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第5章
6.ノーリミット(7)
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真崎と駆け込むように出勤して、同時出勤にならないように僅かに美並が遅れて着き、石塚には遅刻寸前を詫びた。
「良いのよ」
石塚は内側を話した気安さと言うのか、軽く頷いて応じてくれ、
「高山が隠していたのがまずかったのね、悪かったって話してたわ」
呼び捨てにしたのに気づいていない様子が、二人の間でも何かが進んだ気配を感じさせた。
社内がざわついている。ざわめいている。
気がつくと、あちらこちらで数人ずつ、社員が固まって話をしている。
通り過ぎると慌てたように口を噤む、けれどすぐに我慢できないように「流通管理課の」「真崎大輔って言うのが」「虐待してたって、性的なやつ」「性的ってどう」とこそこそ声が続き、数人は冷ややかに、数人は哀れみを浮かべて見送られる。
視界の端に朱色が閃くのが見えた。
白や青や緑や黄色、淡く漂う感情の靄の下に見え隠れする、尖って鋭いぎらつく朱色。
居場所を失う不安と、自分の常識を覆される恐怖と、自分は違うと突き放す無視に支えられた、『支配』の赤。
音声ではない、けれど響き渡り命じる声。
この状況をなんとかしなさいよ。あんたのせいでもあるんでしょ。問題があるのは私じゃない、普通と違う、あんただから。
美並は顔を上げて歩いた。
真崎が向けられているのは、こんなものではないはずだ。興味本位の、それも当事者になったこともないくせに愚かさを嘲笑するような、或いは自分勝手な妄想に支えられた欲望の視線。
「楽よねえ、気にしてたけど何もできなかったなんて言い訳するの」
石塚がこれ見よがしにぼそりと言って、思わず怯んだ数人が部署に戻る。
「仕事しないなら、家に帰れば?」
別の部署だろう、石塚と似たような口調で集まって噂話をする仲間に言い放ってくれた女性が居て、ちらりと笑ってくれた。
ふわりと淡い空色が漂う姿。朱色も見えるが、内側に真っ直ぐに光っていて、空色が綺麗に取り巻いている。
石塚が会釈を返しながら頷いた。
「大浪さんだ」
「大浪?」
「総務課の、5年前の緑川事件の前から居る人」
「そうですか」
そうか、と気づいた。
5年前も同じようなことがあったのだ。今より小規模だったけれども、同じ部署に居るとか同じ会社に居るだけで、謂れない侮蔑を向けられたりして、それでも仕事をし続けた人が居る。
「一時期、富崎課長と噂があったんだけどなあ」
「噂?」
「結婚するかもって。でも流れたみたいで」
「…」
思わず消えた姿を振り向いた。
見えても見えなくても、頑張っている人が居る、自分の決断に誇りを持って。
ふと真崎が次期社長になった時に補佐になることを考えた。
この状況は試金石かもしれない。どんな人がどのように振る舞うのか、しっかり見ておこう。
真崎が社長となって動かす会社には、石塚のような、高山のような、そして大浪のような、不遇の時に人に流されずに決断する人を集めたい。安全で順風満帆なだけの会社なんてあり得ない。資質を問われるのはトラブルがあった時だ。
今こそ、しっかり『見る』時だ、それこそ、新しく得たらしい、何層もの色が見える力を使って。
一つ頷いて、美並はデスクに戻り、溜まっていた書類を仕分けて行った。
「じゃあ、資料作ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
書類の束を持ち上げる伊吹に、石塚が訝る。
「そのファイル、何も入ってないみたいだけど」
「いいんです、これで」
美並は微笑む。ネット上で調べたことだが、まんざら間違ってもいないだろう。
「ふうん?」
首を傾げた石塚が、後で教えてね、と頼んでくるのに頷き、廊下の印刷機に向かう。近くのシュレッダーに気づき、微笑んだ。
『これ、全部シュレッダーかけるの?』
真崎が声をかけてきたのは9月の頃、今が11月だからまだ数ヶ月、なのにこれほど心身ともに自分が変わっていくとは思わなかった。
数年も、数十年も経ったみたいに感じる。真崎と一緒にうんと長い間過ごしてきた気がする。
これからも。
明るい日差しに笑みを深める。指輪に目を落とす。
これからも真崎と歩いていく、ずっと一緒に、どこまでも。
資料をセットし、印刷の準備をしていると、一つの気配が近寄ってきた。
そちらを向かなくてもわかる。
美並の内側の真紅と呼応するような、けれどもっと強烈な色味のどろりと濁った『赤』。
ハルは腐った血の色だと言った。『飯島』を『羽鳥』と誤解させるほど満たし、大輔の奥に、太田の底に、ひたひたと打ち寄せていただろう、他者の命を自分の為の供物と考える『赤』。
『支配』の『赤』。
「伊吹さん」
「はい?」
初めて気づいた風を装って振り返る。
来るだろうなと思っていた。
自分が傷つくことなく居場所を失いたくない者は、犠牲者を選び出すものだ。大輔然り、恵子然り。考えてみれば有沢もまた、そうだったのかもしれないが。
「結婚、決まったんだって?」
「良いのよ」
石塚は内側を話した気安さと言うのか、軽く頷いて応じてくれ、
「高山が隠していたのがまずかったのね、悪かったって話してたわ」
呼び捨てにしたのに気づいていない様子が、二人の間でも何かが進んだ気配を感じさせた。
社内がざわついている。ざわめいている。
気がつくと、あちらこちらで数人ずつ、社員が固まって話をしている。
通り過ぎると慌てたように口を噤む、けれどすぐに我慢できないように「流通管理課の」「真崎大輔って言うのが」「虐待してたって、性的なやつ」「性的ってどう」とこそこそ声が続き、数人は冷ややかに、数人は哀れみを浮かべて見送られる。
視界の端に朱色が閃くのが見えた。
白や青や緑や黄色、淡く漂う感情の靄の下に見え隠れする、尖って鋭いぎらつく朱色。
居場所を失う不安と、自分の常識を覆される恐怖と、自分は違うと突き放す無視に支えられた、『支配』の赤。
音声ではない、けれど響き渡り命じる声。
この状況をなんとかしなさいよ。あんたのせいでもあるんでしょ。問題があるのは私じゃない、普通と違う、あんただから。
美並は顔を上げて歩いた。
真崎が向けられているのは、こんなものではないはずだ。興味本位の、それも当事者になったこともないくせに愚かさを嘲笑するような、或いは自分勝手な妄想に支えられた欲望の視線。
「楽よねえ、気にしてたけど何もできなかったなんて言い訳するの」
石塚がこれ見よがしにぼそりと言って、思わず怯んだ数人が部署に戻る。
「仕事しないなら、家に帰れば?」
別の部署だろう、石塚と似たような口調で集まって噂話をする仲間に言い放ってくれた女性が居て、ちらりと笑ってくれた。
ふわりと淡い空色が漂う姿。朱色も見えるが、内側に真っ直ぐに光っていて、空色が綺麗に取り巻いている。
石塚が会釈を返しながら頷いた。
「大浪さんだ」
「大浪?」
「総務課の、5年前の緑川事件の前から居る人」
「そうですか」
そうか、と気づいた。
5年前も同じようなことがあったのだ。今より小規模だったけれども、同じ部署に居るとか同じ会社に居るだけで、謂れない侮蔑を向けられたりして、それでも仕事をし続けた人が居る。
「一時期、富崎課長と噂があったんだけどなあ」
「噂?」
「結婚するかもって。でも流れたみたいで」
「…」
思わず消えた姿を振り向いた。
見えても見えなくても、頑張っている人が居る、自分の決断に誇りを持って。
ふと真崎が次期社長になった時に補佐になることを考えた。
この状況は試金石かもしれない。どんな人がどのように振る舞うのか、しっかり見ておこう。
真崎が社長となって動かす会社には、石塚のような、高山のような、そして大浪のような、不遇の時に人に流されずに決断する人を集めたい。安全で順風満帆なだけの会社なんてあり得ない。資質を問われるのはトラブルがあった時だ。
今こそ、しっかり『見る』時だ、それこそ、新しく得たらしい、何層もの色が見える力を使って。
一つ頷いて、美並はデスクに戻り、溜まっていた書類を仕分けて行った。
「じゃあ、資料作ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
書類の束を持ち上げる伊吹に、石塚が訝る。
「そのファイル、何も入ってないみたいだけど」
「いいんです、これで」
美並は微笑む。ネット上で調べたことだが、まんざら間違ってもいないだろう。
「ふうん?」
首を傾げた石塚が、後で教えてね、と頼んでくるのに頷き、廊下の印刷機に向かう。近くのシュレッダーに気づき、微笑んだ。
『これ、全部シュレッダーかけるの?』
真崎が声をかけてきたのは9月の頃、今が11月だからまだ数ヶ月、なのにこれほど心身ともに自分が変わっていくとは思わなかった。
数年も、数十年も経ったみたいに感じる。真崎と一緒にうんと長い間過ごしてきた気がする。
これからも。
明るい日差しに笑みを深める。指輪に目を落とす。
これからも真崎と歩いていく、ずっと一緒に、どこまでも。
資料をセットし、印刷の準備をしていると、一つの気配が近寄ってきた。
そちらを向かなくてもわかる。
美並の内側の真紅と呼応するような、けれどもっと強烈な色味のどろりと濁った『赤』。
ハルは腐った血の色だと言った。『飯島』を『羽鳥』と誤解させるほど満たし、大輔の奥に、太田の底に、ひたひたと打ち寄せていただろう、他者の命を自分の為の供物と考える『赤』。
『支配』の『赤』。
「伊吹さん」
「はい?」
初めて気づいた風を装って振り返る。
来るだろうなと思っていた。
自分が傷つくことなく居場所を失いたくない者は、犠牲者を選び出すものだ。大輔然り、恵子然り。考えてみれば有沢もまた、そうだったのかもしれないが。
「結婚、決まったんだって?」
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