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第5章
9.祝宴(3)
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京介が帰宅したのを待っていたように電話が鳴った。
携帯ではない、家の電話だ。
「はい、真崎ですが」
『…夜分に失礼致します』
抑えて低い、あたりを憚るような声が届いた。掠れてはいるが、すぐに相手に思い至る。
「…有沢さん、でしょうか」
『はい』
応じた声の後は沈黙が続く。
京介はネクタイを抜いてソファに座った。シャツのボタンを外しながら出方を待つ。
時計は23時を回っている。
今夜も伊吹が側に居ないが、明日の夜には来てくれるはずだ。平日2日に1回の一緒の夜が、だんだん辛くなってきている。土日が待ち遠しくて、月曜の朝が苦しい。
早く一緒に暮らしたい。伊吹の部屋を引き払っておいでと提案してみたが、今はまだ、と断られたのに小さく痛みが走った。片付けがあるのか、それとも。
こんな風に夜中に電話をかけてくる男を気遣ったのか。
電話の向こうに伊吹の気配はしない。有沢は入院していると聞いてた。病状は良くないはずだ。けれど、個室ならば連絡は逆に取りやすいだろう。
眼鏡を外し、垂れ落ちてきた髪に隠された嫉妬を浮かべた自分の顔を想像する。
いつまでたっても不安になる、伊吹を奪われてしまわないかと。
だから早く、一刻も早く。
子どもができてくれれば伊吹だって否応もなく一緒に暮らしてくれるはず。
焦る気持ちが暴走を煽りそうでまずい。
『明日』
低い声が告げる。
『伊吹さんをお借りします』
「…」
髪を掻き上げていた手を止める。
『お聞きになっていなくても当然です、今日連絡をつけました』
有沢は京介に配慮した。
「どんなご用件ですか」
伊吹に対する用件と、この電話の用件を聞く。
伊吹が連絡してこなかったのは、源内に合気道を習った後で、赤来の指紋が取れるようなものを探してみると言っていたからだろう。むしろ京介の連絡を待ってくれているのだろう。
『墓参りに行きます。飯島と、太田刑事の』
命日ではありませんが、もう時間が残されていないので。
『檜垣には捜査を任せていて、他に頼める当てがありません』
申し訳ない、と謝りながら、その実謝罪する気配はない。
『一つ、ご報告はできます。明日伊吹さんにもお伝えしますが、渡来さんから、昔赤来が破いた絵が提出されました』
「破いた絵」
脳裏に第2会議室でのやり取りが蘇る。
「そう言うことか…」
『指紋が取れました』
有沢が低く笑った。
『源内さんからも、有力な証拠が頂けると檜垣が張り切って出て行きました』
「……『はおりゆたか』の描いた絵、ですね」
『現物は見ていませんが、連絡があったそうです。紙についた指紋は残りやすいんですよ』
おそらく、詰められると思います。
「…そう……ですか…」
深い息を漏らして、京介はソファに背中を預けた。
『早ければ、週明けに任意同行を掛けることになるでしょう』
「…ありがとうございます」
思わず素直な礼が出た。
『…くださいませんか』
「…え?」
唐突にそれまでと違う声で囁かれて瞬いた。
『あなたは桜木通販の社長に就任されると聞いた』
「ええ」
体を起こし、眼鏡を掛ける。
『赤来の件でダメージは食らうだろうが、あなたは被害者だ。世論もいずれはあなたに傾く。桜木通販からの離脱者は予想されていたほどはいない。あなたの手腕に期待が向けられている。「ニット・キャンパス」ですか、そちらも事件で逆に注目が集まった。地方の小さなイベントにしては新聞が繰り返し取り上げ、新たな参加希望もあるようだ』
「…よくご存知ですね」
これは敗北宣言なんかじゃない。宣戦布告だ。
京介は前に居ない有沢を睨みつける。
『あなたには未来がある』
有沢は静かな声で続けた。
『私の時間はそれほど長くない』
しわがれた老人のような声だと感じた。諦めと怒りと不快感と。
