?」
これはますます。
美並は無表情を装いながらキーを打った。
正直なところ、美並一人で大輔に会うのは憂鬱だ。本当は、真崎が付いてきてくれるかと半分あてにしたところがあるのだけど、恵子の頼みなら断らないだろう。ましてや、真崎は美並が圭吾のことを今も想っていると誤解しているようでもあるし、気持ちとしては不安定だから……。
「伊吹さん」
「はい」
電話を終えた真崎が立ち上がってやってきた。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「今日の夕方…僕の方も人と会う約束ができて」
美並は見下ろしてくる真崎を見上げた。
淡い繭は少しまた厚くなって、そこから透ける表情がよく見えない。
「じゃあ、私が御会いしてきます」
「うん、大輔の用事が何かわからないけれど」
真崎は静かに続けた。
「よろしくお願いします」
ぺこりとまるで仕事を頼むように頭を下げ、くるりと身を翻す。
ちょっと出てきます、急ぎは携帯にね、と言いおいて、真崎は急ぎ足に部屋を出ていった。
さて。
問題はこの目の前の男が何をしにやってきたか、ということよね。
「お待たせしましたか」
相変わらず明るく笑いながら、真崎大輔が大股で改札口を抜けてくる。
濃い紺のジャケット、同色のスラックス、同系色のシャツに襟元のスカーフが渋めの茶色、薄めのコートを翻してやってくる大柄な男は、親し気な笑みとおおらかそうな態度で周囲の耳目を魅いている。
きっとずっとこういう感じでやってきたのだろう。体育会系の裏表なく快活な好青年として。
けれど美並の目には、その体の周囲に身動きするたびにゆらゆらと動く青黒いコロナのような影が見える。
何だろう、これは。絡まれ取り込まれると息ができない、そんな気がする。
「いいえ、今来ました」
「それはよかった、こんな寒いところでお待たせしちゃ、京介に怒られる」
わはは、と笑って、大輔はすぐそこです、と太い指で道の向こうを指差してみせる。
「『オリジン』って店ですが、御存じですか」
「いえ」
この辺りは意外と来ないんですよ、と笑い返しながら、美並は胸のリボンを少し押さえた。
おいおい、その店、一ヶ月ほど前に閉店したみたいだけど。
胸の中で一人ごちる。
実は少し早くここに来て、近くの喫茶店が『オリジン』だけであること、そこも新装開店のため一時的に閉店していることを確かめたのだ。
大輔がそれを知らないとは思えない。けれど、既に閉店している店に美並を誘う意図はまだ見えない。
いかにも頼りがいのある快活そうなこの男は、腹の底にとんでもなく澱んだものを秘めているのは確かだった。
「京介はどうですか、会社でちゃんとやってますか」
「はい、切れ者でみんなに頼りにされてます」
「え? あいつが? いやあ、家に居るときからは想像つかないなあ」
「物腰は柔らかいんですけど、締めるときは締めるんですよ」
「締めるときは締める、ね」
ふふ、と大輔は妙な笑い方をした。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【R18】淫乱メイドは今日も乱れる
ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。
毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を……
※性的な表現が多分にあるのでご注意ください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる