『闇を闇から』

segakiyui

文字の大きさ
上 下
503 / 503
第5章

11.天に還る(13)

しおりを挟む
 ちりん。
 風鈴が鳴って、美並は顔を上げる。
 さっきまで見えなかったのに、風鈴の背後には晴れ渡った青空があった。
 風が吹き抜ける。
『よく晴れたね』
 背後からやってきて、隣に立った人が微笑んで見下ろす。
『課長…』
 風に前髪を嬲らせて、そう言えば最近長めだった、とやさしく見上げる。
『いい風ですね』
『気持ちいいよ』
 皺一つないシャツに包まれた腕を差し上げて、ゆっくり伸びをする。閉じた目、頬に睫毛が影を落としている。
『長い間、曇っていた』
『はい』
『いつ止むのかわからない雨の中で』
『はい』
『どこにも行けず、どこにも還れず』
『…はい』
 それは美並の気持ちそのものだ。
 足元を見下ろすと、なんと裸足だった。ストッキングさえ履いていない。濃い緑の草原、所々に小さな白い花が咲いている。
『…ここは天国ですか』
 俯いたまま尋ねた。
『あなたは課長の姿をした、天使か何かで』
 裸足に草が触れる。くすぐったくて、それでも穏やかな日差しが気持ちいい。
『私はひょっとして、あれこれ踏み越えてしまったから、あの世界に戻れなくなったんですか』
 さっき見た赤来の棲まう闇の光景が、幻だとは思えなかった。孝の死の真相も真実ではなくとも近いのかもしれない。
 境界を踏み越えて、美並はとうとう世界から外されてしまったのか。
『もしそうだとしたら』
 隣のスラックス姿の真崎は静かに問い返す。
『君はここに来るのに躊躇した?』
『いいえ』
 即答した。
『決めていましたから』
 自分の能力をどう使えばいいのか、ずっと悩んでいた。どう使えば誰かの役に立てるのか。誰かの痛みを減らせるのか。意味があったと思えるのか。
 結論は酷くてシンプルだった。
 誰も傷つけずに、力を使うことはできない。
 ならば、問題は、いつ、誰に、どう使うか、それだけだ。
『課長を…尊敬しています』
 もう戻れないかもしれないが、それなら今この相手に、気持ちを素直に伝えておこう。ひょっとすると気まぐれで、真崎に届けてもらえるかもしれない。
『僕を?』
 訝しそうな口調も真崎そのままでくすりと笑う。
『はい』
『僕は情けなくてみっともなくて、迷ったり悩んだりいじけたりばかりしてる、つまんない男だよ』
 ああ確かに真崎ならそう言うだろう。
『美並の方がずっと凄い』
 柔らかく呟かれる声に涙が出そうになる。
『いいえ……いいえ、あなたは全然わかっていない』
 思わず反論する。裸足の爪に落ちた雫はないことにする。
『課長は、いつもちゃんと、わかってました』
 赤来と話した後だからこそ、よくわかるのかも知れないが。
『自分のしていることが、良いことなのか、悪いことなのか、いつもちゃんと考えてた。わからないとか、知らないとか、課長の身に起こったことで、そんな風にとぼけて良いことなんて山ほどあったのに、課長はいつもちゃんと決めていた』
 大輔に襲われたのは悪いこと。
 孝を探さなかったのは悪いこと。
 美並と出会ったのは良いこと。
 美並を守るのは良いこと。
『自分の不利になることも一杯あったのに、一つもないことなんかにしないで、全部抱えて、壊れかけてるのにちゃんと抱えて』
 恵子に巻き込まれたのは悪いこと。
 美並に愛されるのは良いこと。
『迷っても悩んでも、一つ一つ選んで決めて』
『正しくないこともあったよ』
『正しさなんて意味がないです』
 雫が数を増していく。足が濡れて風に冷える。
『もし、正しさがあるとしたら、自分が悪いことだと決めたことを絶対しないってことです』
 真崎は変わろうとし続けた。
『わからないとか、いつかとか、そう言うことばで逸らさないで』
 約束するから、美並。
 お願いだから、もう一度チャンスを。
 幸せになるから。
『あなたは何にもわかっていない』
 この能力を与えたのが誰かは知りませんし、知りたくもありませんが。
『私の願いを叶えてくれたのは京介だけです』
 だからこの後二度とあの世界へ戻れなくても後悔などしない。
『私は、私の能力を、かけがえのない相手に、二度とない時に、絶対必要な形で使いました』
 顔を上げる。
 びしょびしょになった顔を見下ろす、優しい真崎の笑顔に涙が溢れる。
『そのどこに後悔する要素がありますか』
『…美並』
 近寄ってきた真崎が顔を包んでキスしてくれる。
 額に、両頬に、そしてそっと抱き締めて、髪に。
『僕は、あなたを尊敬する』
 真崎の声は体を通して響くより、何か周囲の空気を震わせるように届いた。
『あなたが行なった全ての選択と、それに伴う全ての責務に、敬意を表する』
 愛しい人。
 大切な人。
『あなたの望むように』
 もう一度髪にキスが落とされる。
『それから…』
 くす、と小さく笑い声が漏れた。
『唇は彼に残しておこう』
 帰れる。
 閃いた確信に拳を握る。
『うっ……あああああ!!!』
 美並は、泣いた。

    第5章終了
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

性欲の強すぎるヤクザに捕まった話

古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。 どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。 「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」 「たまには惣菜パンも悪くねぇ」 ……嘘でしょ。 2019/11/4 33話+2話で本編完結 2021/1/15 書籍出版されました 2021/1/22 続き頑張ります 半分くらいR18な話なので予告はしません。 強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。 誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。 当然の事ながら、この話はフィクションです。

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

【R-18】クリしつけ

蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。

【R18】淫乱メイドは今日も乱れる

ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。 毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を…… ※性的な表現が多分にあるのでご注意ください

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

処理中です...