『ほんの数日のことです』
有沢が囁く、闇に潜む魔性のように。
『残された時間を、伊吹さんと過ごしたい。ただそれだけの願いを、叶えてくださいませんか』
「…あなたは何を捨てたんですか」
『…え?』
京介は繰り返した。
「あなたは、伊吹さんを得るのに、何を捨てたんですか」
『…』
「僕は今持っているものも、この先の未来も、伊吹さんが居ないならどうでもいい」
そうだ今だって、動いた後なのに空腹も感じないし、喉も乾かない。伊吹がこの部屋に居なくて、飢えて乾いて干からびているけど、伊吹が今夜ぐっすり眠りたいなら、それが全てに優先する。
「この瞬間に伊吹さんが居なくて死にそうなんだ。数日先の未来を語れるあなたより、僕の方が飢えている」
『…』
「明日あなたと出かけることが彼女の意志ならば、僕はただ待っている。けれど、そのまま伊吹さんが帰らないなら、あなたは死ぬまでに僕の検死報告を聞かされるでしょう』
『…重すぎるだろう…』
呻くように有沢が吐いた。
『君は伊吹さんを潰す気か』
「残り時間がないなんて理由で、彼女の時間を奪おうとするあなたよりましですよ。でも、僕は今からあなたを殺しに行こうなんて思わない」
『…なぜだ。放っておいても死ぬからか』
「いいえ」
京介は息を吸った。
「あなたがもう伊吹さんに拒まれたと知っているから」
『…』
「そうでなければ、あなたがわざわざ僕に圧力をかける意味がない。違いますか?」
答えはしばらく戻らなかった。
やがて、くつくつと響く嗤い声が届いてきた。
『…なるほど、切れ者だな』
「ぐっすり眠ってください、明日伊吹さんに面倒をかけたくないなら」
『…そうするよ』
真崎。
有沢が突然呼び捨てる。
『死ぬまでに、もう何度か電話していいか』
「どういうことですか」
『…気遣う声に疲れて来た』
ふう、とまんざら演技でもなさそうな吐息が聞こえる。
『周りがいい奴ら過ぎてな、自分の黒さを持て余すんだよ』
君は彼女を挟んで俺には容赦がないから安心する。
『手加減されなくても、まだ大丈夫なんだってな』
一人で死ぬのは堪える。
ぷつりと切れた電話に京介は溜め息をついた。
携帯ではない、家の電話だ。
「はい、真崎ですが」
『…夜分に失礼致します』
抑えて低い、あたりを憚るような声が届いた。掠れてはいるが、すぐに相手に思い至る。
「…有沢さん、でしょうか」
『はい』
応じた声の後は沈黙が続く。
京介はネクタイを抜いてソファに座った。シャツのボタンを外しながら出方を待つ。
時計は23時を回っている。
今夜も伊吹が側に居ないが、明日の夜には来てくれるはずだ。平日2日に1回の一緒の夜が、だんだん辛くなってきている。土日が待ち遠しくて、月曜の朝が苦しい。
早く一緒に暮らしたい。伊吹の部屋を引き払っておいでと提案してみたが、今はまだ、と断られたのに小さく痛みが走った。片付けがあるのか、それとも。
こんな風に夜中に電話をかけてくる男を気遣ったのか。
電話の向こうに伊吹の気配はしない。有沢は入院していると聞いてた。病状は良くないはずだ。けれど、個室ならば連絡は逆に取りやすいだろう。
眼鏡を外し、垂れ落ちてきた髪に隠された嫉妬を浮かべた自分の顔を想像する。
いつまでたっても不安になる、伊吹を奪われてしまわないかと。
だから早く、一刻も早く。
子どもができてくれれば伊吹だって否応もなく一緒に暮らしてくれるはず。
焦る気持ちが暴走を煽りそうでまずい。
『明日』
低い声が告げる。
『伊吹さんをお借りします』
「…」
髪を掻き上げていた手を止める。
『お聞きになっていなくても当然です、今日連絡をつけました』
有沢は京介に配慮した。
「どんなご用件ですか」
伊吹に対する用件と、この電話の用件を聞く。
伊吹が連絡してこなかったのは、源内に合気道を習った後で、赤来の指紋が取れるようなものを探してみると言っていたからだろう。むしろ京介の連絡を待ってくれているのだろう。
『墓参りに行きます。飯島と、太田刑事の』
