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第5章
10.アウト・ドロー(7)
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ゆっくり目を開いて世界を見た。
大丈夫だ。
『羽鳥』も『赤来』も十分元気だ、まだまだ平気で逃げ出そうとしている。もっとぎりぎりのところまで切り刻んでも大人しくする気はなさそうだ。
まだ踏み込んでいい、もっと深くまで貫いてもいい。
全力で行っていい。
体がざわつく。汗が滲む。押さえつけていた感覚が次々と光彩を放って立ち上がって行く。皮膚が粟立つ、目の前の男に対する恐怖ではなく、自分の中に居る別の『羽鳥』を意識して。恐ろしいはずなのに、沸き立つような喜びしかない自分を感じて。
圧倒的優位に居る相手だ、楽しいじゃないか。
鋭く感覚を研ぎ澄ませる。
ポイントはどこか。
『羽鳥』が思い出しもしていない、『赤来』の記憶にはない、けれどそれが致命的だと知らしめる場所は一体どこだろう。
「…それとも伊吹さん」
椅子から浮きかけていた腰を緩やかに落として、『羽鳥』は穏やかに微笑んだ。
「君はもっと他のことを知っているのかな?」
どす黒い赤い靄は『羽鳥』の姿を幾重にも包む。『赤来』の薄皮を貼りつけ、無言の美並を身動きできないように包み込もうと、紅蓮の触手を伸ばしてくる。
「例えば、事件の関係者と僕が関わっているような噂を聞かされたとか」
低い優しげな声。
経理に出向いて書類の指示を受けているだけだと誤解しそうな、安定感のある口調。
「例えば、そのただの噂や思い込みを元に、何かの証拠を探そうとしているとか」
勘違いだよ、伊吹さん。
君は何か根本的なところで間違っていて、それでこんな馬鹿なことをしてしまっている。
「誰かの何かに、例えば僕の指紋が付いていたって、君は確認することなんかできやしないよ」
堪えかねたように、くすくす笑う。
「いつかのファイルは面白かったけどね」
もうこのあたりで終わりにしよう。
「…間違いは誰にでもよくあることさ、僕にだってある、だからさ」
僕は許してあげるよ、君を。
『赤来』はにっこりと笑う。
「だって、君が考えているような色々な事件と僕には、一切関わりがないんだからね」
よく調べればわかることだし。
「君だって、勤めている会社の上司に妙な疑いを掛けて、いろんな人を巻き込んで迷惑かけたくないだろう?」
ひょいとこれ見よがしに腕を伸ばして時計を眺める。
「例えば、この時計が珍しいものだからって、僕が持っていておかしいってことじゃないんだしね」
青い針の時計。『赤来』は修理を依頼した店から、警察が調べているとでも知らされたのか。
見せつけてくる、知らせてくる、美並が何を手掛かりにし、何を押し付けて来ようとも、『赤来』に繋がる『羽鳥』のラインはただ一つもない、と。
ふいに、鮮やかな朱色に染まった空が見えた。
ああ、そうだろう。
奇跡はそう言う繋がり方をするものだ。
「……なぜ、ハルくんの絵を引き裂いたのですか」
「絵?」
『赤来』は戸惑った声で応じた。
「僕は、絵など引き裂いて……っ」
『羽鳥』が凍りついた。
「…まさか…」
「あなたが忘れてしまっていても、傷跡が残されていた」
あれを、残していたのか。
声にならない声が『羽鳥』の口から零れた途端。
チリン。
「?」
ふいに音が響いた。美並だけに聞こえたのではない、『羽鳥』もまた訝しげな顔で美並を凝視して耳を澄ませている。
チリン。
「風鈴?」
美並のことばに『羽鳥』がざわっと毛を逆立てたのを感じた。
もう一度、と胸の中から声が響く。
紅の海に座る『美並』にもう一人、誰かの姿が重なるような気がして戸惑う。幼い少女、華奢な手足、促されるように『羽鳥』を見つめる。『赤来』を超え、『羽鳥』を貫いたその彼方、誰だろう、弱々しげな、孝に似ている小さな姿が透ける。
そっくりだったから、我慢できなかった。
愚かで圧倒されて振り回されて、だから踏みにじって消したかった。
アイスブルーの光が赤い靄の彼方から、孝の気配を重ねつつ滲み出してくる。
許してあげるよ、君を。
弱かった、脆かった、堪えきれず、抱え切れなかった。
けれどもう、このあたりで終わりにしよう。
だから、今一度、思い出させてやって欲しい。
美並は口を開いた。
「…あなたが………忘れてしまっていても……傷跡が……残され……っっ!」
「黙れっ!!」
飛びかかられて椅子から転げ落ちる。派手な音がしたはずだが、ちょうど昼休憩に入った矢先、一気にざわめく社内に美並が床に叩きつけられた衝撃が飲み込まれる。
「うっ」
「黙れっ何の話だ、今何をやった、ボイスレコーダーか、何をどこで鳴らしたっ」
美並の上に馬乗りになった『羽鳥』の姿から、見る見る赤い靄が溶け去っていく。赤来の顔は青白く表情を無くしている。
「これはなんだ、こんなものがなぜ見える、お前は何をやってるんだ!」
首を締めきらないのは答えを待っている姿、乗られた体重が苦しくて吐きそうになった美並が喉を鳴らした瞬間、ぴんぽんぱんぽーん、と滅多にならない間抜けたコールが鳴った。
落ち着いた富崎の声が続く。
『ただいま第2会議室におられる赤来課長』
大丈夫だ。
『羽鳥』も『赤来』も十分元気だ、まだまだ平気で逃げ出そうとしている。もっとぎりぎりのところまで切り刻んでも大人しくする気はなさそうだ。
まだ踏み込んでいい、もっと深くまで貫いてもいい。
全力で行っていい。
体がざわつく。汗が滲む。押さえつけていた感覚が次々と光彩を放って立ち上がって行く。皮膚が粟立つ、目の前の男に対する恐怖ではなく、自分の中に居る別の『羽鳥』を意識して。恐ろしいはずなのに、沸き立つような喜びしかない自分を感じて。
圧倒的優位に居る相手だ、楽しいじゃないか。
鋭く感覚を研ぎ澄ませる。
ポイントはどこか。
『羽鳥』が思い出しもしていない、『赤来』の記憶にはない、けれどそれが致命的だと知らしめる場所は一体どこだろう。
「…それとも伊吹さん」
椅子から浮きかけていた腰を緩やかに落として、『羽鳥』は穏やかに微笑んだ。
「君はもっと他のことを知っているのかな?」
どす黒い赤い靄は『羽鳥』の姿を幾重にも包む。『赤来』の薄皮を貼りつけ、無言の美並を身動きできないように包み込もうと、紅蓮の触手を伸ばしてくる。
「例えば、事件の関係者と僕が関わっているような噂を聞かされたとか」
低い優しげな声。
経理に出向いて書類の指示を受けているだけだと誤解しそうな、安定感のある口調。
「例えば、そのただの噂や思い込みを元に、何かの証拠を探そうとしているとか」
勘違いだよ、伊吹さん。
君は何か根本的なところで間違っていて、それでこんな馬鹿なことをしてしまっている。
「誰かの何かに、例えば僕の指紋が付いていたって、君は確認することなんかできやしないよ」
堪えかねたように、くすくす笑う。
「いつかのファイルは面白かったけどね」
もうこのあたりで終わりにしよう。
「…間違いは誰にでもよくあることさ、僕にだってある、だからさ」
僕は許してあげるよ、君を。
『赤来』はにっこりと笑う。
「だって、君が考えているような色々な事件と僕には、一切関わりがないんだからね」
よく調べればわかることだし。
「君だって、勤めている会社の上司に妙な疑いを掛けて、いろんな人を巻き込んで迷惑かけたくないだろう?」
ひょいとこれ見よがしに腕を伸ばして時計を眺める。
「例えば、この時計が珍しいものだからって、僕が持っていておかしいってことじゃないんだしね」
青い針の時計。『赤来』は修理を依頼した店から、警察が調べているとでも知らされたのか。
見せつけてくる、知らせてくる、美並が何を手掛かりにし、何を押し付けて来ようとも、『赤来』に繋がる『羽鳥』のラインはただ一つもない、と。
ふいに、鮮やかな朱色に染まった空が見えた。
ああ、そうだろう。
奇跡はそう言う繋がり方をするものだ。
「……なぜ、ハルくんの絵を引き裂いたのですか」
「絵?」
『赤来』は戸惑った声で応じた。
「僕は、絵など引き裂いて……っ」
『羽鳥』が凍りついた。
「…まさか…」
「あなたが忘れてしまっていても、傷跡が残されていた」
あれを、残していたのか。
声にならない声が『羽鳥』の口から零れた途端。
チリン。
「?」
ふいに音が響いた。美並だけに聞こえたのではない、『羽鳥』もまた訝しげな顔で美並を凝視して耳を澄ませている。
チリン。
「風鈴?」
美並のことばに『羽鳥』がざわっと毛を逆立てたのを感じた。
もう一度、と胸の中から声が響く。
紅の海に座る『美並』にもう一人、誰かの姿が重なるような気がして戸惑う。幼い少女、華奢な手足、促されるように『羽鳥』を見つめる。『赤来』を超え、『羽鳥』を貫いたその彼方、誰だろう、弱々しげな、孝に似ている小さな姿が透ける。
そっくりだったから、我慢できなかった。
愚かで圧倒されて振り回されて、だから踏みにじって消したかった。
アイスブルーの光が赤い靄の彼方から、孝の気配を重ねつつ滲み出してくる。
許してあげるよ、君を。
弱かった、脆かった、堪えきれず、抱え切れなかった。
けれどもう、このあたりで終わりにしよう。
だから、今一度、思い出させてやって欲しい。
美並は口を開いた。
「…あなたが………忘れてしまっていても……傷跡が……残され……っっ!」
「黙れっ!!」
飛びかかられて椅子から転げ落ちる。派手な音がしたはずだが、ちょうど昼休憩に入った矢先、一気にざわめく社内に美並が床に叩きつけられた衝撃が飲み込まれる。
「うっ」
「黙れっ何の話だ、今何をやった、ボイスレコーダーか、何をどこで鳴らしたっ」
美並の上に馬乗りになった『羽鳥』の姿から、見る見る赤い靄が溶け去っていく。赤来の顔は青白く表情を無くしている。
「これはなんだ、こんなものがなぜ見える、お前は何をやってるんだ!」
首を締めきらないのは答えを待っている姿、乗られた体重が苦しくて吐きそうになった美並が喉を鳴らした瞬間、ぴんぽんぱんぽーん、と滅多にならない間抜けたコールが鳴った。
落ち着いた富崎の声が続く。
『ただいま第2会議室におられる赤来課長』
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