命日ではありませんが、もう時間が残されていないので。
『檜垣には捜査を任せていて、他に頼める当てがありません』
申し訳ない、と謝りながら、その実謝罪する気配はない。
『一つ、ご報告はできます。明日伊吹さんにもお伝えしますが、渡来さんから、昔赤来が破いた絵が提出されました』
「破いた絵」
脳裏に第2会議室でのやり取りが蘇る。
「そう言うことか…」
『指紋が取れました』
有沢が低く笑った。
『源内さんからも、有力な証拠が頂けると檜垣が張り切って出て行きました』
「……『はおりゆたか』の描いた絵、ですね」
『現物は見ていませんが、連絡があったそうです。紙についた指紋は残りやすいんですよ』
おそらく、詰められると思います。
「…そう……ですか…」
深い息を漏らして、京介はソファに背中を預けた。
『早ければ、週明けに任意同行を掛けることになるでしょう』
「…ありがとうございます」
思わず素直な礼が出た。
『…くださいませんか』
「…え?」
唐突にそれまでと違う声で囁かれて瞬いた。
『あなたは桜木通販の社長に就任されると聞いた』
「ええ」
体を起こし、眼鏡を掛ける。
『赤来の件でダメージは食らうだろうが、あなたは被害者だ。世論もいずれはあなたに傾く。桜木通販からの離脱者は予想されていたほどはいない。あなたの手腕に期待が向けられている。「ニット・キャンパス」ですか、そちらも事件で逆に注目が集まった。地方の小さなイベントにしては新聞が繰り返し取り上げ、新たな参加希望もあるようだ』
「…よくご存知ですね」
これは敗北宣言なんかじゃない。宣戦布告だ。
京介は前に居ない有沢を睨みつける。
『あなたには未来がある』
有沢は静かな声で続けた。
『私の時間はそれほど長くない』
しわがれた老人のような声だと感じた。諦めと怒りと不快感と。
『ほんの数日のことです』
有沢が囁く、闇に潜む魔性のように。
『残された時間を、伊吹さんと過ごしたい。ただそれだけの願いを、叶えてくださいませんか』
「…あなたは何を捨てたんですか」
『…え?』
京介は繰り返した。
「あなたは、伊吹さんを得るのに、何を捨てたんですか」
『…』
「僕は今持っているものも、この先の未来も、伊吹さんが居ないならどうでもいい」
そうだ今だって、動いた後なのに空腹も感じないし、喉も乾かない。伊吹がこの部屋に居なくて、飢えて乾いて干からびているけど、伊吹が今夜ぐっすり眠りたいなら、それが全てに優先する。
「この瞬間に伊吹さんが居なくて死にそうなんだ。数日先の未来を語れるあなたより、僕の方が飢えている」
『…』
「明日あなたと出かけることが彼女の意志ならば、僕はただ待っている。けれど、そのまま伊吹さんが帰らないなら、あなたは死ぬまでに僕の検死報告を聞かされるでしょう』
『…重すぎるだろう…』
呻くように有沢が吐いた。
『君は伊吹さんを潰す気か』
「残り時間がないなんて理由で、彼女の時間を奪おうとするあなたよりましですよ。でも、僕は今からあなたを殺しに行こうなんて思わない」
『…なぜだ。放っておいても死ぬからか』
「いいえ」
京介は息を吸った。
「あなたがもう伊吹さんに拒まれたと知っているから」
『…』
「そうでなければ、あなたがわざわざ僕に圧力をかける意味がない。違いますか?」
答えはしばらく戻らなかった。
やがて、くつくつと響く嗤い声が届いてきた。
『…なるほど、切れ者だな』
「ぐっすり眠ってください、明日伊吹さんに面倒をかけたくないなら」
『…そうするよ』
真崎。
有沢が突然呼び捨てる。
『死ぬまでに、もう何度か電話していいか』
「どういうことですか」
『…気遣う声に疲れて来た』
ふう、とまんざら演技でもなさそうな吐息が聞こえる。
『周りがいい奴ら過ぎてな、自分の黒さを持て余すんだよ』
君は彼女を挟んで俺には容赦がないから安心する。
『手加減されなくても、まだ大丈夫なんだってな』
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